1 / 5
序
しおりを挟む
夜九ツ。
ふらふらと男は酔った足で道を歩く。天には星が散り、月が輝き、提灯も必要がないほどであった。それでも時折、黒い雲がかかる時がある。
男はすうっと、その雲に紛れて厭な気配を背に感じた。はたと立ち止まる。酔いは覚め、手は既に腰から下げた得物の、その柄に掛かっている。
男は一端の剣客だった。殺気の類には聡い。むしろこの殺気、気づかれる為にわざと発したのではないか──そう冷静に判ずる。
「姿を見せよ、このおれに闇討ちとは──」
声をかける。月かかった雲が晴れる。
「卑怯者、姿を見せよ!」
もう一度声高に問えば、返事もなく、ぬうっと人影が現れた。
老いた男だった。立姿はしゃんとしているものの、髭も、眉も、髪も白髪混じり。やや薄い髪を小さく結い上げて、腰には大小二本、袴も小袖も多少は古いがそれなりに上等なものではある。さてはどこぞの武家の隠居だろうか──。
しかし、見覚えのない顔だった。なおも警戒を緩めずに男は問うた。
「それがしに何か御用か」
老人は答えない。答えないが、その鋭い視線が男を睨め付ける。じっと観察されるのは気分が良くないものであった。苛立ちがふつと湧きあがった。
「答えよ。如何によっては、斬るぞ」
「……」
「それがしになんぞ恨みでもあるのか」
「──ある」
「戯けたことを! 誰じゃ、見も知らぬ翁に斬られる覚えなどないわッ!」
男は怒号と共に刀を抜いた。
「名を名乗れ!」
「──秋田主馬」
「た、戯けるな、おぬしが彼奴ではないことなどわかっておるぞ! 彼奴は確かにこの手で──ええいッ」
男は既に、地を蹴っている。この老人を斬って黙らせる、そのつもりだった。月明かりが刃に跳ね、夜闇を裂くように老人に降りかかる。
老人は捷かった。
動く音もなく、無駄な打ち合いもない。身を翻し、膝を折って低い姿勢をとる。
──はッ!
鋭い息を発して、老人が鯉口を切った。既に老人の間合いに立ち入っていた男は咄嗟に飛び退くが、遅い。唸りを上げた刀が男の腕を刎ねる。
「くぉ……ッ」
姿勢が崩れる。刹那、慌てて正したそこに、再び老人が斬りかかっていた。
袈裟斬りに月光が疾る。
ぶしゅりと赤い線が肩口から腹に浮かび、骨まで達したその軌跡から、血が噴き出すように溢れていた。男は喘ぐように口を開閉しながら、どさりと地面に倒れ伏した。
老人は血払いに刀を振った。倒れる男の背に己の血が降りかかる。痙攣する男に一瞥をくれると、老人は低く呟いた。
「名か。名は、恨み屋の蒔田雨露亮だ──」
聞こえているかは、老人にも分からない。
ふらふらと男は酔った足で道を歩く。天には星が散り、月が輝き、提灯も必要がないほどであった。それでも時折、黒い雲がかかる時がある。
男はすうっと、その雲に紛れて厭な気配を背に感じた。はたと立ち止まる。酔いは覚め、手は既に腰から下げた得物の、その柄に掛かっている。
男は一端の剣客だった。殺気の類には聡い。むしろこの殺気、気づかれる為にわざと発したのではないか──そう冷静に判ずる。
「姿を見せよ、このおれに闇討ちとは──」
声をかける。月かかった雲が晴れる。
「卑怯者、姿を見せよ!」
もう一度声高に問えば、返事もなく、ぬうっと人影が現れた。
老いた男だった。立姿はしゃんとしているものの、髭も、眉も、髪も白髪混じり。やや薄い髪を小さく結い上げて、腰には大小二本、袴も小袖も多少は古いがそれなりに上等なものではある。さてはどこぞの武家の隠居だろうか──。
しかし、見覚えのない顔だった。なおも警戒を緩めずに男は問うた。
「それがしに何か御用か」
老人は答えない。答えないが、その鋭い視線が男を睨め付ける。じっと観察されるのは気分が良くないものであった。苛立ちがふつと湧きあがった。
「答えよ。如何によっては、斬るぞ」
「……」
「それがしになんぞ恨みでもあるのか」
「──ある」
「戯けたことを! 誰じゃ、見も知らぬ翁に斬られる覚えなどないわッ!」
男は怒号と共に刀を抜いた。
「名を名乗れ!」
「──秋田主馬」
「た、戯けるな、おぬしが彼奴ではないことなどわかっておるぞ! 彼奴は確かにこの手で──ええいッ」
男は既に、地を蹴っている。この老人を斬って黙らせる、そのつもりだった。月明かりが刃に跳ね、夜闇を裂くように老人に降りかかる。
老人は捷かった。
動く音もなく、無駄な打ち合いもない。身を翻し、膝を折って低い姿勢をとる。
──はッ!
鋭い息を発して、老人が鯉口を切った。既に老人の間合いに立ち入っていた男は咄嗟に飛び退くが、遅い。唸りを上げた刀が男の腕を刎ねる。
「くぉ……ッ」
姿勢が崩れる。刹那、慌てて正したそこに、再び老人が斬りかかっていた。
袈裟斬りに月光が疾る。
ぶしゅりと赤い線が肩口から腹に浮かび、骨まで達したその軌跡から、血が噴き出すように溢れていた。男は喘ぐように口を開閉しながら、どさりと地面に倒れ伏した。
老人は血払いに刀を振った。倒れる男の背に己の血が降りかかる。痙攣する男に一瞥をくれると、老人は低く呟いた。
「名か。名は、恨み屋の蒔田雨露亮だ──」
聞こえているかは、老人にも分からない。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる