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40.数学準備室
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私はプリントを片手に持ちながら、扉をノックする。
「はい、どうぞ」
中から柔らかいトーンの応えが返ってくる。
「失礼します」
私は扉をがらりと開けた。
ここは数学準備室。中には奥の机に座ったラインハルトがいた。
「すみません。課題を提出しに来ました」
本当は昨日提出するはずだったのに、地下組織騒動の件があって、すっかり私の頭の中から抜け落ちていたのだ。
うう。駄目ね、私ったら。
遅れて提出しに来たにも関わらず、ラインハルトはにこやかに迎えてくれた。
「どうぞ入ってきて」
「はい。失礼します」
私はラインハルトが座っている場所の机の横まで来る。
「遅れてしまって、すみません」
「大丈夫。こういうのは、ちゃんとやるのが大切だから。多少遅れても気にやまないでね」
やっぱりラインハルトは優しい。私はちょっと癒やされて、ほっと息を吐く。
「わからない所はなかった? 今ならほかの生徒もいないし教えてあげられるよ」
「本当ですか?」
私は嬉しさのあまり、満面の笑みを浮かべる。
ラインハルトから一対一で教えてもらえるなんて、まるでゲームの再現みたい。
「実はここなんですけど……。合ってるか自信なくて」
私はプリントの最後の問いを指す。
「ああ、ここね。これは――」
ラインハルトが懇切丁寧に教えてくれる。
私はちらっとラインハルトを盗み見た。
窓から差し込む光で、ラインハルトの茶色の髪が透けて、きらきら光っている。
陰影ができた横顔も整っていて、とても美しい。
ゲームでもこんなスチルがあったなと思う。
補習を受けに来たヒロインが、数学準備室でラインハルトに教えてもらうイベントがあった。
一対一で教えてもらうなんて、なんて贅沢なんだろうと羨ましかった覚えがある。
「――ということだよ。わかった?」
ラインハルトが説明し終えて、顔をあげる。
プリントにはきれいな文字で、わかりやすく説明書きされている。
「こう考えれば良かったんですね! ありがとうございます」
「理解できたなら、良かった」
ラインハルトが微笑む。
「はい。先生の説明は、誰が聞いてもわかりやすくて、ちゃんと頭に入ってきます。先生は本当に教えるの上手ですよね! この問題も解けて良かったです!」
「そんなに喜んでもらうと、何だか教師になって良かったなって思うよ」
ラインハルトが目を細める。
「僕が教師を目指したのも、答えがわかった時の、君のような嬉しそうな笑顔が見たかったからなんだ」
「え?」
私はちょっと目を丸くする。
「まだ教師を目指す前、ある子にものを教えたことがあってね。その子は内気であまり笑わない子だったんだけど、初めて笑ってくれた時が、わからなかった箇所が理解できた瞬間だったんだ。僕にとっては何気ないことだったけど、その子にとっては『わかること』がとても嬉しかったんだね。それから、そんなふうに人を笑顔にさせる仕事に就きたいと思って、教師になったんだよ」
それ、知ってるー! ラインハルト攻略中に出てくるエピソードよね?!
『ある子』というのは義妹のセレナのこと。両親を亡くしたばかりで、引き取られたトスカラ家にも馴染めなかった頃、セレナは一人黙々と本の世界に閉じこもる。本でわからない箇所があって困っていると、たまたま通りかかったラインハルトが話しかけてくれ、その流れで本の解説をしてくれるのだ。
まったく知らない場所にほうりこまれたせいで、そこにいる人間にも壁を感じていたセレナ。
でも、ラインハルトの暖かで穏やかな口調、丁寧に文字を辿る繊細な指先、自分にそそがれる温もりのある眼差しを知ってしまう。両親を亡くして以降初めて人の優しさに触れ、セレナの心は喜びに満たされる。ラインハルトにとっては他愛もない行動だったけど、ひとりの少女にとっては違う。恋に落ちたのだ。
ラインハルトは最後までセレナのこの時の気持ちには気づかなかったけど、攻略を進めて行くうちに、セレナのほうから、ヒロインに気持ちを打ち明けてくるのだ。
『私にとって、お兄様が全てなの! 両親がいなくなって空っぽになった私を満たしてくれたあの時から! ずっとずっとお兄様が大好きなの。あの時からずっとお兄様を好きだった私と、最近までお兄様の存在すら知らなかったあなた。そんなあなたなんかにお兄様は渡さない!』
物静かなセレナが、苛烈にヒロインをにらみつけるシーンは、陰影の演出もあって、かなり真に迫っていた。画面越しでもゾクリとした。
セレナの場面はラインハルトと仲良くなってから発生するものだ。同じく、ラインハルトから教師になるきっかけを聞くのも、ヒロインと仲よくなり始めた頃発生する話のはず。
あれ? 私、悪役令嬢なんですけど。
それとも、ちょっと話した生徒なら誰でも聞く打ち明け話なのかしら? 私、屋上で一回、ラインハルトと話してるもんね。
ええ?! それならヒロイン、特別じゃなかったの?
誰にでも気軽に教えてくれるなら、ゲームであんなキラキラな微笑み出して話さないでよ。特別な関係になれたと思って、嬉しくて勘違いしちゃったじゃん。
「よし!心を開けた!」と喜んだ当時の気分を返してほしい。
「そ、そうだったんですね。素敵なお話です。その子にとって、『わかる』ことも大事だったかもしれませんが、先生が懇切丁寧に教えてくれた態度もきっと同じくらい、いいえ、それ以上に嬉しかったと思います」
「どういうこと?」
ラインハルトが軽く目を瞠る。
「教える態度にも、その人が自分と向きあってくれているのかがちゃんと伝わってきます。先生が今、私に丁寧に教えてくれたみたいに。自分のことを想ってくれていると感じるから、相手の話を真剣に聞こうと思えるんです。そういう思いやりって、できて当たり前なことじゃないと思います。だから、そういう態度を自然にとれる先生は、やっぱり教師に向いてると思います」
私が笑顔で言い終わると、ラインハルトが虚を突かれた表情になった。
いつも生徒を励ますラインハルト。
いつも褒めてばかりだから、たまにはこっちから褒めるのも悪くないんじゃないかな。
ヒロインを大人の包容力でいつも守っていたけど、影では教師なのにヒロインを想う自分を責めていたラインハルト。
そんな弱い部分を一回だけしか見せてくれなかったラインハルトだから、私はもっと自信を持ってと言いたい。本当は沢山悩んだはず。
弱い部分を全然見せてくれないなんて、ずるい。好きになったら、そういう部分も見せてほしいんだよ。
だから、ヒロインを好きになっていいんだよ。
これから出会って、真剣に悩む未来のラインハルトに伝わるよう、私は口を開く。
この先、ヒロインと恋に落ちる未来ではそんなふうに悩まないで済むように、少しだけ力になれたらいい。
「先生はもう充分夢を叶えています。この前言いましたよね、自分は頼りないとか威厳が足りないとかって。でも、私たち生徒にとって、先生は先生が思っている以上に素晴らしい『教師』です」
私が胸を張って答えると、ラインハルトは表情を動かさないまま、無言で、こちらに向けていた体を椅子を回して机のほうへと向かせた。
肘をついて、組んだ両手の上に、額を当てて顔を俯かせる。しばらくそうしていたかと思ったら、ラインハルトが、いきなりはあと大きなため息を吐いた。
え?! 何? 失敗かしら!? せっかく自信を持ってもらおうと思ったのに、悪女の私がラインハルトを認めるような発言をするなんておこがましかったかしら。
呆れて、物も言えない状態?
「君って子は――」
耳が少し赤い気がするけど、やっぱり怒ったのかしら。
私がどぎまぎしていると、その時校舎内に予鈴が鳴り響いた。
ラインハルトが俯かせていた顔をあげる。
「――チャイムが鳴ってしまったね。そろそろ教室に戻らないと」
いつもと変わらない穏やかな口調のラインハルトに、私はほっと息を吐く。
怒りを引きづらないなんて、やっぱりできた大人ね。切り替えが早い。
目元がほんのちょっぴり赤いけど。
「はい。せっかくの休み時間を邪魔してしまって、すみませんでした」
「そんなこと――。いいんだよ。カレンさんならいつでも歓迎だよ」
ラインハルトがふんわりと笑う。
さっきまで怒ってただろうに、なんという鷹揚ぶり。これぞ、紳士ね。
「ありがとうございます! 失礼しました!」
どうせ婚約者になるなら、優しいラインハルトが良かったなとちらりと思ってしまったのが悪かったのか、扉を開いた次の瞬間、私の心臓は止まりそうになった。
「ひっ!」
そこにセレナが立っていた。
いつからそこにいたの?!
セレナが幽鬼のように、こちらを睨み据えている。
白いを通り越して、真っ直ぐな髪に縁取られた顔は青白い。こちらに恨みでもあるんじゃないかと思えるほど、その瞳の奥にある光は不吉な瞬きを放っている。
なんで?! 私、この間からライバル令嬢に睨まれっ放しじゃない? ただの偶然?
「セレナ?」
ラインハルトが扉の前にいたセレナに気づいて立ち上がった。
「お兄様!!」
セレナはこちらを突き飛ばす勢いで部屋に入ると、ラインハルトの腕に抱きつく。
「またお前は――。ここには用もないのに、来ては駄目だと伝えただろう」
幼い子供をあやすように、ラインハルトがため息混じりに言葉を紡ぐ。
「だって――」
セレナが見せつけるかのようにぎゅうぎゅうと腕にくっつきながら、こちらを見てくる。
「こら、離しなさい」
ラインハルトが腕を引き抜こうとする。
「カレンさん、この子は僕の妹のセレナ――」
「はあ」
知ってます。
「この子はちょっと癖のある子でね。あんまり周りと馴染むのが上手くないんだ」
「はい」
「悪いんだけど、一緒に教室に戻ってくれるかい」
気がすすまないけど、断る理由はない。
「――はい。かまいませんけど」
「こら、セレナ、離しなさい。お前も僕ばかりかまってないで、教室のみんなと仲良くしたらどうだい。――ほら、同じクラスのカレンさんと一緒に戻りなさい。授業に遅れてしまうよ」
後半は教師らしいやや強い口調で告げると、セレナは不承不承といった感じで手を離した。
「カレンさん、セレナをよろしく」
「はい、わかりました。――セレナさん、一緒に行きましょう」
私が目線で誘うと、セレナが一歩足を踏み出した。
無視されたらどうしようかと思ったが、素直に従うようだ。私はほっとしながら、準備室を出たのだった。
「…………」
「…………」
廊下を歩いている間、ふたりとも口をきかなかった。
人気のない廊下って、こんなに静かだっけ?
後ろからおとなしく付いてくるセレナ。
並んで歩かないから、余計話しかけにくい。気まずいわ。
さっきのラインハルトとセレナのやり取りを見ているせいか、どんな会話も無理矢理話しかけているようにしか見えないだろう。
あのやり取りを気にしない会話なんて無理!
教室までの道のりが沈黙で包まれるなか、セレナがぽつりと呟いた。
「……さない」
「え?」
私は振り返った。
「渡さないから」
セレナがきっと私を睨んだ。
「あなたなんかに渡さないから!」
叫ぶと廊下を走り出した。
私は啞然とその後ろ姿を見送る。
「何なの?」
渡さないって、ラインハルトのこと?
ゲームでもこれと同じシーンがあった。
私、ライバル認定されたってこと?
なんでじゃい!
頭を抱えたくなった。
なにをまかり間違って、ヒロインじゃなくて悪役令嬢なの。
宣言する人間、間違ってるわよ!
訂正したくて手を伸ばしても、セレナの姿はもうどこにも見当たらなかった。
これってどうなるの? って、どうにもならないかあ!
私は開き直ってあっけらかんとする。
悪役カレンがラインハルトに突入するルートなんて、そもそも初めから存在しない。何を勘違いしてそう思ったのか知らないけど、セレナも今に自分の間違いに気付くでしょ。
まあ、大丈夫よね。
それ以上深く考えるだけ無駄と思い、私も足早に教室に戻ったのだった。
「はい、どうぞ」
中から柔らかいトーンの応えが返ってくる。
「失礼します」
私は扉をがらりと開けた。
ここは数学準備室。中には奥の机に座ったラインハルトがいた。
「すみません。課題を提出しに来ました」
本当は昨日提出するはずだったのに、地下組織騒動の件があって、すっかり私の頭の中から抜け落ちていたのだ。
うう。駄目ね、私ったら。
遅れて提出しに来たにも関わらず、ラインハルトはにこやかに迎えてくれた。
「どうぞ入ってきて」
「はい。失礼します」
私はラインハルトが座っている場所の机の横まで来る。
「遅れてしまって、すみません」
「大丈夫。こういうのは、ちゃんとやるのが大切だから。多少遅れても気にやまないでね」
やっぱりラインハルトは優しい。私はちょっと癒やされて、ほっと息を吐く。
「わからない所はなかった? 今ならほかの生徒もいないし教えてあげられるよ」
「本当ですか?」
私は嬉しさのあまり、満面の笑みを浮かべる。
ラインハルトから一対一で教えてもらえるなんて、まるでゲームの再現みたい。
「実はここなんですけど……。合ってるか自信なくて」
私はプリントの最後の問いを指す。
「ああ、ここね。これは――」
ラインハルトが懇切丁寧に教えてくれる。
私はちらっとラインハルトを盗み見た。
窓から差し込む光で、ラインハルトの茶色の髪が透けて、きらきら光っている。
陰影ができた横顔も整っていて、とても美しい。
ゲームでもこんなスチルがあったなと思う。
補習を受けに来たヒロインが、数学準備室でラインハルトに教えてもらうイベントがあった。
一対一で教えてもらうなんて、なんて贅沢なんだろうと羨ましかった覚えがある。
「――ということだよ。わかった?」
ラインハルトが説明し終えて、顔をあげる。
プリントにはきれいな文字で、わかりやすく説明書きされている。
「こう考えれば良かったんですね! ありがとうございます」
「理解できたなら、良かった」
ラインハルトが微笑む。
「はい。先生の説明は、誰が聞いてもわかりやすくて、ちゃんと頭に入ってきます。先生は本当に教えるの上手ですよね! この問題も解けて良かったです!」
「そんなに喜んでもらうと、何だか教師になって良かったなって思うよ」
ラインハルトが目を細める。
「僕が教師を目指したのも、答えがわかった時の、君のような嬉しそうな笑顔が見たかったからなんだ」
「え?」
私はちょっと目を丸くする。
「まだ教師を目指す前、ある子にものを教えたことがあってね。その子は内気であまり笑わない子だったんだけど、初めて笑ってくれた時が、わからなかった箇所が理解できた瞬間だったんだ。僕にとっては何気ないことだったけど、その子にとっては『わかること』がとても嬉しかったんだね。それから、そんなふうに人を笑顔にさせる仕事に就きたいと思って、教師になったんだよ」
それ、知ってるー! ラインハルト攻略中に出てくるエピソードよね?!
『ある子』というのは義妹のセレナのこと。両親を亡くしたばかりで、引き取られたトスカラ家にも馴染めなかった頃、セレナは一人黙々と本の世界に閉じこもる。本でわからない箇所があって困っていると、たまたま通りかかったラインハルトが話しかけてくれ、その流れで本の解説をしてくれるのだ。
まったく知らない場所にほうりこまれたせいで、そこにいる人間にも壁を感じていたセレナ。
でも、ラインハルトの暖かで穏やかな口調、丁寧に文字を辿る繊細な指先、自分にそそがれる温もりのある眼差しを知ってしまう。両親を亡くして以降初めて人の優しさに触れ、セレナの心は喜びに満たされる。ラインハルトにとっては他愛もない行動だったけど、ひとりの少女にとっては違う。恋に落ちたのだ。
ラインハルトは最後までセレナのこの時の気持ちには気づかなかったけど、攻略を進めて行くうちに、セレナのほうから、ヒロインに気持ちを打ち明けてくるのだ。
『私にとって、お兄様が全てなの! 両親がいなくなって空っぽになった私を満たしてくれたあの時から! ずっとずっとお兄様が大好きなの。あの時からずっとお兄様を好きだった私と、最近までお兄様の存在すら知らなかったあなた。そんなあなたなんかにお兄様は渡さない!』
物静かなセレナが、苛烈にヒロインをにらみつけるシーンは、陰影の演出もあって、かなり真に迫っていた。画面越しでもゾクリとした。
セレナの場面はラインハルトと仲良くなってから発生するものだ。同じく、ラインハルトから教師になるきっかけを聞くのも、ヒロインと仲よくなり始めた頃発生する話のはず。
あれ? 私、悪役令嬢なんですけど。
それとも、ちょっと話した生徒なら誰でも聞く打ち明け話なのかしら? 私、屋上で一回、ラインハルトと話してるもんね。
ええ?! それならヒロイン、特別じゃなかったの?
誰にでも気軽に教えてくれるなら、ゲームであんなキラキラな微笑み出して話さないでよ。特別な関係になれたと思って、嬉しくて勘違いしちゃったじゃん。
「よし!心を開けた!」と喜んだ当時の気分を返してほしい。
「そ、そうだったんですね。素敵なお話です。その子にとって、『わかる』ことも大事だったかもしれませんが、先生が懇切丁寧に教えてくれた態度もきっと同じくらい、いいえ、それ以上に嬉しかったと思います」
「どういうこと?」
ラインハルトが軽く目を瞠る。
「教える態度にも、その人が自分と向きあってくれているのかがちゃんと伝わってきます。先生が今、私に丁寧に教えてくれたみたいに。自分のことを想ってくれていると感じるから、相手の話を真剣に聞こうと思えるんです。そういう思いやりって、できて当たり前なことじゃないと思います。だから、そういう態度を自然にとれる先生は、やっぱり教師に向いてると思います」
私が笑顔で言い終わると、ラインハルトが虚を突かれた表情になった。
いつも生徒を励ますラインハルト。
いつも褒めてばかりだから、たまにはこっちから褒めるのも悪くないんじゃないかな。
ヒロインを大人の包容力でいつも守っていたけど、影では教師なのにヒロインを想う自分を責めていたラインハルト。
そんな弱い部分を一回だけしか見せてくれなかったラインハルトだから、私はもっと自信を持ってと言いたい。本当は沢山悩んだはず。
弱い部分を全然見せてくれないなんて、ずるい。好きになったら、そういう部分も見せてほしいんだよ。
だから、ヒロインを好きになっていいんだよ。
これから出会って、真剣に悩む未来のラインハルトに伝わるよう、私は口を開く。
この先、ヒロインと恋に落ちる未来ではそんなふうに悩まないで済むように、少しだけ力になれたらいい。
「先生はもう充分夢を叶えています。この前言いましたよね、自分は頼りないとか威厳が足りないとかって。でも、私たち生徒にとって、先生は先生が思っている以上に素晴らしい『教師』です」
私が胸を張って答えると、ラインハルトは表情を動かさないまま、無言で、こちらに向けていた体を椅子を回して机のほうへと向かせた。
肘をついて、組んだ両手の上に、額を当てて顔を俯かせる。しばらくそうしていたかと思ったら、ラインハルトが、いきなりはあと大きなため息を吐いた。
え?! 何? 失敗かしら!? せっかく自信を持ってもらおうと思ったのに、悪女の私がラインハルトを認めるような発言をするなんておこがましかったかしら。
呆れて、物も言えない状態?
「君って子は――」
耳が少し赤い気がするけど、やっぱり怒ったのかしら。
私がどぎまぎしていると、その時校舎内に予鈴が鳴り響いた。
ラインハルトが俯かせていた顔をあげる。
「――チャイムが鳴ってしまったね。そろそろ教室に戻らないと」
いつもと変わらない穏やかな口調のラインハルトに、私はほっと息を吐く。
怒りを引きづらないなんて、やっぱりできた大人ね。切り替えが早い。
目元がほんのちょっぴり赤いけど。
「はい。せっかくの休み時間を邪魔してしまって、すみませんでした」
「そんなこと――。いいんだよ。カレンさんならいつでも歓迎だよ」
ラインハルトがふんわりと笑う。
さっきまで怒ってただろうに、なんという鷹揚ぶり。これぞ、紳士ね。
「ありがとうございます! 失礼しました!」
どうせ婚約者になるなら、優しいラインハルトが良かったなとちらりと思ってしまったのが悪かったのか、扉を開いた次の瞬間、私の心臓は止まりそうになった。
「ひっ!」
そこにセレナが立っていた。
いつからそこにいたの?!
セレナが幽鬼のように、こちらを睨み据えている。
白いを通り越して、真っ直ぐな髪に縁取られた顔は青白い。こちらに恨みでもあるんじゃないかと思えるほど、その瞳の奥にある光は不吉な瞬きを放っている。
なんで?! 私、この間からライバル令嬢に睨まれっ放しじゃない? ただの偶然?
「セレナ?」
ラインハルトが扉の前にいたセレナに気づいて立ち上がった。
「お兄様!!」
セレナはこちらを突き飛ばす勢いで部屋に入ると、ラインハルトの腕に抱きつく。
「またお前は――。ここには用もないのに、来ては駄目だと伝えただろう」
幼い子供をあやすように、ラインハルトがため息混じりに言葉を紡ぐ。
「だって――」
セレナが見せつけるかのようにぎゅうぎゅうと腕にくっつきながら、こちらを見てくる。
「こら、離しなさい」
ラインハルトが腕を引き抜こうとする。
「カレンさん、この子は僕の妹のセレナ――」
「はあ」
知ってます。
「この子はちょっと癖のある子でね。あんまり周りと馴染むのが上手くないんだ」
「はい」
「悪いんだけど、一緒に教室に戻ってくれるかい」
気がすすまないけど、断る理由はない。
「――はい。かまいませんけど」
「こら、セレナ、離しなさい。お前も僕ばかりかまってないで、教室のみんなと仲良くしたらどうだい。――ほら、同じクラスのカレンさんと一緒に戻りなさい。授業に遅れてしまうよ」
後半は教師らしいやや強い口調で告げると、セレナは不承不承といった感じで手を離した。
「カレンさん、セレナをよろしく」
「はい、わかりました。――セレナさん、一緒に行きましょう」
私が目線で誘うと、セレナが一歩足を踏み出した。
無視されたらどうしようかと思ったが、素直に従うようだ。私はほっとしながら、準備室を出たのだった。
「…………」
「…………」
廊下を歩いている間、ふたりとも口をきかなかった。
人気のない廊下って、こんなに静かだっけ?
後ろからおとなしく付いてくるセレナ。
並んで歩かないから、余計話しかけにくい。気まずいわ。
さっきのラインハルトとセレナのやり取りを見ているせいか、どんな会話も無理矢理話しかけているようにしか見えないだろう。
あのやり取りを気にしない会話なんて無理!
教室までの道のりが沈黙で包まれるなか、セレナがぽつりと呟いた。
「……さない」
「え?」
私は振り返った。
「渡さないから」
セレナがきっと私を睨んだ。
「あなたなんかに渡さないから!」
叫ぶと廊下を走り出した。
私は啞然とその後ろ姿を見送る。
「何なの?」
渡さないって、ラインハルトのこと?
ゲームでもこれと同じシーンがあった。
私、ライバル認定されたってこと?
なんでじゃい!
頭を抱えたくなった。
なにをまかり間違って、ヒロインじゃなくて悪役令嬢なの。
宣言する人間、間違ってるわよ!
訂正したくて手を伸ばしても、セレナの姿はもうどこにも見当たらなかった。
これってどうなるの? って、どうにもならないかあ!
私は開き直ってあっけらかんとする。
悪役カレンがラインハルトに突入するルートなんて、そもそも初めから存在しない。何を勘違いしてそう思ったのか知らないけど、セレナも今に自分の間違いに気付くでしょ。
まあ、大丈夫よね。
それ以上深く考えるだけ無駄と思い、私も足早に教室に戻ったのだった。
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