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第一章
ドライ・マティーニ
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「ヘルメティカ」は、雑居ビルの二階に佇む何の変哲もないバーである。
ごく地味で、さほど広くもなく、普段はマスターと僕の二人で充分回していける程度の店だ。長年潰れずやっているのが、少々不思議なくらいだ。
と、団体客と入れ替わりに一人の客が入店した。よく来る無愛想な女性だ。いつも一人、味気ないパンツスーツに身を包み、仕事終わりの風姿で現れては、カウンターの端に陣取るのだ。酒は中々に強く、カクテルから強い蒸留酒まで何でも呑み、乱れる程には酔わない。機嫌の良さそうな所を見た事がないのだが、この夜は一際不機嫌だった。
「いらっしゃいませ。何にしましょう」
コースターを置いた雪をじろりと睨むと、なぜか挑戦的な語気で言い放った。
「貴方にしか作れないものを頂戴。強いやつで」
む、と雪は内心眉をしかめた。勿論、絡み酒や喧嘩腰の客をあしらうのも仕事のうちだ。常連の彼女をそういう客に分類するのは少々残念ではあったが、雪は営業スマイルに徹して会釈した。
「畏まりました」
はて、とつまみのナッツを準備しながら思案する。
僕にしか作れない…。
厳密には僕だけではないが、ここでしか出せないものならある。父に仕込まれた秘伝のカクテルレシピだ。
「…なにか、お悩みでも?」
彼女が世間話に乗ってきた試しはない。雪も元来話好きな方ではないから、頑張って打ち解けようという気もないのだが、今宵は妙に彼女の蔭が気になった。
「……」
いつも通り無視を決め込んだらしい。ですよね、と雪は気にもせず屈み込み、棚の奥を探り始める。
「……同僚でね、頑張ってきた人がいるんですよ」
返事が来たことに吃驚してしまって、雪は危うく瓶を取り落とすところだった。そろりと首を伸ばし彼女の方を伺うと、こちらを見てはいない。頬杖をついてナッツの小皿を眺めながら、独り言のように続ける。
「新しい立場に就きたくて、実績を上げて努力してきたんですよ。でも上の都合で、別の人がそこに決まって…それが現場を見た事すらない、他社の外注なんですよ。幹部の顔を立てるだか何だか知らないけど、その仕事に適性があって、熱望してきた人がいるのに、外野の都合が優先だなんて」
「それは納得いかないですよね…同じチームでお仕事をされてる方なんですか?」
「いや、直接関わる事はない人です。同期ってだけで」
「なるほど。仲の良い方なんですね」
「そういう訳でもないんだけど」
「……。」
まあ、この物言いが職場でもそうなら、フレンドリーで交友の広い人種ではあるまい。それが、さほど親しくもない人物に対して、そもそも会社員なら不本意な人事など茶飯事だろうに、そこまで心を砕く事なのだろうか。
「……そんなに気になるんですか、その方のこと」
しまった、と雪は口をつぐんだ。気安い常連ならともかく、この難解な客に対して立ち入った事を言い過ぎだ。
どうしてそんな事を言ってしまったのか。ただの、仕事なのに。
機嫌を損ねたに違いない、初めて掴んだ会話の糸口もここでお仕舞いだ。雪は渋い顔で目を瞑ったが、意外にも返ってきた反応は攻撃的ではなかった。
「だって、関係ない人のために諦めなきゃいけないなんて…許せなくて……」
その声色に突然、翳りが差して。
彼女はカウンターの上に両腕を組み、半ば突っ伏すように顔をうずめていた。垂れ掛かる前髪の隙間から僅かに覗く瞳には、潤んだ光が揺れていた。
雪は素知らぬ振りで顔を逸らし、秘伝のレシピを揃えたシェイカーを振り始める。
(関係ない人のために、涙を流せる人だとは…思わなかったな)
シェイクを終えてグラスを手に取ると、清潔な筈のその縁に糸ぼこりが付いていた。ふっと軽く一息、それを吹き落とすと、シェイカーの中身を注ぎ入れる。
「どうぞ。ドライ・マティーニ、アンバースペシャルです」
「ふうん…マティーニなんだ」
彼女はグラスをじっと見た。詳しい事は言えないが、ステア(材料を注ぎ軽く混ぜる)でなくシェイクして作る事と、一般的なマティーニに比べ黄味の強い色彩がこのレシピの特徴だ。
ゆっくりとグラスに口づけ、品定めするように一口を味わうと、置いたグラスに指をかけたまま呟く。
「普通のマティーニと、そんなに変わんないな…おいしいけど」
その時だ。
普段ならまだ客足も多い時間帯、他の客が居なかったのは奇跡といっていいだろう。
彼女の全身から、琥珀色の光輝が立ち昇った。
雪は疲れでも出たかと目を擦り、遅れて彼女も異変に顔を上げた。そして数秒のうちに、
――――人ならぬ姿に变化していた。
甲高い音を響かせて、シェイカーが床に跳ねた。
何だ?
何が起こった?
目の前にいるのは何だ?
見慣れたスーツの彼女、の代わりに座っているのは、全身半透明で琥珀色に輝く、人型の、何かだった。
橄欖色の大きな目が数度瞬いて、すらりと細長い己の手指、ゼリーのように滑らかな胴から足を、徐ろに眺めおろした。そして、雪に向き直った。
雪はびくりと後退り――かけて、思いもよらぬ感情に踏み留まった。
……美しい。
ついさっき提供したマティーニにそっくりな、琥珀色の輝きを纏う体。
そのマティーニに沈むオリーブのような、つややかな目。
およそ現実とは思えない異常事態だというのに、気がつけば雪はカウンターから出て、彼女に近寄っていた。
魅了されていた。
震える手をゆっくりと彼女に差し出し、そして。
かつ、かつ、と微かな音がして雪は我に返った。外の階段を上がる足音、つまり客が来るのだ。
見られる…! 雪は青ざめた。
「と、とにかく奥へ隠れて! 早く!」
得体の知れないその体に触れる躊躇も忘れ、強引に彼女をバックヤードへ押し入れたが、その奥にむくりと起き上がる人影があった。
「何だよ、昼寝してたのに」
「わあ!?」
買い出しに行った筈のマスター、すなわち雪の父親だ。珍しくはないことだが、裏でサボっていたらしい。思わず叫んだ雪を彼は振り返り、その視界に雪と、彼女を捉えた。
「……!!」
雪達は凍りついた。
何の弁明も、どんな対応も思いつかない。
父はどうするだろう。泰然自若な父といえども、流石にこの怪物を見て平静ではいられまい。叫び、狼狽え逃げ出すだろうか。警察でも呼ぶだろうか。一体どうすれば――
しかし彼の反応は予想だにしないものであった。
驚きはしていた。だが数秒目を丸くした後、その目は鷹の鋭さで雪を見据え、ぽかんと開いた口元は確固たる意志を帯びて結ばれ、低い声で囁いた。
「雪、その御方を帰しちゃならんぞ。絶対にだ」
穏やかに、冷静に、それでいて強く諭す声音だった。その短い言葉は、パニックの雪に思考力を取り戻させ、信頼させるに足るものだった。
このマスターが煮ても焼いても豆腐に鎹、どんな揉め事も慌てず騒がず煙に巻く、とんだ狸親父なのだ。ガラの悪い客が暴れた時だって、あれほど鋭い目をした事はなかった。
父は何かを知っている。この事態が何であるかを知っている、むしろ待ち詫びてきた、そんな事を感じさせる含みがあった。
からんからんとドアベルが鳴り、客が店内に入った事を知らせた。
「いらっしゃーい、ちょいと待ってねー」
平静そのものの営業ボイスをバックヤードから投げかけ、父は襟を正して立ち上がる。そしてホールへ出ていきざま、いつもの柔和な調子で言った。
「店は任せな、客足が途切れたら閉めちまおう。話はその後だ」
バックヤードには雪と彼女――彼女の姿ではなくなったけれど恐らくは、彼女――の二人きり。長い沈黙が彼らを支配していた。室内と、雪と、自分の肢体を交互に眺めるばかりだった彼女が漸く口を開いた。
『あ、の……』
おずおずと漏れた声は確かに彼女のものだった。が、彼女の声に何か別の層が重なっている。耳に聞こえる声と、頭の中に直接響く声が重なっているような、自分でも理解は出来ないが、そんな状態に感じられた。
『これ……どうなってるんですか』
「ぼくが聞きたいです」
返す雪の声も上ずっていた。どうやら、会話は通じるようだ。そして彼女も落ち着いている訳ではなく、騒ぐ事もできないほど動揺しているという風だった。
それ以外は何もわからない、全くわからない。
しかし雪の脳裏に断片的な記憶が浮き沈みした。父から聞いた気がする、何か非現実的な、荒唐無稽な御伽噺のような…
《もしも“巫女”に巡り会えたら、決して離すな》
『あっ』
その時、あの光輝が再び彼女の身を包み、息を呑む雪の前で、彼女はいつものスーツ姿へと立ち戻った。
「……」
「……」
彼女は再び自分の肢体を凝視し、そして雪と顔を見合せた。
「私ちょっと、呑み過ぎたようなので帰ります」
「ま、待って!」
逃げるように席を立った彼女の腕を雪は慌てて掴んだ。
震えていた。
平静を装ってはいたが、腕を取られて抵抗するでもない。本当は引き留めて欲しい、この状況に答えが欲しい、そんな不安が伝わってきた。
「待って下さい…帰す訳にはいかない」
諸々の現実的な都合だけでなく、なにか使命めいたものを雪は感じていた。
再びドアベルが鳴り、彼女はびくりと一歩下がった。しかし近づいてきたのはマスターの落ち着いた声だった。
「これにて本日は臨時休業っと。さて雪、大人しくお待ち戴けたかな」
柔らかな笑顔で入ってきた父は、彼女のスーツ姿を見るや真顔になり、ぱちくりと室内を見回した後、文字通り肩を落として落胆した。
「なんだ、戻っちゃったのかぁ~。もっとよく見たかったなぁ……
ていうか貴女、よく来る女じゃないの。こりゃたまげたね。いやいや、運命の糸ってやつは有るのかもしれないね」
その軽い口調に雪達はすっかり緊迫感を失い、どっと疲れて座り込んだ。
「さぁてさて。私ゃ店長の桶谷 満、こっちが息子の雪。改めまして」
満は茶を淹れながら、さりげなく彼女と出口との間を塞ぐ位置に陣取った。
「まずはお嬢さん、貴女は類稀な資質をお持ちだ。
特殊な手順で作られた酒に感応し、酒の精――“酒精”をその身に顕現する『酒精降ろしの巫女』の資質を」
「……巫女? スピリッツ……?」
満は指を一本ずつ立てながら、詩でも詠むように語った。
「ひとつ、秘蔵の製法。
ひとつ、丹精込めた調合。
ひとつ、命宿る息吹。
この三つが揃った時、酒の持つ神通力が巫女を依り代として具現化する。それこそがさっきの姿、“酒精”」
「製法と調合、ってのがあのレシピか……息吹って何だ?」
「雪、お前この女に出したグラスへ息を吹きかけたはずだ」
「息を……?」
考え込むことしばし、はたと、雪はグラスの埃を吹き落とした事を思い出した。普段はそうそう、そんな不調法はしないのだ。
「息は気、魂に通ずる。巫女と心を通わせ、思いを込めて掛ける息吹には力が宿るんだそうだ」
(心を通わせ……?)(思いをこめて……?)
雪達は揃って眉をひそめた。その様子に満は苦笑しつつ続ける。
「うちは古くから、神社に奉納する神酒を造る神酒蔵の家系だった。そして、その神酒で神を降ろす力を持つ“巫女”の家系と懇意にしていた。結婚縁組によって、その資質を連綿と受け継ぎ守ってきたんだ。
私の祖父さんの、そのまた祖父さんは巫女の酒精降ろしをしたそうだ。それが、系図に残る最後の巫女だ。彼女は子を授からずに亡くなり、巫女の血筋は失われ、酒蔵の経営も傾きはじめた。
ところが祖父さんは全くの偶然に、巫女の資質を持つ女性と巡り合った。しかもそれが分かったのは、奉納神酒以外の酒で酒精降ろしが起きたからだった。祖父さんは、どんな酒をどうすれば酒精が宿るのか研究を始めた。そして出来たのがこの店と、雪、お前に教えた秘伝のレシピだ。
その巫女の力は、娘に受け継がれなかった。巫女は再び失われたが、いつか他の巫女に出逢えた時の為にと、レシピだけが守り伝えられてきた……
ま、ざっと説明するとこんな具合だ。祖父さんから繰り返し聞かされた頃は正直お伽噺だと思ってたが、まさか本当にお目にかかれるとはね」
さっきひそめた眉のまま、全身から疑念を発し続けていた彼女は、はたと思い至ったように背筋を伸ばした。
「私、帰らないと」
「いやいや待って待って。万に一つもない確率で巡り合えたお人なんだから」
「知りませんよ。明日も仕事なんです」
「まあ落ち着いて。必ずまた来てくれるかい?約束してくれないと、これは返せないな」
「あっ」
この狸親父はまったく、いつの間に。後ろ手にちらりと覗かせたのは、彼女のカバンだった。席から回収してきたらしい。慌てるということがないのか、強かにも程がある。
「…………」
唇を噛んだ彼女は二度三度、カバンをひったくろうと手を伸ばしたが、立ち位置と運動神経の不利から叶わなかった。
「……わかりました」
「じゃ、お名前と連絡先を」
「そのカバンの中にあるんで」
「いやいや、こちらにお願いしますよ」
素知らぬ顔で伝票とペンを差し出す父は、とことん抜かりなかった。カバンの奪還に失敗した彼女は、過去最大級に嫌そうな顔でペンを取った。
「……御杯、香です」
香る、尊き杯。
出来過ぎなほど、それは彼女の資質と宿命を匂い立たせる名前だった。
香を見送った雪達は、いつもの閉店作業を始めていた。
「…帰しちゃって、よかったのか」
「そりゃ気になるけど、無理に引き留める事もできないしな。そもそも、ご本人がその気になってくんないと成り立たないんだ。連絡先はもらったし、これで二度と来てくんなきゃ、この縁は最初から無かったってことさ」
「僕、何もかも訳が解らないんだけど……。よくそんな、当然の事みたいに進められるな。親父は信じられるわけ?巫女だの、スピリッツだの」
「んー、見ちゃったからにはなぁ。酒ってのは古代から神事や儀式につきものだろ、それくらいあっておかしくないのかもな。なにせ蒸留酒を『魂』って云う位だから」
「駄洒落かよ」
なんだか頭が痛くなってきた。雪はこめかみに手をあて、深く息をついた。
自宅の玄関を後ろ手に閉め、香は深く息をついた。
今夜の出来事は一体何だったのか。見たもの、聞いたこと、何一つ受け入れられない、信じられる訳のない情報が頭の中をぐるぐると巡る。
忘れろ、忘れるんだ。
酔っていただけだ。
二度とあの店に行かなければいいんだ。
でも……
私にしかできないことが、あるとしたら?
香はぶんぶんと頭を振り、早足で部屋へと上がっていった。はらりと、カバンから「ヘルメティカ」の伝票が舞い落ちた。
ごく地味で、さほど広くもなく、普段はマスターと僕の二人で充分回していける程度の店だ。長年潰れずやっているのが、少々不思議なくらいだ。
と、団体客と入れ替わりに一人の客が入店した。よく来る無愛想な女性だ。いつも一人、味気ないパンツスーツに身を包み、仕事終わりの風姿で現れては、カウンターの端に陣取るのだ。酒は中々に強く、カクテルから強い蒸留酒まで何でも呑み、乱れる程には酔わない。機嫌の良さそうな所を見た事がないのだが、この夜は一際不機嫌だった。
「いらっしゃいませ。何にしましょう」
コースターを置いた雪をじろりと睨むと、なぜか挑戦的な語気で言い放った。
「貴方にしか作れないものを頂戴。強いやつで」
む、と雪は内心眉をしかめた。勿論、絡み酒や喧嘩腰の客をあしらうのも仕事のうちだ。常連の彼女をそういう客に分類するのは少々残念ではあったが、雪は営業スマイルに徹して会釈した。
「畏まりました」
はて、とつまみのナッツを準備しながら思案する。
僕にしか作れない…。
厳密には僕だけではないが、ここでしか出せないものならある。父に仕込まれた秘伝のカクテルレシピだ。
「…なにか、お悩みでも?」
彼女が世間話に乗ってきた試しはない。雪も元来話好きな方ではないから、頑張って打ち解けようという気もないのだが、今宵は妙に彼女の蔭が気になった。
「……」
いつも通り無視を決め込んだらしい。ですよね、と雪は気にもせず屈み込み、棚の奥を探り始める。
「……同僚でね、頑張ってきた人がいるんですよ」
返事が来たことに吃驚してしまって、雪は危うく瓶を取り落とすところだった。そろりと首を伸ばし彼女の方を伺うと、こちらを見てはいない。頬杖をついてナッツの小皿を眺めながら、独り言のように続ける。
「新しい立場に就きたくて、実績を上げて努力してきたんですよ。でも上の都合で、別の人がそこに決まって…それが現場を見た事すらない、他社の外注なんですよ。幹部の顔を立てるだか何だか知らないけど、その仕事に適性があって、熱望してきた人がいるのに、外野の都合が優先だなんて」
「それは納得いかないですよね…同じチームでお仕事をされてる方なんですか?」
「いや、直接関わる事はない人です。同期ってだけで」
「なるほど。仲の良い方なんですね」
「そういう訳でもないんだけど」
「……。」
まあ、この物言いが職場でもそうなら、フレンドリーで交友の広い人種ではあるまい。それが、さほど親しくもない人物に対して、そもそも会社員なら不本意な人事など茶飯事だろうに、そこまで心を砕く事なのだろうか。
「……そんなに気になるんですか、その方のこと」
しまった、と雪は口をつぐんだ。気安い常連ならともかく、この難解な客に対して立ち入った事を言い過ぎだ。
どうしてそんな事を言ってしまったのか。ただの、仕事なのに。
機嫌を損ねたに違いない、初めて掴んだ会話の糸口もここでお仕舞いだ。雪は渋い顔で目を瞑ったが、意外にも返ってきた反応は攻撃的ではなかった。
「だって、関係ない人のために諦めなきゃいけないなんて…許せなくて……」
その声色に突然、翳りが差して。
彼女はカウンターの上に両腕を組み、半ば突っ伏すように顔をうずめていた。垂れ掛かる前髪の隙間から僅かに覗く瞳には、潤んだ光が揺れていた。
雪は素知らぬ振りで顔を逸らし、秘伝のレシピを揃えたシェイカーを振り始める。
(関係ない人のために、涙を流せる人だとは…思わなかったな)
シェイクを終えてグラスを手に取ると、清潔な筈のその縁に糸ぼこりが付いていた。ふっと軽く一息、それを吹き落とすと、シェイカーの中身を注ぎ入れる。
「どうぞ。ドライ・マティーニ、アンバースペシャルです」
「ふうん…マティーニなんだ」
彼女はグラスをじっと見た。詳しい事は言えないが、ステア(材料を注ぎ軽く混ぜる)でなくシェイクして作る事と、一般的なマティーニに比べ黄味の強い色彩がこのレシピの特徴だ。
ゆっくりとグラスに口づけ、品定めするように一口を味わうと、置いたグラスに指をかけたまま呟く。
「普通のマティーニと、そんなに変わんないな…おいしいけど」
その時だ。
普段ならまだ客足も多い時間帯、他の客が居なかったのは奇跡といっていいだろう。
彼女の全身から、琥珀色の光輝が立ち昇った。
雪は疲れでも出たかと目を擦り、遅れて彼女も異変に顔を上げた。そして数秒のうちに、
――――人ならぬ姿に变化していた。
甲高い音を響かせて、シェイカーが床に跳ねた。
何だ?
何が起こった?
目の前にいるのは何だ?
見慣れたスーツの彼女、の代わりに座っているのは、全身半透明で琥珀色に輝く、人型の、何かだった。
橄欖色の大きな目が数度瞬いて、すらりと細長い己の手指、ゼリーのように滑らかな胴から足を、徐ろに眺めおろした。そして、雪に向き直った。
雪はびくりと後退り――かけて、思いもよらぬ感情に踏み留まった。
……美しい。
ついさっき提供したマティーニにそっくりな、琥珀色の輝きを纏う体。
そのマティーニに沈むオリーブのような、つややかな目。
およそ現実とは思えない異常事態だというのに、気がつけば雪はカウンターから出て、彼女に近寄っていた。
魅了されていた。
震える手をゆっくりと彼女に差し出し、そして。
かつ、かつ、と微かな音がして雪は我に返った。外の階段を上がる足音、つまり客が来るのだ。
見られる…! 雪は青ざめた。
「と、とにかく奥へ隠れて! 早く!」
得体の知れないその体に触れる躊躇も忘れ、強引に彼女をバックヤードへ押し入れたが、その奥にむくりと起き上がる人影があった。
「何だよ、昼寝してたのに」
「わあ!?」
買い出しに行った筈のマスター、すなわち雪の父親だ。珍しくはないことだが、裏でサボっていたらしい。思わず叫んだ雪を彼は振り返り、その視界に雪と、彼女を捉えた。
「……!!」
雪達は凍りついた。
何の弁明も、どんな対応も思いつかない。
父はどうするだろう。泰然自若な父といえども、流石にこの怪物を見て平静ではいられまい。叫び、狼狽え逃げ出すだろうか。警察でも呼ぶだろうか。一体どうすれば――
しかし彼の反応は予想だにしないものであった。
驚きはしていた。だが数秒目を丸くした後、その目は鷹の鋭さで雪を見据え、ぽかんと開いた口元は確固たる意志を帯びて結ばれ、低い声で囁いた。
「雪、その御方を帰しちゃならんぞ。絶対にだ」
穏やかに、冷静に、それでいて強く諭す声音だった。その短い言葉は、パニックの雪に思考力を取り戻させ、信頼させるに足るものだった。
このマスターが煮ても焼いても豆腐に鎹、どんな揉め事も慌てず騒がず煙に巻く、とんだ狸親父なのだ。ガラの悪い客が暴れた時だって、あれほど鋭い目をした事はなかった。
父は何かを知っている。この事態が何であるかを知っている、むしろ待ち詫びてきた、そんな事を感じさせる含みがあった。
からんからんとドアベルが鳴り、客が店内に入った事を知らせた。
「いらっしゃーい、ちょいと待ってねー」
平静そのものの営業ボイスをバックヤードから投げかけ、父は襟を正して立ち上がる。そしてホールへ出ていきざま、いつもの柔和な調子で言った。
「店は任せな、客足が途切れたら閉めちまおう。話はその後だ」
バックヤードには雪と彼女――彼女の姿ではなくなったけれど恐らくは、彼女――の二人きり。長い沈黙が彼らを支配していた。室内と、雪と、自分の肢体を交互に眺めるばかりだった彼女が漸く口を開いた。
『あ、の……』
おずおずと漏れた声は確かに彼女のものだった。が、彼女の声に何か別の層が重なっている。耳に聞こえる声と、頭の中に直接響く声が重なっているような、自分でも理解は出来ないが、そんな状態に感じられた。
『これ……どうなってるんですか』
「ぼくが聞きたいです」
返す雪の声も上ずっていた。どうやら、会話は通じるようだ。そして彼女も落ち着いている訳ではなく、騒ぐ事もできないほど動揺しているという風だった。
それ以外は何もわからない、全くわからない。
しかし雪の脳裏に断片的な記憶が浮き沈みした。父から聞いた気がする、何か非現実的な、荒唐無稽な御伽噺のような…
《もしも“巫女”に巡り会えたら、決して離すな》
『あっ』
その時、あの光輝が再び彼女の身を包み、息を呑む雪の前で、彼女はいつものスーツ姿へと立ち戻った。
「……」
「……」
彼女は再び自分の肢体を凝視し、そして雪と顔を見合せた。
「私ちょっと、呑み過ぎたようなので帰ります」
「ま、待って!」
逃げるように席を立った彼女の腕を雪は慌てて掴んだ。
震えていた。
平静を装ってはいたが、腕を取られて抵抗するでもない。本当は引き留めて欲しい、この状況に答えが欲しい、そんな不安が伝わってきた。
「待って下さい…帰す訳にはいかない」
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再びドアベルが鳴り、彼女はびくりと一歩下がった。しかし近づいてきたのはマスターの落ち着いた声だった。
「これにて本日は臨時休業っと。さて雪、大人しくお待ち戴けたかな」
柔らかな笑顔で入ってきた父は、彼女のスーツ姿を見るや真顔になり、ぱちくりと室内を見回した後、文字通り肩を落として落胆した。
「なんだ、戻っちゃったのかぁ~。もっとよく見たかったなぁ……
ていうか貴女、よく来る女じゃないの。こりゃたまげたね。いやいや、運命の糸ってやつは有るのかもしれないね」
その軽い口調に雪達はすっかり緊迫感を失い、どっと疲れて座り込んだ。
「さぁてさて。私ゃ店長の桶谷 満、こっちが息子の雪。改めまして」
満は茶を淹れながら、さりげなく彼女と出口との間を塞ぐ位置に陣取った。
「まずはお嬢さん、貴女は類稀な資質をお持ちだ。
特殊な手順で作られた酒に感応し、酒の精――“酒精”をその身に顕現する『酒精降ろしの巫女』の資質を」
「……巫女? スピリッツ……?」
満は指を一本ずつ立てながら、詩でも詠むように語った。
「ひとつ、秘蔵の製法。
ひとつ、丹精込めた調合。
ひとつ、命宿る息吹。
この三つが揃った時、酒の持つ神通力が巫女を依り代として具現化する。それこそがさっきの姿、“酒精”」
「製法と調合、ってのがあのレシピか……息吹って何だ?」
「雪、お前この女に出したグラスへ息を吹きかけたはずだ」
「息を……?」
考え込むことしばし、はたと、雪はグラスの埃を吹き落とした事を思い出した。普段はそうそう、そんな不調法はしないのだ。
「息は気、魂に通ずる。巫女と心を通わせ、思いを込めて掛ける息吹には力が宿るんだそうだ」
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ま、ざっと説明するとこんな具合だ。祖父さんから繰り返し聞かされた頃は正直お伽噺だと思ってたが、まさか本当にお目にかかれるとはね」
さっきひそめた眉のまま、全身から疑念を発し続けていた彼女は、はたと思い至ったように背筋を伸ばした。
「私、帰らないと」
「いやいや待って待って。万に一つもない確率で巡り合えたお人なんだから」
「知りませんよ。明日も仕事なんです」
「まあ落ち着いて。必ずまた来てくれるかい?約束してくれないと、これは返せないな」
「あっ」
この狸親父はまったく、いつの間に。後ろ手にちらりと覗かせたのは、彼女のカバンだった。席から回収してきたらしい。慌てるということがないのか、強かにも程がある。
「…………」
唇を噛んだ彼女は二度三度、カバンをひったくろうと手を伸ばしたが、立ち位置と運動神経の不利から叶わなかった。
「……わかりました」
「じゃ、お名前と連絡先を」
「そのカバンの中にあるんで」
「いやいや、こちらにお願いしますよ」
素知らぬ顔で伝票とペンを差し出す父は、とことん抜かりなかった。カバンの奪還に失敗した彼女は、過去最大級に嫌そうな顔でペンを取った。
「……御杯、香です」
香る、尊き杯。
出来過ぎなほど、それは彼女の資質と宿命を匂い立たせる名前だった。
香を見送った雪達は、いつもの閉店作業を始めていた。
「…帰しちゃって、よかったのか」
「そりゃ気になるけど、無理に引き留める事もできないしな。そもそも、ご本人がその気になってくんないと成り立たないんだ。連絡先はもらったし、これで二度と来てくんなきゃ、この縁は最初から無かったってことさ」
「僕、何もかも訳が解らないんだけど……。よくそんな、当然の事みたいに進められるな。親父は信じられるわけ?巫女だの、スピリッツだの」
「んー、見ちゃったからにはなぁ。酒ってのは古代から神事や儀式につきものだろ、それくらいあっておかしくないのかもな。なにせ蒸留酒を『魂』って云う位だから」
「駄洒落かよ」
なんだか頭が痛くなってきた。雪はこめかみに手をあて、深く息をついた。
自宅の玄関を後ろ手に閉め、香は深く息をついた。
今夜の出来事は一体何だったのか。見たもの、聞いたこと、何一つ受け入れられない、信じられる訳のない情報が頭の中をぐるぐると巡る。
忘れろ、忘れるんだ。
酔っていただけだ。
二度とあの店に行かなければいいんだ。
でも……
私にしかできないことが、あるとしたら?
香はぶんぶんと頭を振り、早足で部屋へと上がっていった。はらりと、カバンから「ヘルメティカ」の伝票が舞い落ちた。
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あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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