「私はまた、失う」

うた子

文字の大きさ
上 下
4 / 21

一度目の避難

しおりを挟む
私が2011年3月11日にはじめて避難したのは中学校の近くの体育館だったのだが、食パン一枚だけが配られた。
雨に近い雪が降っていた。
私はその食パンを避難先に連れて来ていた二匹の飼い犬に分け与えていた。
まさか12日になってからその先、その犬の内の一匹とは、二度と会えなくなるなんて思いもせずに。

12日の早朝、ベッドには倒れた家具があり、破片も零れていた為、車内で寝ていた。
窓を叩く音で目が覚めた。
もうすでに明るい外。
良い天気だった。
窓を開けると、消防団の服を着たおじさんがいて「ごめんね、避難してね」と一言告げる。
私が「津波がここまで来るんですか?」と聞くと、「違うよ、原発だよ」と言う答えが返って来た。

ここから、私の原発被災、原発避難生活ははじまった。

家には二匹犬がいた。
一匹は妹が怪我をしているところを見捨てられずに拾ってきた、人懐っこい元気なスピッツ。
もう一匹はペットセンターで昔父が購入してきただいぶ年寄りのマメシバ(こっちの方がだいぶ古参)だ。

ひとつの車に三人(父、母、私)乗って行こう、バラバラはまずい。
犬は一旦置いて行こう、きっとすぐに帰ってこられるから、と父が言った。
父は原発に詳しい。
純粋に学ぶことが好きだったこともあるだろうし、原発のある街で生きて来て、ずっと働き続けてきて、仕事仲間や友人には原発で働いている人物だっていたからであろう。
それなりに、原発と言うものに知識のある人だった。

でもその思惑は外れた。
その後、私たちは、慣れ親しんだ実家に帰ることなど到底出来るはずもない状況になるのだ。

いつもなら混むようなことのない田舎の道が渋滞ですごいことになっている。
そんな中をなんとか進むしかない状態が続く。
夕暮れ時になっても、私が通っていたすぐそこである中学校に向かう道にすらたどり着かない。

そんな中を何時間もかけて、とりあえず親戚のいる福島県内の中間にあたる土地まで行こう、と父が言う。
けれど、私たちはその目的地へ行くことはできなかった。
しおりを挟む

処理中です...