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第十話
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――ギリギリのところだった。
魔滅刃は、着地と同時にピラの斬撃を受け止めていた。
ピラの驚いた顔がすぐ近くにある。
「ミラー!」
背後でメーイェンの声。
「間に合った!」
わたしはピラの双剣をはじき、刺突を繰り出す。
ピラはわたしの腕に跳び乗って避け、首に斬りかかってきた。
それを払って、間合いを開ける。
地に足をつけたピラは言った。
「また会ったね、ニセヴェロスさん」
「ピラ……目的は何だ」
「ひみつ」
彼女は片目を閉じて笑う。正直、かわいらしい顔なのだが、状況不相応なふざけた態度が台無しにしていた。
「鈴鏡を……鍵の鈴鏡を奪われました……」
イワミ氏が言った。
すると、ピラは門に向けて走り出す。
逃げる気か。
わたしはピラを追い、斬撃を放った。
彼女は双剣を突き出し防ぐ。
そのまま片方を滑らせ、突いてきた。
魔滅刃を持つ腕を突き出し、踏み込んでピラを押す。
刺突はわたしに届くことなく、ピラは仰け反って留まった。
追撃に出る。狙いは脚だ。
わたしの放った一閃は、側宙で避けられた。
爪先が地につくと同時に、ピラは連撃を仕掛けてきた。
わたしはピラの攻撃を防ぎまくる。トルヴェロスの連撃に比べて速いが、軽い。傷と疲弊を差し引いても苦ではなかった。
打ち合いの最中に隙を見出し、わたしはピラの右腕を掴む。
左の剣は魔滅刃で押し下げていた。が、対処が遅れた。
ピラは左手の剣を逆手に持ち直し、刀身を滑らせる。
わたしは手を放したが、避け損ねて前腕に傷を受ける。
続けて胸を蹴られ、痛みに思わず声が出た。
ピラは後ろに跳んで距離を取った。
その時、エナが飛びかかって彼女を掴む。
「逃がすか!」
二人は地面に転がった。
エナはピラに馬乗りとなって拳を振りかぶった。
しかしピラは彼女の顔に土を投げつける。
エナは怯んで、ピラを逃してしまう。
そのままピラは壁際――ローホァンの墓標の横まで退いた。
「ニセヴェロスさんなかなかやるねぇ。妖刀を完璧に制御してる」
ピラはメーイェンを睨めつける。
「あのコとは大違い。けどローホァン以外にもいたのはびっくり」
「師を……私の師匠を知ってるんですか……?!」
メーイェンが隣まで来た。彼女は全身に刀傷を受け、耳と額から血を流していた。
「知ってるよ。あたしの大太刀を真っ二つにへし折りやがったの」
言いながらピラは双剣を前に突き出す。確かに、左右で切っ先の形が違う。一本の大太刀を双剣に仕立て直したのだろう。
「でもまあ、結果はこの通りだけどネ」
彼女はローホァンの墓標を見下ろし、片足を乗せた。
その態度に、
「コイツ……!」
わたしは歯を食いしばった。
「墓から、足をどけなさい……!」メーイェンが言った。
「え~? でもこの人あたしに負けたんだよ?」
ピラはにやにや笑いで、墓標を踏みにじる。
「足をどけなさいって言ってるでしょう……!」
「や~だよ」
「足をどけろォ!」
メーイェンは怒鳴り、暗黒の矢を放つ。
次の瞬間メーイェンの左目から血が吹き出た。
暗黒の矢は砲弾めいた巨大さだったが、狙いは逸れていた。
矢は壁を穿ち、ピラはその衝撃波に乗って塀の上まで跳んだ。
「もうちょっと闘いたかったけど、仕事は終わったから退散するネ」
そう言うと、ピラは壁の向こうへと消え去った。
我々は誰一人として、彼女を追える状態ではなかった。
わたしはまた、痛みとだるさに体を押さえつけられ、片膝をつく。
だがわたしよりも重傷なのは、メーイェンだ。
彼女のほうに振り向くと、エナが介抱してくれているのが見えた。
イワミ氏もアマノリ氏の肩を借り、片足を引きずりながら彼女に寄り添う。
エナが言った。
「メーイェン……大丈夫?」
「……私……憎いです……自分の、弱さが……」
彼女の歯が、ぎりりと軋む。
下手な慰めの言葉など、無意味なのはわかりきっていた。
「……とにかく傷の手当てだ」
エナはメーイェンを支える。
わたしもどうにか立ち上がって、後に続いた。
アマノリ氏が呼んだ医師が来てくれたのは、邸内に入ろうとした時であった。
医師の診断によると、メーイェンの傷は、ひとつひとつはさほど深くないらしい。むしろ暗黒の使いすぎのほうが深刻であった。左目は失明していて、きれいな夜色をしていた瞳は白く濁っている。
が、医師は眼帯に強めの氣を入れて呪文を記してくれた。しばらく装用を続けておけば視力は回復するとのことだ。
イワミ氏も脚をひどくやられていて、しばらくは杖が要るものの、杖無しで歩けるようになる日はそう遠くないらしい。
やはりというべきか、わたしの<核>には驚いていた。
「世の中には不思議な人もいるもんだなあ」
医師は、鳥の嘴のような保護面の裏で言った。
最後にエナの問診で、全員の処置が終わる。
わたしたちは医師に礼を言って、アマノリ氏と共に帰ってもらった。
落ち着いたところで、わたしはトルヴェロスと遭遇、交戦したことを話した。
「――よくわかりました……ありがとうございます」イワミ氏が言った。「……申し訳ありません、あなたも傷ついておられるというのに……」
「いいんです。それよりも、鈴鏡を手に入れて、トルヴェロスは何をするつもりなんでしょうか……」
「この世界から逃げるっていう口ぶりでもなかったよね」
エナが顔だけをこちらに向け、言う。
「ああ。トルヴェロスは逃走を恥だと思ってる。……ということは……」
「なるほど……」イワミ氏は眉間にしわを寄せた。「世界を創り変える気ですね」
「そんなことができるんですか?」
「……技術的には可能です」
わたしは、その言葉を聞いて眉をひそめる。技術的に可能ということは、それ以外の要素で不可能ということだ。
だが、それならなぜトルヴェロスは――。
イワミ氏は続ける。
「世界に生命が誕生し、そこから文明が築かれるには<創世龍>の力が必要です」
「じゃあトルヴェロスたちは……」
「ええ。ほぼ間違いなく、創世龍の力を奪うはず。そのために<黄昏の世界>へと行くでしょう」
「黄昏の……?」
わたしは首を傾げた。
「他の、番号付けされた世界とは違うところなんですか?」
「いえ、かつては番号付けしてありましたが、そこは数千兆年前に最後の文明が滅び、生命体が全て死に絶えた世界です」
イワミ氏は、前腕部用の支えがついた杖――ロフストランドクラッチを使って立ち上がる。
「世界の法則の基盤となっているため、時空を解体することなく残してあるんです」
「ということは、黄昏の世界は……一番目の世界――」
わたしの言葉に、イワミ氏は頷いた。
「――他の守護者に連絡します。鈴鏡は時空の守護者以外には使えないよう、呪文で戒めていますが、破られるのも時間の問題でしょう」
イワミ氏が医務室の扉に手を伸ばし、エナが立ち上がる。
「お供します。窓割れてたの、見ましたから」
「……お願いします」
「ミラー。メーイェンのこと……すこしお願いね」
「ああ。二人とも、気をつけて」
イワミ氏とエナが出てゆき、わたしはさきほどまでエナの座っていた椅子に腰掛ける。
メーイェンは、高床に横たわっていた。あらためて見ると、ほんとうに痛ましい姿だった。布団の上に出た両腕は包帯でぐるぐる巻き、頭にも同じように包帯が巻いてあり、血が滲んでいる。そして左目は眼帯で保護してあった。
わたしは長い息を吐く。自然と肩が落ちた。
「ミラー……」
「……具合はどう?」
「すこし、落ち着きました……ありがとうございます……」
メーイェンは力無く笑う。
「……何か、わたしにできることはあるかな?」
「でも、あなたも大ケガして……」
「平気さ」わたしは微笑んだ。「痛みはだいぶましになった。今はお腹が空いてるくらいだよ」
「……じゃあ……私の部屋に行って……師匠の……ローホァンの剣を持ってきてもらえませんか……?」
「……わかった」
それからわたしは、メーイェンに部屋の場所を教えてもらい、そこへ向かう。
二階の日当たりの良い場所に彼女の部屋はあった。そこだけ引き戸で、大きな取っ手が遠目からでもわかる。
戸を開けると、メーイェンがいつも漂わせている香りがわたしを迎えた。
質素な和室に、ふたつの和箪笥と、木造りの机、椅子。どれも使い込んだ焦げ茶色で、美しい木目をしている。天井からは裸電球よろしく照明球がぶら下がっていた。
ローホァンの剣は、すぐに見つかる。
剣は踏込み床に安置してあった。刀掛台に太刀のごとく立ててある。
それは双手剣ともいえる形をしていた。が、鞘も柄も闇色で、剣格や剣首といった金具は焼鉄色で、獣の牙や猛禽の爪を彷彿とさせる形をしている。いかにもな暗黒剣だ。鞘に貼ってある札からは強い封印の氣を感じる。
わたしはローホァンの剣に指を触れ、掌で包み、両手で持ち上げた。
封印が施されているためか、想像していたほどは暗黒の圧は感じない。しかしこの札をひとたび剥がせば……。
そんなことを思いながら、わたしはメーイェンのところまで戻った。
医務室の扉を開けると、彼女は床の上で自前の苗刀を見ていた。
刀身には、刃こぼれが目立っている。
「……ピラとの闘いで……?」
「ええ……」
メーイェンは、すこし顔をしかめながら、納刀する。
「ここまでボロボロにされたのは……初めてです……」
「だろうね……」
わたしはローホァンの剣を彼女に渡す。
「ありがとうございます……」
メーイェンは剣を受け取り、両腕で抱え込んだ。
深呼吸をして、眼差しが天井を向く。
虚ろな瞳だった。
わたしは言う。
「今は傷を癒そう……雪辱はそれからでも遅くはない」
「はい……」
わたしたちが解散する頃には、もう夕方となっていた。
アスカ邸に戻ると、正門で母が待ってくれていた。
「大丈夫だった?」
母は、すこし心配そうな顔をしている。
わたしは微笑み、答えた。
「母さんのお蔭で。……まあ……こっぴどくやられたけどね」
胸に手を当てた。真新しい包帯にはもう血は滲んでいない。
邸内に入ると、アスカ氏の発する氣を感じた。鏡堂からだ。
「……邪魔しちゃ悪いかな……?」
「そんなことないよ。いちおうあなたの口からも、何があったか話しときなさいな」
「わかった……」
わたしは鏡堂の扉を小さく叩き、返事を待つ。
返事はすぐ来た。
「ミラー、帰ったかい?」
「はい。ただいま戻りました……」
「入りなさい」
わたしは扉を開ける。
「失礼します」
アスカ氏の背中が見えた。法衣を着て、大鏡の前に座している。
鏡の光が、アスカ氏の手で燃える小さな火の明かりで揺れた。
すこしだけ、アスカ氏が顔を上げる。
「……まずい事態になったな……」
「はい……まさかトルヴェロスが……」
「あまり気に病むことはない。だが楽観視もできない」
「承知しています」
「きみらは制限の多い中で、よくやってくれている。私たちも、時空の守護者として対処する時が来た」
「今は何をしておられるんです?」
「奪われたイワミどのの鈴鏡を封じている。時間稼ぎにしかならないが……。並行して、ストラどのがトルヴェロスたちの居場所を探っている」
「逆探知のようなものですか?」
「そういうことだ」
アスカ氏の火が、また揺らめいた。
「……トルヴェロスめ、かなり高位の術を使っているな」
「それも……そのはずです。トルヴェロスは二十二番目の世界でも、武芸に留まらずさまざまな方面で、高い才覚を発揮していました」
言いながら、わたしは目を伏せる。
「それを、わたしの補正が強めて……」
「そんなふうに自分を責めちゃだめだよ」
母が言った。
アスカ氏も、
「ケィナの言うとおりだ、ミラー・ヴォルフ」
と言って振り向く。
「異世界へ転生させる取り組みは始まったばかり……こういう異例事態は我々にも責がある」
「しかし……」
「ひとつ、頼まれてくれないか」
アスカ氏は顔を大鏡の方に戻した。
「この<儀>は日をまたいで行う。その間風呂に入れないからね……。浄化の香を焚いておいてくれないか」
「あ……わかりました」
わたしは母と共に<浄化の香>をアスカ氏の周囲で焚く。不思議な香りだった。けれど二十二番目の世界で似たにおいを嗅いだことがある。住人が入浴中の家屋が発する、湯と石鹸の混じったにおい……。それに近い香りだ。
風情もロマンも無い例えだが、わたしの軽薄な人生経験ではそれくらいしか思い浮かばなかった。
夜も更け、わたしは自室でゆっくりとする。
ふと、机の上に置いたままの、トルヴェロスの伝記が目についた。
今朝までは呑気に会ってみたいと思っていた男が、この世界を破壊しようとしているなんて。
そんなことを考え、わたしは己の掌を見た。
その時、とんとん、と優しい調子の音がする。母が戸を叩く音だ。
わたしは戸を開ける。
「何か用?」
「うん。ちょっとだけね」
母を室内に招く。
高床に腰掛けた母は、筆入れを持っていた。書霊術で使う筆のものだ。
「……あなたが小さい頃、寝間着にお祈りのメッセージ書いたことあったよね」
母がわたしの目を見る。
「覚えてる?」
「もちろんだよ……。母さんが……いなくなった後、整理してたら出てきた」
「まだ残ってたんだ」母は笑った。「まさか、あの時から書霊術師の仕事してたなんてネ」
「効果はあったよ」
「え~ホントに~?」
「嘘はつかないさ。お蔭で悪夢を見なくなった」
わたしも笑った。
「……辰美は、体操服のゼッケンに名前書く時、いつも母さんに頼んでたよね」
「よく覚えてるね~。まあ、あなた昔から記憶力良かったもんね」
「……その取り柄も、あっちの世界ではだいぶ衰えてたけどね……」
笑顔に照れが混じる。
すると母は筆入れを開けた。
「嫌じゃなかったらさ、またお祈りの言葉書いてもいい?」
「……ああ……お願いするよ」
わたしは立ち上がり、衣桁に吊ったコートを手に取る。
コートを机に乗せ、裏地が見えるように広げた。
母は椅子に座り、筆を額のすぐ前に持ってきた。
清い氣が筆に乗って、母は裏地に祈りの言葉を書く。
文字は背骨に沿うようにしたためられ、まもなくわたしのコートは守護霊気を放つ。
「ありがとう。これでこのコートはどんな鎧よりも頼もしい防具になった」
「母の愛をたっぷり込めたからネ」
言いながら母は筆を仕舞う。
「……気をつけてね。あなたの味方はたくさんいるから」
「わかってるよ」
「じゃ、戻るね。乾くまでコートはそのままにしとくんよ」
「はーい」
「おやすみ」
「おやすみ」
母はわたしの部屋を出ていった。
それからわたしは、傷が癒えるまでおとなしく過ごしつつ、守護者の方々と連絡を取り合って状況把握に専念した。
――ギリギリのところだった。
魔滅刃は、着地と同時にピラの斬撃を受け止めていた。
ピラの驚いた顔がすぐ近くにある。
「ミラー!」
背後でメーイェンの声。
「間に合った!」
わたしはピラの双剣をはじき、刺突を繰り出す。
ピラはわたしの腕に跳び乗って避け、首に斬りかかってきた。
それを払って、間合いを開ける。
地に足をつけたピラは言った。
「また会ったね、ニセヴェロスさん」
「ピラ……目的は何だ」
「ひみつ」
彼女は片目を閉じて笑う。正直、かわいらしい顔なのだが、状況不相応なふざけた態度が台無しにしていた。
「鈴鏡を……鍵の鈴鏡を奪われました……」
イワミ氏が言った。
すると、ピラは門に向けて走り出す。
逃げる気か。
わたしはピラを追い、斬撃を放った。
彼女は双剣を突き出し防ぐ。
そのまま片方を滑らせ、突いてきた。
魔滅刃を持つ腕を突き出し、踏み込んでピラを押す。
刺突はわたしに届くことなく、ピラは仰け反って留まった。
追撃に出る。狙いは脚だ。
わたしの放った一閃は、側宙で避けられた。
爪先が地につくと同時に、ピラは連撃を仕掛けてきた。
わたしはピラの攻撃を防ぎまくる。トルヴェロスの連撃に比べて速いが、軽い。傷と疲弊を差し引いても苦ではなかった。
打ち合いの最中に隙を見出し、わたしはピラの右腕を掴む。
左の剣は魔滅刃で押し下げていた。が、対処が遅れた。
ピラは左手の剣を逆手に持ち直し、刀身を滑らせる。
わたしは手を放したが、避け損ねて前腕に傷を受ける。
続けて胸を蹴られ、痛みに思わず声が出た。
ピラは後ろに跳んで距離を取った。
その時、エナが飛びかかって彼女を掴む。
「逃がすか!」
二人は地面に転がった。
エナはピラに馬乗りとなって拳を振りかぶった。
しかしピラは彼女の顔に土を投げつける。
エナは怯んで、ピラを逃してしまう。
そのままピラは壁際――ローホァンの墓標の横まで退いた。
「ニセヴェロスさんなかなかやるねぇ。妖刀を完璧に制御してる」
ピラはメーイェンを睨めつける。
「あのコとは大違い。けどローホァン以外にもいたのはびっくり」
「師を……私の師匠を知ってるんですか……?!」
メーイェンが隣まで来た。彼女は全身に刀傷を受け、耳と額から血を流していた。
「知ってるよ。あたしの大太刀を真っ二つにへし折りやがったの」
言いながらピラは双剣を前に突き出す。確かに、左右で切っ先の形が違う。一本の大太刀を双剣に仕立て直したのだろう。
「でもまあ、結果はこの通りだけどネ」
彼女はローホァンの墓標を見下ろし、片足を乗せた。
その態度に、
「コイツ……!」
わたしは歯を食いしばった。
「墓から、足をどけなさい……!」メーイェンが言った。
「え~? でもこの人あたしに負けたんだよ?」
ピラはにやにや笑いで、墓標を踏みにじる。
「足をどけなさいって言ってるでしょう……!」
「や~だよ」
「足をどけろォ!」
メーイェンは怒鳴り、暗黒の矢を放つ。
次の瞬間メーイェンの左目から血が吹き出た。
暗黒の矢は砲弾めいた巨大さだったが、狙いは逸れていた。
矢は壁を穿ち、ピラはその衝撃波に乗って塀の上まで跳んだ。
「もうちょっと闘いたかったけど、仕事は終わったから退散するネ」
そう言うと、ピラは壁の向こうへと消え去った。
我々は誰一人として、彼女を追える状態ではなかった。
わたしはまた、痛みとだるさに体を押さえつけられ、片膝をつく。
だがわたしよりも重傷なのは、メーイェンだ。
彼女のほうに振り向くと、エナが介抱してくれているのが見えた。
イワミ氏もアマノリ氏の肩を借り、片足を引きずりながら彼女に寄り添う。
エナが言った。
「メーイェン……大丈夫?」
「……私……憎いです……自分の、弱さが……」
彼女の歯が、ぎりりと軋む。
下手な慰めの言葉など、無意味なのはわかりきっていた。
「……とにかく傷の手当てだ」
エナはメーイェンを支える。
わたしもどうにか立ち上がって、後に続いた。
アマノリ氏が呼んだ医師が来てくれたのは、邸内に入ろうとした時であった。
医師の診断によると、メーイェンの傷は、ひとつひとつはさほど深くないらしい。むしろ暗黒の使いすぎのほうが深刻であった。左目は失明していて、きれいな夜色をしていた瞳は白く濁っている。
が、医師は眼帯に強めの氣を入れて呪文を記してくれた。しばらく装用を続けておけば視力は回復するとのことだ。
イワミ氏も脚をひどくやられていて、しばらくは杖が要るものの、杖無しで歩けるようになる日はそう遠くないらしい。
やはりというべきか、わたしの<核>には驚いていた。
「世の中には不思議な人もいるもんだなあ」
医師は、鳥の嘴のような保護面の裏で言った。
最後にエナの問診で、全員の処置が終わる。
わたしたちは医師に礼を言って、アマノリ氏と共に帰ってもらった。
落ち着いたところで、わたしはトルヴェロスと遭遇、交戦したことを話した。
「――よくわかりました……ありがとうございます」イワミ氏が言った。「……申し訳ありません、あなたも傷ついておられるというのに……」
「いいんです。それよりも、鈴鏡を手に入れて、トルヴェロスは何をするつもりなんでしょうか……」
「この世界から逃げるっていう口ぶりでもなかったよね」
エナが顔だけをこちらに向け、言う。
「ああ。トルヴェロスは逃走を恥だと思ってる。……ということは……」
「なるほど……」イワミ氏は眉間にしわを寄せた。「世界を創り変える気ですね」
「そんなことができるんですか?」
「……技術的には可能です」
わたしは、その言葉を聞いて眉をひそめる。技術的に可能ということは、それ以外の要素で不可能ということだ。
だが、それならなぜトルヴェロスは――。
イワミ氏は続ける。
「世界に生命が誕生し、そこから文明が築かれるには<創世龍>の力が必要です」
「じゃあトルヴェロスたちは……」
「ええ。ほぼ間違いなく、創世龍の力を奪うはず。そのために<黄昏の世界>へと行くでしょう」
「黄昏の……?」
わたしは首を傾げた。
「他の、番号付けされた世界とは違うところなんですか?」
「いえ、かつては番号付けしてありましたが、そこは数千兆年前に最後の文明が滅び、生命体が全て死に絶えた世界です」
イワミ氏は、前腕部用の支えがついた杖――ロフストランドクラッチを使って立ち上がる。
「世界の法則の基盤となっているため、時空を解体することなく残してあるんです」
「ということは、黄昏の世界は……一番目の世界――」
わたしの言葉に、イワミ氏は頷いた。
「――他の守護者に連絡します。鈴鏡は時空の守護者以外には使えないよう、呪文で戒めていますが、破られるのも時間の問題でしょう」
イワミ氏が医務室の扉に手を伸ばし、エナが立ち上がる。
「お供します。窓割れてたの、見ましたから」
「……お願いします」
「ミラー。メーイェンのこと……すこしお願いね」
「ああ。二人とも、気をつけて」
イワミ氏とエナが出てゆき、わたしはさきほどまでエナの座っていた椅子に腰掛ける。
メーイェンは、高床に横たわっていた。あらためて見ると、ほんとうに痛ましい姿だった。布団の上に出た両腕は包帯でぐるぐる巻き、頭にも同じように包帯が巻いてあり、血が滲んでいる。そして左目は眼帯で保護してあった。
わたしは長い息を吐く。自然と肩が落ちた。
「ミラー……」
「……具合はどう?」
「すこし、落ち着きました……ありがとうございます……」
メーイェンは力無く笑う。
「……何か、わたしにできることはあるかな?」
「でも、あなたも大ケガして……」
「平気さ」わたしは微笑んだ。「痛みはだいぶましになった。今はお腹が空いてるくらいだよ」
「……じゃあ……私の部屋に行って……師匠の……ローホァンの剣を持ってきてもらえませんか……?」
「……わかった」
それからわたしは、メーイェンに部屋の場所を教えてもらい、そこへ向かう。
二階の日当たりの良い場所に彼女の部屋はあった。そこだけ引き戸で、大きな取っ手が遠目からでもわかる。
戸を開けると、メーイェンがいつも漂わせている香りがわたしを迎えた。
質素な和室に、ふたつの和箪笥と、木造りの机、椅子。どれも使い込んだ焦げ茶色で、美しい木目をしている。天井からは裸電球よろしく照明球がぶら下がっていた。
ローホァンの剣は、すぐに見つかる。
剣は踏込み床に安置してあった。刀掛台に太刀のごとく立ててある。
それは双手剣ともいえる形をしていた。が、鞘も柄も闇色で、剣格や剣首といった金具は焼鉄色で、獣の牙や猛禽の爪を彷彿とさせる形をしている。いかにもな暗黒剣だ。鞘に貼ってある札からは強い封印の氣を感じる。
わたしはローホァンの剣に指を触れ、掌で包み、両手で持ち上げた。
封印が施されているためか、想像していたほどは暗黒の圧は感じない。しかしこの札をひとたび剥がせば……。
そんなことを思いながら、わたしはメーイェンのところまで戻った。
医務室の扉を開けると、彼女は床の上で自前の苗刀を見ていた。
刀身には、刃こぼれが目立っている。
「……ピラとの闘いで……?」
「ええ……」
メーイェンは、すこし顔をしかめながら、納刀する。
「ここまでボロボロにされたのは……初めてです……」
「だろうね……」
わたしはローホァンの剣を彼女に渡す。
「ありがとうございます……」
メーイェンは剣を受け取り、両腕で抱え込んだ。
深呼吸をして、眼差しが天井を向く。
虚ろな瞳だった。
わたしは言う。
「今は傷を癒そう……雪辱はそれからでも遅くはない」
「はい……」
わたしたちが解散する頃には、もう夕方となっていた。
アスカ邸に戻ると、正門で母が待ってくれていた。
「大丈夫だった?」
母は、すこし心配そうな顔をしている。
わたしは微笑み、答えた。
「母さんのお蔭で。……まあ……こっぴどくやられたけどね」
胸に手を当てた。真新しい包帯にはもう血は滲んでいない。
邸内に入ると、アスカ氏の発する氣を感じた。鏡堂からだ。
「……邪魔しちゃ悪いかな……?」
「そんなことないよ。いちおうあなたの口からも、何があったか話しときなさいな」
「わかった……」
わたしは鏡堂の扉を小さく叩き、返事を待つ。
返事はすぐ来た。
「ミラー、帰ったかい?」
「はい。ただいま戻りました……」
「入りなさい」
わたしは扉を開ける。
「失礼します」
アスカ氏の背中が見えた。法衣を着て、大鏡の前に座している。
鏡の光が、アスカ氏の手で燃える小さな火の明かりで揺れた。
すこしだけ、アスカ氏が顔を上げる。
「……まずい事態になったな……」
「はい……まさかトルヴェロスが……」
「あまり気に病むことはない。だが楽観視もできない」
「承知しています」
「きみらは制限の多い中で、よくやってくれている。私たちも、時空の守護者として対処する時が来た」
「今は何をしておられるんです?」
「奪われたイワミどのの鈴鏡を封じている。時間稼ぎにしかならないが……。並行して、ストラどのがトルヴェロスたちの居場所を探っている」
「逆探知のようなものですか?」
「そういうことだ」
アスカ氏の火が、また揺らめいた。
「……トルヴェロスめ、かなり高位の術を使っているな」
「それも……そのはずです。トルヴェロスは二十二番目の世界でも、武芸に留まらずさまざまな方面で、高い才覚を発揮していました」
言いながら、わたしは目を伏せる。
「それを、わたしの補正が強めて……」
「そんなふうに自分を責めちゃだめだよ」
母が言った。
アスカ氏も、
「ケィナの言うとおりだ、ミラー・ヴォルフ」
と言って振り向く。
「異世界へ転生させる取り組みは始まったばかり……こういう異例事態は我々にも責がある」
「しかし……」
「ひとつ、頼まれてくれないか」
アスカ氏は顔を大鏡の方に戻した。
「この<儀>は日をまたいで行う。その間風呂に入れないからね……。浄化の香を焚いておいてくれないか」
「あ……わかりました」
わたしは母と共に<浄化の香>をアスカ氏の周囲で焚く。不思議な香りだった。けれど二十二番目の世界で似たにおいを嗅いだことがある。住人が入浴中の家屋が発する、湯と石鹸の混じったにおい……。それに近い香りだ。
風情もロマンも無い例えだが、わたしの軽薄な人生経験ではそれくらいしか思い浮かばなかった。
夜も更け、わたしは自室でゆっくりとする。
ふと、机の上に置いたままの、トルヴェロスの伝記が目についた。
今朝までは呑気に会ってみたいと思っていた男が、この世界を破壊しようとしているなんて。
そんなことを考え、わたしは己の掌を見た。
その時、とんとん、と優しい調子の音がする。母が戸を叩く音だ。
わたしは戸を開ける。
「何か用?」
「うん。ちょっとだけね」
母を室内に招く。
高床に腰掛けた母は、筆入れを持っていた。書霊術で使う筆のものだ。
「……あなたが小さい頃、寝間着にお祈りのメッセージ書いたことあったよね」
母がわたしの目を見る。
「覚えてる?」
「もちろんだよ……。母さんが……いなくなった後、整理してたら出てきた」
「まだ残ってたんだ」母は笑った。「まさか、あの時から書霊術師の仕事してたなんてネ」
「効果はあったよ」
「え~ホントに~?」
「嘘はつかないさ。お蔭で悪夢を見なくなった」
わたしも笑った。
「……辰美は、体操服のゼッケンに名前書く時、いつも母さんに頼んでたよね」
「よく覚えてるね~。まあ、あなた昔から記憶力良かったもんね」
「……その取り柄も、あっちの世界ではだいぶ衰えてたけどね……」
笑顔に照れが混じる。
すると母は筆入れを開けた。
「嫌じゃなかったらさ、またお祈りの言葉書いてもいい?」
「……ああ……お願いするよ」
わたしは立ち上がり、衣桁に吊ったコートを手に取る。
コートを机に乗せ、裏地が見えるように広げた。
母は椅子に座り、筆を額のすぐ前に持ってきた。
清い氣が筆に乗って、母は裏地に祈りの言葉を書く。
文字は背骨に沿うようにしたためられ、まもなくわたしのコートは守護霊気を放つ。
「ありがとう。これでこのコートはどんな鎧よりも頼もしい防具になった」
「母の愛をたっぷり込めたからネ」
言いながら母は筆を仕舞う。
「……気をつけてね。あなたの味方はたくさんいるから」
「わかってるよ」
「じゃ、戻るね。乾くまでコートはそのままにしとくんよ」
「はーい」
「おやすみ」
「おやすみ」
母はわたしの部屋を出ていった。
それからわたしは、傷が癒えるまでおとなしく過ごしつつ、守護者の方々と連絡を取り合って状況把握に専念した。
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