鹿と森林

鹿ノ杜

文字の大きさ
上 下
32 / 34

マジナイ

しおりを挟む
 それは春時雨が降る季節のことでございました。
 呼び鈴がわりについているベルが鳴るとともに扉が開きました。扉のすき間から光の漏れ入るのがわかります。店に現れたのは一人の娘でした。マドレーヌさまがカウンターの奥から姿を見せると、娘は驚いたようでした。そう、マドレーヌさまは誰もが振り返るほどの美しい見目をお持ちでしたから、それは当然のことかもしれません。
「いらっしゃい」マドレーヌさまはカウンターごしに言いました。「あんたのような客は珍しい」
 娘は一歩進み、それでもまだ迷っているように店を見渡しました。壁に並べられた大小さまざまな人形が娘をながめていました。彼女はそうとも知らず、感嘆と畏怖がまざりあったようなざらついた視線を人形たちに向けました(そのうちのひとつであるところのわたくしとも目が合いました)。
 やがてマドレーヌさまに視線を戻すと、
「ここでは……髪を買ってくれると聞きました」
 と、はじめて口を開きました。
 娘は、ずいぶんと着込んだ装いでした。癖なのか、腕をからだの前で交差させて下ろし、マドレーヌさまをうかがっています。なるほど、容貌こそ特筆すべきものは見当たりませんが、彼女の腰まで緩やかに巻かれたその髪は、それは一面の麦を思わせるようで、薄暗い店内のわずかな光を健気に集めたのち、はつらつと輝いておりました。
「ああ」マドレーヌさまは微笑みながらこたえます。「こんなもんでどうだい……」
 紙に書きつけられた数字に目を落とし、娘は弱々しくうなずきました。
「お金のために髪を売るなんて、なんという生活なんでしょう」
「そうかな」
 マドレーヌさまは首をかしげました。
「昨日うちに来た客は、子をなくしたばかりの夫婦だった。大粒の涙を流しながら、このうちの一人を」そう言いながらわたくしに視線を送ります。「言い値で買っていった。なにが幸福か。人生は、人の運命は、シーソーのようなものさ。あるときはこちらに傾き……」
 マドレーヌさまは再び首をかしげました。
「あるときはまた別の向きに傾く」
 首をかしげたまま娘を見すえました。
「ねえ、恥じることは、ひとつもないよ……おなかの子ども、大事にしなよ」
 娘ははっとして目を見開いたのち、静かにうなずきました。顔に生気が戻ったようにも見えました。
 娘が店を去ったあとで、わたくしは言いました。
「マドレーヌさまはお優しいですね」
「優しいもんか」マドレーヌさまは笑ってこたえました。「あれもひとつのマジナイさ」
「そうなのですか」
「髪を切る瞬間、その瞬間に持ち主の、『ヒト』の魂がほんの少し、髪に残る。髪の美しさには感情が宿るから……そういったものは、好事家が高く買うのさ」
 マドレーヌさまは店内のロウソクをひとつひとつ、つけてまわりました。もう陽の傾く頃のようです。
 わたくしはもう少し、マドレーヌさまとのおしゃべりに興じていたかったのですが、そのとき、呼び鈴も鳴らずに扉が開きました。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》

小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です ◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ ◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます! ◆クレジット表記は任意です ※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください 【ご利用にあたっての注意事項】  ⭕️OK ・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用 ※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可 ✖️禁止事項 ・二次配布 ・自作発言 ・大幅なセリフ改変 ・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

少女と三人の男の子

浅野浩二
現代文学
一人の少女が三人の男の子にいじめられる小説です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

【短編】怖い話のけいじばん【体験談】

松本うみ(意味怖ちゃん)
ホラー
1分で読める、様々な怖い体験談が書き込まれていく掲示板です。全て1話で完結するように書き込むので、どこから読み始めても大丈夫。 スキマ時間にも読める、シンプルなプチホラーとしてどうぞ。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

処理中です...