泥濘の中に、幸多からんことを

碧峰あころ

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泥濘

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ただ、紙とシャーペンの擦れる音だけが部屋に響いている。朝から降り始めていた雨は止んでしまったのか、外からは何の音も聞こえない。やけに喉が渇くと思ったら、加湿器の水が切れていた。すっかり冷えてしまったコーヒーを口に含みながら、参考書のページを捲っていく。





 昨日頭に入れたはずの知識が、黒板消しで消し切れなかったチョークのように薄くなっているのがわかる。



 いつもこうだ。みんなが三十分かければ覚えられることが、私には四十五分かかる。みんなが百点を取れる問題が、私には八十点しか取れない。だからといって、クラスの最下位というわけではない。平均よりも少し下にいる。だからこそ、苦しい。どう足掻いても、優秀になれないし、凡才にもなりきれない。そんな中途半端な自分が、嫌いで、嫌いで仕方がなかった。





 ペン立てから少し錆びついたカッターナイフを取り出し、それをゆっくりと手首に押し当てた。そのままカッターナイフを引けば、数秒遅れて真っ赤な血がぷくぷくと顔を出した。別に、今すぐ死んでしまいたいわけじゃない。そりゃあ、死んでしまえれば本望だけれど、リスカで死んでしまいたいわけじゃない。ゆっくりと眠るように死ぬか、スパッと気がついた時には死んでいたい。欲を言えば、事故で。





 自殺願望が全くないわけではない。一人で下校している時、電車を待っている時、みんなで楽しく談笑している時。ふとした瞬間に「死にたい」と思ってしまう。「今、ここから飛び降りたら」「今、ここで飛び出したら」「今、ここで死んでしまえたら」。何度も、何度も、思った。





 受験が始まってからの話ではない。人と話しているときですら、希死念慮というものは、私の心に大きな影をおとし続けている。夜、布団の中で「あの時ああ言ってしまったけれど、傷つけてしまっただろうか」「もっとこうしていれば盛り上がっただろうに」「あの子、退屈そうだったな。私が声をかけてあげればよかった」。後悔と自責の念が心に大きな渦を作っていく。





 誰もそんなことを気にしていないのはわかっている。「そんな些細なことで?」と言われることもわかっている。それでも、私は気になる。気になってしまう。気にしてしまう。だって、うまく生きられている自信がないから。





「自殺する勇気があるなら、その勇気を前に進む一歩にすればいいのに」





 ドキュメンタリーを見た母が、缶チューハイをあおりながらそう呟いた。違う、勇気があるから自殺するんじゃない。この先を生きていく勇気がないから自殺をするんだ。そんなこと、言えないけれど。ジクジクと痛む手首を抑えながら、テレビの向こうの、先月、飛び降りてしまったという一歳下の少女を思い、胸が痛くなった。





 気がつけば、手首から溢れた血が黒くなり始めていた。自室から出ると、家中の電気が消されていて、すでに両親は寝てしまったようだった。なるべく音を立てないように階段を降り、玄関の扉を開けた。





 肺を貫くような凍てつく空気が、眠気を吹き飛ばした。部屋着にサンダルで歩くには寒すぎるが、私にはこれくらいがちょうどいい。熱くなった頭と手首が、徐々に冷えていくのを感じる。





 五分ほど歩き、河川敷へ着く。小さく吐いた息が、白い煙となって夜空へと溶けていく。すぐに消えてしまった煙の面影を探すように空を見上げると、空には小さな星々が、弱々しく、でも確実に、輝いていた。高い位置に浮かぶ月は、切ってごみとなった爪のように細くて鋭い。





「このまま、消えてしまいたい」





 星々を掴むように、右手を空へ上げてみる。もし、このまま夜空に溶けてしまえたら。冷たい空気の中をのんびりと泳いで、月の上で一休みして、小さな星々と共に、夜に住みたい。朝なんて、来なくていい。ずっと、太陽の反対側で暮らそう。太陽の光は、私には、痛くて、眩しすぎる。





 夜の空気を肺一杯に吸い込む。元通りになろうとする手首の切り傷を、左手で思い切り引き裂いた。どろりと再び溢れた血を舐めてみると、錆びた味がする。



 

肺が痛い。手首が痛い。痛いということは、今日も、私は生きている。今日も、私は生き延びたんだ。とくり、とくりと脈打つ手首が、私の生を実感させてくれる。





「……帰ろう」





 机の上に残した参考書。明日の教科書がつめられたスクールバック。壁に貼られた志望校の受験日程。





 今日も、明日も、この先も。私は、泥濘の中を、ゴールもわからず進み続けていくのだろう。

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