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アマリア・アルバートン/フローラ・エインズワース
【閑話】とある女の愛執 ※
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私の母は貧しい農家の娘だったそうだ。しかし、その美貌は村の中では別格と言われ、幼い頃から褒めそやされ、愛されていたと聞いた。やがて年頃になると男共がかしづき、多くの贈り物と甘い言葉で母を誘ってきたという。母は自分の価値に気づき、決して安い男にその身を任せることはなかったそうだ。
大きな街へ働き口を見つけて移住してからは、お針子やメイドをしていたらしい。
そして、メイドをしていた大きな商家の跡取りに見初められて、家族からの大反対を押し切って結婚し、私を身ごもった。
女が生まれたことに文句を言う声も上がったそうだが、母は私を出産したその年にまた妊娠し、翌年には弟を産んだ。そして、その2年後にもまた弟が生まれた。
跡取りを産むことへの責任を果たし、母の存在はその家の中でも大きくなっていった。
祖母が死ぬと屋敷の女主人として更に力を増していった。
弟達には幼い頃から家庭教師をつけ、貴族も通うアカデミーに入学させることを狙っていた。
弟達は勉強が嫌いで、家庭教師から出された宿題を私に押し付けては遊び回っていた。私は部屋でそれを解きながら、自分が学ぶことが好きなのだと気づいた。上の弟のときに学んだことを、下の弟のときに忘れていることに気づいては学び直したりして独学で勉強をした。
両親は、母に似て美しい金髪と青い瞳、白い肌を持つ私を誇りに思ってくれていたが、それは外見的な美しさのためだけで、中身など気にかけてはいなかった。裁縫やお花に詳しくなることは喜ばれても、知識を豊富につけることは決していい顔をしなかった。だから、こっそり隠れて勉強していた。
我が家の商売はどんどん大きくなり、爵位を買う手はずまで整え始めていた。
私にはアカデミーなんてもったいないと言っていた両親に「そこで貴族の結婚相手を見つけてくるため」と説得してなんとか入学した。
でも、そこで貴族と裕福な平民の明らかな違いを目の当たりにして、弟達がこの生粋の貴族を相手にやっていけるものなのかと不安に思うことさえあった。
アカデミーに入学して2年が経った頃、両親から縁談の話がきた。まだ16歳だった私に、50歳の子爵との結婚を推し進めていることを知り、愕然とした。
子爵は既に夫人を病気で亡くされており、子どもは25歳と23歳の息子がいて、跡取りも決まっていた。今更妻をもらう意味もないはずだし、息子と結婚してもおかしくないほどの年齢差なのに、そのあさましさが気持ち悪かった。
長期休暇で家に帰ると子爵との顔合わせをするからと言われ、両親と子爵邸から来た馬車に揺られて向かった。
貴族の家というからどんなに豪華なものなのだろうかと想像していたが、門も屋敷も大きいけれど、庭も屋敷の中も手入れが行き届いていなかった。使用人の数も私達の家のほうが多いと思うほどだった。
玄関まで出迎えてくれたのは、子爵と若い息子二人。全員が茶色い髪に茶色い瞳、子爵は年齢のせいか丸々と太っていたし、不健康そうな顔色だった。息子達もにやけた顔がそっくりで、正直嫌悪感しか持てなかった。
父母は息子達と食堂へと案内されたのに、私は「親睦を深めるため」と子爵と二人きりで別の部屋へと案内された。
子爵がドアを開け、私が先に中に入ると扉が閉められた上に鍵をかけられた音がした。はっとして振り返ると子爵が気味の悪い笑みを浮かべていた。
慌てて逃げようと窓へ急ぐ私の腕を引っ張り、ぐいぐいと部屋の奥へと向かう。そこには大きなベッドがあり、それが何を意味するのかすぐにわかった。
私は、両親に売られたのだ
私は愚かだった。貧乏貴族が爵位をちらつかせて両親を丸め込んだに違いなかった。
多額のお金を積んで爵位を得るより、伝統的に持っている爵位のあるところへ娘を嫁に出すことのほうが良いとでも思ったのだろう。
そして、平民の女など婚前に何が起きてもよいのだといわんばかりの態度に震えた。しかし、私のプライドが泣くことを許さなかった。
子爵はいとも簡単に私のドレスをはぎ取り、私を思うままに犯した。処女であることへの配慮など一切なかった。
事が終わり、ベッドで放心している私を置いて子爵は扉を叩き、外から鍵を開ける音がすると無言で出て行った。
のろのろと体を起こし、散らばった下着やドレスのありかを目で追っていたときだった。
再び扉が開き、息子達が入って来た。
「父上はあなたが気に入ったそうだ。このまま縁談を進めると言っていた」
「私達がこの結婚に賛成した理由はただ一つ。若い母親が手に入るからだ。父上も了承してくれている」
その言葉の意味は全くわからなかった。しかし、彼らが襟元を解きながら私に近づいてきたときに理解した。この屋敷で私を抱くのは子爵一人ではないのだと。
私が慰み者になっている間中、両親は子爵邸で自分たちが持参したワインを飲み、今後のことを話し合っていた。私はその長期休暇中一度も家に帰れることはなかった。
私の自由など何も認められなかったが、子爵達の「アカデミーなど卒業する意味はない。すぐに退学させろ」と言う言葉だけは飲めなかった。両親にもアカデミーを卒業させないならナイフで喉を掻っ切ると宣言して強硬手段に出た。
事を荒立てたくなかった両親は「婚姻前の最後のときを謳歌させてやってください。長期休暇はこちらによこしますから」と子爵達を納得させていた。
私は長期休暇の終わりをわざと数日早めに言うことを覚え、アカデミーの寮で静かに過ごしながら自分の身に起きた悲劇を忘れようとしていた。もうここを出れば娼婦同然の扱いを受け、このアカデミーで学んだことも無駄になるのかと思うと悔しかった。それでも、今まで築き上げたものが空っぽになるのかと思うとそれも怖くて、結局図書館で同じように勉強を続けていた。それでも、アカデミーで変わりのない日々を送ることが心の平穏をもたらしてくれた。
図書館で過ごすうちに長期休暇でも家に戻らない珍しい貴族の存在を知った。公爵家の跡取りという、私とは天と地ほどの違いを持つ存在だった。黒い髪に黒い瞳。三つ下だというのに体つきはたくましく、長身で、遠くからでもその美しさははっきりとわかるほどだった。
ああ、こういう人が貴族なのだとそう思っていたのに…ふと子爵邸のことを思い出されて身震いした。
めまいを覚えた私を咄嗟に彼が支えてくれたのが私達の出会いだった。彼はコンラッド・アルバートン。
それから私が授業のことを教えたり、逆に教えてもらったり、とても充実した時間を過ごしていた。
図書館以外では特に接点を持とうとも思っていなかったから、彼がどんな風にアカデミーで過ごしているのかは知らなかったし、彼も自分のことを多く語らなかったから私生活のことなど全くわからなかった。
でも、私は両親の話をしたくなかったし、クラスにいる貴族たちがひけらかすように家族やパーティのことを話すのが不快だったから彼のそのような態度が好ましかった。
でも、ある日私達の関係は決定的に変わった。
それはまた長期休暇を早めに終わらせアカデミーの寮に戻って来たときのことだった。
珍しく彼が家に帰って過ごしていることを司書から聞いて、本を数冊持って寮の部屋に戻り、灯りをつけて本を読んでいた。本に夢中になり、深夜になっていることにも気づかなかった。突然窓を叩かれ、びくりとして本を床に落とした。
慌てて窓を見ると、彼がバルコニーに立っていた。ここは2階なのにどうして、と疑問に思いつつも窓を開けると、彼は真剣な表情のまま私を突然抱きしめた。
何が起こっているのかわからなかったが、幼い弟達を抱きしめて落ち着かせたことを思い出し、背中に腕を回した。しかし、弟達とは比べ物にならない体に胸がずくりと沸いた。
その時唐突に理解した。私は、彼が好きなのだと。
「リア…俺がすることを許してくれるか…」
覗き込んだ彼の瞳の奥にある欲望を私ははっきりと体で感じた。私の心は昂揚していた。急いで窓を閉めてカーテンでしっかりと覆った。
そして着ていたものを次々と脱いでいった。自分からそんなことをしたのは初めてだった。それほどに彼がほしかった。彼の衣服をはぎ取り、ベッドにもつれるように倒れこんだ。
彼の触り方もキスの仕方も全部が優しかった。私を気遣ってくれていた。こんなに幸せなことはないと思った。
どうして彼が突然私を求めたのか、私に少しでも好意を持ってくれていたのか、それともただの一時的な感情からなのかはわからなかった。
それでも私の心と体が満たされたのは初めてだった。
行為が終わった後に私の体は辛くないかと聞き、無理をさせたと謝罪してくれたのは彼が初めてだった。
それからアカデミーにいる間は彼と体を重ねることが続いた。彼が寮に忍び込んだり、図書館に隠れた場所でつながったことさえある。背徳感に酔いしれていたわけではない。ただ自分の中にある激情を抑えきれなかった。
汚れた男達に抱かれる記憶を全て彼で消してしまいたかった。
アカデミーを卒業する前には連日のように抱いてもらった。もう会えない。もう抱かれることはない。その事実を一瞬でも消し去りたかった。
アカデミーと彼の元を去るとき、私はちゃんと笑えていたと思う。
そして、私は子爵と懇意の男爵家の養女となった後に子爵夫人となり、子爵邸の女主人となった。
子爵邸では当然のように子爵と息子達にいい様にされた。養父の男爵までもが養母の目を盗んで子爵邸に来ては私を弄んだ。
これが私の人生なのかと歯を食いしばることはあっても決して涙を流さなかった。
必死に貴族のことを学び、お茶会で知り合った年配のアクランド伯爵夫人になぜかいたく気に入られ、侍女として屋敷で学び礼儀作法と身につけなさいとおっしゃってくださった。
伯爵夫人の申し出に子爵達は強く出られず、また子爵の長男が妻を取り、女主人の座を欲しがっていたことと、これまでの関係を妻にばらされないために体よく厄介払いをされた。
伯爵家は既に旦那様はお亡くなりになっていて、長男が跡取りだが、まだ留学しているので広大なお屋敷には伯爵夫人一人だった。多くの使用人がいる中でも、娘のように温かく接してくださり、色々なお茶会や夜会にも同行させていただいた。私のためにドレスもあしらってくださって本当に幸せな日々だった。
ある夜、盛大なパーティに伯爵夫人のお伴をさせていただいたときだった。
一瞬、彼と見間違うほどの美しい男性がいた。そして、その横には金髪碧眼の透き通るほどの肌のご婦人がいらした。
「あらあら、今夜はご夫婦でいらっしゃったのね、珍しいわ」
伯爵夫人が私の視線の先のお二人を見ておっしゃった。そして私にそっと耳打ちした。
「あのお二人はね、ヘンドリック・アルバートン公爵とアマリア・アルバートン公爵夫人よ」
どくんと心臓が跳ねた。彼とそっくりの容姿だと思っていたが、あの二人が彼のご両親…
ふと私達の存在に気づいたお二人が流れるような仕草で近づいて来た。そして、公爵様が伯爵夫人の手を取りキスをすると、「ご無沙汰しております、アクランド伯爵夫人」と深く静かな声でご挨拶をされた。
「ええ、本当に。わざわざありがとう。この歳になると動くのも辛いのよ。こちらは私の侍女のリアーナ・ロンズデール子爵夫人よ」
「子爵にはこんな美しい奥様がいらっしゃったのね」
公爵夫人から声をかけられ、体がびくりと震えた。その笑顔がまぶしくて、どう微笑み返したらいいのかわからないほどだった。格の違いを見せつけられたように体は緊張で固まってしまっていた。
「伯爵夫人、それではまた。アマリア、行こう」
その声が公爵夫人を呼んだとき、足ががくがくと震え出した。
「奥様…私…少し、具合が…」
「まぁ、リアーナ、顔が真っ青じゃない。早く休憩室へ」
「奥様、一人で大丈夫です。少し…少しだけ席を外させてください」
礼をして、足早にそこを立ち去り休憩室に駆け込んだ。誰もいないことを確認すると、中から鍵をかけ、扉を背にずるずるとそこに座り込んだ。
『アマリア』
そう呼んだ公爵様の声は彼のものとそっくりだった。私の耳元で『リア』と呼んでくれていたあの声と。
そして、公爵夫人を見て、わかってしまった。
彼が体を重ねる間、私を何度も『リア』と呼んでいた理由に気づいてしまった。普段は「リアーナ」と呼ぶのに、ベッドの上でだけ「リア」と呼ばれる昂揚感がたまらなかった。でも、彼が本当に呼びたかったのは私ではない。『アマリア』だったのだ。この金色の髪も、青い瞳も、公爵夫人を思い起こさせるためだったのだ。
「うっ…ううっ…うっ…」
涙が溢れて止まらなかった。私に涙など必要ないと思っていたのに。自分のために流す涙などいらないと思っていたのに。
それでもまだ、私は彼を愛している。なんて愚かなんんだろう。
こぼれる涙を拭いながら、それでも私の胸を支配するのはたった一人だった。
「コンラッド…コンラッド…会いたい…もう一度あなたに会いたい…」
私が伯爵夫人の元で暮らす間に、上の弟は貴族の娘と婚約し、下の弟は15歳も上の貴族の後家と婚約した。ほとほと両親は子どもは道具としか思っていないのだとあきれた。
私は伯爵夫人の家から子爵邸に時々戻っては適当に子爵の相手をしたり、息子達の相手をしたりしていたが、それが長男の妻の耳に入ったようで、ある日現場に乗り込んできた。怒りのままにひどく打ち付けられた挙句、着の身着のままで放り出された。さすがにその状態で伯爵夫人のもとに戻ることはできないと実家に帰ると、「おまえの新たな嫁の貰い手など探すだけ金の無駄だ。まだ若いし、腐っても男爵の養女なんだから、どこぞの男を捕まえて適当に結婚でもすればいい」と言い放たれた。「だいたい弟達の婚約で喜ばしい時期にこんなことを知られたらどうなることか。少しは親孝行しようと思えないのか」と聞くに堪えない言葉を並べられた。
子爵は簡単に離縁を通告し、子爵夫人でもなくなった私は伯爵夫人の侍女を務めることはできないだろうと諦めていた。実家にいることも、養女としてくれた男爵家にいることも到底叶わないことだから、どこかでメイドでもできないかと考えていたときだった。
私に一通の手紙が届いた。それは、アクランド伯爵夫人からだった。一度会いたいから伯爵邸に来て、良ければそのまま馬車でこちらに来なさいというものだった。私は簡単に荷物をまとめると馬車に乗り、伯爵邸に急いだ。
久しぶりの伯爵邸では、みんなが温かく迎えてくれた。私の不遇を知りながら、誰もそれを言葉にはしなかった。夫人が待っているという温室に向かうと、そこには夫人はいなかった。
陽の光の中でコンラッドが立っていた。
夢なのだと思った。私の願いが見せる幻影なのだと。でも、幻影ならば、私の気持ちに突き動かされてもいいはず。
コンラッドのもとまで走り、その体に抱き着いた。あの時と変わらない香りを嗅ぐと胸がざわめいた。背を伸ばして唇と重ね、彼のシャツの襟元を解き、トラウザーズを緩めてその中に手を差し入れてそれが固くなるまで上下に動かした。跪いてそれを口に含んでは舌で舐め、手でこすり続けた。
彼を温室に押し倒し、下着の間から私の中へとそれを誘った。
「ああっ」
自ら腰を振りながら、この瞬間を、この感覚を望んでいたのだと歓喜に震えた。
「お願い、このまま、中に」
「リア。俺の言うことを聞けるか。俺を決して裏切らないと誓えるか」
「誓う。誓うから。お願い。コンラッド、お願い」
するとコンラッドが体を起こし私を地面に押し倒した。脚を大きく広げさせられ、最奥まで腰を打ち付けられる。
「あっ…ああっ…愛してるの…コンラッド…」
「おまえが俺を裏切らないなら、こうして抱いてやる。それが望みなんだろう」
「ああっ…そう…抱いて…私を抱いて…あなたしかいらないから…」
「そうか、いいぞ、くれてやる」
コンラッドが更に腰を打ちつけて、体を震わせて何度か前後したあと、ずるりと私を埋めていたものが抜けると中からとろりとこぼれる感覚がした。その恍惚さに酔っているとコンラッドが言った。
「リアーナ、俺は娼館を一つ買った。おまえにそれをやる。そこの女主人になるんだ」
「…え?」
「俺の言うことはなんでも聞くんだろう?」
コンラッドがまだ開いていた脚の間に指を滑り込ませ、まだ濡れている秘部に躊躇なく差し込んできた。
「んんっ」
私の敏感な場所を的確に擦り上げながらコンラッドは冷静に続ける。
「おまえには娼婦はやらせない。取り仕切るだけだ。アカデミーでも経営を学んでいただろう?それに高級娼館だから、相手は貴族やかなり金持ちの奴しか入れない。おまえは貴族として礼儀作法も身に着けたしな」
「ふっ…ん…あっ…」
「いいな、リアーナ」
「は、はい…」
「立て。行くぞ」
私が返事をするとさっと手を引き、手巾でそれを拭うと私の秘部にもそれを当てた。私は慌てて自分で清めるとポケットへとねじ込んだ。コンラッドは温室を出て迷うことなく進んでいく。
庭を進んでそのまま馬車に向かうようだった。私も遅れないようについていく。すると屋敷の入口に伯爵夫人が立っているのが見えた。ぼさぼさの頭や服を治して礼をすると、夫人は笑顔を返してくれた。コンラッドの背中を追いかけ、馬車に乗り込んだ。そこには公爵家の紋章はなかった。
「リアーナ、先に言っておく。俺はもうコンラッド・アルバートンではなくなった。あの家を出たんだ。今はそれまでに用意していた金や不動産を動かしたり、商団を経営している」
馬車が動き出すなりコンラッドが話し出した。その内容に驚いて言葉を返せなかった。
「アカデミーを出たばかりと思っていたのに、そんなことをしていたの?」
「アカデミーは1年前に卒業している。飛び級だったからな。壊れていく公爵家を見てるのもおもしろかったが、俺はもうあの家に用はない。リアーナ、迎えに行くのか遅くなってすまなかった。伯爵夫人は昔から俺を気にかけてくれていたから、おまえのことを救ってほしいと言っていたんだ」
「コンラッド…」
私がなぜ伯爵夫人に気にかけてもらえていたのか、ようやく合点がいった。
コンラッドが陰ながら私を守っていてくれたことがたまらなく嬉しかった。私の唯一の穏やかな時間はアクランド伯爵夫人の元にいたときだけだった。彼は私の不遇を知り、手を差し伸べてくれていたのだ。
胸が熱くなりコンラッドの隣に移り、その腕にすがりつき、肩に頭を乗せた。コンラッドの香りを堪能しながら、再び彼のそばにいられる幸福に酔いしれていた。
馬車はしばらく走り続け、王都でも比較的にぎやかで、娼館や商店が立ち並ぶ場所へと着いた。馬車をつけたのは裏口のようで御者が扉を開けると門のところで使用人が待っており、すぐに中に入れた。
娼館とはいえ、外観の洗練された美しさに思わず建物を下から上までじっくりと眺めてしまった。
「どうぞ、こちらへ」
使用人の男に声をかけられてついていく。コンラッドはもう先に中へ入ってしまっているようだった。
「こちらがお客様と過ごす建物になっておりまして、二階に渡り廊下があってあちらが居住用の建物でございます。奥様には、最上階のお部屋をご準備してございますので、どうぞオーナーとごゆっくりお過ごしください。」
簡単に建物の説明を受け、使用人に最上階の部屋へ通じる階段の前で「オーナーと奥様がいらっしゃる間は最上階へは近づかないことになっております。お部屋にあります紐を引いてくだされば、階下の私どもがすぐに参ります」と言われて、驚きつつもその階段を進んだ。
「奥様」と呼ばれる心地よさと埃一つもない赤い絨毯の敷かれた階段と流線形の美しい手すりにうっとりしながら上っていくと両開きの黒檀の扉が待っていた。
どきどきしながらその扉を開けると、中はまばゆいばかりの陽の光を取り込み輝いていた。
見たこともないほどの高級品ばかりが並んでいた。椅子もテーブルも燭台さえ、何もかもが美しくて胸がいっぱいになった。
この部屋をコンラッドが私のために用意してくれていたなんて。コンラッドの姿を探し、少し開いている奥の扉から入るとそこは寝室だった。部屋の中央に大きなベッドが置かれていた。そして暖炉の前にコンラッドがたたずんでいた。私は駆け寄りコンラッドの背後から抱き着いた。
「ありがとう、コンラッド。私、きっとこの娼館をうまく経営してみせるわ。この部屋に見合う人になるから」
私の手にコンラッドの手の温もりが重なり幸せを感じた。コンラッドさえいてくれれば、私はどこでどう生きることになっても構わない。
「リアーナ、おまえの一番大切な役目は娼館の経営ではない。近いうちに俺が連れてくる人の存在を誰に知られることなく、おまえ一人で世話をすることだ」
「えっ…?」
腕を解かれ、話の内容についていけないでいると、コンラッドは部屋の奥にある本棚を片手で押し始めた。本棚の後ろには扉があり、コンラッドはポケットから出した鍵で解錠するとその扉を開けた。
そこには階段があった。コンラッドが進む後に続いて、私も恐る恐るついていった。
階段を昇った上にも扉があり、また鍵を解錠して扉を開けた。
そこには私のために用意された居室とほぼ変わりない広さの部屋があった。扉を開けてすぐは居室のようでテーブルや椅子や空の本棚。扉が開いていた奥の部屋には鏡台やドレスルーム、そして一番奥には天蓋付きの寝室があった。トイレや浴室も併設されていた。
私は一歩一歩進むごとに、違和感に気づき、やがてそれが確信に変わると背中に冷や汗をかいた。
この広い部屋は陽の光を燦々と取り込む大きな窓が多くある。でも、そのすべてがはめ殺しで、決して開けることができないようになっていた。換気のための小窓もいくつもあるが、そこは梯子なしでは手も届かないし、顔を出すことさえできないような小ささだった。
そして、この部屋に置かれた家具も何もかもが、私の部屋とは比べ物にならないほどの品々だった。
ドレスルームに並んでいたドレスや宝飾品も伯爵夫人の邸宅ですら見かけたこともないような大きさや輝きのものばかりだった。
呼吸が苦しくなるほど胸がしめつけられた。
「コンラッド…ここには…誰が…?」
「俺の女だ」
ああ…やっぱりそうだったのだ…
コンラッドはこの部屋にその人を閉じ込め、飼い殺しにするつもりなのだ。私を抱くこともあるかもしれないあの寝室を通り、この部屋にやってきてはその人を抱くのだ。
その世話を、コンラッドを愛している私にやらせようという。
二人が愛し合ったシーツを私がこの手で変えることになるのだろう。二人が絡み合う様子さえ、見ることになるのかもしれない。
考えるだけでおぞましかった。子爵達にどれだけ酷い扱いを受けようとも心を揺り動かされることはなかった。でも、コンラッドの言葉一つが私の心を砕いていく。
「おまえは俺を裏切らないと誓ったな」
「…ええ…決して裏切らないわ…私…あなたを愛しているもの…」
「おまえを選んで正解だった。何が欲しい」
コンラッドが不敵に笑うのさえ、私には愛おしかった。コンラッドが私の心を壊すのに、それを一つ一つ組み合わせていくのもコンラッドにしかできない。私を形成するものは彼なのだから。
「コンラッド、私を抱いて」
私はちゃんと笑えていただろうか。コンラッドは私の手を引き部屋へと戻った。あの部屋で抱くのはたった一人なのだと知らしめるように、きっちりと鍵をしめ、本棚で扉を覆った。
でも、二人だけの秘密を持てたことで私は十分満足だった。
私はコンラッドを決して裏切らない。そして、彼も私がこの鍵を正しく握り続ける間私のそばにいるのだ。
私を抱き、私の名前を呼び、私の中に吐き出してくれるのだ。
耐えられる。たとえ、どんな人がこの奥の部屋に来ようとも。彼の愛を独占する人なのだとしても。
私はコンラッドを愛しているのだから。この想いが報われなくても構わない。
娼館にはどうやって集めたのか没落貴族の美しい子女や孤児だったが素質も見込まれて教育を受けた美貌の女達が揃ってきた。使用人の誰もがまるで統制された騎士のような礼儀正しさだった。誰も不平を言わず、笑顔を絶やさない。その一律さが不気味に感じることさえあった。
また、ここのオーナーがコンラッドであることはひた隠しにされていた。私も名前を変え、ブリジット・ウォルシュと名乗り始めた。それでもここにいる娼婦も使用人達も「奥様」と呼ぶことがほとんどでその名前は書類上使われるばかりだった。
コンラッドの「奥様」と体面上呼ばれることも私の自尊心を満たしてくれた。
夜にはコンラッドが「リア」と呼びながら抱いてくれることが嬉しかった。だから、名前が変わることなんてどうでもよかった。
経営の知識を活かしながら、お客や娼婦の子達の間を持ち、慣れないうちは忙しさに駆け回ることもあったが、充実した日々だった。自分と同じ辛い目に遭わせないために、お客様とはいえ酷い行為をしていないか、黙らされていないか慎重に探り、一度でも粗相をしようものなら強い権限で出入りを禁止した。たとえ相手が貴族だろうとも、むしろ貴族だからこそ、ひるまなかった。
コンラッドは逆にその弱みをしっかりと握り、貴族の間で着々と人脈と金づるを広げていった。
そうして半年が経ち、娼館も落ち着いて来たときだった。コンラッドが「あの部屋に埃一つないか」と聞いてきた夜があった。
その頃の私は仕事の分配もうまくいき、時間が作れると隠し部屋を手入れに行っていた。コンラッドの期待を裏切らないためにあの部屋の全てで手を抜くことなど許されなかった。自信を持って「ええ、全て整っているわ」と応えるとコンラッドは微かに笑って、服を脱ぎ私を抱いた。
それから数週間立った深夜。もう寝室で休んでいた私の部屋に足音が響いた。ここ数日姿を見せていなかったコンラッドだとすぐに飛び起きて灯りをつけた。
コンラッドは黒い外套の中に一人の女性を抱えていた。女性に意識はないようだった。
「リアーナ、扉を開けろ」
理解していた。コンラッドの希望を誰よりも正しく理解していたはずなのに。
これが現実なのだ。これが目の当たりにするという衝撃なのだ。
震える体で本棚を押し、ベッドサイドの鍵束から一本を手に取り、扉の鍵を開けた。
薄暗い階段の途中にあるロウソクに火を入れながら先に進む。そして、最後の扉の鍵を開けて中へ入った。
コンラッドがその女性を抱えて中へ入るまでドアのところで待っていた。これ以上私が二人のために用意された空間に踏み込んでいいのかわからなかった。
コンラッドは止まることなく寝室まで進んでいった。そして、「リアーナ!」と呼ばれて、私はようやく動き出すことができた。寝室へ急ぐとコンラッドが金髪を三つ編みにした女性をベッドに横たわらせ服を脱がせようとしているところだった。
「お湯とタオルを持ってこい。塗り薬もだ。馬に長時間乗ったせいで脚や尻の皮が破けているようだ。途中吐いたから顔や髪も汚れている。すぐに洗ってやらないと」
コンラッドの視線は全て彼女に注がれていた。彼の持つ本来の優しさも誰かを愛する気持ちも彼女に向けられていた。
嫉妬心をぐっとこらえ、浴室のタオルと洗面器に水を張ったものと共に持って行った。すぐに自室に戻り扉と本棚を戻した上で、使用人達にお湯を頼み、倉庫から様々な種類の薬の入った箱を持って戻った。部屋にお湯が来たのを確認すると使用人に礼を言って自室の扉を閉め、鍵をかけた。
コンラッドの元に戻ると、女性は既に衣服は脱がされていて、ベッドに腰掛けるコンラッドの胸に抱かれながらぐったりとしていた。コンラッドは濡れたタオルで丁寧に顔を拭きあげていた。
目をそらしながら、新しい洗面器にお湯を張り新しいタオルを持ってきた。女性の体を温かいタオルで拭きながら痛々しい傷口に薬と塗り、ガーゼで覆った。髪の汚れを落とそうと髪を解くと、ふわふわと金糸のような美しい髪が広がった。
この美しさをどこかで見たことがあると思い当たって、呼吸が止まった。髪をぬらし、石鹸をつける手が震えた。
「アマリア…無理をさせてすまなかった…」
心臓をナイフで突き刺されたような衝撃だった。コンラッドは、アマリア公爵夫人を連れてきてしまったのだ。自分の愛する者として、自分の母を。
何年も前にパーティで勘付いて、涙したのを決して忘れてはいない。
でも、間違いであってほしいと。叶わない想いを私にぶつけているのだと信じたかった。
彼にはもう高尚な説法も、愛の言葉も届きはしないだろう。この人を愛すると決めてしまったから。
「リアーナ。おまえは俺を裏切らないな?」
コンラッドの美しい漆黒の瞳を見上げて言った。
「ええ。私は決してあなたを裏切らないわ」
これは私達だけの秘密。決して、決して、誰にも立ち入らせたりはしない。
あなたの闇は私がそのまま受け止めてみせる。
大きな街へ働き口を見つけて移住してからは、お針子やメイドをしていたらしい。
そして、メイドをしていた大きな商家の跡取りに見初められて、家族からの大反対を押し切って結婚し、私を身ごもった。
女が生まれたことに文句を言う声も上がったそうだが、母は私を出産したその年にまた妊娠し、翌年には弟を産んだ。そして、その2年後にもまた弟が生まれた。
跡取りを産むことへの責任を果たし、母の存在はその家の中でも大きくなっていった。
祖母が死ぬと屋敷の女主人として更に力を増していった。
弟達には幼い頃から家庭教師をつけ、貴族も通うアカデミーに入学させることを狙っていた。
弟達は勉強が嫌いで、家庭教師から出された宿題を私に押し付けては遊び回っていた。私は部屋でそれを解きながら、自分が学ぶことが好きなのだと気づいた。上の弟のときに学んだことを、下の弟のときに忘れていることに気づいては学び直したりして独学で勉強をした。
両親は、母に似て美しい金髪と青い瞳、白い肌を持つ私を誇りに思ってくれていたが、それは外見的な美しさのためだけで、中身など気にかけてはいなかった。裁縫やお花に詳しくなることは喜ばれても、知識を豊富につけることは決していい顔をしなかった。だから、こっそり隠れて勉強していた。
我が家の商売はどんどん大きくなり、爵位を買う手はずまで整え始めていた。
私にはアカデミーなんてもったいないと言っていた両親に「そこで貴族の結婚相手を見つけてくるため」と説得してなんとか入学した。
でも、そこで貴族と裕福な平民の明らかな違いを目の当たりにして、弟達がこの生粋の貴族を相手にやっていけるものなのかと不安に思うことさえあった。
アカデミーに入学して2年が経った頃、両親から縁談の話がきた。まだ16歳だった私に、50歳の子爵との結婚を推し進めていることを知り、愕然とした。
子爵は既に夫人を病気で亡くされており、子どもは25歳と23歳の息子がいて、跡取りも決まっていた。今更妻をもらう意味もないはずだし、息子と結婚してもおかしくないほどの年齢差なのに、そのあさましさが気持ち悪かった。
長期休暇で家に帰ると子爵との顔合わせをするからと言われ、両親と子爵邸から来た馬車に揺られて向かった。
貴族の家というからどんなに豪華なものなのだろうかと想像していたが、門も屋敷も大きいけれど、庭も屋敷の中も手入れが行き届いていなかった。使用人の数も私達の家のほうが多いと思うほどだった。
玄関まで出迎えてくれたのは、子爵と若い息子二人。全員が茶色い髪に茶色い瞳、子爵は年齢のせいか丸々と太っていたし、不健康そうな顔色だった。息子達もにやけた顔がそっくりで、正直嫌悪感しか持てなかった。
父母は息子達と食堂へと案内されたのに、私は「親睦を深めるため」と子爵と二人きりで別の部屋へと案内された。
子爵がドアを開け、私が先に中に入ると扉が閉められた上に鍵をかけられた音がした。はっとして振り返ると子爵が気味の悪い笑みを浮かべていた。
慌てて逃げようと窓へ急ぐ私の腕を引っ張り、ぐいぐいと部屋の奥へと向かう。そこには大きなベッドがあり、それが何を意味するのかすぐにわかった。
私は、両親に売られたのだ
私は愚かだった。貧乏貴族が爵位をちらつかせて両親を丸め込んだに違いなかった。
多額のお金を積んで爵位を得るより、伝統的に持っている爵位のあるところへ娘を嫁に出すことのほうが良いとでも思ったのだろう。
そして、平民の女など婚前に何が起きてもよいのだといわんばかりの態度に震えた。しかし、私のプライドが泣くことを許さなかった。
子爵はいとも簡単に私のドレスをはぎ取り、私を思うままに犯した。処女であることへの配慮など一切なかった。
事が終わり、ベッドで放心している私を置いて子爵は扉を叩き、外から鍵を開ける音がすると無言で出て行った。
のろのろと体を起こし、散らばった下着やドレスのありかを目で追っていたときだった。
再び扉が開き、息子達が入って来た。
「父上はあなたが気に入ったそうだ。このまま縁談を進めると言っていた」
「私達がこの結婚に賛成した理由はただ一つ。若い母親が手に入るからだ。父上も了承してくれている」
その言葉の意味は全くわからなかった。しかし、彼らが襟元を解きながら私に近づいてきたときに理解した。この屋敷で私を抱くのは子爵一人ではないのだと。
私が慰み者になっている間中、両親は子爵邸で自分たちが持参したワインを飲み、今後のことを話し合っていた。私はその長期休暇中一度も家に帰れることはなかった。
私の自由など何も認められなかったが、子爵達の「アカデミーなど卒業する意味はない。すぐに退学させろ」と言う言葉だけは飲めなかった。両親にもアカデミーを卒業させないならナイフで喉を掻っ切ると宣言して強硬手段に出た。
事を荒立てたくなかった両親は「婚姻前の最後のときを謳歌させてやってください。長期休暇はこちらによこしますから」と子爵達を納得させていた。
私は長期休暇の終わりをわざと数日早めに言うことを覚え、アカデミーの寮で静かに過ごしながら自分の身に起きた悲劇を忘れようとしていた。もうここを出れば娼婦同然の扱いを受け、このアカデミーで学んだことも無駄になるのかと思うと悔しかった。それでも、今まで築き上げたものが空っぽになるのかと思うとそれも怖くて、結局図書館で同じように勉強を続けていた。それでも、アカデミーで変わりのない日々を送ることが心の平穏をもたらしてくれた。
図書館で過ごすうちに長期休暇でも家に戻らない珍しい貴族の存在を知った。公爵家の跡取りという、私とは天と地ほどの違いを持つ存在だった。黒い髪に黒い瞳。三つ下だというのに体つきはたくましく、長身で、遠くからでもその美しさははっきりとわかるほどだった。
ああ、こういう人が貴族なのだとそう思っていたのに…ふと子爵邸のことを思い出されて身震いした。
めまいを覚えた私を咄嗟に彼が支えてくれたのが私達の出会いだった。彼はコンラッド・アルバートン。
それから私が授業のことを教えたり、逆に教えてもらったり、とても充実した時間を過ごしていた。
図書館以外では特に接点を持とうとも思っていなかったから、彼がどんな風にアカデミーで過ごしているのかは知らなかったし、彼も自分のことを多く語らなかったから私生活のことなど全くわからなかった。
でも、私は両親の話をしたくなかったし、クラスにいる貴族たちがひけらかすように家族やパーティのことを話すのが不快だったから彼のそのような態度が好ましかった。
でも、ある日私達の関係は決定的に変わった。
それはまた長期休暇を早めに終わらせアカデミーの寮に戻って来たときのことだった。
珍しく彼が家に帰って過ごしていることを司書から聞いて、本を数冊持って寮の部屋に戻り、灯りをつけて本を読んでいた。本に夢中になり、深夜になっていることにも気づかなかった。突然窓を叩かれ、びくりとして本を床に落とした。
慌てて窓を見ると、彼がバルコニーに立っていた。ここは2階なのにどうして、と疑問に思いつつも窓を開けると、彼は真剣な表情のまま私を突然抱きしめた。
何が起こっているのかわからなかったが、幼い弟達を抱きしめて落ち着かせたことを思い出し、背中に腕を回した。しかし、弟達とは比べ物にならない体に胸がずくりと沸いた。
その時唐突に理解した。私は、彼が好きなのだと。
「リア…俺がすることを許してくれるか…」
覗き込んだ彼の瞳の奥にある欲望を私ははっきりと体で感じた。私の心は昂揚していた。急いで窓を閉めてカーテンでしっかりと覆った。
そして着ていたものを次々と脱いでいった。自分からそんなことをしたのは初めてだった。それほどに彼がほしかった。彼の衣服をはぎ取り、ベッドにもつれるように倒れこんだ。
彼の触り方もキスの仕方も全部が優しかった。私を気遣ってくれていた。こんなに幸せなことはないと思った。
どうして彼が突然私を求めたのか、私に少しでも好意を持ってくれていたのか、それともただの一時的な感情からなのかはわからなかった。
それでも私の心と体が満たされたのは初めてだった。
行為が終わった後に私の体は辛くないかと聞き、無理をさせたと謝罪してくれたのは彼が初めてだった。
それからアカデミーにいる間は彼と体を重ねることが続いた。彼が寮に忍び込んだり、図書館に隠れた場所でつながったことさえある。背徳感に酔いしれていたわけではない。ただ自分の中にある激情を抑えきれなかった。
汚れた男達に抱かれる記憶を全て彼で消してしまいたかった。
アカデミーを卒業する前には連日のように抱いてもらった。もう会えない。もう抱かれることはない。その事実を一瞬でも消し去りたかった。
アカデミーと彼の元を去るとき、私はちゃんと笑えていたと思う。
そして、私は子爵と懇意の男爵家の養女となった後に子爵夫人となり、子爵邸の女主人となった。
子爵邸では当然のように子爵と息子達にいい様にされた。養父の男爵までもが養母の目を盗んで子爵邸に来ては私を弄んだ。
これが私の人生なのかと歯を食いしばることはあっても決して涙を流さなかった。
必死に貴族のことを学び、お茶会で知り合った年配のアクランド伯爵夫人になぜかいたく気に入られ、侍女として屋敷で学び礼儀作法と身につけなさいとおっしゃってくださった。
伯爵夫人の申し出に子爵達は強く出られず、また子爵の長男が妻を取り、女主人の座を欲しがっていたことと、これまでの関係を妻にばらされないために体よく厄介払いをされた。
伯爵家は既に旦那様はお亡くなりになっていて、長男が跡取りだが、まだ留学しているので広大なお屋敷には伯爵夫人一人だった。多くの使用人がいる中でも、娘のように温かく接してくださり、色々なお茶会や夜会にも同行させていただいた。私のためにドレスもあしらってくださって本当に幸せな日々だった。
ある夜、盛大なパーティに伯爵夫人のお伴をさせていただいたときだった。
一瞬、彼と見間違うほどの美しい男性がいた。そして、その横には金髪碧眼の透き通るほどの肌のご婦人がいらした。
「あらあら、今夜はご夫婦でいらっしゃったのね、珍しいわ」
伯爵夫人が私の視線の先のお二人を見ておっしゃった。そして私にそっと耳打ちした。
「あのお二人はね、ヘンドリック・アルバートン公爵とアマリア・アルバートン公爵夫人よ」
どくんと心臓が跳ねた。彼とそっくりの容姿だと思っていたが、あの二人が彼のご両親…
ふと私達の存在に気づいたお二人が流れるような仕草で近づいて来た。そして、公爵様が伯爵夫人の手を取りキスをすると、「ご無沙汰しております、アクランド伯爵夫人」と深く静かな声でご挨拶をされた。
「ええ、本当に。わざわざありがとう。この歳になると動くのも辛いのよ。こちらは私の侍女のリアーナ・ロンズデール子爵夫人よ」
「子爵にはこんな美しい奥様がいらっしゃったのね」
公爵夫人から声をかけられ、体がびくりと震えた。その笑顔がまぶしくて、どう微笑み返したらいいのかわからないほどだった。格の違いを見せつけられたように体は緊張で固まってしまっていた。
「伯爵夫人、それではまた。アマリア、行こう」
その声が公爵夫人を呼んだとき、足ががくがくと震え出した。
「奥様…私…少し、具合が…」
「まぁ、リアーナ、顔が真っ青じゃない。早く休憩室へ」
「奥様、一人で大丈夫です。少し…少しだけ席を外させてください」
礼をして、足早にそこを立ち去り休憩室に駆け込んだ。誰もいないことを確認すると、中から鍵をかけ、扉を背にずるずるとそこに座り込んだ。
『アマリア』
そう呼んだ公爵様の声は彼のものとそっくりだった。私の耳元で『リア』と呼んでくれていたあの声と。
そして、公爵夫人を見て、わかってしまった。
彼が体を重ねる間、私を何度も『リア』と呼んでいた理由に気づいてしまった。普段は「リアーナ」と呼ぶのに、ベッドの上でだけ「リア」と呼ばれる昂揚感がたまらなかった。でも、彼が本当に呼びたかったのは私ではない。『アマリア』だったのだ。この金色の髪も、青い瞳も、公爵夫人を思い起こさせるためだったのだ。
「うっ…ううっ…うっ…」
涙が溢れて止まらなかった。私に涙など必要ないと思っていたのに。自分のために流す涙などいらないと思っていたのに。
それでもまだ、私は彼を愛している。なんて愚かなんんだろう。
こぼれる涙を拭いながら、それでも私の胸を支配するのはたった一人だった。
「コンラッド…コンラッド…会いたい…もう一度あなたに会いたい…」
私が伯爵夫人の元で暮らす間に、上の弟は貴族の娘と婚約し、下の弟は15歳も上の貴族の後家と婚約した。ほとほと両親は子どもは道具としか思っていないのだとあきれた。
私は伯爵夫人の家から子爵邸に時々戻っては適当に子爵の相手をしたり、息子達の相手をしたりしていたが、それが長男の妻の耳に入ったようで、ある日現場に乗り込んできた。怒りのままにひどく打ち付けられた挙句、着の身着のままで放り出された。さすがにその状態で伯爵夫人のもとに戻ることはできないと実家に帰ると、「おまえの新たな嫁の貰い手など探すだけ金の無駄だ。まだ若いし、腐っても男爵の養女なんだから、どこぞの男を捕まえて適当に結婚でもすればいい」と言い放たれた。「だいたい弟達の婚約で喜ばしい時期にこんなことを知られたらどうなることか。少しは親孝行しようと思えないのか」と聞くに堪えない言葉を並べられた。
子爵は簡単に離縁を通告し、子爵夫人でもなくなった私は伯爵夫人の侍女を務めることはできないだろうと諦めていた。実家にいることも、養女としてくれた男爵家にいることも到底叶わないことだから、どこかでメイドでもできないかと考えていたときだった。
私に一通の手紙が届いた。それは、アクランド伯爵夫人からだった。一度会いたいから伯爵邸に来て、良ければそのまま馬車でこちらに来なさいというものだった。私は簡単に荷物をまとめると馬車に乗り、伯爵邸に急いだ。
久しぶりの伯爵邸では、みんなが温かく迎えてくれた。私の不遇を知りながら、誰もそれを言葉にはしなかった。夫人が待っているという温室に向かうと、そこには夫人はいなかった。
陽の光の中でコンラッドが立っていた。
夢なのだと思った。私の願いが見せる幻影なのだと。でも、幻影ならば、私の気持ちに突き動かされてもいいはず。
コンラッドのもとまで走り、その体に抱き着いた。あの時と変わらない香りを嗅ぐと胸がざわめいた。背を伸ばして唇と重ね、彼のシャツの襟元を解き、トラウザーズを緩めてその中に手を差し入れてそれが固くなるまで上下に動かした。跪いてそれを口に含んでは舌で舐め、手でこすり続けた。
彼を温室に押し倒し、下着の間から私の中へとそれを誘った。
「ああっ」
自ら腰を振りながら、この瞬間を、この感覚を望んでいたのだと歓喜に震えた。
「お願い、このまま、中に」
「リア。俺の言うことを聞けるか。俺を決して裏切らないと誓えるか」
「誓う。誓うから。お願い。コンラッド、お願い」
するとコンラッドが体を起こし私を地面に押し倒した。脚を大きく広げさせられ、最奥まで腰を打ち付けられる。
「あっ…ああっ…愛してるの…コンラッド…」
「おまえが俺を裏切らないなら、こうして抱いてやる。それが望みなんだろう」
「ああっ…そう…抱いて…私を抱いて…あなたしかいらないから…」
「そうか、いいぞ、くれてやる」
コンラッドが更に腰を打ちつけて、体を震わせて何度か前後したあと、ずるりと私を埋めていたものが抜けると中からとろりとこぼれる感覚がした。その恍惚さに酔っているとコンラッドが言った。
「リアーナ、俺は娼館を一つ買った。おまえにそれをやる。そこの女主人になるんだ」
「…え?」
「俺の言うことはなんでも聞くんだろう?」
コンラッドがまだ開いていた脚の間に指を滑り込ませ、まだ濡れている秘部に躊躇なく差し込んできた。
「んんっ」
私の敏感な場所を的確に擦り上げながらコンラッドは冷静に続ける。
「おまえには娼婦はやらせない。取り仕切るだけだ。アカデミーでも経営を学んでいただろう?それに高級娼館だから、相手は貴族やかなり金持ちの奴しか入れない。おまえは貴族として礼儀作法も身に着けたしな」
「ふっ…ん…あっ…」
「いいな、リアーナ」
「は、はい…」
「立て。行くぞ」
私が返事をするとさっと手を引き、手巾でそれを拭うと私の秘部にもそれを当てた。私は慌てて自分で清めるとポケットへとねじ込んだ。コンラッドは温室を出て迷うことなく進んでいく。
庭を進んでそのまま馬車に向かうようだった。私も遅れないようについていく。すると屋敷の入口に伯爵夫人が立っているのが見えた。ぼさぼさの頭や服を治して礼をすると、夫人は笑顔を返してくれた。コンラッドの背中を追いかけ、馬車に乗り込んだ。そこには公爵家の紋章はなかった。
「リアーナ、先に言っておく。俺はもうコンラッド・アルバートンではなくなった。あの家を出たんだ。今はそれまでに用意していた金や不動産を動かしたり、商団を経営している」
馬車が動き出すなりコンラッドが話し出した。その内容に驚いて言葉を返せなかった。
「アカデミーを出たばかりと思っていたのに、そんなことをしていたの?」
「アカデミーは1年前に卒業している。飛び級だったからな。壊れていく公爵家を見てるのもおもしろかったが、俺はもうあの家に用はない。リアーナ、迎えに行くのか遅くなってすまなかった。伯爵夫人は昔から俺を気にかけてくれていたから、おまえのことを救ってほしいと言っていたんだ」
「コンラッド…」
私がなぜ伯爵夫人に気にかけてもらえていたのか、ようやく合点がいった。
コンラッドが陰ながら私を守っていてくれたことがたまらなく嬉しかった。私の唯一の穏やかな時間はアクランド伯爵夫人の元にいたときだけだった。彼は私の不遇を知り、手を差し伸べてくれていたのだ。
胸が熱くなりコンラッドの隣に移り、その腕にすがりつき、肩に頭を乗せた。コンラッドの香りを堪能しながら、再び彼のそばにいられる幸福に酔いしれていた。
馬車はしばらく走り続け、王都でも比較的にぎやかで、娼館や商店が立ち並ぶ場所へと着いた。馬車をつけたのは裏口のようで御者が扉を開けると門のところで使用人が待っており、すぐに中に入れた。
娼館とはいえ、外観の洗練された美しさに思わず建物を下から上までじっくりと眺めてしまった。
「どうぞ、こちらへ」
使用人の男に声をかけられてついていく。コンラッドはもう先に中へ入ってしまっているようだった。
「こちらがお客様と過ごす建物になっておりまして、二階に渡り廊下があってあちらが居住用の建物でございます。奥様には、最上階のお部屋をご準備してございますので、どうぞオーナーとごゆっくりお過ごしください。」
簡単に建物の説明を受け、使用人に最上階の部屋へ通じる階段の前で「オーナーと奥様がいらっしゃる間は最上階へは近づかないことになっております。お部屋にあります紐を引いてくだされば、階下の私どもがすぐに参ります」と言われて、驚きつつもその階段を進んだ。
「奥様」と呼ばれる心地よさと埃一つもない赤い絨毯の敷かれた階段と流線形の美しい手すりにうっとりしながら上っていくと両開きの黒檀の扉が待っていた。
どきどきしながらその扉を開けると、中はまばゆいばかりの陽の光を取り込み輝いていた。
見たこともないほどの高級品ばかりが並んでいた。椅子もテーブルも燭台さえ、何もかもが美しくて胸がいっぱいになった。
この部屋をコンラッドが私のために用意してくれていたなんて。コンラッドの姿を探し、少し開いている奥の扉から入るとそこは寝室だった。部屋の中央に大きなベッドが置かれていた。そして暖炉の前にコンラッドがたたずんでいた。私は駆け寄りコンラッドの背後から抱き着いた。
「ありがとう、コンラッド。私、きっとこの娼館をうまく経営してみせるわ。この部屋に見合う人になるから」
私の手にコンラッドの手の温もりが重なり幸せを感じた。コンラッドさえいてくれれば、私はどこでどう生きることになっても構わない。
「リアーナ、おまえの一番大切な役目は娼館の経営ではない。近いうちに俺が連れてくる人の存在を誰に知られることなく、おまえ一人で世話をすることだ」
「えっ…?」
腕を解かれ、話の内容についていけないでいると、コンラッドは部屋の奥にある本棚を片手で押し始めた。本棚の後ろには扉があり、コンラッドはポケットから出した鍵で解錠するとその扉を開けた。
そこには階段があった。コンラッドが進む後に続いて、私も恐る恐るついていった。
階段を昇った上にも扉があり、また鍵を解錠して扉を開けた。
そこには私のために用意された居室とほぼ変わりない広さの部屋があった。扉を開けてすぐは居室のようでテーブルや椅子や空の本棚。扉が開いていた奥の部屋には鏡台やドレスルーム、そして一番奥には天蓋付きの寝室があった。トイレや浴室も併設されていた。
私は一歩一歩進むごとに、違和感に気づき、やがてそれが確信に変わると背中に冷や汗をかいた。
この広い部屋は陽の光を燦々と取り込む大きな窓が多くある。でも、そのすべてがはめ殺しで、決して開けることができないようになっていた。換気のための小窓もいくつもあるが、そこは梯子なしでは手も届かないし、顔を出すことさえできないような小ささだった。
そして、この部屋に置かれた家具も何もかもが、私の部屋とは比べ物にならないほどの品々だった。
ドレスルームに並んでいたドレスや宝飾品も伯爵夫人の邸宅ですら見かけたこともないような大きさや輝きのものばかりだった。
呼吸が苦しくなるほど胸がしめつけられた。
「コンラッド…ここには…誰が…?」
「俺の女だ」
ああ…やっぱりそうだったのだ…
コンラッドはこの部屋にその人を閉じ込め、飼い殺しにするつもりなのだ。私を抱くこともあるかもしれないあの寝室を通り、この部屋にやってきてはその人を抱くのだ。
その世話を、コンラッドを愛している私にやらせようという。
二人が愛し合ったシーツを私がこの手で変えることになるのだろう。二人が絡み合う様子さえ、見ることになるのかもしれない。
考えるだけでおぞましかった。子爵達にどれだけ酷い扱いを受けようとも心を揺り動かされることはなかった。でも、コンラッドの言葉一つが私の心を砕いていく。
「おまえは俺を裏切らないと誓ったな」
「…ええ…決して裏切らないわ…私…あなたを愛しているもの…」
「おまえを選んで正解だった。何が欲しい」
コンラッドが不敵に笑うのさえ、私には愛おしかった。コンラッドが私の心を壊すのに、それを一つ一つ組み合わせていくのもコンラッドにしかできない。私を形成するものは彼なのだから。
「コンラッド、私を抱いて」
私はちゃんと笑えていただろうか。コンラッドは私の手を引き部屋へと戻った。あの部屋で抱くのはたった一人なのだと知らしめるように、きっちりと鍵をしめ、本棚で扉を覆った。
でも、二人だけの秘密を持てたことで私は十分満足だった。
私はコンラッドを決して裏切らない。そして、彼も私がこの鍵を正しく握り続ける間私のそばにいるのだ。
私を抱き、私の名前を呼び、私の中に吐き出してくれるのだ。
耐えられる。たとえ、どんな人がこの奥の部屋に来ようとも。彼の愛を独占する人なのだとしても。
私はコンラッドを愛しているのだから。この想いが報われなくても構わない。
娼館にはどうやって集めたのか没落貴族の美しい子女や孤児だったが素質も見込まれて教育を受けた美貌の女達が揃ってきた。使用人の誰もがまるで統制された騎士のような礼儀正しさだった。誰も不平を言わず、笑顔を絶やさない。その一律さが不気味に感じることさえあった。
また、ここのオーナーがコンラッドであることはひた隠しにされていた。私も名前を変え、ブリジット・ウォルシュと名乗り始めた。それでもここにいる娼婦も使用人達も「奥様」と呼ぶことがほとんどでその名前は書類上使われるばかりだった。
コンラッドの「奥様」と体面上呼ばれることも私の自尊心を満たしてくれた。
夜にはコンラッドが「リア」と呼びながら抱いてくれることが嬉しかった。だから、名前が変わることなんてどうでもよかった。
経営の知識を活かしながら、お客や娼婦の子達の間を持ち、慣れないうちは忙しさに駆け回ることもあったが、充実した日々だった。自分と同じ辛い目に遭わせないために、お客様とはいえ酷い行為をしていないか、黙らされていないか慎重に探り、一度でも粗相をしようものなら強い権限で出入りを禁止した。たとえ相手が貴族だろうとも、むしろ貴族だからこそ、ひるまなかった。
コンラッドは逆にその弱みをしっかりと握り、貴族の間で着々と人脈と金づるを広げていった。
そうして半年が経ち、娼館も落ち着いて来たときだった。コンラッドが「あの部屋に埃一つないか」と聞いてきた夜があった。
その頃の私は仕事の分配もうまくいき、時間が作れると隠し部屋を手入れに行っていた。コンラッドの期待を裏切らないためにあの部屋の全てで手を抜くことなど許されなかった。自信を持って「ええ、全て整っているわ」と応えるとコンラッドは微かに笑って、服を脱ぎ私を抱いた。
それから数週間立った深夜。もう寝室で休んでいた私の部屋に足音が響いた。ここ数日姿を見せていなかったコンラッドだとすぐに飛び起きて灯りをつけた。
コンラッドは黒い外套の中に一人の女性を抱えていた。女性に意識はないようだった。
「リアーナ、扉を開けろ」
理解していた。コンラッドの希望を誰よりも正しく理解していたはずなのに。
これが現実なのだ。これが目の当たりにするという衝撃なのだ。
震える体で本棚を押し、ベッドサイドの鍵束から一本を手に取り、扉の鍵を開けた。
薄暗い階段の途中にあるロウソクに火を入れながら先に進む。そして、最後の扉の鍵を開けて中へ入った。
コンラッドがその女性を抱えて中へ入るまでドアのところで待っていた。これ以上私が二人のために用意された空間に踏み込んでいいのかわからなかった。
コンラッドは止まることなく寝室まで進んでいった。そして、「リアーナ!」と呼ばれて、私はようやく動き出すことができた。寝室へ急ぐとコンラッドが金髪を三つ編みにした女性をベッドに横たわらせ服を脱がせようとしているところだった。
「お湯とタオルを持ってこい。塗り薬もだ。馬に長時間乗ったせいで脚や尻の皮が破けているようだ。途中吐いたから顔や髪も汚れている。すぐに洗ってやらないと」
コンラッドの視線は全て彼女に注がれていた。彼の持つ本来の優しさも誰かを愛する気持ちも彼女に向けられていた。
嫉妬心をぐっとこらえ、浴室のタオルと洗面器に水を張ったものと共に持って行った。すぐに自室に戻り扉と本棚を戻した上で、使用人達にお湯を頼み、倉庫から様々な種類の薬の入った箱を持って戻った。部屋にお湯が来たのを確認すると使用人に礼を言って自室の扉を閉め、鍵をかけた。
コンラッドの元に戻ると、女性は既に衣服は脱がされていて、ベッドに腰掛けるコンラッドの胸に抱かれながらぐったりとしていた。コンラッドは濡れたタオルで丁寧に顔を拭きあげていた。
目をそらしながら、新しい洗面器にお湯を張り新しいタオルを持ってきた。女性の体を温かいタオルで拭きながら痛々しい傷口に薬と塗り、ガーゼで覆った。髪の汚れを落とそうと髪を解くと、ふわふわと金糸のような美しい髪が広がった。
この美しさをどこかで見たことがあると思い当たって、呼吸が止まった。髪をぬらし、石鹸をつける手が震えた。
「アマリア…無理をさせてすまなかった…」
心臓をナイフで突き刺されたような衝撃だった。コンラッドは、アマリア公爵夫人を連れてきてしまったのだ。自分の愛する者として、自分の母を。
何年も前にパーティで勘付いて、涙したのを決して忘れてはいない。
でも、間違いであってほしいと。叶わない想いを私にぶつけているのだと信じたかった。
彼にはもう高尚な説法も、愛の言葉も届きはしないだろう。この人を愛すると決めてしまったから。
「リアーナ。おまえは俺を裏切らないな?」
コンラッドの美しい漆黒の瞳を見上げて言った。
「ええ。私は決してあなたを裏切らないわ」
これは私達だけの秘密。決して、決して、誰にも立ち入らせたりはしない。
あなたの闇は私がそのまま受け止めてみせる。
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