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アマリア・アルバートン/フローラ・エインズワース

理想の夫婦

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侍医がすぐにやってきて触診や問診を受けると、侍医や侍女たちは部屋を下がったのに、公爵様だけは部屋に残っていた。

私が診察を受ける間もベッドのそばの椅子に腰かけたまますべてを静かに見つめていた。そのまなざしの熱さは私を通して、本来のアマリア公爵夫人を見ているのだと思うと、公爵様の想いを受け止めてきたはずの夫人に申し訳なく思ってしまう。

まっすぐに見つめ返すことのできない私のそばまで来ると、ベッドに静かに座った公爵様は私の手を取り、そっと握った。



「長旅で疲れたろう。ゆっくり休むといい。まもなく晩餐の時間だが、食事は部屋に運ばせるから。じゃあ、また夜に来るよ」



優しく手の甲に口づけて微笑むと公爵様は去っていった。

「夜に来る」という言葉に一瞬体が強張りうまく笑えたかわからない。その意味を考えると体が震えてくるのを抑えられなかった。



やがて、部屋にやってきた侍女達が「入浴を」と告げ、ふらふらとついていった。

全く見知らぬ廊下、部屋の扉、浴室、そして深々と頭を下げ、満面の笑みで私の世話をする侍女や侍従にどう振舞えばいいのかわからなかった。

エインズワースの城にいるときでも、できる限り身の回りのことは自分でするようにしてきただけに、服を脱ぐことすら侍女の手によって行われることに戸惑わずにはいられなかった。

それでも侍女達は朗らかな笑顔を浮かべたまま手慣れた様子ですべてをつつがなくこなしていく。



「あなた達は私のことをどのように聞いているの…?」



湯舟に促されながら尋ねると先ほどハンナと名乗った侍女がまっすぐに目を見つめて微笑んだ。



「奥様の事故のことはエインズワース城の者達から伺いました。事故により記憶を失われて、城で静養をなさり、薬草師としてご尽力なさっていたことを聞き及びました」



「奥様は公爵邸にいらっしゃるときから薬草の知識に精通していらっしゃいましたし、孤児院への慰問も欠かさずに行われていらして、たとえ記憶を無くされてもお優しく、分け隔てなく全ての者達にお心遣いくださるお姿勢に私達一同、感動いたしました」



「はい、私達の大事な奥様にまたこうしてお仕えできますこと、心より嬉しく思っております」



「本当にご無事で何よりでございました…」



全員が決して手を止めずに私の髪や体を熱心に磨いてくれる、そしてその頬には涙が流れていた。

そこまで慕われる奥様であったアマリアという女性を私はどう受け止めたらよいのか、ただうつむいで彼女たちの話を聞いていた。



「旦那様もずっと奥様の行方を追って四方八方に探していらっしゃったのです。長い時間がかかってしまいましたが、またお二人がこうして寄り添われて、屋敷中の者達が喜んでおります」



「公爵様は」



「奥様、どうぞ旦那様の前ではお名前でお呼びくださいませ。ご夫婦でいらっしゃいますから」



「あ…そ、そうね…」



当然のように告げられた夫婦という言葉に衝撃を受けた。そう、本来の私はフローラではなく、アマリア。公爵夫人であり、あの美しい男性の妻であるのだ。頭で理解しようとても、心の抵抗がどうにもできずにいる。



「私は、城で奥様が公爵邸を出られたときにお持ちになった物を引き取ったり、城の者達から話を少し聞いてきましたので昨夜ここに着いたのですが、奥様は馬車に乗られていらっしゃる間も、途中のお宿でもお目覚めになられないほど体が弱っていらっゃったそうなんです。ですから、今夜は体に優しいものを作ると料理長が意気込んでおりました」



「はい!そうなんです。料理長は奥様にまた自分の料理を召し上がっていただけることを涙を流して喜んでおりました。奥様のために考えたレシピの本を棚からこれでもかと出してきて、ねぇ?」



「左様です。奥様が体調を崩されたときのためのレシピもありますし、奥様にこれからもご満足いただけるようにずっと新しいレシピも研究してきたのですよ。ぜひ、お元気になられましたらそちらもご堪能くださいませ」



くるくると表情を変えて楽しそうに話す彼女達を見ていると、アマリア公爵夫人がどれほど素晴らしい人であったか、どれほど慕われていたのかを痛感してしまう。

私は記憶がなかったとはいえ、その彼女の人生を一変させ、公爵様だけではなく、彼女達にも長いこと悲しい思いをさせていたことに申し訳なくなってしまう。

それでも、フローラとしてしか生きていない私にとって、どうしても最初に考えてしまうのは遠くにいる存在でしかない。



「エインズワースの城に公爵の騎士団もしばらく駐留するそうですから、争いもまもなく落ち着くと思われます。辺境伯のお怪我もすぐによくなられると思いますよ」



「ラウルがけがをしたというの?!」



腕をマッサージしてくれていた者の手から力任せに引き抜いてしまったために湯舟が大きな波が立った。

いくつもの目が自分に注がれて、自分の失態に気づいた。

ラウルと特別な関係にあったことはいずれ知られてしまうかもしれないが、感情的になってしまってはいけないと言い聞かせてきたのに…



「奥様、大丈夫でございます。騎士団に随行した医師団もおりますから。1年も住まわれた辺境領のことが気になることはわかりますが、どうぞこれからは公爵夫人として心穏やかにお過ごしくださいませ。ご両親のスタンリール侯爵夫妻も長い間お会いできなくてご心配なさっていらっしゃいますし」



「スタンリール侯爵夫妻…?」



ハンナは私の体の強張りと解すようにそっと肩に手を滑らせていく。吸い込むたびにぼんやりとした気分になる香りに、私はそっと目を閉じた。



「奥様はこの1年は病気療養のために邸宅で静養なさっていることになっております。社交界の華でいらっしゃいました奥様が誘拐されたとなれば、国の一大事ですし、公爵様の周りに有象無象がすりよってくることにもなりますし」



「そうなのです、奥様。旦那様は結婚以前から多くの方々から縁談をとこいねがわれてきましたが、それを射止めたのが奥様なんです。そして、結婚されてからもずっと旦那様は奥様だけをただ一人愛してこられて」



「それはもうこれ以上ないほどの理想の夫婦でいらっしゃるんです」



閉じた目から涙がこぼれる。頬をつたう涙がやがて湯舟に落ちるのを感じた。



「記憶が戻られるのはゆっくりと待ちましょう、奥様、焦らずに。私達はいつまでも奥様にお仕えいたします」



私には彼女達の笑顔を見る勇気がなかった。

私が存在したせいで、公爵様からはアマリア公爵夫人という存在を奪ってしまった。

そして、私がアマリア公爵夫人に戻ることで、ラウルからフローラを奪ってしまった。

私が、私が存在することがなければ、誰も苦しむことがなかったのではないかと思うと胸がしめつけられた。



「奥様、ご心配は無用です。旦那様は奥様ただ一人をずっと、そしてこれからも愛していらっしゃいますから」



私のためにかけられる言葉は私を抜け出せない渦へと追いやっていった。
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