婚約破棄を望みます

みけねこ

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3.やりました

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 それからというものの、私としてもかなり心苦しい日々が続いた。
「女性が大股で走ってはいけません」
「は、はい、申し訳ございません……」
「大声で人の名を呼ぶのも以ての外です」
「はい……」
 とりあえず彼女の姿が見えた瞬間、そうやってグチグチ、グチグチグチグチと口を挟んできた。正直こちらとしてもかなりつらい。私が幼い頃散々言われ続けてきたことを他の女性に言う、それがこんなにもメンタルをズタズタにするものになるとは。
 わかる、とてもつらいのがわかる。そこまで言わなくてもいいじゃないってそう思うよね。私もそう思ってた。口が悪くなってしまうけれど正直「なんだこのババァ」と思ったことも一瞬あったもの。貴女がつらいのがとてもわかる。
 でも私のために堪えてくれ、すまない……! とひたすら心の中で叫んでいた。

 そうして私も、そして彼女にもつらい思いをさせてきたそんなある日のこと。また別のパーティーへ足を運んでいた。貴族としてはこういう社交界には顔を出さなければならないということはわかっているけれど、互いの利益、または情報交換のためにこんなにもパーティーを開く必要があるのかどうかと疑問に思う。
 倹約家の我が家はまずこういった大規模なパーティーは催さない。やるとしてお茶会程度だ。そこで限られた時間の中で濃いやり取りを行う。なので正直、これだけの予算があれば別のことに回せるだろうにと思わないこともない。
 しかしだ。こうしてドレスを着てパーティーに参加することにうんざりしていた私だけれど、今回ばかりは状況が違っていた。
 まず、馬車を降りてすぐ必ずエスコートしていた『婚約者』の姿がなかった。ここで「おや?」とまず首を傾げる。エスコートなしの入場は女性側が恥をかいてしまうためエスコートがないというのはとても稀な話だ。
 まぁ、私は別に恥ずかしくともなんともないため、一人でも堂々と入場しますけれど。周りの視線が一斉に向かうけれど、奇妙なものを見るような目は慣れているためこちらも気にならない。
 一人の私がめずらしくて声をかけてくる男性もいたけれど、一応『婚約者』がいる身のためやんわりと断る。というかエスコートなしということだけでこんなにも声をかけてくる人が増えるのかと少し意外にも思った。
 そして大本番は、ダンスの曲が流れた時だった。最初は必ず『婚約者』と踊ることになっていたのに。そもそもその『婚約者』は私の傍に現れなかったため、それは叶わなかった。
 会場内ではざわめきで埋め尽くされる。ホールの中心で堂々と、『婚約者』と例の令嬢が踊っていた。まるで今回の主役のように。私は心の中でスタンディングオベーション。素晴らしい。まるで絵本に出てくる物語のようだ。
 待ちに待った瞬間がようやく訪れたのだと、私の心は喜びで震えていた。
 ダンスが終え、それぞれ雑談する人もいれば周囲が気になって様子を伺っている人もいる。そんな中、二人の男女が迷わずこちらに歩み寄ってきた。
「……少しいいか」
「もちろんです」
 会話をしたのが久しぶりだと内心苦笑を漏らす。喜びのあまりに声が裏返ってしまったけれどいい感じで女性の声が出せたからよしとしよう。場所を変えようと歩き出す『婚約者』の後ろに続き、その後ろから例の彼女もついてくる。相変わらずビクビクと怯えた様子でとても申し訳なく思ってしまった。
 向かった場所は休憩室だ。まぁ、使い方は諸々、中で何が起こっているのか知っているのは当人たちだけ。そんな場所で『婚約者』はソファに腰を下ろし、向かい合う形で私も腰を下ろす。例の彼女は控えるように『婚約者』の背後に立った。
「……お前が彼女をいじめているという話を耳にした」
 それは容姿やドレスに嫌味を言ったり、パーティー会場で会う度に嫌がらせをしたり、暴力を振るったり。彼女を泣かせて喜んでいるという証言もあったのだと『婚約者』は口にした。
 確かに……やりました。とてもグチグチ言いました。彼女がつらそうな顔をしているのを何度も見ました。弁解の余地もございません。が。
「暴力を振るったことなど一度もございません」
「……そうか」
 女性に手を上げるなんてやるわけがないだろう、そんなことする下衆はどこの下衆だと内心憤りを覚える。けれど彼が言っていた証言のほとんどは私か彼女を妬んでいた女性たちの嘘の情報だろう。悲しいことに人を貶めることに快感を覚える人間もいるため、今回私はその人にとってのサンドバッグにでもなったのだろう。
「では、他に弁解はあるか」
「ございません」
「……わかった」
 こうやって面と向かって喋るのが、兎にも角にも久しぶりのため、彼の今の表情が通常時と違うのかどうかすらもわからない。ただ私の目からは、ただ淡々としているように見える。
 やっぱり、幼い頃に向けていた愛情などというものはとうの前に冷え切ってしまっていたんだろう。
 彼は机の上に一枚の紙を置いた。書かれている文字を目で追うにつれ口角が上がってしまいそうになるから、急いで扇で隠した。
「俺との婚約を破棄してほしい。双方の家とはすでに話がついている」
 書面の最後には彼の家であるバシレウス家とそしてクレヴァー家当主の姉上のサインが書かれていた。もう私の目からだと姉上の字が輝いて見える。
「婚約破棄をしたあとも双方の家の繋がりはなくならない」
 それはよかったとホッと息を吐く。ここで万が一のことが起きればとてつもなく恐ろしい顔をするのは姉上だ。私はそんな姉から何をされるのかわかったもんじゃない。
「謹んでお受けします」
 扇を閉じ、小さく頭を下げる。
「私が至らないばかりに貴方にはとても心労をかけさせたかと思います。ですが、これからはどうかそちらの女性と有意義な時間をお過ごしください」
 椅子から立ち上がり、姉上から「学べ」と強制的に覚えさせられたカーテシーをする。裾を軽く持ち上げる度にヒールのない靴が見えるんじゃないかと毎回ヒヤヒヤしていたけれど、それもこれで最後だろう。
 顔を上げると唖然としている顔が二つ。どうしたのだろう、と思ったけれど心が晴れやかな私はもうそんな細かいことも気にしないことにした。うんうん、お似合いですお二人共。これから仲睦まじくあたたかな家庭を築いていってください。
「役目を終えた私は立ち去ることに致しましょう」
 最後に嬉しさのあまりに爆発してしまった笑みを浮かべ、颯爽と休憩室を去る。
 ああ、なんて心が軽やかで晴れやかなのだろう。もうスキップしてしまいたい気分だ。鼻歌だって歌いたいし両腕を思いきり広げたい。けれど残念なことにここはまだパーティー会場なので、馬車に乗るまではお淑やかに歩くことにする。
 そうして会場を出た私は周りに人がいないのを確認して、馬車へ駆け込んだ。
「やった! やっと婚約破棄したぞ! これでようやく姉上に色良い報告が上げれる!」
「アリステア様、そんなに大声を出してしまいますと外に漏れますよ」
「ああごめん。つい嬉しくて。ああ、やっとこのドレスともお別れだ!」
 思いきり両腕を上に上げて背筋を伸ばす。会場内でこんなことやってしまうと下手したら肩辺りの布が破れてしまいそうで、やりたくてもできなかった。けれどもうそんなことも気にしなくていい。
「明日からどんな服を着よう。ああ、それよりも何をしようかな? もう淑女の作法を学ばなくてもいいし剣だって握っていいはず。最高だ。いい加減髪も思いきり切りたいよ」
「夢が盛りだくさんですね」
「そうだね!」
 御者とそんな会話をしながらも、こんなにも屋敷に戻る馬車の中が楽しかったことが今まであっただろうか、いやない。とか一人でテンション高く色んなことに思いを馳せていた。
 屋敷に戻ったら戻ったで今まで我慢していたスキップをしながら姉上の執務室へ向かい、ドアをノックする。
「姉上、やりましたよ! サインもしてくださってありがとうございます!」
「随分とテンションが高いな。ま、我が家も特にお咎めなしで私も気分がいい」
「それはようございましたね!」
「ただしお前はクレヴァー家の領地内にある小さな村に行ってもらうがな。婚約破棄されるほどのお前の至らなさをこちらも対処しなければならない」
「いいえいいえ、いいんです村に行くぐらい! そのほうがゆっくりできそうですし!」
「そうだな。お前はそこの管轄の管理を頼む」
「……え?」
 テンション爆上がりしていた私だったけれど、まるで現実に戻さんばかりの冷静な姉上の声に冷水をかけられたような気分になった。
 え、私はようやく女性の格好をやめることができて自由の身になるのでは? と、そうなるものとばかりに思っていたんですけれど。
「何マヌケな面をしている? お前は『アリス』から『アリステア』に戻るわけだが、クレヴァー家の一員であることには変わりないだろう? そんなお前を私が隠居させると思ったのか? 働け」
「……姉上ほどのド畜生を見たことがありません」
「褒め言葉として受け取ってやろう」
 ずっと女性の姿をさせられて『婚約者』という役目を担ってきた私に、休む暇もなく「働け」とは。血も涙もない。
「ああ、村に行く際にはちゃんとドレスを着ろよ?」
「なぜですか?!」
「なぜって、領地の隅に追いやられるのは『アリス』だぞ? このおマヌケめ」
「……」
 ごもっともです、姉上。姉上の言葉が正しいとちゃんとわかっています。でも正直言いますと、もう少しこの幸せを噛み締めたかったのとまだ終わっていなかった残念感がとてつもないです。
 姉上の元へ報告するときはあんなにも心も身体もウキウキだったというのに、部屋を出る頃には思わずしょんぼりと肩を落としてしまった。
 で、でも? 無事婚約破棄はできたことだし、領地の隅へ行けばもうドレスも着る必要はなくなる。いつバレるのかヒヤヒヤしながら過ごす日々からようやくさよならができて、やっぱり嬉しくて幸せを噛み締めた。
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