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続・閑話
婚約者の堪忍袋②
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彼女が放った扇はわたくしが鞭を振るう前にレオンハルト様が手で叩き落としたようで、床に転がっているそれは真ん中から綺麗に真っ二つに折れていた。
「やぁアイビー、何か楽しいことが起こっていたようだけれど?」
僕に言うことは? と続けられた言葉に思わず苦笑をもらす。ああこの顔は、少なくともわたくしにも怒っている。さてどのように弁明しようかしらと考えているところ、わたくしの肩を抱き寄せている人――レオンハルト様はより一層笑みを深めた。
「まぁいいか。僕の耳にはしっかりと届いているからね」
そうですわよね。わたくしのことに関してレオンハルト様が知らないことなんてありませんもの。
「久しぶりだね、ハンデル令嬢。戻ってきていたことは知っていたよ」
「っ……! お、お久しぶりでございますわ、レオンハルト様」
青かった顔がレオンハルト様の視線と声だけで一気に赤くなるのだから、人類の神秘ですわ。と思いつつレオンハルト様に身を預けつつ二人のやり取りを傍観することにした。
「わ、わたくし、アナタ様にお会いしたくて婚約話を全て蹴りましたの……こうして再び会えてとても……とても、光栄ですわ」
「うん、そうなんだね」
「っ! レ、レオンハルト様っ、わたくしっ」
笑顔のレオンハルト様にどうやら脈アリだと思ったようで、彼女の表情はパッと輝きしおらしい様子で一歩近付いてこようとしている。けれどレオンハルト様がわたくしの肩から手を離し、彼女の元へ歩み寄ろうとする素振りは一切見られなかった。
「僕の大切な婚約者であるアイビーに、随分と醜い言葉を投げかけてくれたようだね」
寧ろ抱き寄せる力は強くなって、彼の息遣いがわたくしの髪に当たる。もうそれだけで彼の心がどこにあるのかわかったようなものだった。
「お名汚し? 能無し? 僕はそんなこと一切思わないよ。彼女は素晴らしい人だよ、魔力ゼロということを糧に一体どれほどの知識や技術をその頭に身に叩き込んだのか。アイビーほど、僕に相応しい婚約者はいない」
「な、にをっ……」
「それにこの黒髪だって、艷やかで輝いて、とても美しいだろう?」
わたくしの髪を一房手に取りそこに軽く口付けを落とす。たったそれだけのことで「ほぉ……」と周りにいた生徒から感嘆の声がもれた。視線を節くれ立った指から上げるとパチッと視線が交わり、レオンハルト様はより一層笑みを深める。愛おしげに見つめてくる瞳は幼き頃から変わらない。わたくしも自然と口角が上がり同じように微笑みを返した。
「アイビー」
低く甘やかな声がわたくしの鼓膜を直接揺らす。彼のこの声色を知っているのもわたくしだけでいい。
「ハンデル令嬢」
先程の声とは違いしっかりとした声色に彼女の肩が大きく跳ねた。
「君は随分と古い情報を持っているようだね? 貿易を営んでいる名家であれば情報は何よりも宝だということを知っているはずだけど」
「ヒッ」
「この学園の情報、しっかりと一から叩き込むことをおすすめするよ。さ、アイビー。行こうか?」
にこやかな笑みを浮かべプリーラ令嬢に背を向けたわたくしたちに、周りにいた誰もが微笑ましい二人だと思ったことだろう――けれどその実、レオンハルト様の怒りが収まっているわけではない。その証拠にわたくしの腰に回された手の力は強く、決して離さないという意思表示がしっかりとされていた。
授業は普通に受けたけれど、本番はその後だった。授業に行く前ににこりと笑顔で告げられた言葉。
「僕の部屋においで?」
柔らかい物言いでありながら、こちらの拒否権はなかった。レオンハルト様から寮にある部屋へのお誘いは別に少ないわけではないけれど、こういった呼び出しは片手で数える程度。わたくしの話は聞いてくれるのだろうけれど、きっとそれ以上に彼から返ってくる言葉は多いはずと苦笑をもらす。
迎えに来てくる馬車には先に戻っているように告げ、生徒会の仕事が終わったのを見計らって寮の部屋へと向かう。扉の前に立ちノックをすればすぐに戻ってきた返事。わたくしがドアノブに手をかける前に扉は開き、「どうぞ」と笑顔で中へ促された。流石に今回は前のように書記で散らかっているテーブルではなかった。
いつもなら、マリアンヌの気配がどこかにはあるはず。けれど今はそれすらない、ということは完璧に二人きり。しっかりと人払いを済ませている様子にちらりと視線を向ければ、尚更笑みは深まった。
「こちらへどうぞ」
紳士的な振る舞いでわたくしを椅子に座るように促し、自分も対面にある椅子に腰を下ろす。にっこりと微笑む姿にわたくしは苦笑を浮かべることしかできない。
「彼女のことは覚えているよ」
そう。きっとわたくし以上にレオンハルト様は覚えている。
「幼い頃アイビーに堂々と悪意を向けて、そして君はその言葉に傷付けられた。忘れるわけがない」
「レオンハルト様」
「父と一緒に各国を巡っているようだったから姿を見ることなく清々していたのに。戻ってきていたんだね。しかも学園に編入」
学園の編入に関しては流石のレオンハルト様に口を挟む権利はない。生徒会長という立場できっと誰よりもいち早く知った彼はどんな心情だったのか。
「……わたくしがどう対処するか、待っていてくださったのでしょう?」
「アイビーの邪魔になると思って。でもねアイビー、君もわかっていると思うんだけど」
弧を描く瞳の奥は決して笑ってはいない。寧ろそれとは相反する、どろりとした重い感情。
「僕は君のことに関しては狭量だよ」
恐ろしくも美しく、背筋に悪寒すらも走るというのに……それすらも好んでいるだなんて、わたくしもわたくしですわと内心自分に呆れてしまう。きっと普通の人ならば腰を抜かしているか恐ろしくて逃げ出しているかもしれないというのに。
「魔力ゼロだからと貶めていい理由にはならないし、立場が上だという理由にもならない。どうしてくれようか? 彼女は広い世界を見て少しは賢くなったかと思ったのに中身は幼い頃のまままったく成長せずにまるで腹黒い貴族の象徴みたいだったね。息子三人の後の初めての女の子でハンデル伯爵も随分と甘やかせたようだからね。流石に、僕も口出しさせてもらおうかな? なんなら弱みを握ってやろうか」
「……ふふっ、レオンハルト様。心配なさらないで?」
確かにここ数日一方的に言われたままだけれど、わたくしも別に何も考えもなく言葉に耳を傾けていたわけではない。
どんどん、腹の黒さが滲み出てきたその笑みにわたくしも笑みを向け、たくましいその手に自分の手を重ねる。
「彼女は自分の首を自分で絞めておりますわ」
魔力ゼロに対しての偏見がかなり薄れてきた学園で、ああも大声で堂々と言っていたのだ。周りの生徒がどう思っていたかだなんて想像するに容易い。ここでわたくしが弱った姿を見せれば更に同情心を得ることはできただろうけれど、流石にそれはわたくしのプライドが許さない。
それにわたくしは彼女に感謝すらしている。だって幼い頃、彼女が面と向かってああ言ったから……わたくしは自分の立場の弱さを知った。幼い頃はルゥナー家という後ろ盾があったから、わたくし自身が弱くてもそう簡単に潰されることはなかった。けれどそれが有効なのは幼少期の時だけ。成長すればその弱さが更に露見する。
わたくしのその弱さは、レオンハルト様の弱点にもなってしまう。だからこそ更に勉学に力を入れた。知識を得て、万が一に足を引っ張らないようにと武力に対抗する力を得た。彼を守るためならと毒を口に含むこともした。
『魔力ゼロ』が言い訳にならないよう、徹底的に令嬢として叩き込んできた。それもこれも、彼の隣に立つに相応しい婚約者となるために。
「明日にはきっと成果が現れますわ」
「……ふふ、僕の忍耐力との戦いでもあったわけだけど?」
「そのことに関しては、申し訳なく思っておりますわ」
「本当に?」
「ええ」
「へぇ」
カタッと椅子が鳴り立ち上がった彼は迷うことなくわたくしの隣へ歩み寄ってくる。いつも身長差で下から見上げているけれど、座っているのと立っているのではその差は更に出てくる。グンッと身体が浮かび、彼に腕を引っ張られて立ち上がらされたのだとすぐにわかった。
普段はこんな力任せなことなど一切しない。それほど彼はわたくしを大切に大切にしてくれている。現に今も引っ張る力は強かったけれど、手首を掴んでいる手は振り解けるほどの力だった。
「学生じゃなかったら、お仕置きできたのになぁ」
それはきっと彼にさせる必要のなかった我慢へのお仕置き。もっと早く処理できただろうという無言の訴え。息が触れ合うほどほどの距離でその瞳も声色も、どろどろに甘く重かった。
「ふふっ、まぁ。それはなんという甘美なお仕置きですの?」
「卒業したらわかるよ」
「その時は決してお仕置きをされるようなことは致しませんわ」
「ははっ、アイビーならそうだよねぇ。残念」
そっと手が離され、いつもの距離になる。学生の身として最も適した距離。このことに関しては流石にわたくしだって寂しいと感じている。貴族の中にはすでに関係が進んでいる者たちもいるけれど、レオンハルト様は決して自分の欲を優先したりはしない。
「ま、今回のことに関してはハンデル伯爵には忠告しておくよ。当主はまだまともだし頭のネジが飛んでるのは末子の妹だけだからね。なんなら交渉の時にこちらに有利になる手段にするのも悪くない」
「こちらも問題ないですわ。明日にはすべて解決致しますから」
「うん、そうしてもらえると助かるよ。そうでないと」
迷うことなく刎ねるから――と笑顔で付け加えた言葉に背筋に悪寒が走ったというのに……わたくしの顔はうっとりと微笑むだけだった。
「あら、御機嫌よう」
目の前にはプリーラ令嬢が取り巻きと一緒に……というわけではなく、一人で廊下を歩いていた。目が合った瞬間彼はサッと顔を青くし視線を逸らす。そして、わたくしたちの周りにいた生徒たちは一斉に彼女へ軽蔑の眼差しを向けた。
「今日は一人なのですわね。いつも一緒にいるお友達はどうしたんですの?」
「っ……アナタには、関係ありませんわッ……!」
「まぁ……貴女が有益でないとわかった瞬間離れてしまうなんて、薄情なご友人ですのね」
瞳を潤ませながらもこちらを睨んでくる彼女にも貴族としてのプライドがあるし、どういう理由で周りに人がいたのかもわかっている。だからこそ、決して同情をされまいと強気な姿勢で自分を奮い立たせている。
流石に一人ぼっちだなんて寂しいですわ、と視線を彼女から少し外せば、そちらから彼女の取り巻きだった女子生徒がクリスさんに掴まれながらやってきた。
「ありがとうございます、クリスさん」
「いいえ。探すのは容易なことでしたので。またいつでも頼ってください、アイビー様」
「頼もしいですわ。ありがとう――さて」
視線を二人の女子生徒に向ければビクリとそのか弱い肩が刎ねる。きっと彼女たちはプリーラ令嬢ならばわたくしを貶めて婚約者の座につくかもしれない、そして自分たちはその恩恵に預かれるかもしれないと思ったのだろう。けれど、そう思う令嬢はこのカナット学園ではごく僅か。先見の眼があればそのようなことは思わないだろうから。
プリーラ令嬢と共に彼女たちも様々なことを口にしていた。これが普通に社交界であれば彼女たちは不敬罪。最悪社交界から追放される――けれど、ここは学園。前にレオンハルト様が言っていたようにここは学ぶ場所であって、間違いがあってもそれを正せる場所でもある。
「プリーラ令嬢。わたくし、貴女には感謝しておりますの」
「ッ、何をいきなりッ……!」
「貴女は幼き頃にも言ってくれたでしょう? わたくし貴女の言葉で本当に『魔力ゼロ』の立場の弱さを知りましたの。だからこそ必死に励んで来ましたわ。わたくしが『婚約者』としての立場に慢心しなかったのは貴女のおかげですわ」
「……何よ、一体なんですのよッ?! わたくしに対する嫌味?! なんでもかんでも持っていて、それを見せつけているんですのッ?!」
「魔力ゼロのわたくしに、『なんでもかんでも持っている』と言いますの?」
寧ろそれは彼女のほう。美貌があり、令嬢としての教養も財産もあり何より……十分な魔力を持っている。魔力がないからと蔑まれることもない。
「わたくしは何を言われようとも、決して背を丸めることはしませんわ視線を彷徨わることもしませんわ。だってわたくしは――レオンハルト様が唯一と言ってくださった、婚約者ですもの」
しっかりと背筋を伸ばし視線を逸らすことなく笑みを向ければ、彼女は言葉を失った。
「だから貴女も、常々周りにどう見られているか気を付けたほうがいいですわ」
ここ数日の彼女の言動は周りの学生から軽蔑の視線を向けられるのには十分だった。これから彼女が変わらない限りそれは続く。カナット学園内だけならいい、けれどこの学園は貴族も通っている。そして貴族は驚くほど噂話が流れるのも早い。既にもう、上級貴族のほうではハンデル家との交流に難色を示している者もだっていた。
たった一人の愚かな行いのせいで家が落ちぶれる可能性がある。それを今回彼女は身をもって学んだはず。学ぶことができなかったのであれば、彼女が今後社交界に顔を出すことはない。
「それでは」と背を向けようとしたけれど、とあることを思い出しもう一度彼女に振り返る。プリーラ令嬢の隣にはご友人だった生徒が二人。
「ご友人を選ぶ際には、自分と趣味趣向が会った相手だと更に楽しいですわよ?」
だって普段周りに理解され難いこともわかってくれるのだから。もう一度微笑み今度こそ背を向けて歩き出す。少し歩いた先には、ミラが愛読書を両手でしっかりと抱きかかえて立っていた。
「この本、使いましょうか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。ミラ」
「……でもやっぱり私の気がすまないので! 偶然を装って本の角をぶつけることにします!」
「まぁ! 程々にね?」
「そうですね、程々に!」
語尾の言葉の強さにあまり説得力を感じず、つい苦笑をもらしてしまう。今回わたくしだけではなくミラにもそしてレオンハルト様にも、嫌な思いをさせてしまった。
そんなわたくしの大切な人たちのご機嫌取りをどうしましょうと考えを巡らせる。ミラに関してはシアンさんに協力してもらうのもありなのかもしれない。レオンハルト様は、そうですわね。
しばらくプリーラ令嬢に仲を見せつける、という方法ならば喜びそうですわと、自分で考えておきながら苦笑してしまう。プリーラ令嬢にとっては本当に嫌がらせでたまったものではないけれど、けれどそれが今のレオンハルト様にとっては一番喜びそうなものなんですもの。
「やぁアイビー、何か楽しいことが起こっていたようだけれど?」
僕に言うことは? と続けられた言葉に思わず苦笑をもらす。ああこの顔は、少なくともわたくしにも怒っている。さてどのように弁明しようかしらと考えているところ、わたくしの肩を抱き寄せている人――レオンハルト様はより一層笑みを深めた。
「まぁいいか。僕の耳にはしっかりと届いているからね」
そうですわよね。わたくしのことに関してレオンハルト様が知らないことなんてありませんもの。
「久しぶりだね、ハンデル令嬢。戻ってきていたことは知っていたよ」
「っ……! お、お久しぶりでございますわ、レオンハルト様」
青かった顔がレオンハルト様の視線と声だけで一気に赤くなるのだから、人類の神秘ですわ。と思いつつレオンハルト様に身を預けつつ二人のやり取りを傍観することにした。
「わ、わたくし、アナタ様にお会いしたくて婚約話を全て蹴りましたの……こうして再び会えてとても……とても、光栄ですわ」
「うん、そうなんだね」
「っ! レ、レオンハルト様っ、わたくしっ」
笑顔のレオンハルト様にどうやら脈アリだと思ったようで、彼女の表情はパッと輝きしおらしい様子で一歩近付いてこようとしている。けれどレオンハルト様がわたくしの肩から手を離し、彼女の元へ歩み寄ろうとする素振りは一切見られなかった。
「僕の大切な婚約者であるアイビーに、随分と醜い言葉を投げかけてくれたようだね」
寧ろ抱き寄せる力は強くなって、彼の息遣いがわたくしの髪に当たる。もうそれだけで彼の心がどこにあるのかわかったようなものだった。
「お名汚し? 能無し? 僕はそんなこと一切思わないよ。彼女は素晴らしい人だよ、魔力ゼロということを糧に一体どれほどの知識や技術をその頭に身に叩き込んだのか。アイビーほど、僕に相応しい婚約者はいない」
「な、にをっ……」
「それにこの黒髪だって、艷やかで輝いて、とても美しいだろう?」
わたくしの髪を一房手に取りそこに軽く口付けを落とす。たったそれだけのことで「ほぉ……」と周りにいた生徒から感嘆の声がもれた。視線を節くれ立った指から上げるとパチッと視線が交わり、レオンハルト様はより一層笑みを深める。愛おしげに見つめてくる瞳は幼き頃から変わらない。わたくしも自然と口角が上がり同じように微笑みを返した。
「アイビー」
低く甘やかな声がわたくしの鼓膜を直接揺らす。彼のこの声色を知っているのもわたくしだけでいい。
「ハンデル令嬢」
先程の声とは違いしっかりとした声色に彼女の肩が大きく跳ねた。
「君は随分と古い情報を持っているようだね? 貿易を営んでいる名家であれば情報は何よりも宝だということを知っているはずだけど」
「ヒッ」
「この学園の情報、しっかりと一から叩き込むことをおすすめするよ。さ、アイビー。行こうか?」
にこやかな笑みを浮かべプリーラ令嬢に背を向けたわたくしたちに、周りにいた誰もが微笑ましい二人だと思ったことだろう――けれどその実、レオンハルト様の怒りが収まっているわけではない。その証拠にわたくしの腰に回された手の力は強く、決して離さないという意思表示がしっかりとされていた。
授業は普通に受けたけれど、本番はその後だった。授業に行く前ににこりと笑顔で告げられた言葉。
「僕の部屋においで?」
柔らかい物言いでありながら、こちらの拒否権はなかった。レオンハルト様から寮にある部屋へのお誘いは別に少ないわけではないけれど、こういった呼び出しは片手で数える程度。わたくしの話は聞いてくれるのだろうけれど、きっとそれ以上に彼から返ってくる言葉は多いはずと苦笑をもらす。
迎えに来てくる馬車には先に戻っているように告げ、生徒会の仕事が終わったのを見計らって寮の部屋へと向かう。扉の前に立ちノックをすればすぐに戻ってきた返事。わたくしがドアノブに手をかける前に扉は開き、「どうぞ」と笑顔で中へ促された。流石に今回は前のように書記で散らかっているテーブルではなかった。
いつもなら、マリアンヌの気配がどこかにはあるはず。けれど今はそれすらない、ということは完璧に二人きり。しっかりと人払いを済ませている様子にちらりと視線を向ければ、尚更笑みは深まった。
「こちらへどうぞ」
紳士的な振る舞いでわたくしを椅子に座るように促し、自分も対面にある椅子に腰を下ろす。にっこりと微笑む姿にわたくしは苦笑を浮かべることしかできない。
「彼女のことは覚えているよ」
そう。きっとわたくし以上にレオンハルト様は覚えている。
「幼い頃アイビーに堂々と悪意を向けて、そして君はその言葉に傷付けられた。忘れるわけがない」
「レオンハルト様」
「父と一緒に各国を巡っているようだったから姿を見ることなく清々していたのに。戻ってきていたんだね。しかも学園に編入」
学園の編入に関しては流石のレオンハルト様に口を挟む権利はない。生徒会長という立場できっと誰よりもいち早く知った彼はどんな心情だったのか。
「……わたくしがどう対処するか、待っていてくださったのでしょう?」
「アイビーの邪魔になると思って。でもねアイビー、君もわかっていると思うんだけど」
弧を描く瞳の奥は決して笑ってはいない。寧ろそれとは相反する、どろりとした重い感情。
「僕は君のことに関しては狭量だよ」
恐ろしくも美しく、背筋に悪寒すらも走るというのに……それすらも好んでいるだなんて、わたくしもわたくしですわと内心自分に呆れてしまう。きっと普通の人ならば腰を抜かしているか恐ろしくて逃げ出しているかもしれないというのに。
「魔力ゼロだからと貶めていい理由にはならないし、立場が上だという理由にもならない。どうしてくれようか? 彼女は広い世界を見て少しは賢くなったかと思ったのに中身は幼い頃のまままったく成長せずにまるで腹黒い貴族の象徴みたいだったね。息子三人の後の初めての女の子でハンデル伯爵も随分と甘やかせたようだからね。流石に、僕も口出しさせてもらおうかな? なんなら弱みを握ってやろうか」
「……ふふっ、レオンハルト様。心配なさらないで?」
確かにここ数日一方的に言われたままだけれど、わたくしも別に何も考えもなく言葉に耳を傾けていたわけではない。
どんどん、腹の黒さが滲み出てきたその笑みにわたくしも笑みを向け、たくましいその手に自分の手を重ねる。
「彼女は自分の首を自分で絞めておりますわ」
魔力ゼロに対しての偏見がかなり薄れてきた学園で、ああも大声で堂々と言っていたのだ。周りの生徒がどう思っていたかだなんて想像するに容易い。ここでわたくしが弱った姿を見せれば更に同情心を得ることはできただろうけれど、流石にそれはわたくしのプライドが許さない。
それにわたくしは彼女に感謝すらしている。だって幼い頃、彼女が面と向かってああ言ったから……わたくしは自分の立場の弱さを知った。幼い頃はルゥナー家という後ろ盾があったから、わたくし自身が弱くてもそう簡単に潰されることはなかった。けれどそれが有効なのは幼少期の時だけ。成長すればその弱さが更に露見する。
わたくしのその弱さは、レオンハルト様の弱点にもなってしまう。だからこそ更に勉学に力を入れた。知識を得て、万が一に足を引っ張らないようにと武力に対抗する力を得た。彼を守るためならと毒を口に含むこともした。
『魔力ゼロ』が言い訳にならないよう、徹底的に令嬢として叩き込んできた。それもこれも、彼の隣に立つに相応しい婚約者となるために。
「明日にはきっと成果が現れますわ」
「……ふふ、僕の忍耐力との戦いでもあったわけだけど?」
「そのことに関しては、申し訳なく思っておりますわ」
「本当に?」
「ええ」
「へぇ」
カタッと椅子が鳴り立ち上がった彼は迷うことなくわたくしの隣へ歩み寄ってくる。いつも身長差で下から見上げているけれど、座っているのと立っているのではその差は更に出てくる。グンッと身体が浮かび、彼に腕を引っ張られて立ち上がらされたのだとすぐにわかった。
普段はこんな力任せなことなど一切しない。それほど彼はわたくしを大切に大切にしてくれている。現に今も引っ張る力は強かったけれど、手首を掴んでいる手は振り解けるほどの力だった。
「学生じゃなかったら、お仕置きできたのになぁ」
それはきっと彼にさせる必要のなかった我慢へのお仕置き。もっと早く処理できただろうという無言の訴え。息が触れ合うほどほどの距離でその瞳も声色も、どろどろに甘く重かった。
「ふふっ、まぁ。それはなんという甘美なお仕置きですの?」
「卒業したらわかるよ」
「その時は決してお仕置きをされるようなことは致しませんわ」
「ははっ、アイビーならそうだよねぇ。残念」
そっと手が離され、いつもの距離になる。学生の身として最も適した距離。このことに関しては流石にわたくしだって寂しいと感じている。貴族の中にはすでに関係が進んでいる者たちもいるけれど、レオンハルト様は決して自分の欲を優先したりはしない。
「ま、今回のことに関してはハンデル伯爵には忠告しておくよ。当主はまだまともだし頭のネジが飛んでるのは末子の妹だけだからね。なんなら交渉の時にこちらに有利になる手段にするのも悪くない」
「こちらも問題ないですわ。明日にはすべて解決致しますから」
「うん、そうしてもらえると助かるよ。そうでないと」
迷うことなく刎ねるから――と笑顔で付け加えた言葉に背筋に悪寒が走ったというのに……わたくしの顔はうっとりと微笑むだけだった。
「あら、御機嫌よう」
目の前にはプリーラ令嬢が取り巻きと一緒に……というわけではなく、一人で廊下を歩いていた。目が合った瞬間彼はサッと顔を青くし視線を逸らす。そして、わたくしたちの周りにいた生徒たちは一斉に彼女へ軽蔑の眼差しを向けた。
「今日は一人なのですわね。いつも一緒にいるお友達はどうしたんですの?」
「っ……アナタには、関係ありませんわッ……!」
「まぁ……貴女が有益でないとわかった瞬間離れてしまうなんて、薄情なご友人ですのね」
瞳を潤ませながらもこちらを睨んでくる彼女にも貴族としてのプライドがあるし、どういう理由で周りに人がいたのかもわかっている。だからこそ、決して同情をされまいと強気な姿勢で自分を奮い立たせている。
流石に一人ぼっちだなんて寂しいですわ、と視線を彼女から少し外せば、そちらから彼女の取り巻きだった女子生徒がクリスさんに掴まれながらやってきた。
「ありがとうございます、クリスさん」
「いいえ。探すのは容易なことでしたので。またいつでも頼ってください、アイビー様」
「頼もしいですわ。ありがとう――さて」
視線を二人の女子生徒に向ければビクリとそのか弱い肩が刎ねる。きっと彼女たちはプリーラ令嬢ならばわたくしを貶めて婚約者の座につくかもしれない、そして自分たちはその恩恵に預かれるかもしれないと思ったのだろう。けれど、そう思う令嬢はこのカナット学園ではごく僅か。先見の眼があればそのようなことは思わないだろうから。
プリーラ令嬢と共に彼女たちも様々なことを口にしていた。これが普通に社交界であれば彼女たちは不敬罪。最悪社交界から追放される――けれど、ここは学園。前にレオンハルト様が言っていたようにここは学ぶ場所であって、間違いがあってもそれを正せる場所でもある。
「プリーラ令嬢。わたくし、貴女には感謝しておりますの」
「ッ、何をいきなりッ……!」
「貴女は幼き頃にも言ってくれたでしょう? わたくし貴女の言葉で本当に『魔力ゼロ』の立場の弱さを知りましたの。だからこそ必死に励んで来ましたわ。わたくしが『婚約者』としての立場に慢心しなかったのは貴女のおかげですわ」
「……何よ、一体なんですのよッ?! わたくしに対する嫌味?! なんでもかんでも持っていて、それを見せつけているんですのッ?!」
「魔力ゼロのわたくしに、『なんでもかんでも持っている』と言いますの?」
寧ろそれは彼女のほう。美貌があり、令嬢としての教養も財産もあり何より……十分な魔力を持っている。魔力がないからと蔑まれることもない。
「わたくしは何を言われようとも、決して背を丸めることはしませんわ視線を彷徨わることもしませんわ。だってわたくしは――レオンハルト様が唯一と言ってくださった、婚約者ですもの」
しっかりと背筋を伸ばし視線を逸らすことなく笑みを向ければ、彼女は言葉を失った。
「だから貴女も、常々周りにどう見られているか気を付けたほうがいいですわ」
ここ数日の彼女の言動は周りの学生から軽蔑の視線を向けられるのには十分だった。これから彼女が変わらない限りそれは続く。カナット学園内だけならいい、けれどこの学園は貴族も通っている。そして貴族は驚くほど噂話が流れるのも早い。既にもう、上級貴族のほうではハンデル家との交流に難色を示している者もだっていた。
たった一人の愚かな行いのせいで家が落ちぶれる可能性がある。それを今回彼女は身をもって学んだはず。学ぶことができなかったのであれば、彼女が今後社交界に顔を出すことはない。
「それでは」と背を向けようとしたけれど、とあることを思い出しもう一度彼女に振り返る。プリーラ令嬢の隣にはご友人だった生徒が二人。
「ご友人を選ぶ際には、自分と趣味趣向が会った相手だと更に楽しいですわよ?」
だって普段周りに理解され難いこともわかってくれるのだから。もう一度微笑み今度こそ背を向けて歩き出す。少し歩いた先には、ミラが愛読書を両手でしっかりと抱きかかえて立っていた。
「この本、使いましょうか?」
「いいえ、大丈夫ですわ。ミラ」
「……でもやっぱり私の気がすまないので! 偶然を装って本の角をぶつけることにします!」
「まぁ! 程々にね?」
「そうですね、程々に!」
語尾の言葉の強さにあまり説得力を感じず、つい苦笑をもらしてしまう。今回わたくしだけではなくミラにもそしてレオンハルト様にも、嫌な思いをさせてしまった。
そんなわたくしの大切な人たちのご機嫌取りをどうしましょうと考えを巡らせる。ミラに関してはシアンさんに協力してもらうのもありなのかもしれない。レオンハルト様は、そうですわね。
しばらくプリーラ令嬢に仲を見せつける、という方法ならば喜びそうですわと、自分で考えておきながら苦笑してしまう。プリーラ令嬢にとっては本当に嫌がらせでたまったものではないけれど、けれどそれが今のレオンハルト様にとっては一番喜びそうなものなんですもの。
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彼女の存在意義とは?
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