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姫林檎
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目覚ましの音はいつもより長く演奏を奏でている。それは二月だというのに春のような暖かい風が心地よくて起きるのが遅くなっているから。今日はお休みだけど、せっかくだからお散歩でもしてみましょうかしら。私は緩めの黒いパンツと、ちょっぴり毛玉が増えたグレーのニットに着替える。一応、上は羽織って行った方がいいかしら。……いえ、朝でこんなに暖かいんですもの。そこまで遠出もしないし、要らないわね。上に羽織るのはやめにして、意気揚々と外に出た。
しんと静まった朝。空にかかる電線には雀のワルツ。生暖かい空気を肺いっぱいに吸い込み、軽く伸びをした時だった。
コツンと頭に何かが落ちてきた。足元に転がってきたのは、赤くて小さな姫林檎だった。
「まあ、もう実がなっているの?」
私は姫林檎を拾い上げ、お隣さんの姫林檎の木を見る。まだ沢山生っている訳では無いが、ポツポツ実があるのが分かる。
暖冬でここ最近春のような陽気だったものね。姫林檎の実が生るのは大体春頃だけど、ちょっと早めに生ってしまったのね。
私は手元の姫林檎に目をやる。はぁ……と溜息をつきながら実をお隣さんの敷地に投げた。
姫林檎の木は、春頃になると沢山実をつける。それはまあしょうがない事なのだけれど、問題は実が私の家の方に沢山来てしまって、それを鳥がついばむので、毎日鳥の糞や中途半端に食べられた姫林檎の後始末をこちらがしなければならないこと。毎年春頃、ちょっと憂鬱なのはこのせい。悩みの種ならぬ、悩みの実、なのである。
姫林檎の木は毎年枝が増えている。だけどお隣さんは枝を伐採したりする気配は無いので、右肩上がりで悩みが深くなっていっていくだけ。
じゃあお隣さんに直接伝えようと思っても、最近家に帰られていないのか人の気配がなく、難しい。帰ってきたのを見計らって伝えるにも、私も仕事があるのでなかなか難しいところ。……この際、お手紙でも書こうかしら。
そうやって立ち往生してウンウン悩んでいたからなのか、偶然にもお隣さん家の扉が開いた。どこかへ行くのか少し早足で行ってしまいそうだっので、
「おはようございます」
と挨拶し呼び止めた。お隣さんは足を止めて一瞥すると、軽く会釈した。
「どこかへお出かけですか?」
まずは雑談から。と思ったけど、
「ええ、まあ」
と目線を泳がせ早く切り上げたがっている。姫林檎のことを伝えるのは今しかない。私は本題に入ることにした。
「相談があるんですが、一分時間を下さい。姫林檎の木の事なんですけど、春になると実がなるでしょう? その実が私の家の方まで来てしまって。鳥の糞だっり、実の掃除をするので困っています。かなり木も大きくなってきたわけだし、ちょっと枝を整えて欲しいんです」
お隣さんは形相を変えた。今にも掴みかかって来てしまいそうなくらいの距離まで私に近づき、こう言った。
「アンタに何がわかる。ふざけんな」
*
「それ、逆ギレじゃないっすか。むっちゃ腹立つんすけど」
姫林檎の件があってから数日後。私はハヤテ君とバックヤードでそれについて話していた。
「大体、まず何で謝らないんすかね。どんな理由があれ、迷惑かけてるのはそっちなのに自分のことしか考えてねーっつーの? 腹立ちますね」
ハヤテ君は割り箸を指揮者のように動かしながら、まるで自分の事のように怒っている。人が怒っているところを見ると逆に冷静になれるのはなんでかしら。私はもう一度お隣さんの言葉の意味を考えてみた。
「アンタに何がわかる、ってことは、何か理由があってあの木を植えたけど、それを知らずに言うなってことよね」
私は独り言のように言葉を発する。
「お隣さんは、私より後に引っ越してきた方で、引っ越してきた時には姫林檎の木はなかった。そしていつの間にか林檎の木が植えられていたわ。特に木について話すことがなかったからなんで植えたかは……分からないわね……」
ううーん、と唸りつつ首を傾げる。ハヤテ君は箸の指揮をやめて、私の話に耳を傾けていた。
「ちょっと話しにくいかもですけど、本人に聞くのがいいですかね。確かになんか訳ありっぽいですし」
そうは言ってもねえ。ちゃんと取り合ってもらえるかしら。ちょっと心配だわ。でも、私は何もしていない訳だし、このまま泣き寝入りするのも違う気がする。ハヤテ君の言う通り、ちゃんと本人から聞くべきね。
「そうね。ちょっと心配ではあるけど、本人に聞いてみるわ。ありがとう」
なんかあったら俺呼んでもいいっすよ、バイトの時以外! とハヤテ君は言い残してバックヤードから出ていった。
*
ハヤテ君に姫林檎のことを話した数日後。アルバイトから帰ってきた私は姫林檎の木を見ながら、お隣さんのインターホンを押すのを躊躇っていた。明かりがついているから中にいるのは分かるけど、今度は取り合って貰えないかも。
いやいや、ここで怖気づく私じゃないわ。何度もアルバイトで個性的なお客様を接客してきたじゃない。話が通じない方だったとしても、しっかり聞くべきよ。
私は軽く頬に喝を入れ、インターホンを押した。……出ない、居留守かしら。
もう一度押してみた。やっぱり出ない。
あと一回押してダメなら諦めよう、と思って指を伸ばしたところで、
「はい」
とぶっきらぼうな声が答えた。
「隣の岩永ですけど、少しよろしいかしら」
永遠とも思われる静寂。このまま無視されるのかしら。私は次の言葉を待っていると、玄関の戸が開いた。
「外じゃなんですし、どうぞ」
中に招かれたのでそのままお邪魔することにした。
「今お茶入れますんで」
どうぞ、と促され椅子に座る。ゴミ屋敷、までは行かないもののペットボトルや弁当の空箱などが散らかっている。机の上も書類や封が切られていない封筒などがあちらこちらに散らばっていた。
「すいません、あんまり綺麗じゃないですけど」
そっと湯呑みを私の前に置き、向かいに座る。暖色の光に照らされた彼はとてもやつれているように見える。髪は元気の無いぺったりとした白髪に、頬は痩けて、くまが目立つ。そういえば、引っ越してきた時はこんなに疲れた感じではなくて、もっとイキイキしていた気がするわ。
私がまじまじと見ているのが耐えられなかったのか、目線を窓にやって気まずそうにしてた。そして彼は静かに話し始めた。
「まず、前の事なんですけど、本当にすみませんでした。あの時ちょっと酔ってまして、気が大きくなってました」
彼は机に鼻がこすり着くほど深深と頭を下げた。あの時は飲んでいたのね。でも、かなり朝までずっと飲んでいたことになるわ……?
数十秒して顔を上げ、話を続ける。
「あの姫林檎は、僕の思い出なんです」
何かをこらえるように、彼は言った。
「僕はここに引っ越してきた頃、妻と娘がいました。妻は青森出身でね。シンボルツリーを植えるなら絶対林檎だって聞かなくて。さすがに普通の林檎の木だと手入れが大変だから、姫林檎の木にしたんです」
彼は思い出を懐かしむように微笑みながら話す。
「でも僕らはその後、離婚しました。妻が浮気していたんです。驚きましたよ、まさか彼女がそんなことするなんて。……でも、妻が浮気したのも僕のせいだと思ってて」
俯きながら彼は言葉を詰まらせた。
「いわゆるモラハラをしていたんです、僕は。直接手を下すことは無いけど、言葉で僕は彼女を追い詰めていた。娘の育児も任せっきりだったし、彼女は逃げ場がなかったんだと思います。……僕も、その時かなり仕事が忙しい時期で、心の余裕がなかった」
彼は拳を握りしめる。
「僕は最低な人間です。結局妻と娘はここを出ていって、残ったのは家と姫林檎の木。最低なことをしたけど、でも、あの木は家族がいた思い出なんです。姫林檎を植えた時、妻と話していました。『娘が大きくなったら一緒に姫林檎を収穫して、それでアップルパイでも作ろう』って。今じゃそれは、もう叶わないですけど」
彼は窓の外に目をやる。私も同じ方を向いた。姫林檎の木が穏やかな風に揺られている。
「身の上話ばかりすみません。でも結局、岩永さんにかなりご迷惑をおかけしたことには変わりないです。僕はもうなんというか、生きてるのに死んでるような暮らしをしていて、姫林檎の木を手入れするほど気力がなくて怠っていたんです。前岩永さんが訪ねていらっしゃった時も、飲んだくれて新しい酒を買いに行こうとしてただけですし」
彼は立ち上がって窓の方へ向かう。
「今回のことで、吹っ切れました。岩永さん、僕、姫林檎の木切ります」
彼はまっすぐ私の目を見てそう言った。私にとっては諸悪の根源が無くなって有難いけど、本当にそれでいいのかしら……?
「多分僕、このまま姫林檎の木を残し続けていたら、一生過去に囚われて、岩永さんにも迷惑をかけ続ける。この際、思い出と共に葬ろうと思います」
彼はまた深々と頭を下げた。
「僕に姫林檎のこと、伝えに来てくれてありがとうございました。近いうちに切ります」
「——それで、こんなにバッサリ切ったと」
ふわりと浮つく気持ちとともに包む風が春を告げている。ハヤテ君はスパッと切られた茶色い短剣をまじまじと眺める。もう朝から鳥のフンの掃除もしなくていいのだと思うと晴れやかな気持ちになる、はずなのだけれど、これで良かったのかしらと少しだけ罪悪感がある。それでも、彼が前向きになるのならこれで良かったのよね。
「岩永さん、もしかして自分がわりいと思ってます? やっだなー! なんも悪くないのにさ! いつも先生みたいに人には説くくせにさ~」
「先生でしたからね」
すみません、と舌を出しながら軽く頭を動かす。多分何も反省していないのだろうけど。
「あ、こんにちは」
後ろを振り向くと、お隣さんが柔らかな笑みで挨拶をする。こんにちは、と返しつつ、前と別人になった彼に驚いた。
肌の色、目の下のクマ、表情。あの木を切ったことで本当に吹っ切れたみたいで、自分のちょっぴりあった罪悪感は綺麗に晴れた。
「木、切られたんですね。しかもご体調も良くなられたみたいで。すごくイキイキしていらっしゃるから……、良かったわ」
「ええ、切りました。そうそう、なんかね、一から人生やり直す気になったというか、そのおかげで、色々上手くいって。岩永さんのおかけです。ありがとうございます」
「私は何も……。ただ、貴方のお役に立てたならそれで良かったわ」
彼はニッコリ笑ったあと、あっ、と何かを思い出したかのようにこういった。
「そういえば、これからアップルパイを焼くんです。お二人もどうですか?」
そう言って彼がやった目線の方を見た。窓から元気な女の子の声と、小さく会釈ふる女性。パパの帰りを待っていたかのように顔を出していた。
春は出会いと別れの季節。縁はどこまでも続くものなのだと心の中で思うのだった。
しんと静まった朝。空にかかる電線には雀のワルツ。生暖かい空気を肺いっぱいに吸い込み、軽く伸びをした時だった。
コツンと頭に何かが落ちてきた。足元に転がってきたのは、赤くて小さな姫林檎だった。
「まあ、もう実がなっているの?」
私は姫林檎を拾い上げ、お隣さんの姫林檎の木を見る。まだ沢山生っている訳では無いが、ポツポツ実があるのが分かる。
暖冬でここ最近春のような陽気だったものね。姫林檎の実が生るのは大体春頃だけど、ちょっと早めに生ってしまったのね。
私は手元の姫林檎に目をやる。はぁ……と溜息をつきながら実をお隣さんの敷地に投げた。
姫林檎の木は、春頃になると沢山実をつける。それはまあしょうがない事なのだけれど、問題は実が私の家の方に沢山来てしまって、それを鳥がついばむので、毎日鳥の糞や中途半端に食べられた姫林檎の後始末をこちらがしなければならないこと。毎年春頃、ちょっと憂鬱なのはこのせい。悩みの種ならぬ、悩みの実、なのである。
姫林檎の木は毎年枝が増えている。だけどお隣さんは枝を伐採したりする気配は無いので、右肩上がりで悩みが深くなっていっていくだけ。
じゃあお隣さんに直接伝えようと思っても、最近家に帰られていないのか人の気配がなく、難しい。帰ってきたのを見計らって伝えるにも、私も仕事があるのでなかなか難しいところ。……この際、お手紙でも書こうかしら。
そうやって立ち往生してウンウン悩んでいたからなのか、偶然にもお隣さん家の扉が開いた。どこかへ行くのか少し早足で行ってしまいそうだっので、
「おはようございます」
と挨拶し呼び止めた。お隣さんは足を止めて一瞥すると、軽く会釈した。
「どこかへお出かけですか?」
まずは雑談から。と思ったけど、
「ええ、まあ」
と目線を泳がせ早く切り上げたがっている。姫林檎のことを伝えるのは今しかない。私は本題に入ることにした。
「相談があるんですが、一分時間を下さい。姫林檎の木の事なんですけど、春になると実がなるでしょう? その実が私の家の方まで来てしまって。鳥の糞だっり、実の掃除をするので困っています。かなり木も大きくなってきたわけだし、ちょっと枝を整えて欲しいんです」
お隣さんは形相を変えた。今にも掴みかかって来てしまいそうなくらいの距離まで私に近づき、こう言った。
「アンタに何がわかる。ふざけんな」
*
「それ、逆ギレじゃないっすか。むっちゃ腹立つんすけど」
姫林檎の件があってから数日後。私はハヤテ君とバックヤードでそれについて話していた。
「大体、まず何で謝らないんすかね。どんな理由があれ、迷惑かけてるのはそっちなのに自分のことしか考えてねーっつーの? 腹立ちますね」
ハヤテ君は割り箸を指揮者のように動かしながら、まるで自分の事のように怒っている。人が怒っているところを見ると逆に冷静になれるのはなんでかしら。私はもう一度お隣さんの言葉の意味を考えてみた。
「アンタに何がわかる、ってことは、何か理由があってあの木を植えたけど、それを知らずに言うなってことよね」
私は独り言のように言葉を発する。
「お隣さんは、私より後に引っ越してきた方で、引っ越してきた時には姫林檎の木はなかった。そしていつの間にか林檎の木が植えられていたわ。特に木について話すことがなかったからなんで植えたかは……分からないわね……」
ううーん、と唸りつつ首を傾げる。ハヤテ君は箸の指揮をやめて、私の話に耳を傾けていた。
「ちょっと話しにくいかもですけど、本人に聞くのがいいですかね。確かになんか訳ありっぽいですし」
そうは言ってもねえ。ちゃんと取り合ってもらえるかしら。ちょっと心配だわ。でも、私は何もしていない訳だし、このまま泣き寝入りするのも違う気がする。ハヤテ君の言う通り、ちゃんと本人から聞くべきね。
「そうね。ちょっと心配ではあるけど、本人に聞いてみるわ。ありがとう」
なんかあったら俺呼んでもいいっすよ、バイトの時以外! とハヤテ君は言い残してバックヤードから出ていった。
*
ハヤテ君に姫林檎のことを話した数日後。アルバイトから帰ってきた私は姫林檎の木を見ながら、お隣さんのインターホンを押すのを躊躇っていた。明かりがついているから中にいるのは分かるけど、今度は取り合って貰えないかも。
いやいや、ここで怖気づく私じゃないわ。何度もアルバイトで個性的なお客様を接客してきたじゃない。話が通じない方だったとしても、しっかり聞くべきよ。
私は軽く頬に喝を入れ、インターホンを押した。……出ない、居留守かしら。
もう一度押してみた。やっぱり出ない。
あと一回押してダメなら諦めよう、と思って指を伸ばしたところで、
「はい」
とぶっきらぼうな声が答えた。
「隣の岩永ですけど、少しよろしいかしら」
永遠とも思われる静寂。このまま無視されるのかしら。私は次の言葉を待っていると、玄関の戸が開いた。
「外じゃなんですし、どうぞ」
中に招かれたのでそのままお邪魔することにした。
「今お茶入れますんで」
どうぞ、と促され椅子に座る。ゴミ屋敷、までは行かないもののペットボトルや弁当の空箱などが散らかっている。机の上も書類や封が切られていない封筒などがあちらこちらに散らばっていた。
「すいません、あんまり綺麗じゃないですけど」
そっと湯呑みを私の前に置き、向かいに座る。暖色の光に照らされた彼はとてもやつれているように見える。髪は元気の無いぺったりとした白髪に、頬は痩けて、くまが目立つ。そういえば、引っ越してきた時はこんなに疲れた感じではなくて、もっとイキイキしていた気がするわ。
私がまじまじと見ているのが耐えられなかったのか、目線を窓にやって気まずそうにしてた。そして彼は静かに話し始めた。
「まず、前の事なんですけど、本当にすみませんでした。あの時ちょっと酔ってまして、気が大きくなってました」
彼は机に鼻がこすり着くほど深深と頭を下げた。あの時は飲んでいたのね。でも、かなり朝までずっと飲んでいたことになるわ……?
数十秒して顔を上げ、話を続ける。
「あの姫林檎は、僕の思い出なんです」
何かをこらえるように、彼は言った。
「僕はここに引っ越してきた頃、妻と娘がいました。妻は青森出身でね。シンボルツリーを植えるなら絶対林檎だって聞かなくて。さすがに普通の林檎の木だと手入れが大変だから、姫林檎の木にしたんです」
彼は思い出を懐かしむように微笑みながら話す。
「でも僕らはその後、離婚しました。妻が浮気していたんです。驚きましたよ、まさか彼女がそんなことするなんて。……でも、妻が浮気したのも僕のせいだと思ってて」
俯きながら彼は言葉を詰まらせた。
「いわゆるモラハラをしていたんです、僕は。直接手を下すことは無いけど、言葉で僕は彼女を追い詰めていた。娘の育児も任せっきりだったし、彼女は逃げ場がなかったんだと思います。……僕も、その時かなり仕事が忙しい時期で、心の余裕がなかった」
彼は拳を握りしめる。
「僕は最低な人間です。結局妻と娘はここを出ていって、残ったのは家と姫林檎の木。最低なことをしたけど、でも、あの木は家族がいた思い出なんです。姫林檎を植えた時、妻と話していました。『娘が大きくなったら一緒に姫林檎を収穫して、それでアップルパイでも作ろう』って。今じゃそれは、もう叶わないですけど」
彼は窓の外に目をやる。私も同じ方を向いた。姫林檎の木が穏やかな風に揺られている。
「身の上話ばかりすみません。でも結局、岩永さんにかなりご迷惑をおかけしたことには変わりないです。僕はもうなんというか、生きてるのに死んでるような暮らしをしていて、姫林檎の木を手入れするほど気力がなくて怠っていたんです。前岩永さんが訪ねていらっしゃった時も、飲んだくれて新しい酒を買いに行こうとしてただけですし」
彼は立ち上がって窓の方へ向かう。
「今回のことで、吹っ切れました。岩永さん、僕、姫林檎の木切ります」
彼はまっすぐ私の目を見てそう言った。私にとっては諸悪の根源が無くなって有難いけど、本当にそれでいいのかしら……?
「多分僕、このまま姫林檎の木を残し続けていたら、一生過去に囚われて、岩永さんにも迷惑をかけ続ける。この際、思い出と共に葬ろうと思います」
彼はまた深々と頭を下げた。
「僕に姫林檎のこと、伝えに来てくれてありがとうございました。近いうちに切ります」
「——それで、こんなにバッサリ切ったと」
ふわりと浮つく気持ちとともに包む風が春を告げている。ハヤテ君はスパッと切られた茶色い短剣をまじまじと眺める。もう朝から鳥のフンの掃除もしなくていいのだと思うと晴れやかな気持ちになる、はずなのだけれど、これで良かったのかしらと少しだけ罪悪感がある。それでも、彼が前向きになるのならこれで良かったのよね。
「岩永さん、もしかして自分がわりいと思ってます? やっだなー! なんも悪くないのにさ! いつも先生みたいに人には説くくせにさ~」
「先生でしたからね」
すみません、と舌を出しながら軽く頭を動かす。多分何も反省していないのだろうけど。
「あ、こんにちは」
後ろを振り向くと、お隣さんが柔らかな笑みで挨拶をする。こんにちは、と返しつつ、前と別人になった彼に驚いた。
肌の色、目の下のクマ、表情。あの木を切ったことで本当に吹っ切れたみたいで、自分のちょっぴりあった罪悪感は綺麗に晴れた。
「木、切られたんですね。しかもご体調も良くなられたみたいで。すごくイキイキしていらっしゃるから……、良かったわ」
「ええ、切りました。そうそう、なんかね、一から人生やり直す気になったというか、そのおかげで、色々上手くいって。岩永さんのおかけです。ありがとうございます」
「私は何も……。ただ、貴方のお役に立てたならそれで良かったわ」
彼はニッコリ笑ったあと、あっ、と何かを思い出したかのようにこういった。
「そういえば、これからアップルパイを焼くんです。お二人もどうですか?」
そう言って彼がやった目線の方を見た。窓から元気な女の子の声と、小さく会釈ふる女性。パパの帰りを待っていたかのように顔を出していた。
春は出会いと別れの季節。縁はどこまでも続くものなのだと心の中で思うのだった。
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