習作 恨み屋蒔田雨露亮

井田いづ

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 夜九ツ。
 ふらふらと男は酔った足で道を歩く。天には星が散り、月が輝き、提灯も必要がないほどであった。それでも時折、黒い雲がかかる時がある。
 男はすうっと、その雲に紛れて厭な気配を背に感じた。はたと立ち止まる。酔いは覚め、手は既に腰から下げた得物の、その柄に掛かっている。
 男は一端の剣客だった。殺気の類には聡い。むしろこの殺気、気づかれる為にわざと発したのではないか──そう冷静に判ずる。
「姿を見せよ、このおれに闇討ちとは──」
声をかける。月かかった雲が晴れる。
「卑怯者、姿を見せよ!」
もう一度声高に問えば、返事もなく、ぬうっと人影が現れた。
 老いた男だった。立姿はしゃんとしているものの、髭も、眉も、髪も白髪混じり。やや薄い髪を小さく結い上げて、腰には大小二本、袴も小袖も多少は古いがそれなりに上等なものではある。さてはどこぞの武家の隠居だろうか──。
 しかし、見覚えのない顔だった。なおも警戒を緩めずに男は問うた。
「それがしに何か御用か」
老人は答えない。答えないが、その鋭い視線が男を睨め付ける。じっと観察されるのは気分が良くないものであった。苛立ちがふつと湧きあがった。
「答えよ。如何によっては、斬るぞ」
「……」
「それがしになんぞ恨みでもあるのか」
「──ある」
「戯けたことを! 誰じゃ、見も知らぬ翁に斬られる覚えなどないわッ!」
男は怒号と共に刀を抜いた。
「名を名乗れ!」
「──秋田主馬かずま
「た、戯けるな、おぬしが彼奴きゃつではないことなどわかっておるぞ! 彼奴は確かにこの手で──ええいッ」
男は既に、地を蹴っている。この老人を斬って黙らせる、そのつもりだった。月明かりが刃に跳ね、夜闇を裂くように老人に降りかかる。
 老人ははやかった。
 動く音もなく、無駄な打ち合いもない。身を翻し、膝を折って低い姿勢をとる。
──はッ!
鋭い息を発して、老人が鯉口を切った。既に老人の間合いに立ち入っていた男は咄嗟に飛び退くが、遅い。唸りを上げた刀が男の腕を刎ねる。
「くぉ……ッ」
姿勢が崩れる。刹那、慌てて正したそこに、再び老人が斬りかかっていた。
 袈裟斬りに月光が疾る。
 ぶしゅりと赤い線が肩口から腹に浮かび、骨まで達したその軌跡から、血が噴き出すように溢れていた。男は喘ぐように口を開閉しながら、どさりと地面に倒れ伏した。
 老人は血払いに刀を振った。倒れる男の背に己の血が降りかかる。痙攣けいれんする男に一瞥をくれると、老人は低く呟いた。
「名か。名は、恨み屋の蒔田まきた雨露亮うろすけだ──」
聞こえているかは、老人にも分からない。
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