紫煙は星を隠す

碧峰あころ

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紫煙

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ガラガラと滑りの悪い網戸を開けてべランダに出ると、梅雨が始まりそうな湿っぽい空気が全身に纏わりついた。街頭の周りを小さな蛾たちが一生懸命飛び回っているのが見える。夜、この時間だけは、世界は僕に優しい。
 
 ぼんやりとした月明かりに照らされながら、ライターから溢れる眩しい光を煙草へと移した。じゅっと小さな音とともに立ち上った紫煙を少し眺めてから、重たい煙を肺の中に目一杯に吸い込んだ。

 
「また煙草吸ってるんですか?」

 
隣から嫌なほど聞き慣れた凛とした声が響いた。いつからそこにいたのか、隣の部屋に住む安藤という女が立っている。


「煙草吸うと、寿命縮みますよ」
 

 そう言って安藤がこちらに乗り出した時、風に乗って強いシャンプーの香りが俺の鼻を刺激した。横目で安藤を見ると、微かに濡れて首筋に張り付いた髪の毛、首からかけられた安物のタオル、半袖のTシャツから覗く白い二の腕。なんだか目に毒のような気がしてさっと目を逸らした。


「いいんだよ、特に未練もないんだから」

 
 毎日仕事に追われ、色んな人に頭を下げ、よろよろになりながら帰宅する。気がついたら同期の奴らは出世していて、俺だけがいつもと同じデスクに根を張っていた。そんな惨めな俺を慰めてくれるのが、煙草だった。重たい煙は鬱憤を全て吸い取り、それを吐き出せば体の中が綺麗に浄化されているようにも感じられた。実際は肺を真っ黒にして俺から寿命を奪っているわけだが、こんな惨めな人生を送り続けるぐらいだったら、さっさと綺麗に死んでしまった方がマシだろう。
 
 煙草が俺を浄化し、早死にさせてくれる。だから、夜にこうしてゆっくりと煙草を吸うのが至福のひと時だった。

 隣に安藤が越してくる前は。彼女は美大生らしい。4ヶ月前に隣に引っ越してきたと思えば、俺がベランダに出るタイミングとほぼ同時に彼女もよくベランダに出るようになったのだ。最初は挨拶をかわす程度だったのだが、2週間ほど経過したある日からよく話しかけられるようになった。


「じゃあ、佐藤さんは早く死にたいから煙草を吸ってるってこと?」

「まあ、そういうことかな」


 ふうっと吐き出した煙が安藤とは逆の方向へと流れていく。


「ねえ、私にも一本ちょうだい」

「は」


 我ながら素っ頓狂な声が出てしまった。


「寿命が縮むぞ」

「いいですよ、佐藤さんが早死にしちゃったら話す相手いなくなっちゃいますし」

「未成年だろ」

「いいじゃないですか、社会勉強です」


 ぐいぐいと隣のベランダから乗り出してくる安藤が、気を緩めたら落ちてしまいそうで、転落死でもされたら困るので仕方なく一本だけ火をつけて渡してやった。


「わあい」


 嬉しそうに煙草を咥えた安藤だったが、次の瞬間には派手な音を立ててむせた。


「佐藤さん、これまずい」


 潤んだ真っ黒な瞳がこちらを見つめた。


「不味いならもうやめときな」

「・・・嫌だね」


 時折むせながらも必死に煙草を吸う安藤がなんだかおかしくて、思わず吹き出すと安藤もこちらを見て満足そうに笑った。


「早死にするためにこんなまずいものを吸うなんて、努力家ですね」

「俺は不味いなんて思ってないからな」


 ふうん、とだけこぼした安藤はいつの間にか綺麗に煙草を吸っていた。その横顔はいつも俺を揶揄ってくる明るい安藤とは別人だった。ふっと彼女が吐き出した煙が風に乗って俺の顔にかかった。嗅ぎ慣れた煙草の匂いのはずなのに、なんだか新鮮に感じられた。

 それから、安藤は毎日煙草をせびるようになった。毎回止めてはいるが、全く聞く耳を持たない安藤に結局煙草を渡してしまう。俺も犯罪者だな、と呟くと安藤は嬉しそうに「じゃあ、私たちは共犯者ですね」と笑った。話している時は俺が冷たくあしらっても楽しそうに笑う安藤だが、静かに煙草を吸い始めた途端に別人になる。言葉にするのは難しいが、あえて例えてみるなら、まんまるの満月が突然三日月になったようなそんな感じだと思う。

 いつの間にか梅雨が明けて夏が始まろうとしたある夜だった。


「佐藤さん、私の部屋に来ません?」


 驚いて安藤を見ると、いつもより沈んだ表情をした彼女がそこにいた。


「見て欲しいものがあるんです」


 真っ直ぐこちらを射抜く瞳に逆らうことはできなかった。吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、部屋を出る。すでに安藤がドアを開けて待っている。「お邪魔します」と部屋に入った瞬間、もわっと湿気のこもった熱気が全身を包んだ。俺の部屋と同じ間取りのはずなのに、そこはまるで別世界だった。部屋を埋め尽くす段ボールと床に敷かれた新聞紙、部屋の隅に乱雑に片された油絵具が独特の匂いを放っていた。部屋の中で生活感のあるものはベッドだけだった。


「この絵、どう思う」


 安藤が指さしたのは、窓際に置かれた一際大きいキャンバスだった。


「どうって・・・上手いなって思うよ」


 素直な感想だった。広い夜空に、ポツンと佇む女の子。その女の子の手には煙草が握られている。


「俺には描けない」


 じっくりと絵を見てから、振り返ると思ったよりも近くに安藤が立っていた。ベランダ越しだからわからなかったが、こんなに背が低かったのか。ショートパンツから伸びる白くて細い太ももが眩しい。汗をかいているのか、首筋に張り付いた髪の毛がやけに色っぽく見えた。


「私ね、ずっと学校で1番だったんです。何か描けばコンクールで最優秀賞、表彰状は当たり前だったんです。でも、美大に入って変わった。ああ、井の中の蛙大海を知らずってこういうことだったんだって」


 俺から離れた安藤はゆっくりとベッドに腰掛けた。


「その絵、私の中でも史上最高傑作だったんです。2ヶ月前ぐらいに、描き終えて教授に見せたらなんて言われたと思います?・・・『どこにでもありそうな絵』だそうです」


 ぎゅっと唇噛み締める安藤の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ出した。


「それからは、部屋にある絵はこれを除いて全て破り捨てました。大学でも、周りの友達とか全員が私の絵を笑っているような気がして、誰とも話せなくなりました。この絵の彼女が見てるような星空を見られたらってベランダに出たら佐藤さんがいたんです。私とおんなじように、全てを諦めた目で空を見ていた。だから声をかけたんです。」


 安藤の横に腰掛けると、つんとした汗の香りが鼻を刺激した。


「佐藤さんと話すと、なんか刺激的で、また描けるかなってキャンバスをたくさん買っても結局ダメでした」


 へらっと笑う安藤の瞳は濡れていて、白い頸に一筋の汗が伝った。何か言おうと思っても、こんな俺に言える言葉なんてない。ただ仕事をして煙草を吸って寝てるだけの無能な俺と、安藤は違う。いつの間にか安藤はピッタリと俺にくっついていた。


「ねえ、佐藤さん」

 形のいい唇が俺の顔に近づいてー。


 次の日、安藤は消えた。夜空を眺める女の子の絵を俺の玄関に引っ掛けて。
 互いを慰め合うように身体を重ね、傷口を舐め合うように求め合った。どろどろとねちっこい行為を終える頃には夜明けが来ていて、安藤は満足そうに笑いながら部屋に帰る俺を見送った。今思えば、安藤は俺のことが好きだったのかもしれない。けれどそれは、深く傷ついた時に横にいたのが俺だっただけで、その時横にいたのが違う男だったらその男を好きになっているような曖昧で一時的なものに違いないが。

 彼女が大学をやめて実家に帰ったのか、どこか違う場所に引っ越したのかはわからない。あの絵はリビングに飾り、俺は煙草を吸わなくなった。煙草を吸っても仕事の鬱憤が晴れるどころか、虚しくなるだけでなく、何だか煙草が不味くなった気がしたからだ。理由はわからないが。

 その代わり、星を見るようになった。街から見える星の数は限られているが、それでも、星は俺を慰めているような気がしたから。いつか、この絵のような綺麗な星空を眺めに出かけるのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、俺はベランダから出てベッドへと沈み込んだ。
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