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おわり
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破れ寺の境内で、妖鴉が呑気に地面を突いている。昼の遅くにたまがやってきた時、夜四郎は一人濡縁に胡座をかいて手紙を読んでいた。その表情は穏やかなものである。
「夜四郎さま」
たまが声をかけると、
「おっと、来たか」
夜四郎はゆっくりと顔を上げた。たまは隣に上がると、そっと近いところに座った。
「お手紙です?」
「そう。……美成殿からさ」
夜四郎は丁寧にそれを畳むと、懐にしまった。
「文をやりとりしようということになってね」
今朝、佐伯美成は一人でこの寺にやってきたのだと言う。夜四郎としても想定外だったその客は、彼にいくつかの贈り物をした。そのうちの一つが、、これである。
「一度依頼した以上、礼は払うけどさ、この騒ぎについて夜四郎さんに感謝はできないよ」
とその絵師は最初に断っていた。許す許さないの話も考えられないと。それでも、
「……私はあんたと話をしてみたくなったんだ。あんた結構おっかないけど、勝手な人だけどね。会わなきゃよかったとまでは、思わないからさ」
そうやって、彼の方から申し出があった。
夜四郎はふうわりと微笑んだ。
「正直さ、意外だったよ。当然、俺はあの人にとっていい存在なんかじゃなかったからなァ。……だから
話すことにしたんだよ。無貌のこと、妖のこと、……気が向けば、俺のこともちゃんと話すって話になったのさ」
「羨ましいです」
「はは、次の手紙からはちゃんとたまにも届くってよ。俺が生憎の破れ寺暮らしだからさ──次はたま宛に出すらしいぜ。返事の時にゃ俺の手紙も一緒に包んでくれるかい」
「あい!」
たまは元気よく頷いた。
たまが来た、ということで夜四郎は文箱と紙を何処からか持ってくる。たまは待ってましたとばかりに紙に向き合った。
「それでは、のっぺらぼうを描きますね」
「おう。頼むよ」
夜四郎とたまの出会った妖たちを纏めた手帖──題して、夜珠あやかし手帖。これを作っているのである。
特段決めたわけではないが、なんとなく絵を描くのがたま、字を添えるのが夜四郎の役目となっている。
たまは広げた紙に、ぬろんとしたのっぺらぼうや美成らしき絵を描く。夜四郎はゆったりと墨を擦りながら添える言葉を考える。考えながら、
「そういや、お前さんは絵を手習ったと言っていたな。その先生が太兵衛さんかい」
ゆったりと尋ねた。たまもまたゆったりと頷く。
「太兵衛さんにも小さい頃、少しだけ習ったことがあります。おとっつぁんと一緒に少し教えてもらったんです。……流行り物の絵草紙の真似っこをしたい時期でして」
太兵衛は売れない絵師だが、教えるのはとんと下手ではなかった。だからこそ、たまもそれなりに特徴を捉えた絵を描けるようになってはいた。
なお、夜四郎の方は何を描いても同じような絵になるという残念な腕前なので、
「そンなら、俺も教えて貰えばよかったなァ」
などとぼやいていた。
たまが一度筆を置いたところで、
「そう言えば、美成殿だが」
そう夜四郎は優しい声をかける。たまは顔を上げた。
「美成さまがどうかされたのです?」
「うん、美成殿は江戸の外に行かれるそうだ。箱根か、はたまた上方までいくか──ここから出て、そこで居を構えるんだと。なに、あの人はこれからも絵師は続けられるそうだよ。新作の錦絵もじきに出るって話さ」
「……そうでしたか」
たまはほっとしたような、それでもやはり寂しいような心地がした。
あの事件の顛末も世間の反応も、結局、美成の望む形にはならなかった。それでも、美成は無駄じゃなかったと笑ったのだという。無駄になんか、するもんかと。たまにはそうやって不器用に笑う絵師の顔がありありと思い描ける。
あの日以来、瓦版にもめっきりのっぺらぼうの話も出なくなっていた。
「……美成さまは、遠くへ行かれるのですね。それで、お手紙なんですね」
「そう暗い顔するな、たま。あの御仁が自らこんな破れ寺まで別れを言いにおいでなすったんだぜ。異国へ行かれるでもなし、それにまだ少しはこの町にいるそうだからさ、その間にお前さんから会いに行っておやりよ」
「あい!」
それもそうだと、たまは元気よく応えた。
さて、太兵衛の掛け軸もあれから、やはり真っ白のまま戻らなかった。バラバラになったそれはなんとか別の紙や糊を少々使って繋ぎ合わせたものの、ついぞ、消えたのっぺらぼうがそこに戻ることもない。太兵衛は其処に改めて絵を描いた。
凛々しく、何処か美成にも似た二本差し──とまあ、ここまでは良かったのだが、結局美成が正式に買い取ったという。化け物騒動の種で気味も縁起も良くないと言うのを一瞥して、
「あんた、そういうところだよ」
美成はそう溜息をついていた。美成の意向で、本来のっぺらぼうがいたところより、少しだけずれた位置に描かれているので、やはり少し物寂しさを誘う感じにはなっていた。
ちなみに、美成はその絵自体はとても褒めてくれたのだと、それなりの値段で買い取ってくれたのだと太兵衛は笑顔で話していた。今回の件を機に、兄弟子と話す機会が増えて少しずつ、その為人を知っているのだと。
「おいらさ、兄さんのことをずっとさ、神様だと思ってたんだ。だからおいらたち人間の言葉なんて響かないような、届かない偉い人だって──」
申し訳なかったな、と。
太兵衛はことの些細は知らない。
あれからのっぺらぼうがどうなったか、どうしてのっぺらぼうの騒動が治ったかもしらないままだ。
「あいつが知ったところでさ、何が変わるわけでもないだろ。あいつもさ、騒動の渦中で色々感じるものはあったはずだからさ──」
あいつが知りたがるんだったら別だけど、とは言いながらも、太兵衛がそう言い出すことはないと確信している口振りだった。
太兵衛に伝えられたのは、騒動が一件落着し、もうのっぺらぼうは出てこないであろう──そう言う話のみである。
たまは夜四郎を見上げた。
「やっぱり無貌さんは、もう何処にも居ないのでしょうか」
「……まァ、斬ったからな」
「彼方にはいるのでしょうか」
「そう言った方が良いかもしれん。斬ったが、もしかすると彼方の何処かには、いるのかもしれない。妖がどう生きているか、どう在るものなのか、俺は実際何にも知らんからよ。或いは何処にもいないかも知れん」
言いながら、夜四郎は遠くを見つめた。
「……あの二人は、なんだったんだろうな。無貌だって、もっと戦えたはずなんだよ────」
たまは瞬きをひとつ。それからあの日の光景を瞼の裏に描いて、柔らかく呟いた。
「きっと、無貌さんは美成さまを守ろうとしたんです」
「守るために? どちらかと言えば、大暴れする奴を庇っていたのは美成殿だろうに」
「無貌さんとはお話ししてないから、詳しいところは分かりませんけど。……それでも、知ってる範囲の世界の中で、無貌さんは守るために、夜四郎さまと斬り合うことになったんです」
きっと、とたまは続ける。聞いたわけでもないし、結局無貌とは言葉を交わせなかった。だからこれは、確信のない勝手な想像だ。
「あの二人は……無貌さんと美成さまは、たとえ短い間でも、確かにご友人だったんです」
美成がのっぺらぼうを庇ったのも。
のっぺらぼうが美成を庇ったのも。
二人が互いの為に動いたのは、全て。
人と妖が友になれるかはたまにはまだ分からないが、たまがカラ太に言うようなそれとまた違う絆がそこにはあった。
「お互いを守ろうとしたんです、きっと」
「──おたまは、妖にも人を慈しむような心があると思うかい」
問いかけは優しい声だった。夜四郎を見上げて、たまはコクリと頷いた。
「あい」
「ふむ」
「きっと、人や妖だけではないのです」
「……他にもあるのかい」
「あい。草花にも、虫や動物にも心はありましょう。揺れ動くものやうつろいゆくもの──」
「それが全部心、てか。……そうだといい。だが、そうじゃなきゃいいとも思っちまうけどな」
夜四郎は何処か寂しそうに呟いた。
「俺はそういった心ごと、ものを斬るんだから」
たまは黙って見上げたまま。
「まあ、それは当たり前のことか。妖とて、生きているんだものな。心はあっても不思議ではないなァ」
そも、心とは何を指しているかというのもある。
夜四郎はふっと小さく息を吐いて、どこか感心したようにたまを見た。
「しかしお前さんも案外色々と考えているんだな」
「……全部おとっつぁんの受け売りなのです」
「へえ? お父上はなんと?」
「人にも妖にも怖いのはいる、優しいものもいる、見目は当てにならない、だから形ではなく、ちゃんとその内をよく見なさい──って」
たまは妖が怖い。
良いものか悪いものかよくわからないから怖い。見た目が怖くて、偶に言葉も交わせず、見える人が他に少ないから相談できないのも怖い。
けれど、全部が全部人に仇為すモノでもないというのも理解してはいる。
対して、たまは人はあまり怖くない。
目に見えるから、形が自分と同じだから怖くない。愛情いっぱいに育ったたまは、これまで出会った人の中に悪人なんていなかったから、なんだかんだで怖くないのだ。
けれど、これもよくよく考えれば怖いはずなのだ。いいものか悪いものか、一瞥しただけでは妖同様、よくわからないのだから。笑顔で近づく悪人だって、居ないわけがないのだ。
「……難しいです」
ふるふると頭を振れば、確かになと夜四郎も呟いた。それは俺にも難しいよ、と。
「夜四郎さまにも?」
「俺にもだ。見えないものを見ようとするのはさ」
「むう。夜四郎さまは、なんでも知ってて、なんにも怖くないかと思ってました」
「……俺にも怖いものはあるよ、おたま」
「なんですか?」
「そりゃあ教えるわけがないけどな」
「なんと!」
たまは丸く膨れた。それを見て苦笑する。
そこでふと、夜四郎が真面目な顔になった。たまに向き直る。
「それにしても、おたま。今回は少し危なかったな。俺がお前さんの力を借りてる側だとしても、これだけは言わにゃならんと思ってたんだよ」
「あ、あい……」
たまは当然、自覚がある。怒られるのが遅いとすら思っていたのだ。
「す、すみませぬ」
もっと上手く隠れていれば。或いは美成を取り戻しに行くときだけは任せて、何処かで大人しく待っていれば。そも、割り込まねばよかったのだろうか──それでもきっと、夜四郎は飲み込まれた美成に気がついてくれたのかも、と思わなくもない。それ以前にもやりようはあったかも知れないと、たま自身感じていた。
「おまえさんが優しいのは構わんが、一人であまり怪しい場所に突っ込むのも感心できんよ。自分の戦える道具とその場所と、そうじゃない場所は知っておいて欲しい」
「あい」
たまが眉尻を下げたのを見て、夜四郎は小さく肩をすくめた。
「……今回は特に止めなかった俺にも非があるさ。ただ、俺はおまえさんに怪我をさせるわけにはいかんのだが……こうなったらいざという時に身を守る術くらいは教えておくべきかな」
ため息混じりのそれに、たまは顔を跳ね上げた。
「そ、それは、た、たまも夜四郎さまのように戦えるように?」
「さっきも言ったろう、俺とおまえさんの戦い方は違うんだ。戦うって言っても対峙する為じゃない、逃げる為の戦う術だ」
夜四郎は強調した。
「上手く逃げる術を知れば、妖相手じゃなくても、今後に役には立つだろうしさ」
冗談なのか本気なのかわからない声で、
「そうだなァ、もしもさ、おまえさんと俺の立ち回りがもうちょい良くなりゃさ────色々世話になってる礼だ。何処でもお前さんの行きたい場所に連れてってやろう」
俺は結構なんでも叶えられるぜとしたり顔で笑う夜四郎を、たまは思わず見上げた。
「よもや、旅ですか……!」
「はは、旅でも良いかもなあ。そこはおまえさんの家が許せば、だけどよ」
「はい! そこは張り切って説得しましょう!」
「そこは任せるが──旅でもしたら、そうしたら美成殿にも会いに行けるだろう」
「あい。たま、頑張ります」
「俺も頑張らねェとな」
「共に頑張りましょう!」
「そうだな」
「目指せ、諸国行脚です!」
「そら、いきなり目標がでっけぇなあ」
それまでには身体を取り戻さないといかんなあ──呟いて、夜四郎は空を仰いだ。
(了)
「夜四郎さま」
たまが声をかけると、
「おっと、来たか」
夜四郎はゆっくりと顔を上げた。たまは隣に上がると、そっと近いところに座った。
「お手紙です?」
「そう。……美成殿からさ」
夜四郎は丁寧にそれを畳むと、懐にしまった。
「文をやりとりしようということになってね」
今朝、佐伯美成は一人でこの寺にやってきたのだと言う。夜四郎としても想定外だったその客は、彼にいくつかの贈り物をした。そのうちの一つが、、これである。
「一度依頼した以上、礼は払うけどさ、この騒ぎについて夜四郎さんに感謝はできないよ」
とその絵師は最初に断っていた。許す許さないの話も考えられないと。それでも、
「……私はあんたと話をしてみたくなったんだ。あんた結構おっかないけど、勝手な人だけどね。会わなきゃよかったとまでは、思わないからさ」
そうやって、彼の方から申し出があった。
夜四郎はふうわりと微笑んだ。
「正直さ、意外だったよ。当然、俺はあの人にとっていい存在なんかじゃなかったからなァ。……だから
話すことにしたんだよ。無貌のこと、妖のこと、……気が向けば、俺のこともちゃんと話すって話になったのさ」
「羨ましいです」
「はは、次の手紙からはちゃんとたまにも届くってよ。俺が生憎の破れ寺暮らしだからさ──次はたま宛に出すらしいぜ。返事の時にゃ俺の手紙も一緒に包んでくれるかい」
「あい!」
たまは元気よく頷いた。
たまが来た、ということで夜四郎は文箱と紙を何処からか持ってくる。たまは待ってましたとばかりに紙に向き合った。
「それでは、のっぺらぼうを描きますね」
「おう。頼むよ」
夜四郎とたまの出会った妖たちを纏めた手帖──題して、夜珠あやかし手帖。これを作っているのである。
特段決めたわけではないが、なんとなく絵を描くのがたま、字を添えるのが夜四郎の役目となっている。
たまは広げた紙に、ぬろんとしたのっぺらぼうや美成らしき絵を描く。夜四郎はゆったりと墨を擦りながら添える言葉を考える。考えながら、
「そういや、お前さんは絵を手習ったと言っていたな。その先生が太兵衛さんかい」
ゆったりと尋ねた。たまもまたゆったりと頷く。
「太兵衛さんにも小さい頃、少しだけ習ったことがあります。おとっつぁんと一緒に少し教えてもらったんです。……流行り物の絵草紙の真似っこをしたい時期でして」
太兵衛は売れない絵師だが、教えるのはとんと下手ではなかった。だからこそ、たまもそれなりに特徴を捉えた絵を描けるようになってはいた。
なお、夜四郎の方は何を描いても同じような絵になるという残念な腕前なので、
「そンなら、俺も教えて貰えばよかったなァ」
などとぼやいていた。
たまが一度筆を置いたところで、
「そう言えば、美成殿だが」
そう夜四郎は優しい声をかける。たまは顔を上げた。
「美成さまがどうかされたのです?」
「うん、美成殿は江戸の外に行かれるそうだ。箱根か、はたまた上方までいくか──ここから出て、そこで居を構えるんだと。なに、あの人はこれからも絵師は続けられるそうだよ。新作の錦絵もじきに出るって話さ」
「……そうでしたか」
たまはほっとしたような、それでもやはり寂しいような心地がした。
あの事件の顛末も世間の反応も、結局、美成の望む形にはならなかった。それでも、美成は無駄じゃなかったと笑ったのだという。無駄になんか、するもんかと。たまにはそうやって不器用に笑う絵師の顔がありありと思い描ける。
あの日以来、瓦版にもめっきりのっぺらぼうの話も出なくなっていた。
「……美成さまは、遠くへ行かれるのですね。それで、お手紙なんですね」
「そう暗い顔するな、たま。あの御仁が自らこんな破れ寺まで別れを言いにおいでなすったんだぜ。異国へ行かれるでもなし、それにまだ少しはこの町にいるそうだからさ、その間にお前さんから会いに行っておやりよ」
「あい!」
それもそうだと、たまは元気よく応えた。
さて、太兵衛の掛け軸もあれから、やはり真っ白のまま戻らなかった。バラバラになったそれはなんとか別の紙や糊を少々使って繋ぎ合わせたものの、ついぞ、消えたのっぺらぼうがそこに戻ることもない。太兵衛は其処に改めて絵を描いた。
凛々しく、何処か美成にも似た二本差し──とまあ、ここまでは良かったのだが、結局美成が正式に買い取ったという。化け物騒動の種で気味も縁起も良くないと言うのを一瞥して、
「あんた、そういうところだよ」
美成はそう溜息をついていた。美成の意向で、本来のっぺらぼうがいたところより、少しだけずれた位置に描かれているので、やはり少し物寂しさを誘う感じにはなっていた。
ちなみに、美成はその絵自体はとても褒めてくれたのだと、それなりの値段で買い取ってくれたのだと太兵衛は笑顔で話していた。今回の件を機に、兄弟子と話す機会が増えて少しずつ、その為人を知っているのだと。
「おいらさ、兄さんのことをずっとさ、神様だと思ってたんだ。だからおいらたち人間の言葉なんて響かないような、届かない偉い人だって──」
申し訳なかったな、と。
太兵衛はことの些細は知らない。
あれからのっぺらぼうがどうなったか、どうしてのっぺらぼうの騒動が治ったかもしらないままだ。
「あいつが知ったところでさ、何が変わるわけでもないだろ。あいつもさ、騒動の渦中で色々感じるものはあったはずだからさ──」
あいつが知りたがるんだったら別だけど、とは言いながらも、太兵衛がそう言い出すことはないと確信している口振りだった。
太兵衛に伝えられたのは、騒動が一件落着し、もうのっぺらぼうは出てこないであろう──そう言う話のみである。
たまは夜四郎を見上げた。
「やっぱり無貌さんは、もう何処にも居ないのでしょうか」
「……まァ、斬ったからな」
「彼方にはいるのでしょうか」
「そう言った方が良いかもしれん。斬ったが、もしかすると彼方の何処かには、いるのかもしれない。妖がどう生きているか、どう在るものなのか、俺は実際何にも知らんからよ。或いは何処にもいないかも知れん」
言いながら、夜四郎は遠くを見つめた。
「……あの二人は、なんだったんだろうな。無貌だって、もっと戦えたはずなんだよ────」
たまは瞬きをひとつ。それからあの日の光景を瞼の裏に描いて、柔らかく呟いた。
「きっと、無貌さんは美成さまを守ろうとしたんです」
「守るために? どちらかと言えば、大暴れする奴を庇っていたのは美成殿だろうに」
「無貌さんとはお話ししてないから、詳しいところは分かりませんけど。……それでも、知ってる範囲の世界の中で、無貌さんは守るために、夜四郎さまと斬り合うことになったんです」
きっと、とたまは続ける。聞いたわけでもないし、結局無貌とは言葉を交わせなかった。だからこれは、確信のない勝手な想像だ。
「あの二人は……無貌さんと美成さまは、たとえ短い間でも、確かにご友人だったんです」
美成がのっぺらぼうを庇ったのも。
のっぺらぼうが美成を庇ったのも。
二人が互いの為に動いたのは、全て。
人と妖が友になれるかはたまにはまだ分からないが、たまがカラ太に言うようなそれとまた違う絆がそこにはあった。
「お互いを守ろうとしたんです、きっと」
「──おたまは、妖にも人を慈しむような心があると思うかい」
問いかけは優しい声だった。夜四郎を見上げて、たまはコクリと頷いた。
「あい」
「ふむ」
「きっと、人や妖だけではないのです」
「……他にもあるのかい」
「あい。草花にも、虫や動物にも心はありましょう。揺れ動くものやうつろいゆくもの──」
「それが全部心、てか。……そうだといい。だが、そうじゃなきゃいいとも思っちまうけどな」
夜四郎は何処か寂しそうに呟いた。
「俺はそういった心ごと、ものを斬るんだから」
たまは黙って見上げたまま。
「まあ、それは当たり前のことか。妖とて、生きているんだものな。心はあっても不思議ではないなァ」
そも、心とは何を指しているかというのもある。
夜四郎はふっと小さく息を吐いて、どこか感心したようにたまを見た。
「しかしお前さんも案外色々と考えているんだな」
「……全部おとっつぁんの受け売りなのです」
「へえ? お父上はなんと?」
「人にも妖にも怖いのはいる、優しいものもいる、見目は当てにならない、だから形ではなく、ちゃんとその内をよく見なさい──って」
たまは妖が怖い。
良いものか悪いものかよくわからないから怖い。見た目が怖くて、偶に言葉も交わせず、見える人が他に少ないから相談できないのも怖い。
けれど、全部が全部人に仇為すモノでもないというのも理解してはいる。
対して、たまは人はあまり怖くない。
目に見えるから、形が自分と同じだから怖くない。愛情いっぱいに育ったたまは、これまで出会った人の中に悪人なんていなかったから、なんだかんだで怖くないのだ。
けれど、これもよくよく考えれば怖いはずなのだ。いいものか悪いものか、一瞥しただけでは妖同様、よくわからないのだから。笑顔で近づく悪人だって、居ないわけがないのだ。
「……難しいです」
ふるふると頭を振れば、確かになと夜四郎も呟いた。それは俺にも難しいよ、と。
「夜四郎さまにも?」
「俺にもだ。見えないものを見ようとするのはさ」
「むう。夜四郎さまは、なんでも知ってて、なんにも怖くないかと思ってました」
「……俺にも怖いものはあるよ、おたま」
「なんですか?」
「そりゃあ教えるわけがないけどな」
「なんと!」
たまは丸く膨れた。それを見て苦笑する。
そこでふと、夜四郎が真面目な顔になった。たまに向き直る。
「それにしても、おたま。今回は少し危なかったな。俺がお前さんの力を借りてる側だとしても、これだけは言わにゃならんと思ってたんだよ」
「あ、あい……」
たまは当然、自覚がある。怒られるのが遅いとすら思っていたのだ。
「す、すみませぬ」
もっと上手く隠れていれば。或いは美成を取り戻しに行くときだけは任せて、何処かで大人しく待っていれば。そも、割り込まねばよかったのだろうか──それでもきっと、夜四郎は飲み込まれた美成に気がついてくれたのかも、と思わなくもない。それ以前にもやりようはあったかも知れないと、たま自身感じていた。
「おまえさんが優しいのは構わんが、一人であまり怪しい場所に突っ込むのも感心できんよ。自分の戦える道具とその場所と、そうじゃない場所は知っておいて欲しい」
「あい」
たまが眉尻を下げたのを見て、夜四郎は小さく肩をすくめた。
「……今回は特に止めなかった俺にも非があるさ。ただ、俺はおまえさんに怪我をさせるわけにはいかんのだが……こうなったらいざという時に身を守る術くらいは教えておくべきかな」
ため息混じりのそれに、たまは顔を跳ね上げた。
「そ、それは、た、たまも夜四郎さまのように戦えるように?」
「さっきも言ったろう、俺とおまえさんの戦い方は違うんだ。戦うって言っても対峙する為じゃない、逃げる為の戦う術だ」
夜四郎は強調した。
「上手く逃げる術を知れば、妖相手じゃなくても、今後に役には立つだろうしさ」
冗談なのか本気なのかわからない声で、
「そうだなァ、もしもさ、おまえさんと俺の立ち回りがもうちょい良くなりゃさ────色々世話になってる礼だ。何処でもお前さんの行きたい場所に連れてってやろう」
俺は結構なんでも叶えられるぜとしたり顔で笑う夜四郎を、たまは思わず見上げた。
「よもや、旅ですか……!」
「はは、旅でも良いかもなあ。そこはおまえさんの家が許せば、だけどよ」
「はい! そこは張り切って説得しましょう!」
「そこは任せるが──旅でもしたら、そうしたら美成殿にも会いに行けるだろう」
「あい。たま、頑張ります」
「俺も頑張らねェとな」
「共に頑張りましょう!」
「そうだな」
「目指せ、諸国行脚です!」
「そら、いきなり目標がでっけぇなあ」
それまでには身体を取り戻さないといかんなあ──呟いて、夜四郎は空を仰いだ。
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