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アマリア・アルバートン/フローラ・エインズワース
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夏ももうすぐ盛りになろうという日。暑い日差しを浴びながら、公爵邸に寄せられた馬車の前に立っていた。
これまで一心に仕えてくれた者達がわざわざ揃って出てきてくれた。
一人一人と目を合わせ、手を取り、声をかけ、彼らの涙を拭って、一歩一歩と屋敷から離れた。
馬車の前にはコンラッドとリアーナが待っていた。
「この馬車は私達からの贈り物です。少々の揺れじゃ壊れませんよ。寒い日のために中で暖を取れるようにしてあります。車輪も頑丈にしましたから」
笑顔で教えてくれるコンラッドの手を取り、「ありがとう」と言い、大きな体を抱きしめた。
コンラッドは言葉にはしなかったけれど、この馬車が誰の指示で私の前にあるのかは想像がついた。
馬車の側面にいつもなら悠然と刻まれた公爵家の紋章はなかった。少し視線をずらすと御者席の横にいるダンカンと目が合った。
「奥様、僭越ながら私は奥様と共にエインズワースに骨をうずめる次第です」
「まぁ、ダンカン。あなたまで来てくれるというの?」
「私は奥様が公爵家にいらっしゃってから、奥様以外の方に仕えることはないと胸に刻んで参りました。どうぞこれからも仕えさせてください」
「ありがとう。頼もしいわ。エインズワースもいいところよ。気に入ってくれると嬉しいわ」
「ここまで使用人に慕われるのは母上くらいのものですよ」
「ふふっ、ありがとう。そんな大した人間ではないのだけれど、みんなの期待にしっかり応えられるようにこれからも精進するわ」
「お母様…どうぞ無理をなさらないでくださいね。くれぐれもお体にお気を付けください」
もう既に涙をこぼしてハンカチで拭うことすら追いつかないリアーナが鼻をすすりながら声をかけてくれた。
「リアーナこそ、体には気をつけるのよ?これからお腹がどんどん大きくなるから、歩くときも気をつけてね」
「はいっ…はい…ありがとうございます…うっ…」
リアーナの肩にそっと手を回したコンラッドがその体を抱き寄せた。寄り添いあう二人を見ると、心の中が澄み渡るようだった。
「いつでも会いに来てね。私も手紙を書くわ」
「はい、母上。ショーンのお墓は私達にお任せください。寂しくないよう会いに行きますから」
「ありがとう。私も会いに来られるように健康でいなくちゃね」
昨日、最後のお別れをしにいった公爵家の墓地のほうをコンラッドと遠目に見た。頻繁には会いに来られなくなるけれど、ずっとみんなの幸せを祈り続けたい。たとえ、どこにいようとも、一度家族になったのだから、いつまでも笑顔でいてほしい。
「いってくるわね。今まで本当にありがとう」
「いってらっしゃいませ。どうぞこれからはご自分の幸せを優先してください」
「お母様、必ず会いに参りますっ。お元気で」
ダンカンのエスコートで馬車に乗り込み、ハンナが後に続いた。窓から手を振っていると、馬車はゆっくりと動き出した。
不思議と涙は出なかった。胸にあるのは達成感とも、寂寞とも違う奇妙な感覚だった。
公爵夫人としての私はここで終わるのだとこの旅立ちで実感が湧いてきた。
笑顔でここを去れる日が来るなんて想像もしなかった。私がヘンドリック以外に誰かを愛する日が来るなんて。
アマリアとしての人生が過去のものに切り替わる瞬間なのだと、もう一度だけ車窓から公爵邸を振り返り「さようなら」と声にした。
公爵領からエインズワースまでは馬車でも7日はかかり、途中で宿を取りながら少しずつ近づいていった。
6日目に辺境領に入る最初の関所で、一度止められ、外から懐かしい声が聞こえてきた。
「フローラ様!ようこそお戻りくださいました!ヴィクトルです!」
外を伺っていたハンナが馬車のドアを開けると、そこには騎士服のヴィクトルがにこにこしながら立っていた。
「ここからは私が先導します。ご安心ください。閣下がフェネルの邸宅でお待ちです」
「まぁ、ラウルが?」
「ハンナさん、セザールは城で待ってますよ」
「いえ、私は奥様にお仕えするためにこちらに参りましたので」
「せっかくの再会なのに?」
「私はセザール様と再会を待っていたわけではっ」
「いえいえ、閣下とフローラ様との再会のことでしたが…そうですか、セザールとの再会が余程心待ちだったようで」
にやりと不敵に笑うヴィクトルにしてやられたハンナは顔を真っ赤にして席に戻ってしまった。ヴィクトルと目を合わせてくすくすと笑い、そっとヴィクトルはドアを閉めてくれた。
ガタゴトと音がして、馬車が動き始めた。関所からフェネルまでは数刻で着いた。もうすぐ日が暮れるという頃合いで、街は夜の喧騒でにぎわい始めていた。
久しぶりに訪れるフェネルの邸宅の門をくぐり、馬車が止まるとドアが開いた。
ヴィクトルのエスコートで馬車を下りると、ハンナがそれに続こうとするのを阻止するようにドアがそのまま閉められてしまった。
御者席にもう一人の男性が乗り込み、ダンカンが目を丸くしていると何か耳打ちしている。
するとダンカンが手綱を握り、馬車が再び動き出した。馬車の窓からハンナが驚いた表情で私を見ている。
「今から急げば夜には城には着きます。あいつが案内するので迷うことはないと思います」
いたずらっぽく笑うヴィクトルに少しだけ鋭い視線を送ると、頭をかきながら言いづらそうに小さな声を出した。
「俺がセザールのためにできることなんてこれぐらいなんです。頼りない兄貴分ですみません」
「…いいわ。でも女性の心の準備というものを疎かにしてはだめよ」
「はい、肝に銘じます」
「ふふっ。でもいいのよ。時には頭で考えるより、心に突き動かされるまま進むほうがいいことだってあるもの」
「ありがとうございます。相変わらず心が広くて惚れてしまいそうです、フローラ様」
今度こそおかしくて声を上げて笑ってしまった。邸宅に控えていた執事達が出てこないことを不思議に思っていると、ヴィクトルが私に向き直り、真剣な顔になった。
「閣下は奥の部屋におられます。どうぞゆっくりとお話なさってください。悪い話と良い話、両方ございます」
「悪い話…?」
不穏な言葉に背筋がぞくりと震えた。
「ヴィクトル、フローラを怖がらせるな」
はっとして振り返ると、正装を身にまとったラウルがゆっくりとこちらに歩いてきていた。
「ラウル!」
思わず駆け出し、その胸に飛び込んだ。懐かしい広くて固い胸が飛び込んだ勢いにもびくともせずに私を迎え入れてくれた。
「フローラ、よく帰ってきてくれた」
「ありがとう、ラウル。ずっと待っていてくれて」
「いいや、これくらいたいしたことではない。それより、随分短くなったんだな」
頭を撫でる指が首筋に触れ、くすぐったさを感じて笑ってしまった。
「ええ、昔の私を置いて来たの。もうフローラとして生きようと決めたから」
「そうか。エインズワースの女達のようでよく似合っている」
顔を上げると赤い瞳が真っすぐに私を見下ろしていた。その頬に手を添え、久しぶりの感触を味わった。
「ラウル、悪い話とはいったい何なの?」
一瞬、体が強張ったけれど、ラウルは小さく息を吐いてゆっくりと話し始めた。
「フローラがここを離れる前に戦闘があったろう。その時、矢で首元を切ったんだ。傷は回復したと思っていたんだが、どうやら遅効性の毒が塗ってあったようでな…」
「毒…?」
ラウルの首元に指を滑らせ、どこの傷跡かと必死に探った。
すると後ろでヴィクトルが説明を始めた。
「閣下はすぐにフローラ様の後を追ったので、傷の処置が完全ではなかったんです。途中で体の調子がおかしくなって。アンドリューとセザールと合流したときに異変に気付いて処置をしたそうなんですが」
「迎えに行くのが遅れてすまなかった。俺が早く着いていればあんなことにもならなかったのに」
「いいえ、いいえ、そんなことはどうでもいいの。どこか、まだ後遺症が残っているんじゃない?」
「…ああ。左腕が時折痛む。剣を握っていても、突然握力が弱まるようになったんだ」
「なんてこと…」
ラウルの左手から肩にかけてゆっくりと触り、異変を感じ取ろうとしたけれど、服の上からでは感じ取れなかった。
私のせいで万全な治療を受けられなかったために負った傷だと思うと胸が締め付けられるような思いだった。ラウルは騎士として、戦士として、常に最前線で戦い、その背中で全てを引っ張り続けてきたのに。その誇りを傷つけるようなことになってしまった。
「ヴィクトル…このことは俺が話すと言っただろう。フローラが気にするからどうやって伝えるか考えていると言ったはずだが」
「はいはい、余計なお世話をしました。閣下がまた変な気を回してフローラ様を手放すおつもりかと思いまして」
「え…?」
言葉の真意がつかめずにラウルを見上げるとぎくしゃくと視線をそらされた。
「ラウル?どういうことなの?」
「俺はフローラと離れる気など微塵もない。だが、フローラは選べる。俺は以前のように戦えない。指揮はとれても、前線で戦えば足を引っ張る存在になってしまったんだ」
「あなたが戦えても、戦えなくても、ラウルがラウルであることに変わりはないわ」
ラウルの両頬に手を添えて、ゆっくりと視線を合わせた。
「本当に、肝心なところで臆病になるのね。そんなことを心配していたの?私はラウルと生きるためにここへ帰って来たのに」
「すまない。フローラの気持ちを疑っていたわけじゃないんだ」
「そーなんですよ。初恋なんで、フローラ様とのことになるとほんと途端にだめになるんですよ。これまで全戦全勝の戦術を打ち立ててきたのは一体同一人物なのかと疑いたくなっちゃいますよねー」
「ヴィクトル…いつまでそこで見ているつもりだ…」
「はいはーい。あっ、フローラ様、良いお話ってのはですね。閣下はもう前線には立ちません。しばらくは副官が代理を務めますけど、そのうちセザールに代わります。だからもう、閣下の帰りを待つ心配はありませんよ。これからはそばにいてやってください。ずっと…ずっとお一人で全てを背負って走り続けてきた方なので、どうかこれからは二人でゆっくりと。それがエインズワース全員の願いです。じゃっ、俺も城に帰ります!セザールが暴走したときに止められるのは俺くらいのもんですからね!」
ヴィクトルが軽やかに走り出し、門近くにつないでいた馬に跨り、手を振った。
「閣下!数日くらい休んでもらっても平気ですから!ごゆっくり!」
その声とほぼ同時に馬の腹を蹴り、風のようにあっという間に走り去ってしまった。
ラウルの変わらずたくましい腕に包まれながら、夜風の心地よさを感じていた。その腕に少しだけ力が込められ、ふと顔を見上げるとラウルが口の端を少しだけ上げて私を見下ろしていた。
私はこの微かな表情の変化を知っている。ラウルが私にだけ見せる彼の笑顔が心を満たしていく。
「やっと帰ってこられたわ、ラウル。私はこれから先ずっと、あなたの隣で生きていたい」
ラウルが私の額に口づけすると、片膝をついてひざまづき、私の左手を優しく手に取った。
「俺が愛するのもフローラただ一人だ。決してそれを裏切らず、生涯を共にすることをここに誓う。フローラ、俺の妻になってくれるか」
「ええ、もちろん。ありがとう。どんな私であっても変わらずに受け入れてくれて」
ラウルは胸の内ポケットに手を差し込み、何かを取り出した。それを目で追っていると、左手の薬指にするっと指輪がはめられた。金色の台座には赤と青の宝石が隣り合って輝いていた。
私を見上げ、いつも以上に優しい目をした赤い輝きが月明りで反射した。
「ありがとう。こんな素敵な贈り物まで用意してくれていたのね」
ラウルはすっと立ち上がり軽々と私を抱き上げ、左腕に乗せてのしのしと歩き出した。
「ラウル?左腕は後遺症があるのではないの?」
「ああ。力が入らなくなったときのためにこうして腕を体につけているだろう?後遺症があるとわかってからは左腕も更に鍛えたがやはり前のようには感覚は戻らなかったがな」
「…そう。ラウルの言う前の感覚というのはきっと騎士三人分ほどの力のことなんでしょうね…私を軽々と抱えて歩けるのですもの…」
「フローラを抱えて歩くのくらいはなんてことはない。戦場での機敏さとは関係ないからな。まぁ、でもこれからは訓練の指揮官として過ごすことになるだろうな」
「それは…益々騎士団が強くなりそうね…」
以前もラウルが訓練と時々つけるとぐったりとしていた騎士達を思い起こして憐憫の思いが湧いた。
「多少は勝手が違ってまだ違和感はあるが、左腕だけで済んでよかった。だから心配するな。フローラを夜通し抱くことも何の支障もない」
ふと現実に引き戻された言葉に一瞬で頬が染まってしまう。
「そんなことを心配していませんっ」
つい声を荒げてしまし、気恥ずかしさもあり、おずおずと視線を合わせると、赤い瞳が細められた。
「そうか。そんなに期待して待ってくれていたのならそれに応えられることを今夜証明してやらないとな」
「もうっ、そんなこと言っていないでしょう?」
ラウルが声を上げて笑うのを見て、愛おしさがこみ上げてきた。私が自分の足で生きることを支えてくれた人。私が自分の意思で愛する人を求め、そしてそれを受け入れてくれた人。何も持たないありのままの私でも、公爵夫人であるという事実がわかってからも、どんな障壁があろうとそれを乗り越え、救い出し、待ち続けてくれたあなたと私は共に生きていく。奇跡のような一瞬を重ねて、それが私達の人生になっていく。
「フローラ、愛している」
ラウルの肩に両手を置き、その想いに応えるように唇を重ねた。ラウルに愛されることの幸せはこの上ない喜びを私に与えてくれる。
「私もよ、ラウル。愛しているわ」
ラウルの腕に抱えられたままきつく抱きしめられ、お互いの温もりを感じ合った。この瞬間を永遠に忘れることのないよう胸に刻み込んだ。
私達の新しい日々はやっと今から始まる。
嬉しくてこぼれる涙を、ラウルの指が払ってくれる。額をつけ、微笑み合った。
「ラウル、下ろして?私、あなたの隣を自分の足で歩きたいの」
「ああ、もちろんだ」
ラウルの横に並びその手を絡ませ合い、一歩ずつ屋敷へと進んでいくと屋敷の入口にメレルやマーリーンの姿を見つけ、その目が潤んでいるのに気づいた。
絡ませた指に力を入れ、ラウルを見上げた。
「エインズワースで生きるのだと少しずつ実感してきたわ」
「感謝している。大きな決断をしてくれたことに」
「いいえ、感謝しているのは私のほうよ。これからもずっと一緒に生きていきましょう」
ラウルが力強く頷いたのを見て、私達は開かれた扉へと足を進めた。
共に生きる未来が幸せに満ちたものになるように、私はこれからも全てを慈しむことを心に誓いながら。
これまで一心に仕えてくれた者達がわざわざ揃って出てきてくれた。
一人一人と目を合わせ、手を取り、声をかけ、彼らの涙を拭って、一歩一歩と屋敷から離れた。
馬車の前にはコンラッドとリアーナが待っていた。
「この馬車は私達からの贈り物です。少々の揺れじゃ壊れませんよ。寒い日のために中で暖を取れるようにしてあります。車輪も頑丈にしましたから」
笑顔で教えてくれるコンラッドの手を取り、「ありがとう」と言い、大きな体を抱きしめた。
コンラッドは言葉にはしなかったけれど、この馬車が誰の指示で私の前にあるのかは想像がついた。
馬車の側面にいつもなら悠然と刻まれた公爵家の紋章はなかった。少し視線をずらすと御者席の横にいるダンカンと目が合った。
「奥様、僭越ながら私は奥様と共にエインズワースに骨をうずめる次第です」
「まぁ、ダンカン。あなたまで来てくれるというの?」
「私は奥様が公爵家にいらっしゃってから、奥様以外の方に仕えることはないと胸に刻んで参りました。どうぞこれからも仕えさせてください」
「ありがとう。頼もしいわ。エインズワースもいいところよ。気に入ってくれると嬉しいわ」
「ここまで使用人に慕われるのは母上くらいのものですよ」
「ふふっ、ありがとう。そんな大した人間ではないのだけれど、みんなの期待にしっかり応えられるようにこれからも精進するわ」
「お母様…どうぞ無理をなさらないでくださいね。くれぐれもお体にお気を付けください」
もう既に涙をこぼしてハンカチで拭うことすら追いつかないリアーナが鼻をすすりながら声をかけてくれた。
「リアーナこそ、体には気をつけるのよ?これからお腹がどんどん大きくなるから、歩くときも気をつけてね」
「はいっ…はい…ありがとうございます…うっ…」
リアーナの肩にそっと手を回したコンラッドがその体を抱き寄せた。寄り添いあう二人を見ると、心の中が澄み渡るようだった。
「いつでも会いに来てね。私も手紙を書くわ」
「はい、母上。ショーンのお墓は私達にお任せください。寂しくないよう会いに行きますから」
「ありがとう。私も会いに来られるように健康でいなくちゃね」
昨日、最後のお別れをしにいった公爵家の墓地のほうをコンラッドと遠目に見た。頻繁には会いに来られなくなるけれど、ずっとみんなの幸せを祈り続けたい。たとえ、どこにいようとも、一度家族になったのだから、いつまでも笑顔でいてほしい。
「いってくるわね。今まで本当にありがとう」
「いってらっしゃいませ。どうぞこれからはご自分の幸せを優先してください」
「お母様、必ず会いに参りますっ。お元気で」
ダンカンのエスコートで馬車に乗り込み、ハンナが後に続いた。窓から手を振っていると、馬車はゆっくりと動き出した。
不思議と涙は出なかった。胸にあるのは達成感とも、寂寞とも違う奇妙な感覚だった。
公爵夫人としての私はここで終わるのだとこの旅立ちで実感が湧いてきた。
笑顔でここを去れる日が来るなんて想像もしなかった。私がヘンドリック以外に誰かを愛する日が来るなんて。
アマリアとしての人生が過去のものに切り替わる瞬間なのだと、もう一度だけ車窓から公爵邸を振り返り「さようなら」と声にした。
公爵領からエインズワースまでは馬車でも7日はかかり、途中で宿を取りながら少しずつ近づいていった。
6日目に辺境領に入る最初の関所で、一度止められ、外から懐かしい声が聞こえてきた。
「フローラ様!ようこそお戻りくださいました!ヴィクトルです!」
外を伺っていたハンナが馬車のドアを開けると、そこには騎士服のヴィクトルがにこにこしながら立っていた。
「ここからは私が先導します。ご安心ください。閣下がフェネルの邸宅でお待ちです」
「まぁ、ラウルが?」
「ハンナさん、セザールは城で待ってますよ」
「いえ、私は奥様にお仕えするためにこちらに参りましたので」
「せっかくの再会なのに?」
「私はセザール様と再会を待っていたわけではっ」
「いえいえ、閣下とフローラ様との再会のことでしたが…そうですか、セザールとの再会が余程心待ちだったようで」
にやりと不敵に笑うヴィクトルにしてやられたハンナは顔を真っ赤にして席に戻ってしまった。ヴィクトルと目を合わせてくすくすと笑い、そっとヴィクトルはドアを閉めてくれた。
ガタゴトと音がして、馬車が動き始めた。関所からフェネルまでは数刻で着いた。もうすぐ日が暮れるという頃合いで、街は夜の喧騒でにぎわい始めていた。
久しぶりに訪れるフェネルの邸宅の門をくぐり、馬車が止まるとドアが開いた。
ヴィクトルのエスコートで馬車を下りると、ハンナがそれに続こうとするのを阻止するようにドアがそのまま閉められてしまった。
御者席にもう一人の男性が乗り込み、ダンカンが目を丸くしていると何か耳打ちしている。
するとダンカンが手綱を握り、馬車が再び動き出した。馬車の窓からハンナが驚いた表情で私を見ている。
「今から急げば夜には城には着きます。あいつが案内するので迷うことはないと思います」
いたずらっぽく笑うヴィクトルに少しだけ鋭い視線を送ると、頭をかきながら言いづらそうに小さな声を出した。
「俺がセザールのためにできることなんてこれぐらいなんです。頼りない兄貴分ですみません」
「…いいわ。でも女性の心の準備というものを疎かにしてはだめよ」
「はい、肝に銘じます」
「ふふっ。でもいいのよ。時には頭で考えるより、心に突き動かされるまま進むほうがいいことだってあるもの」
「ありがとうございます。相変わらず心が広くて惚れてしまいそうです、フローラ様」
今度こそおかしくて声を上げて笑ってしまった。邸宅に控えていた執事達が出てこないことを不思議に思っていると、ヴィクトルが私に向き直り、真剣な顔になった。
「閣下は奥の部屋におられます。どうぞゆっくりとお話なさってください。悪い話と良い話、両方ございます」
「悪い話…?」
不穏な言葉に背筋がぞくりと震えた。
「ヴィクトル、フローラを怖がらせるな」
はっとして振り返ると、正装を身にまとったラウルがゆっくりとこちらに歩いてきていた。
「ラウル!」
思わず駆け出し、その胸に飛び込んだ。懐かしい広くて固い胸が飛び込んだ勢いにもびくともせずに私を迎え入れてくれた。
「フローラ、よく帰ってきてくれた」
「ありがとう、ラウル。ずっと待っていてくれて」
「いいや、これくらいたいしたことではない。それより、随分短くなったんだな」
頭を撫でる指が首筋に触れ、くすぐったさを感じて笑ってしまった。
「ええ、昔の私を置いて来たの。もうフローラとして生きようと決めたから」
「そうか。エインズワースの女達のようでよく似合っている」
顔を上げると赤い瞳が真っすぐに私を見下ろしていた。その頬に手を添え、久しぶりの感触を味わった。
「ラウル、悪い話とはいったい何なの?」
一瞬、体が強張ったけれど、ラウルは小さく息を吐いてゆっくりと話し始めた。
「フローラがここを離れる前に戦闘があったろう。その時、矢で首元を切ったんだ。傷は回復したと思っていたんだが、どうやら遅効性の毒が塗ってあったようでな…」
「毒…?」
ラウルの首元に指を滑らせ、どこの傷跡かと必死に探った。
すると後ろでヴィクトルが説明を始めた。
「閣下はすぐにフローラ様の後を追ったので、傷の処置が完全ではなかったんです。途中で体の調子がおかしくなって。アンドリューとセザールと合流したときに異変に気付いて処置をしたそうなんですが」
「迎えに行くのが遅れてすまなかった。俺が早く着いていればあんなことにもならなかったのに」
「いいえ、いいえ、そんなことはどうでもいいの。どこか、まだ後遺症が残っているんじゃない?」
「…ああ。左腕が時折痛む。剣を握っていても、突然握力が弱まるようになったんだ」
「なんてこと…」
ラウルの左手から肩にかけてゆっくりと触り、異変を感じ取ろうとしたけれど、服の上からでは感じ取れなかった。
私のせいで万全な治療を受けられなかったために負った傷だと思うと胸が締め付けられるような思いだった。ラウルは騎士として、戦士として、常に最前線で戦い、その背中で全てを引っ張り続けてきたのに。その誇りを傷つけるようなことになってしまった。
「ヴィクトル…このことは俺が話すと言っただろう。フローラが気にするからどうやって伝えるか考えていると言ったはずだが」
「はいはい、余計なお世話をしました。閣下がまた変な気を回してフローラ様を手放すおつもりかと思いまして」
「え…?」
言葉の真意がつかめずにラウルを見上げるとぎくしゃくと視線をそらされた。
「ラウル?どういうことなの?」
「俺はフローラと離れる気など微塵もない。だが、フローラは選べる。俺は以前のように戦えない。指揮はとれても、前線で戦えば足を引っ張る存在になってしまったんだ」
「あなたが戦えても、戦えなくても、ラウルがラウルであることに変わりはないわ」
ラウルの両頬に手を添えて、ゆっくりと視線を合わせた。
「本当に、肝心なところで臆病になるのね。そんなことを心配していたの?私はラウルと生きるためにここへ帰って来たのに」
「すまない。フローラの気持ちを疑っていたわけじゃないんだ」
「そーなんですよ。初恋なんで、フローラ様とのことになるとほんと途端にだめになるんですよ。これまで全戦全勝の戦術を打ち立ててきたのは一体同一人物なのかと疑いたくなっちゃいますよねー」
「ヴィクトル…いつまでそこで見ているつもりだ…」
「はいはーい。あっ、フローラ様、良いお話ってのはですね。閣下はもう前線には立ちません。しばらくは副官が代理を務めますけど、そのうちセザールに代わります。だからもう、閣下の帰りを待つ心配はありませんよ。これからはそばにいてやってください。ずっと…ずっとお一人で全てを背負って走り続けてきた方なので、どうかこれからは二人でゆっくりと。それがエインズワース全員の願いです。じゃっ、俺も城に帰ります!セザールが暴走したときに止められるのは俺くらいのもんですからね!」
ヴィクトルが軽やかに走り出し、門近くにつないでいた馬に跨り、手を振った。
「閣下!数日くらい休んでもらっても平気ですから!ごゆっくり!」
その声とほぼ同時に馬の腹を蹴り、風のようにあっという間に走り去ってしまった。
ラウルの変わらずたくましい腕に包まれながら、夜風の心地よさを感じていた。その腕に少しだけ力が込められ、ふと顔を見上げるとラウルが口の端を少しだけ上げて私を見下ろしていた。
私はこの微かな表情の変化を知っている。ラウルが私にだけ見せる彼の笑顔が心を満たしていく。
「やっと帰ってこられたわ、ラウル。私はこれから先ずっと、あなたの隣で生きていたい」
ラウルが私の額に口づけすると、片膝をついてひざまづき、私の左手を優しく手に取った。
「俺が愛するのもフローラただ一人だ。決してそれを裏切らず、生涯を共にすることをここに誓う。フローラ、俺の妻になってくれるか」
「ええ、もちろん。ありがとう。どんな私であっても変わらずに受け入れてくれて」
ラウルは胸の内ポケットに手を差し込み、何かを取り出した。それを目で追っていると、左手の薬指にするっと指輪がはめられた。金色の台座には赤と青の宝石が隣り合って輝いていた。
私を見上げ、いつも以上に優しい目をした赤い輝きが月明りで反射した。
「ありがとう。こんな素敵な贈り物まで用意してくれていたのね」
ラウルはすっと立ち上がり軽々と私を抱き上げ、左腕に乗せてのしのしと歩き出した。
「ラウル?左腕は後遺症があるのではないの?」
「ああ。力が入らなくなったときのためにこうして腕を体につけているだろう?後遺症があるとわかってからは左腕も更に鍛えたがやはり前のようには感覚は戻らなかったがな」
「…そう。ラウルの言う前の感覚というのはきっと騎士三人分ほどの力のことなんでしょうね…私を軽々と抱えて歩けるのですもの…」
「フローラを抱えて歩くのくらいはなんてことはない。戦場での機敏さとは関係ないからな。まぁ、でもこれからは訓練の指揮官として過ごすことになるだろうな」
「それは…益々騎士団が強くなりそうね…」
以前もラウルが訓練と時々つけるとぐったりとしていた騎士達を思い起こして憐憫の思いが湧いた。
「多少は勝手が違ってまだ違和感はあるが、左腕だけで済んでよかった。だから心配するな。フローラを夜通し抱くことも何の支障もない」
ふと現実に引き戻された言葉に一瞬で頬が染まってしまう。
「そんなことを心配していませんっ」
つい声を荒げてしまし、気恥ずかしさもあり、おずおずと視線を合わせると、赤い瞳が細められた。
「そうか。そんなに期待して待ってくれていたのならそれに応えられることを今夜証明してやらないとな」
「もうっ、そんなこと言っていないでしょう?」
ラウルが声を上げて笑うのを見て、愛おしさがこみ上げてきた。私が自分の足で生きることを支えてくれた人。私が自分の意思で愛する人を求め、そしてそれを受け入れてくれた人。何も持たないありのままの私でも、公爵夫人であるという事実がわかってからも、どんな障壁があろうとそれを乗り越え、救い出し、待ち続けてくれたあなたと私は共に生きていく。奇跡のような一瞬を重ねて、それが私達の人生になっていく。
「フローラ、愛している」
ラウルの肩に両手を置き、その想いに応えるように唇を重ねた。ラウルに愛されることの幸せはこの上ない喜びを私に与えてくれる。
「私もよ、ラウル。愛しているわ」
ラウルの腕に抱えられたままきつく抱きしめられ、お互いの温もりを感じ合った。この瞬間を永遠に忘れることのないよう胸に刻み込んだ。
私達の新しい日々はやっと今から始まる。
嬉しくてこぼれる涙を、ラウルの指が払ってくれる。額をつけ、微笑み合った。
「ラウル、下ろして?私、あなたの隣を自分の足で歩きたいの」
「ああ、もちろんだ」
ラウルの横に並びその手を絡ませ合い、一歩ずつ屋敷へと進んでいくと屋敷の入口にメレルやマーリーンの姿を見つけ、その目が潤んでいるのに気づいた。
絡ませた指に力を入れ、ラウルを見上げた。
「エインズワースで生きるのだと少しずつ実感してきたわ」
「感謝している。大きな決断をしてくれたことに」
「いいえ、感謝しているのは私のほうよ。これからもずっと一緒に生きていきましょう」
ラウルが力強く頷いたのを見て、私達は開かれた扉へと足を進めた。
共に生きる未来が幸せに満ちたものになるように、私はこれからも全てを慈しむことを心に誓いながら。
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