少年よ牙を抱け

野井アルト

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少年よ牙を抱け

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 少年が目を覚ますと、薄暗い木造の部屋だった。ちらちらと明滅する照明器具が床に置かれ、床に空いた四角い穴には砂のようなものが敷いてあり、その上に鍋らしき塊がぶら下がっている。
 こんな光景、お伽噺でしか聞いたことがない。表社会で親に育てられ、絵本など読んでもらった子供ならそう思ったろう。しかし少年にはその経験もなかった。物心つく前からあちこちへ売り飛ばされ、こうして目を覚ます前も、男達に手酷く弄ばれ打ち捨てられたところだった。
 よく見ると照明器具の側に人が座っていた。そう大柄な人物ではなく、布を巻いただけに見える奇妙な服を着ていた。その布の端から細い手が伸び、照明器具の蓋を開けると中に息を吹き掛けた。すると明かりは消え、部屋は真っ暗になった。非常灯も、電子機器のランプもない。空調の音すら聞こえなかった。
「暗闇は怖いかい?」
 しわがれた声が問うた。どうやら年配の人物らしい。
「ううん…」
 怖いもの、痛いものが、見えているよりは、いい。
「…そうかい」
 にたりと笑った、ような声だった。
 次にこの人物が優しい声を掛けるのは、何年も後の事になる。

 この少年がキシュウ――もっとも、その名を冠するのはまだ先の話になるが――、後に裏社会有数の武闘組織「Pledge Houndプレッジハウンド」と、特異な使命を拝する武装組織「Scar Beastスカービースト」の創設の立役者となる男である。

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 夜が明けた。太陽光が降り注ぐ木造の部屋は、夜とは随分違う印象に見えた。目覚めた少年に、湯気を立てる椀が差し出された。茶色く濁ったスープ状の料理が入っていた。見た事もない塩辛いスープは、憔悴した少年の体に不思議と染み渡っていった。
「アタシはザンナってんだ。お前、名はあるのかい」
「……ない」
 年齢は商品価値のうちだから、生年月日は覚えさせられた。だが名前は無かった。少年は「お前」であり「こいつ」であり「それ」であり、その他、口に出すのも憚られる汚い言葉で呼ばれるモノであった。
「そうかい。じゃ『チビ助』な」
「チビ…助?」
「チビだからチビ助だ。不服ならアタシに勝ってみな、そしたら名前を付けてやる」
「勝つ…?」
 話が見えない。無表情な少年の鼻先に、ザンナはひたと包丁を突き付けた。
「そうさ、お前は戦うんだ。そいつを喰い終わったら、次はアタシに一撃入れるまで飯抜きだ。戦闘放棄は許さないよ、いいね」
 少年は実際のところ、この時初めてザンナと目を合わせた。というよりは、その目に吸い寄せられて動けなくなった。
 恫喝や責め苦には慣れてしまった少年が、身震いをした。
 目の前にいるのは、初老に差し掛かろうかという白髪混じりの女性だ。その外見にそぐわない猛獣のような威圧感が、鈍りきっていた生存本能と、単なる恐怖ではない畏怖の念を呼び起こした。
「は……はい」
 少年がやっと自分を「見た」事に満足したザンナは、口角を引き上げ笑みを見せた。しかし到底それは好意的な笑顔ではなかった。獣が牙を剥くような、今にも喰われそうな、そんな表情だった。

 ザンナに促され、家の外に出た少年は息を呑んだ。
 辺り一面、緑、緑、緑。足元に生い茂る草、畑らしき場所に並ぶ植物、木立は森となり鬱蒼とした山に連なっている。この家は山の中腹に位置し、麓の遥か先にビル郡が見えた。
 ――あそこからは、こんな場所は見えなかった。
 こんなに多くの自然物を一度に目にした事はなかった。草と土から立ち上る湿った香り、鳥や虫の声に囲まれるのも初めてだった。圧倒される少年の足に突然、べろん、と熱く濡れたなにかが触った。
「ひゃ!?」
 少年が驚いて飛び退くと、一匹の白犬が尻尾を振っていた。長く垂れた舌が、触ったものの正体らしい。少年からすれば大きな体格で、口には鋭い牙も見えたが、にこにこ笑うような顔つきに危険は感じなかった。
「こいつは紀州犬ってな、今じゃレアな品種さ。人間と違って裏切らないし、お前なんぞより利口さね。そうだ、こいつの世話もしてもらうよ」
(人間と違って…)
 人間を信用できないのは少年も同じだ。なぜか少しだけ、この世捨て人に対する警戒心が和らいだ気がした。
「さあて、それじゃ」
 ザンナは少年の前に、木の棒をぽんと転がした。
「……?」
 長さは50cm程、太さは子供がしっかりと握れる程度で、綺麗に整えられた丸い棒だった。意図が掴めないままそれを見、ザンナに視線を戻した少年は思わず震え上がった。
 ザンナは変わらずそこに立ったまま、しかしその姿が熊の如く巨大に感じるほど、人間離れした気迫を発していた。さっき解きかけた警戒心は最大限に膨れ上がり、がんがんと警鐘を鳴らした。
 殺される。
 戦わなければ、殺される。
 死ぬことなんて、被虐の日々に比べれば怖くないと思っていたのに。
 少年が震える手で棒を構えると、ザンナはあの笑みで、牙持つ獣よりも余程恐ろしい笑みで、言った。
「始めようか」

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 少年が拾われて二年が経った。
 水汲み、薪割り、洗濯に飯炊きと毎日課される重労働は、少年を虐げてきた者達の所業と一見大差ないように思える。しかし本質は違っていた。ザンナに怯えながらも意思をもって前を見据え、時に罵り返す強さまで持った少年を見れば、その事は明らかだった。労働と鍛錬により無駄のない筋肉と体力を得た肉体は、年齢より少し逞しく見えた。

「遅いね、まだ半分も出来てないじゃないか」
「無理だって!どうやったらそんなに早く割れるんだよ」
 薪割りを急かされ、肩で息をしながらキシュウはいつものようにぼやく。だがこの日はいつもと違った。
「貸してみな」
「えっ」
 キシュウから手斧をさらうと、ザンナは瞬く間に一本を割ってみせた。
 流れるような所作、体軸の安定性、美しい軌道。
 手斧はまるでザンナが触れた瞬間から重量を失ったかのようで、今の今まで持っていた同じ物体とは到底思えなかった。
「焼き付けたか」
 思わず見惚れたキシュウはザンナの声で我に返る。
「重心を制御しろ。脇を絞れ。背中で運べ。疲れてるうちは下手糞だ」
 ザンナがここまで親切に教える事は滅多にない。キシュウはその数少ない言葉と、いま見た一振りを必死で記憶に刻み込んだ。

 それから数日で、キシュウは倍以上に早く、疲れずに薪割りを終えられるようになった。
「じゃあ、次はこれだ」
 ザンナは手斧の代わりに日本刀を渡した。斧とは全く違う手応えに、薪割りは再び捗らなくなった。しかしキシュウは徐々にその刃物の特性を把握し、感覚を掴んでいった。そして手斧に劣らぬ手際まで上達した頃、ザンナは薪とは違う物を持って来た。

 人間だった。

 手足を縛られ、顔に布を被った男をザンナは荷物のように引きずってきた。唸るその男を薪割り台の前へ乱暴に転がし、頭の布を剥ぎ取るとザンナは訊いた。
「こいつに見覚えは?」
「………いや」
 困惑するキシュウは、猿ぐつわをされた男の顔をよくよく見たが、思い出せない。だが知らないとも断言できない。記憶に靄がかかったような、思い出したくないような、嫌な感覚があった。
「覚えちゃいないか。それも仕方ない」
 もがく男の顔を踏みつけ、ザンナは凄絶な笑みを浮かべた。
「こいつは、お前を買った一人だ」

 しばしの間、言葉は途絶えた。
 ザンナはそれ以上、何も説明しなかった。
 だがキシュウは、ザンナが何をさせようとしているのか理解した。なぜ薪割り場に彼を横たえ、なぜ刀を持たされたままなのか。
 鼓動が高鳴る。
 頭の奥は冷えていく。
 男の耳障りな喚き声は、聞こえなくなっていく。
 長い沈黙の後、キシュウが一歩を踏み出すと、ザンナは男を離し退いた。

 薪のようにはいかなかった。
 動いているし、丸くて滑る。
 キシュウは二の太刀を振り下ろした。三度、四度、それでも両断には至らない。滅多打ちの末、首から上が幾つかの塊に分断されてやっと、キシュウは止まった。
 今になって、滝のような汗が全身をぐっしょりと濡らした。
 男の顔は、もうわからない。
 「よくやった」
 その声にキシュウの目は焦点を取り戻し、弾かれたように振り返った。
 ザンナから優しい声を掛けられたのは、拾われてきたあの夜以来、これが二度目だった。
「しかし酷いね。そんなに鈍らじゃないよ、そいつは」
 酷い、とは人道的な意味ではなく、腕前の話らしい。
 キシュウはまだ刀を握り締めていたが、もう取り落とさずにいるのがやっとだった。体から力が抜けていき、刀はどんどん重くなるように感じられた。その重さが突然失われたと思った瞬間、刀はザンナの手にあった。
 次に見たものは、流れるような所作、体軸の安定性、美しい軌道。
 あの日の手斧と同じ、いやそれ以上に、刀は目にも留まらぬ疾さで宙を舞った。
 何も起こらなかったように見えたが、ザンナが男の肩口を蹴飛ばすと、頸部から何かが剥がれ落ちた。ずたずたに乱れた断面が削ぎ落とされ、すっぱりと標本のような切断面が現れた。
「一太刀だ。でなきゃ、こうして解体されるのはお前の方だ。覚えときな」



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 ザンナはキシュウに居合と空手を教えた。琉球空手というらしく、生身とは思えぬ強烈な打撃と、急所を捉える一撃必殺の技を備えた武術だった。
 ザンナの鍛え方は手荒い事この上なく、キシュウはいつも痣や傷だらけだったが、骨折や内蔵損傷など重篤な怪我を負わされる事はなかった。キシュウは一度、恐る恐る尋ねてみた事がある。
「加減もできない下手糞と一緒にすんじゃないよ。第一、折ったら暫くシゴけないじゃないか」
 にたりと笑われ、キシュウは案の定、訊く前よりも震え上がる事になった。
 いっそ再起不能になって、この日々から抜け出したい。ちらりとそう思わないでもなかった。

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 ザンナの住居周辺は未開の地である。日が暮れると灯り一つなく、照明を持っても山道を歩くには相当の慣れが必要だ。そんな闇夜の木立に、ザンナはキシュウを連れてきた。
「さて、稽古の時間だ」
 良い予感があった訳ではないが、キシュウはザンナの言葉に不安を募らせる。
「ほれ」
 キシュウの足元に一振りの脇差が投げ出された。キシュウがそれを拾ったと見るや、ザンナは持っていた提灯の火を吹き消した。
「わっ!?」
「暗殺、夜襲、市街戦…襲うなら夜が常套だ。鉄火場じゃ不利な状況が当たり前と思え。
 なに、やる事はいつもと同じだ。言っとくがお互い真剣だよ」
 微かに、すらりと、刀を抜く音がした。それも聞く限り、キシュウの脇差より大きな得物らしかった。
「いや無茶だろ、死んじまうじゃねえか!」
「はん、それがどうした。醜く生きるな、笑って死ね」
 漆黒の闇には何も見えないが、背筋も凍るあの笑みが、見えるような口ぶりだった。
 草を踏み分ける音にキシュウは跳び退り、急いで脇差を抜こうとするが、刀紐は結ばれたままだった。
 鬼だ。
 鬼がいる。
 人と思えば、こちらが死ぬ。
 踵から首筋まで鳥肌が立つのを感じながら、キシュウはまだ慣れぬ闇に目を見張り、物音に全神経を集中させた。

 気がつくと部屋の中は明るかった。部屋、そう、部屋だ。キシュウは家の寝床に横たわっていた。
「やっと起きたか。もうちっと夜目を鍛えないとお前、すぐ死ぬぞ」
「……」
 何をしてどう立ち回ったか、覚えていない。ただ無我夢中だった。
 ゆっくりと起き上がると、そこかしこに痛みが走った。見ると切り傷が数箇所、大きいものは手当てされていた。それよりも痛むのは頭だった。目眩を伴う頭痛、加えて表面的な痛みもあった。そっと触ってみると、耳の後ろ辺りに見事なタンコブがあった。
(峰打ち…)
 待てよ、とキシュウは眉をしかめた。他は切り傷ということは、それまでは刃を返していなくて、この一撃がまともに当たると分かって峰打ちに切り替えたということだ。
 今更、全身の血の気が引いていった。
「お師匠…見えてたのか?」
「同じ事が出来るようになってみな。そうすりゃ解るだろうよ」
(そんなムチャな…。)
 ふとキシュウは、自分の脇差が抜けなかった事を思い出した。もしかするとあれは自分を追い込む為ではなく、誤って致命傷を負わせない為だったのか。
 いやいや、それなら危ない稽古などしなければ良いじゃないか。この鬼婆のする事を善意に捉えようなんて馬鹿げている。キシュウはぶんぶんと頭を振り、余計に頭が痛くなった。

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 時は流れ、キシュウは十六になった。
 全てを諦めた無気力な少年はもういない。背はすらりと伸び、美丈夫とはいかないが、気怠げな目の奥には油断ない光を宿している。
 そのキシュウを従え、ザンナは場末の路地を歩いていた。ダボダボのジャージを着せられ、伸びた髪を乱雑に束ねたキシュウは、一見そこらの自堕落な若者だ。しかしその風体には、過酷な鍛錬と質素な生活で鍛え抜かれた、猛獣のような肢体が隠されているのだ。



 この界隈で奇異に映るのは、キモノを纏った老女、ザンナの方だった。まばらな通行人がちらちらと振り返るが、彼女は意にも介さず進んでいく。
「向こうの路地だ。クスリの取引で揉めたチンピラ共が、制裁だとほざいて待ち構えている。依頼人に代わってその相手をするのが、チビ助。お前の初仕事だ」
「…いい加減、チビ助は止してくれよ。名前はないのかよ」
「ああ?アタシを負かしてから言えっつったろ。それまではチビ助で充分だ」
(このクソババア…!)
 実際、寝込みをはじめ不意を突こうと狙った事は何度もあった。しかしその度に過剰な返り討ちに遭い、真向勝負より危険だと学んだのだった。
「その角だ」
 キシュウはとんがらせた唇を引っ込め、すいと首筋を伸ばした。最小の挙動で周囲を観察し、戦場と退路を把握する。もっとも街に入った時から、それは怠っていないのだが。

 角を曲がると、ガラの悪い男達がたむろしていた。何人かがじろりとこちらを睨む。手には各々バットや棒などを持ち、剣呑な雰囲気である。
 宵闇が迫る時刻だったが、街灯や建物の灯りで視界は悪くない。あの夜稽古に比べれば真昼のようなものだ。市街に真の闇などそうありはしない、キシュウはザンナの隠れ家に暮らしてそれを知った。
「ああン?何だオメェら。見世物じゃねぇぞコラ」
 お粗末なガンつけ顔で威嚇するチンピラに、キシュウは拍子抜けしてしまった。
 まるで怖くない。
 街にいた頃、よく見た手合いだ。あの頃は怖い大人だと思っていたが、こんなものだったのか。
「ブライアンは来ないよ」
 ザンナの声に、彼らはぴたりと止まった。
「すまないが約束の物は用意できない、あと一ヶ月待ってくれ、との事だ。それで合意なら伝えておくが、どうするね」
 チンピラ達は暫く呆気に取られた後、少しざわめき、ほどなく満面の敵意をこちらに向けてきた。
「するとなんだ、てめえらが野郎の代理だってか?こんなババアとガキが?ふざけるのもいい加減にしろよ…代わりに挽き肉にされても文句無えんだろうな」
「ああそうだ、こいつがその役だ」
 ザンナはキシュウの背中を軽く小突き、一歩前に出させた。チンピラ達の視線が一斉に集まり、一層怒りを露わにするのが分かった。
「馬鹿にしやがって!やっちまえ!」
「こんなガキ、俺一人で充分だ!」
 真っ先に近付いてきた男は角材を持っていた。狙い通り只の若造だと思ってくれたらしい、その「こんなガキ」に凶器を持ち出そうという根性に度が知れた。ところがそのガキの方は、何者も嘗めてかかるようには仕込まれていないのだった。
 大振りに角材を振り上げた男は胴ががら空きだ。キシュウは考えるより速くそこへ蹴りをぶち込み、追撃に備えようとする。いつもの組手と同じように。
「!?」
 瀬戸物が割れたような感触が脛に伝わり、跳ね返ってくる筈の衝撃が急速に減衰して、キシュウは咄嗟に重心を調整する。同時に呻き声があがり、相手は倒れ込んで悶絶した。肋が折れたらしく、備えた追撃は来そうにない。
 チンピラ達がどよめいたが、驚いたのはキシュウの方だった。ザンナにどれほど必死で攻撃しても、こんなダメージが通る事は有り得なかったからだ。
(マジか…あのババア、どんだけ頑丈なんだよ)
 ザンナは、想定通りという風にニヤリと笑った。
「そうだチビ助、お前にはそれだけの力がある。一人残らず沈めな!」

 ――ものの二分で、八人の大男がそこへ転がった。ある者は昏倒し、ある者はどこかしら押さえてうずくまり、反撃の気配は見当たらない。
「ふん、これくらいで息が上がるようじゃまだまだだね。一対多の捌き方がなっちゃいない」
 キシュウは息こそ上がったものの、余力を充分に残し周囲を警戒していた。心拍が早いのは疲労よりも、圧倒的な勝ち戦に動揺したからだ。
 ザンナは、この老婆は、この連中が束になったより遥かに強いという訳だ。キシュウは改めて恐ろしくなり、むしろそっちに震えが来そうだった。
「よくやった」
 いつの間に近寄ったのか、ザンナはキシュウの頭をぽんと叩いた。まだ臨戦態勢のキシュウはびくっと体を震わせた。
 上から(振り)下ろされるものだったザンナの手は、いつの間にか、下から持ち上げられるものになっていた。
(誉め…られた?)
 キシュウが覚えている限り、それは三度目、たった三度目の、優しい言葉であった。

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 喧嘩代行の仕事だといった、その一件自体は些細なもので、ザンナの目的はキシュウを傭兵として売り出すことだった。その目論見通り、素手でチンピラ共を薙ぎ倒した無名の、文字通り無名の少年は噂になり、キシュウはザンナと共に修羅場を渡り歩く日々を送った。そうして数年が経った頃だった。

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 港の外れ、雑多な貨物が積み重ねられた迷路のような一角が、その日の仕事場だった。薬品取引の護衛だ。取引物品や周りの積み荷に発砲すると爆発等の恐れがあるため、銃無しで闘える人員が指名されたと聞いていた。配置についたキシュウは、少し離れて立つザンナをちらと見遣った。
 彼女に拾われて十余年。白髪交じりだった頭はすっかり真っ白になったが、他に衰えなどは見受けられず、キシュウはいまだ勝利を奪えずに「チビ助」の名に甘んじていた。
 ほどなく相手方が到着し、取引が滞りなく進む中、微かに、小型船のような音が聞こえてきた。
「妙だな、この辺に民間の船なんぞ…」
 何かに気付いたザンナは、突如キシュウを貨物の陰へ引き寄せた。
「!?」
 その時、取引の中心部で爆発が起こった。同時に機関銃の音が鳴り響き、あちこちで貨物が爆発して、周囲は阿鼻叫喚の様相を呈した。
 海には一艇の高速ボートが現れ、機関銃やロケットランチャーを構える一団が見えた。軍隊並の物々しい装備だった。いかにザンナが肉弾戦の化物といえど、岸から離れた船が相手では、近付く前に撃たれてしまうだろう。
 そして陸側には装甲トラックが駆けつけ、こちらも重装備の兵士達が銃や爆弾を放ち始めた。退路は断たれた。
 キシュウは冷静に状況を見てはいたが、何故こんな事態になったかは皆目理解できなかった。
(嵌められた…!?いやしかし、相手方も撃たれている。爆弾は仕込みもあったようだし、誰が誰を狙って…)
 その横で、ザンナはかつてなく凄まじい怒気に身を包んでいた。
「連中、アタシらを売りやがった…てめえの私兵ごとだ。ド畜生が!
 …こんなクソつまんない所で、アタシの十年を無駄にしてたまるかよ」
「え?」
 ――何が起きたか解らなかった。膝裏に軽い衝撃を感じ、瞬く間に景色が回ったかと思うと、キシュウはうつ伏せに倒され、肩、肘、膝をザンナに取られて抑え込まれていた。
 何をされたかは解らなかったが、ザンナが何をする気なのかは解った。
 体重も筋力も、今はキシュウが上回っているはずだ。なのにザンナに関節を極められ、絶妙な位置に体重を乗せられると、キシュウは押し返せなかった。
「くっそ、離せババア!離してくれ!こんな…こんなのは嫌だ!」
「誰に口きいてんだい。お前のご意見なんざ知ったことかよ」
 その間にも銃弾が、爆弾の飛散物が、キシュウを覆い隠すザンナの身体に、取り返しのつかない傷を穿っていく。
「いいかいチビ助…醜く生きるな。卑劣な手段で生きるんじゃない。潔しと思う方を、己を恥じない生き方を選べ。いつか、笑って死ねるまで」
「お師…」
「そんな風に泣いてるうちは、死ぬんじゃないよ」

 炸裂弾でも当たったらしい。
 言い終えた直後、ザンナの頭部は弾け飛んだ。
 鬼より恐ろしく、鉄のように強靭な、越えられない壁が、あまりに呆気なく。
 いつも不敵に自分を睨み下ろした、その目から上がすっぽりと無くなって空が見え、どういうわけか体は崩れずキシュウを抑え付けたままだった。
『醜く生きるな、笑って死ね』
 笑って――。
 頭部の下半分に残された口元は、いつもの勝ち誇った笑みを湛えていた。

 暫く経つと銃声が止み、生死確認のためか兵士が近付いてきた。
「む?」
 頭が半分無いが、倒れていない…? 訝しんだ兵士が小銃で小突くと、ザンナの体は人形のように崩れ落ちた。その血と脳髄がキシュウの顔を塗り潰し、よもや生きているとは思わせなかった。
「よし、引き上げだ」
 兵達はばらばらと車に乗り去っていった。船の音も離れてゆき、聞こえなくなった。

「……」
「………」
「…………………ふ」
 割れんばかりに歯を食いしばり、必死に押し殺していた声がとうとう漏れた。
「おし、しょ…」
 わが師の血と臓物の海で、キシュウは哭いた。
 痛いからでもなく。
 怖いからでもなく。
 生まれて初めて、悲しみに泣いた。

 もの思わぬ消費物、ケダモノ以下の玩具だった少年は、皮肉にもこの鬼婆のもとで、人間へと生まれ変わった。
 その咆哮は獣のように烈しく、夕焼け空に響いていった。


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 主なきザンナの住居に忍び寄る影達。武器の収集・転売を生業とする組織「ヴァローナ」、通称「屑拾い」の面々であった。
「あのS級危険人物『ザンナ』の住居か、よく突き止めたな」
「犬は始末したろうな」
「なんだこの家…家か?電気も引いてねえ」
「で、お宝は何だい」
「ニホントウと、東洋の古い武器が多数あるらしい」
「ポン刀か!そりゃいい、高値になるぞ」
「って、あれ…金属反応はこれだけか。オイ、肝心の日本刀が無いぞ」
「くそ、コソ泥にでも先を越されたか」
「強盗ですかね。血の跡がある」
「本人が殺られたのはここじゃないと聞いてるが…まあいい、無いものは仕方ない。目ぼしい物だけ持って撤収だ」

 時を前後して、刀を担いだ血みどろの男が周辺で目撃されたが、詳細は不明。接触を図った者が一人残らず瞬殺された為、何もわかっていないという。

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 街には今日も喧騒があふれ、その影には悪意と暴力が満ちている。
 黄昏時、賑やかになりはじめた色街の路地で、男達に連れられ泣き声をあげる少女。虐げられたのか、これから虐げられにいくのか、どちらにせよ、この界隈では珍しくない光景だった。しかし一つ珍しいことには、そこへ大柄な若者がひとり割って入った。彼は少女を捕えていた男を殴り倒し、彼女を逃がした。追おうとする男達を彼は懸命に止めるが、ほどなく囲まれ一方的にリンチを受け始めた。
 かつては自分も同じように売られ、同じような末路を辿る所だった。ああして誰かが、閉じられた世界を壊してくれなかったら――。
 通り過ぎようとしていたキシュウはふと足を止め、何を思うともなく、その揉み合いに近付いていった。

 数分後、男達は怪我人を抱えて逃げ去り、あとには袋叩きにされた大柄な若者と、無傷のキシュウだけが残った。
「なんだお前、とんでもなく強いな!助かったよ、名前を教えてくれ」
 大柄な若者は腫れ上がった顔で陽気に笑い、キシュウに握手を求めた。
(名前…俺に名前はまだない…
 ……チビ助、としか…
 いや、俺をそう呼ぶのはお師匠だけだ)
 キシュウはザンナの飼い犬を思い出し、ニヤリと笑った。その不敵な笑みは、師によく似ていた。
「紀州…キシュウ、だ」
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