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百夜語り
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夜。
月が青白く町を照らしている。
柳がさわりさわりと揺れ動いて、まるで歌うかのように葉擦れの音を響かせた。生温い風が吹き抜ける。
ひゅう、どろろ。
その風はお藤の部屋にも吹き込む。鼻先を撫でた風に、ぱちりとお藤は布団の中で目を開いた。天井を見つめる内に、目が闇に慣れてくる。
──そろそろいらっしゃる頃合いね。
お藤はそうっと起きると、月明かりを頼りに蝋燭に手を伸ばした。夜に本を読むからと、火種を貰っていたのだ。
耳を澄ませて、誰の足音もしないことを確認する。燭台にほんのりと灯りが灯ると、ゆらりと夜の闇が揺れた気がした。
ややあって、その中から、ぬうっと人影が出てくる──立派な髷の若い男の姿だ。男の影絵が襖に映し出されたのを見つけて、お藤は笑顔を咲かせた。
待ち人はすでに来て、蝋燭が灯るのを待っていたらしい。
「まあ、若林様。いらしてたのなら声のひとつやふたつかけてくださいませ」
「来たぞ。これで良いか」
「もう、今仰っても遅うございます」
お藤は両手を腰に当てて凄んでみせる──ここのところ、毎日のように繰り返される光景だった。
若林、と呼ばれた男の影は、文句が多いなと毒づいてから部屋の隅に座った。やってきたその男に身体はなく、影だけが大きく蝋燭の灯りに揺れている。
時は、草木も眠る丑三つ時。
こんな時刻に揚々と歩き回り、戸締りされたお店の二階だろうと、襖がしまっていようと、なんだろうと関係なしに現れる──男は幽霊であった。
この幽霊、名を若林琥太郎という遠い戦国の世に生きた男である……らしい。
幼少の頃より刀の腕に覚えがあり、政にも通じて主君からも将来有望と期待されていたらしいのだが、彼はあまりに目立ちすぎた。期待され、羨望されたのと同じ分だけ妬まれてもいたのである。
天才と言われたものの、若林は少々他人の心の機微には疎かった。散々陰謀にまきこまれた挙句に友と信じた人に暗殺されたのだと言う。ついでに将来を約束しあった幼馴染の娘にも捨てらた。しかもその娘、己を蹴落とした友の後添にちゃっかり収まったともなればうらみつらみも募る募る。
そして、彼は立派に幽霊として化けて出た。
しかし、化ける時代をうんと間違えた。
戦の世も昔話となった平和なこの頃に、男はひょっこり出てきてしまったのである。
化けて出てきてみれば勝手知ったる村はなく、脅かす相手も見つからない。仕方なしに彷徨いながら人波に乗ってやってきたのが此処、お藤の家ということらしい。
遠目に見えたお藤の姿を、かつての好い人と間違えて──もっともその誤解は対面してすぐに解けたのだが──兎にも角にも、お藤と男はそうやって知り合った。
初めてきた晩、男は言った。低く唸るよう声で、うらめしやと囁いた。
「仇敵によく似た娘よ、よくも俺を見やがったな」
お藤は読書中だった。言われて初めて、影を見つめた。
なるほど、確かに幽霊らしき影がそこにいる。盗人か、押し込みか──そうとも思ったが、いやいやそれならばこんなに悠長にもしていまい。第一影だけの物盗りとは一体なんだ。薄く開いた襖の向こうにも人はいないし、家族は皆とうに寝静まっている。近い未来に夫となる予定の人はいるが、こんな夜更けに訪ねてくるような仲でもない。
そもそもお藤の部屋は店の二階にある。並の人間が音ひとつなくここまで上がってこられようもない。
──要するに人ではないのだろう。
つまりはこの世ならざるものであると、お藤は早くも悟って居住まいを正した。不思議と怖い気は湧いてこなかった。
「ええ。櫟屋の藤、その妖しき御姿をしかと見ております。顔も声も見知らぬ御仁がこんな夜分に何用でございましょう」
すん、とすまし顔。それを見るなり、ぐぬぬと情けない声が影から零れる。
「……ええい、なんだ女子が落ち着きくさって。怖がれ、悲鳴のひとつもあげてくれや。俺は根の国よりやってきた死人ぞ、恨めしやと化けてでた妖物ぞ」
悲鳴も上げない藤に痺れを切らした幽霊は苛々と声を上げた。死人という割に活きがいい。
しかし、困った。お藤は役者などではない。元より恐がってない以上、やい悲鳴を上げろと言われてあげられるわけがない。とは言え、求められた以上は応えてやるのが人情というものだろう。
「……おお、こわー」
そう返せば、
「心を込めんか!」
やはり怒られる。注文の多い幽霊だった。なんだかおかしくなって、お藤は小さな声で笑うと、そうっと襖の隙間を広げた。
「よもや幽霊を前に笑うとは!」
「まあまあ、このように出会ったのも何かの縁でございましょう? まずはお話をいたしませんか」
「ほう?」
「ささ中へどうぞ。このようにお話ししては、家の者が起きてきてしまいます」
「俺を内に招くか。面白い、気に入った」
ひゅるりと風が吹いて、男の気配が近くに来た。部屋の外にいたのが、内に入り込んだらしいが、やはり怖い感じはしなかった。
お互い興味本位、といったところか。
話してみると、男は確かに幽霊だった。随分と恨みを遺したらしいが、自我を失うほどではなかったのか、随分しゃんとしていた。
「かつて暮らした町が変わっているから人に紛れて歩いてみれば、これまた知らぬ町に出てしまった。そこでかつての妻を見つけたと思えば、これまた人違いの手前さんでよ」
表情は黒塗りで伺えないものの、声には疲れの色が出ていた。
「あぁ、うらめしや、うらめしや……しかし恋しき仇が死んでおっては恨みも晴らせぬ」
「なんと、おいたわしい……」
「この渦巻く想いを内に抱いたまま、俺はどうやって彼の世に帰れば良いのだ」
「まさか他人に祟るわけには参りませんものね」
「それもありだな」
「なし、でございます!」
きっぱり、お藤が両断した。
しかし、二人、話してみれば馬が合う。
お藤は貸本屋に本を山ほど借りるくらい勤勉な方ではあるが、男の話す怪奇譚はどれも目新しいものばかりであった。
人魚を喰らった八百比丘尼、人の魂を抜き取る河太郎、嫁入りした轆轤首、鬼、化け狐に一つ目小僧や見越し入道……。男の語る話は新鮮で思わず色々な表情で、小さく変な声をあげてしまう。それが、男には楽しかったようだ。
「決めたぞ、俺は手前を怖がらせてやることにした」
そんなことを言い出した。
「何故です」
「それが面白いからよ」
「まあ、いけず」
「これより百夜、俺は手前さんの元へ通おう。一夜につき一話、奇々怪々な物語を聞かせてやる」
「百夜の後は」
「百夜も語れば俺の心も一寸ばかりは軽くなってきっとあの世に帰れるだろうさ」
男は楽しそうに笑った。
+++
その日以来、この男は毎晩のようにお藤を脅かしに来るようになった。何かにつけて、
「もういっそ手前に取り憑いてやろうか、それもよいだろう」
そんな事を言う。そうすると、お藤は怖がるどころかころころと笑い声を上げる。
「まァ、若林様。また祟る相手を間違えていらっしゃるわ」
「煩い煩い、この際手前で良いのだ。化けて脅したい奴らはとうの昔にお陀仏になっちまったんだからな」
相手がいないからと取り敢えず近くにいたお藤を脅かすことにしたのだから、まあ、なんと理不尽な話ではある。
けれど、お藤はこの逢瀬を心の底から楽しんでいた。
退屈な日々に流れる、不思議な時間。
幽霊である若林がやってくるのは丑三つ時を少し過ぎた頃から、朝日が顔を出す少し前までの数刻。さらに言えば、蝋燭の火が灯っていないと姿も見えず、言葉も交わせない。
だから毎晩お藤は頃合いを見計らって蝋燭に火を灯す。一晩につきひとつ、男のために火を灯す。蝋燭の小さな光がお藤の心にすうっと差し込む。
「それにしても、手前さんは変わっている」
「そういう若林様も変梃な幽霊です」
「変梃結構、しかし手前さんは顔色が悪いがちゃんと寝ているのか?」
「ご心配なく。ちゃんと早めに床に就いておりますから」
「なら良いが」
「ほら。見知らぬ人間の世話を焼く幽霊など、私は聞いたことございません」
「それは手前さんが物を知らぬだけよ。世にはさまざまな聞いたことのないことがありふれているのだからさ」
「まあ、無知だなんて! そこまで仰るなら、無知な私に新しいお話でも聞かせてくださいな」
「おう、では昨日よりもいっとう恐ろしい話を聞かせようか。手前さんは舟遊びはするかな? 舟幽霊の話は前にしたろう。覚えているかな? 柄杓を貸せぇ、柄杓を貸せぇ──と呼ぶ奇妙な声を」
「終いに柄杓を貸したら舟に海水をどんどんと汲み込まれて沈んでしまう……と言う話でしたら、ええ、お聞きしました。けれど私は海には出ませんもの、海に出る妖なんて関係ありません」
「ならば川はどうだ」」
「川には、そうですね。舟遊びに、と言うよりは移動に使うようなものですけれど」
「それでもよい。よく聞け、川にも厄介なやつが住んでいるんだ」
「まあ、舟幽霊は川にも出るのですか」
「いいや、川には河太郎さ」
「河太郎……とは何方です」
「河太郎とは、人間の尻から魂を抜き取ってしまう恐ろしき妖物よ──しかして愛嬌もあってな、ドジを踏んで人間に捕まることも、仕置きされることもある。或いは人の治水工事に手を貸したり、義理堅くも助けてくれた人間に恩返しをしたり──」
「前置きはともかく、中々に善い方ではありませぬか」
「だが奴らは曲がりなりにも妖よ、手前さんなぞ想像だにできぬ剛力だ。ついこの前もそこな河岸で無頼者が一人、水中に引き込まれて襲われたそうさ。太刀も抜けずにそのままざぶん! どんな豪傑も水に呑まれちゃお終いさ」
そのような語りの日もあれば、
「愛した人が実は蜘蛛だった、蛇だった、鶴だった、松の木だったなどという話は古今東西あらゆるところに伝わっておってな。かと思えば愛した人に裏切られて鬼やら蛇やらに転じた話も諸国に伝わってあるものよ。愛だの恋だのは美しいが、叶わぬ恋のいく先はいつだって地獄さ──」
そう言って恋の話を語る日もある。
男は毎日一つずつ、あちらこちらから話を拾い集めて披露する。それに対して、お藤が感想を呟くのだ。家人を起こさぬように、囁くように、二人は話に花を咲かせる。やれ、どこが怖い、怖くない、好きだ、好かぬだ──。言葉を重ね、夜を明かす。
男は毎夜、語り合えるとお藤に確認する。
「さて、今宵はいくつかな」
男は過ぎた夜の数を聞く。
「……残り、────本でございます」
そうすると、お藤は残りの蝋燭の数を伝える。
これを毎日繰り返した。
日付けの感覚が多少抜け落ちたと言う男の代わりに、お藤が箱に百の蝋燭を詰めて,一つずつ使うようにしているのだ。
これが終われば、百夜通いが終わる。
百夜通いが終われば、二人の逢瀬も終わる。
琥太郎は消え、お藤は家の決めた祝言を控えている。二人の関係は、たったそれまでだ。
初めは物珍しさに、早く明日が来ないかとワクワクしていた。
今は、百夜が過ぎないことを願うばかりだった。早く会いたい、しかし会って仕舞えば少ない蝋燭がさらに減る。いっそ、いつもの脅し文句のそのままに祟ってくれたら良いのに──延々と語り続けられればよいのに。幾度となくそう願いもした。
──小野小町の愛を乞うて、夜な夜な通った深草少将は百夜目に死んでしまった。
お藤が思い出すのはあまりに有名な百夜通いの話。二人の場合、百夜に渡って通い物語るのは幽霊の琥太郎だが、百夜目に死ぬのはむしろ、生きているお藤の方とも言えた。
死ぬのは、蝋燭を吹き消すたびに萎んでいく心。日々忍んだ、男を淡く慕う心。
この心は、明かすわけにはいかなかった。
そんなお藤の心を知ってか知らずか、時折男は変なことを言う。
「俺も愛というのを知れたら往生できるかも知れねえなあ。お前に祟ることなく、百夜を待つことなく、あの世に帰れるかもしれねえなあ」
「な、な」
「よし、手前さんが教えてくれねえか」
「なっ何を仰います!」
お藤は思わず咳き込んだ。この幽霊、侮れぬ。
「……正気ですか?」
「俺は愛に裏切られてンだからなあ、そんで化けて出てきた。それが真の愛を知り、浄化される──良い話だろうよ」
「……ふふ、おかしなことを仰る」
お藤は笑顔で誤魔化した。袖口で顔を覆い、肩を震わせる。
「なに。笑うことはないだろう」
意地が悪いぞと男はむっとする。
「おかしくはあるまい」
「若林様のせいです、こんな小娘相手に愛などと仰るからです」
「おや、愛は手前さんには早かったか?」
「早くはございませんけれど」
「遅かったか?」
「それは……」
「遅かったか?」
「いえ、遅くも早くもありませんけれど」
「じゃあ少しくらいは良いだろうに」
「いけません」
「けちだ」
ぷい、と影がそっぽを向いた。それがまるで童のようで、さらに笑い声を重ねてしまった。
愛の言葉を囁くなり、歌に乗せればそれで済む。それで済んでしまえば、若林琥太郎は早々に消えてしまう。済まなくても、百日経てば消えてしまう。
──ええ、私はけちで意地悪な娘ですもの。
──貴方だけ先に成仏なんてさせてあげない。
どうせ結末が同じなら、長くは続かぬこの恋に最後まで付き合っていただきましょう。お藤は悪戯心に微笑んで、本心を隠す。百日目になったら、教えてあげてもいいわと、心の内でそっと囁くのだ。
語らう内に空が明らむ。
また朝が来る。
天で橙と紫紺が混ざり合えば、朝日が出てくる合図だ。ふうっと朝の冷たい風が吹き込んで、しゅるりと蝋燭の焔が攫われた。その煙に乗って、男は帰っていく。
「では、また来るぞ」
「では、またお待ちしております」
百日目まで、あと─────。
(了)
月が青白く町を照らしている。
柳がさわりさわりと揺れ動いて、まるで歌うかのように葉擦れの音を響かせた。生温い風が吹き抜ける。
ひゅう、どろろ。
その風はお藤の部屋にも吹き込む。鼻先を撫でた風に、ぱちりとお藤は布団の中で目を開いた。天井を見つめる内に、目が闇に慣れてくる。
──そろそろいらっしゃる頃合いね。
お藤はそうっと起きると、月明かりを頼りに蝋燭に手を伸ばした。夜に本を読むからと、火種を貰っていたのだ。
耳を澄ませて、誰の足音もしないことを確認する。燭台にほんのりと灯りが灯ると、ゆらりと夜の闇が揺れた気がした。
ややあって、その中から、ぬうっと人影が出てくる──立派な髷の若い男の姿だ。男の影絵が襖に映し出されたのを見つけて、お藤は笑顔を咲かせた。
待ち人はすでに来て、蝋燭が灯るのを待っていたらしい。
「まあ、若林様。いらしてたのなら声のひとつやふたつかけてくださいませ」
「来たぞ。これで良いか」
「もう、今仰っても遅うございます」
お藤は両手を腰に当てて凄んでみせる──ここのところ、毎日のように繰り返される光景だった。
若林、と呼ばれた男の影は、文句が多いなと毒づいてから部屋の隅に座った。やってきたその男に身体はなく、影だけが大きく蝋燭の灯りに揺れている。
時は、草木も眠る丑三つ時。
こんな時刻に揚々と歩き回り、戸締りされたお店の二階だろうと、襖がしまっていようと、なんだろうと関係なしに現れる──男は幽霊であった。
この幽霊、名を若林琥太郎という遠い戦国の世に生きた男である……らしい。
幼少の頃より刀の腕に覚えがあり、政にも通じて主君からも将来有望と期待されていたらしいのだが、彼はあまりに目立ちすぎた。期待され、羨望されたのと同じ分だけ妬まれてもいたのである。
天才と言われたものの、若林は少々他人の心の機微には疎かった。散々陰謀にまきこまれた挙句に友と信じた人に暗殺されたのだと言う。ついでに将来を約束しあった幼馴染の娘にも捨てらた。しかもその娘、己を蹴落とした友の後添にちゃっかり収まったともなればうらみつらみも募る募る。
そして、彼は立派に幽霊として化けて出た。
しかし、化ける時代をうんと間違えた。
戦の世も昔話となった平和なこの頃に、男はひょっこり出てきてしまったのである。
化けて出てきてみれば勝手知ったる村はなく、脅かす相手も見つからない。仕方なしに彷徨いながら人波に乗ってやってきたのが此処、お藤の家ということらしい。
遠目に見えたお藤の姿を、かつての好い人と間違えて──もっともその誤解は対面してすぐに解けたのだが──兎にも角にも、お藤と男はそうやって知り合った。
初めてきた晩、男は言った。低く唸るよう声で、うらめしやと囁いた。
「仇敵によく似た娘よ、よくも俺を見やがったな」
お藤は読書中だった。言われて初めて、影を見つめた。
なるほど、確かに幽霊らしき影がそこにいる。盗人か、押し込みか──そうとも思ったが、いやいやそれならばこんなに悠長にもしていまい。第一影だけの物盗りとは一体なんだ。薄く開いた襖の向こうにも人はいないし、家族は皆とうに寝静まっている。近い未来に夫となる予定の人はいるが、こんな夜更けに訪ねてくるような仲でもない。
そもそもお藤の部屋は店の二階にある。並の人間が音ひとつなくここまで上がってこられようもない。
──要するに人ではないのだろう。
つまりはこの世ならざるものであると、お藤は早くも悟って居住まいを正した。不思議と怖い気は湧いてこなかった。
「ええ。櫟屋の藤、その妖しき御姿をしかと見ております。顔も声も見知らぬ御仁がこんな夜分に何用でございましょう」
すん、とすまし顔。それを見るなり、ぐぬぬと情けない声が影から零れる。
「……ええい、なんだ女子が落ち着きくさって。怖がれ、悲鳴のひとつもあげてくれや。俺は根の国よりやってきた死人ぞ、恨めしやと化けてでた妖物ぞ」
悲鳴も上げない藤に痺れを切らした幽霊は苛々と声を上げた。死人という割に活きがいい。
しかし、困った。お藤は役者などではない。元より恐がってない以上、やい悲鳴を上げろと言われてあげられるわけがない。とは言え、求められた以上は応えてやるのが人情というものだろう。
「……おお、こわー」
そう返せば、
「心を込めんか!」
やはり怒られる。注文の多い幽霊だった。なんだかおかしくなって、お藤は小さな声で笑うと、そうっと襖の隙間を広げた。
「よもや幽霊を前に笑うとは!」
「まあまあ、このように出会ったのも何かの縁でございましょう? まずはお話をいたしませんか」
「ほう?」
「ささ中へどうぞ。このようにお話ししては、家の者が起きてきてしまいます」
「俺を内に招くか。面白い、気に入った」
ひゅるりと風が吹いて、男の気配が近くに来た。部屋の外にいたのが、内に入り込んだらしいが、やはり怖い感じはしなかった。
お互い興味本位、といったところか。
話してみると、男は確かに幽霊だった。随分と恨みを遺したらしいが、自我を失うほどではなかったのか、随分しゃんとしていた。
「かつて暮らした町が変わっているから人に紛れて歩いてみれば、これまた知らぬ町に出てしまった。そこでかつての妻を見つけたと思えば、これまた人違いの手前さんでよ」
表情は黒塗りで伺えないものの、声には疲れの色が出ていた。
「あぁ、うらめしや、うらめしや……しかし恋しき仇が死んでおっては恨みも晴らせぬ」
「なんと、おいたわしい……」
「この渦巻く想いを内に抱いたまま、俺はどうやって彼の世に帰れば良いのだ」
「まさか他人に祟るわけには参りませんものね」
「それもありだな」
「なし、でございます!」
きっぱり、お藤が両断した。
しかし、二人、話してみれば馬が合う。
お藤は貸本屋に本を山ほど借りるくらい勤勉な方ではあるが、男の話す怪奇譚はどれも目新しいものばかりであった。
人魚を喰らった八百比丘尼、人の魂を抜き取る河太郎、嫁入りした轆轤首、鬼、化け狐に一つ目小僧や見越し入道……。男の語る話は新鮮で思わず色々な表情で、小さく変な声をあげてしまう。それが、男には楽しかったようだ。
「決めたぞ、俺は手前を怖がらせてやることにした」
そんなことを言い出した。
「何故です」
「それが面白いからよ」
「まあ、いけず」
「これより百夜、俺は手前さんの元へ通おう。一夜につき一話、奇々怪々な物語を聞かせてやる」
「百夜の後は」
「百夜も語れば俺の心も一寸ばかりは軽くなってきっとあの世に帰れるだろうさ」
男は楽しそうに笑った。
+++
その日以来、この男は毎晩のようにお藤を脅かしに来るようになった。何かにつけて、
「もういっそ手前に取り憑いてやろうか、それもよいだろう」
そんな事を言う。そうすると、お藤は怖がるどころかころころと笑い声を上げる。
「まァ、若林様。また祟る相手を間違えていらっしゃるわ」
「煩い煩い、この際手前で良いのだ。化けて脅したい奴らはとうの昔にお陀仏になっちまったんだからな」
相手がいないからと取り敢えず近くにいたお藤を脅かすことにしたのだから、まあ、なんと理不尽な話ではある。
けれど、お藤はこの逢瀬を心の底から楽しんでいた。
退屈な日々に流れる、不思議な時間。
幽霊である若林がやってくるのは丑三つ時を少し過ぎた頃から、朝日が顔を出す少し前までの数刻。さらに言えば、蝋燭の火が灯っていないと姿も見えず、言葉も交わせない。
だから毎晩お藤は頃合いを見計らって蝋燭に火を灯す。一晩につきひとつ、男のために火を灯す。蝋燭の小さな光がお藤の心にすうっと差し込む。
「それにしても、手前さんは変わっている」
「そういう若林様も変梃な幽霊です」
「変梃結構、しかし手前さんは顔色が悪いがちゃんと寝ているのか?」
「ご心配なく。ちゃんと早めに床に就いておりますから」
「なら良いが」
「ほら。見知らぬ人間の世話を焼く幽霊など、私は聞いたことございません」
「それは手前さんが物を知らぬだけよ。世にはさまざまな聞いたことのないことがありふれているのだからさ」
「まあ、無知だなんて! そこまで仰るなら、無知な私に新しいお話でも聞かせてくださいな」
「おう、では昨日よりもいっとう恐ろしい話を聞かせようか。手前さんは舟遊びはするかな? 舟幽霊の話は前にしたろう。覚えているかな? 柄杓を貸せぇ、柄杓を貸せぇ──と呼ぶ奇妙な声を」
「終いに柄杓を貸したら舟に海水をどんどんと汲み込まれて沈んでしまう……と言う話でしたら、ええ、お聞きしました。けれど私は海には出ませんもの、海に出る妖なんて関係ありません」
「ならば川はどうだ」」
「川には、そうですね。舟遊びに、と言うよりは移動に使うようなものですけれど」
「それでもよい。よく聞け、川にも厄介なやつが住んでいるんだ」
「まあ、舟幽霊は川にも出るのですか」
「いいや、川には河太郎さ」
「河太郎……とは何方です」
「河太郎とは、人間の尻から魂を抜き取ってしまう恐ろしき妖物よ──しかして愛嬌もあってな、ドジを踏んで人間に捕まることも、仕置きされることもある。或いは人の治水工事に手を貸したり、義理堅くも助けてくれた人間に恩返しをしたり──」
「前置きはともかく、中々に善い方ではありませぬか」
「だが奴らは曲がりなりにも妖よ、手前さんなぞ想像だにできぬ剛力だ。ついこの前もそこな河岸で無頼者が一人、水中に引き込まれて襲われたそうさ。太刀も抜けずにそのままざぶん! どんな豪傑も水に呑まれちゃお終いさ」
そのような語りの日もあれば、
「愛した人が実は蜘蛛だった、蛇だった、鶴だった、松の木だったなどという話は古今東西あらゆるところに伝わっておってな。かと思えば愛した人に裏切られて鬼やら蛇やらに転じた話も諸国に伝わってあるものよ。愛だの恋だのは美しいが、叶わぬ恋のいく先はいつだって地獄さ──」
そう言って恋の話を語る日もある。
男は毎日一つずつ、あちらこちらから話を拾い集めて披露する。それに対して、お藤が感想を呟くのだ。家人を起こさぬように、囁くように、二人は話に花を咲かせる。やれ、どこが怖い、怖くない、好きだ、好かぬだ──。言葉を重ね、夜を明かす。
男は毎夜、語り合えるとお藤に確認する。
「さて、今宵はいくつかな」
男は過ぎた夜の数を聞く。
「……残り、────本でございます」
そうすると、お藤は残りの蝋燭の数を伝える。
これを毎日繰り返した。
日付けの感覚が多少抜け落ちたと言う男の代わりに、お藤が箱に百の蝋燭を詰めて,一つずつ使うようにしているのだ。
これが終われば、百夜通いが終わる。
百夜通いが終われば、二人の逢瀬も終わる。
琥太郎は消え、お藤は家の決めた祝言を控えている。二人の関係は、たったそれまでだ。
初めは物珍しさに、早く明日が来ないかとワクワクしていた。
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──小野小町の愛を乞うて、夜な夜な通った深草少将は百夜目に死んでしまった。
お藤が思い出すのはあまりに有名な百夜通いの話。二人の場合、百夜に渡って通い物語るのは幽霊の琥太郎だが、百夜目に死ぬのはむしろ、生きているお藤の方とも言えた。
死ぬのは、蝋燭を吹き消すたびに萎んでいく心。日々忍んだ、男を淡く慕う心。
この心は、明かすわけにはいかなかった。
そんなお藤の心を知ってか知らずか、時折男は変なことを言う。
「俺も愛というのを知れたら往生できるかも知れねえなあ。お前に祟ることなく、百夜を待つことなく、あの世に帰れるかもしれねえなあ」
「な、な」
「よし、手前さんが教えてくれねえか」
「なっ何を仰います!」
お藤は思わず咳き込んだ。この幽霊、侮れぬ。
「……正気ですか?」
「俺は愛に裏切られてンだからなあ、そんで化けて出てきた。それが真の愛を知り、浄化される──良い話だろうよ」
「……ふふ、おかしなことを仰る」
お藤は笑顔で誤魔化した。袖口で顔を覆い、肩を震わせる。
「なに。笑うことはないだろう」
意地が悪いぞと男はむっとする。
「おかしくはあるまい」
「若林様のせいです、こんな小娘相手に愛などと仰るからです」
「おや、愛は手前さんには早かったか?」
「早くはございませんけれど」
「遅かったか?」
「それは……」
「遅かったか?」
「いえ、遅くも早くもありませんけれど」
「じゃあ少しくらいは良いだろうに」
「いけません」
「けちだ」
ぷい、と影がそっぽを向いた。それがまるで童のようで、さらに笑い声を重ねてしまった。
愛の言葉を囁くなり、歌に乗せればそれで済む。それで済んでしまえば、若林琥太郎は早々に消えてしまう。済まなくても、百日経てば消えてしまう。
──ええ、私はけちで意地悪な娘ですもの。
──貴方だけ先に成仏なんてさせてあげない。
どうせ結末が同じなら、長くは続かぬこの恋に最後まで付き合っていただきましょう。お藤は悪戯心に微笑んで、本心を隠す。百日目になったら、教えてあげてもいいわと、心の内でそっと囁くのだ。
語らう内に空が明らむ。
また朝が来る。
天で橙と紫紺が混ざり合えば、朝日が出てくる合図だ。ふうっと朝の冷たい風が吹き込んで、しゅるりと蝋燭の焔が攫われた。その煙に乗って、男は帰っていく。
「では、また来るぞ」
「では、またお待ちしております」
百日目まで、あと─────。
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竜造寺ネイン
歴史・時代
平治の乱。それは朝廷で台頭していた平氏と源氏が武力衝突した戦いだった。朝廷に謀反を起こした源氏側には、あわよくば立身出世を狙った農民『十郎』が与していた。
なお、散々に打ち破られてしまい行く当てがない模様。
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