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四面楚歌
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ドアに手をかけて、少しだけ開けた瞬間に耳に飛び込んできた言葉に思わず体が固まった。
「橘、俺のところに戻ってこないか」
低くて落ち着いた大人の男性の声だった。
斎藤先輩に事の顛末をLINEで教えてもらって、急いで玲奈さんにも電話をかけた。でもつながらなくて、仕事をできる限り速く終わらせて、車で飛んできた。
斎藤に釘をさしたつもりが、全然できてなかった。結局、玲奈さんに迷惑をかけて、その結果倒れることになるなんて、どんな頼りない彼氏なんだって自分を叱責しながら運転した。
玲奈さんのお店に着いたときはもうすぐ閉まるところだったみたいで、店頭にはマキさんとカホさんだけだった。
奥の休憩室にいるからと言われて、急いでそこに向かった。
でも、そこで俺は聞いてはいけない会話を盗み聞きする形になってしまった。
「あの頃は、おまえを守ってやれなくて、本当にすまなかったと思う。あんな形で終わらせたことを今でも後悔してる」
「マネージャー…」
「今ならこの立場もあるし、前よりはマシなことができる」
「でも、私は」
「考えてみてくれないか」
「…少し、時間をください」
玲奈さんの返事に、頭を後ろから殴られたような衝撃が走った。
俺とではないつながりに、玲奈さんが考える余地を持ちたいと思ったことがショックだった。
拳を握りしめた。
これは玲奈さんが悪いんじゃない。
玲奈さんをここまで不安にさせて、俺から心が離れる隙を与えてしまった自分自身のせいだ。
深呼吸を何度もして、心臓はバクバクしたままで、ゆっくりとドアを開けた。
「あれ、くまちゃん?」
長椅子に座ったままの玲奈さんが青白い顔のまま、優しく微笑んでくれた。
その向かいにパイプ椅子に座ったスーツの男性がいた。俺よりも10歳は年上だろう。
落ち着いた雰囲気の人だった。俺を見ても顔色ひとつ変えなかった。
すぐに何かを察したように立ち上がって、コートとかばんを取った。
「それじゃあな、橘、体に気をつけろよ。無理はするな」
「ご心配おかけして、すみませんでした。ありがとうございます」
俺の横を通り過ぎるときに小さく会釈をしてくれた。俺も頭を下げた。ドアを閉めて、玲奈さんの元に急いだ。
玲奈さんの前に膝をついて手を取った。玲奈さんの手はとても冷たかった。
「来てくれたの?」
「当たり前です。もともと、俺のせいですから」
「ちがうのに…でも、嬉しい。ありがとう」
「玲奈さん、あの人は…」
「ん?なぁに?」
いつものように優しく微笑んでくれている玲奈さんに、胸がずきんと痛んだ。
こんなに体調が悪いときでも、玲奈さんは俺の前で無理をしてしまう。俺が頼りないせいで。
玲奈さんの手をぎゅっと握りしめると、玲奈さんも握り返してくれた。
その時、ドアがノックされて、マキさんが入って来た。
「失礼します。先輩、明日は休んでください。体のこともですけど、まだ何があるかわかんないんで」
「…うん、ごめんね」
「熊野さん、ご友人のことでこんなこと言うのは嫌なんですけど、出方次第では、警察も関与させます。私たち、先輩が一番大事なんで」
「わかってます。俺もちゃんとします。ご迷惑おかけしてすみません」
いつになくマキさんの声が真剣だった。本当はもっと強い言葉で俺を非難したいんだと思う。それを玲奈さんの前だから遠慮したんだと思う。つくづく、俺はだめだと思った。
「玲奈さん、家まで送ります。病院は行かなくていいですか?」
「うん、大丈夫。ありがと」
「先輩のコートとバッグです」
マキさんから受け取って、コートを羽織らせると、手を取って店を出た。ずっとマキさんとカホさんは俺達を心配そうに見ていた。誰も俺を責めないことが、余計俺にはこたえた。
玲奈さんは歩くのも辛そうで、ずっと腰を支えて歩いた。本当は抱えたかったけど、人前でそれはって言われて、そうなった。玲奈さんは俺の体にもたれてゆっくりと歩いた。
車に乗ってからはシートを倒して、ぐったりとしたままだった。
声もかけられないくらい、具合が悪そうで、俺のせいで招いたことだと苦しくてたまらなかった。
玲奈さんが好きだ。他の誰にも渡したくない。
でも、今の俺には、それを伝えるだけの資格もない。玲奈さんを引き留める言葉さえかけられない。
どうにかしないと。俺が、玲奈さんを守らないと。
「橘、俺のところに戻ってこないか」
低くて落ち着いた大人の男性の声だった。
斎藤先輩に事の顛末をLINEで教えてもらって、急いで玲奈さんにも電話をかけた。でもつながらなくて、仕事をできる限り速く終わらせて、車で飛んできた。
斎藤に釘をさしたつもりが、全然できてなかった。結局、玲奈さんに迷惑をかけて、その結果倒れることになるなんて、どんな頼りない彼氏なんだって自分を叱責しながら運転した。
玲奈さんのお店に着いたときはもうすぐ閉まるところだったみたいで、店頭にはマキさんとカホさんだけだった。
奥の休憩室にいるからと言われて、急いでそこに向かった。
でも、そこで俺は聞いてはいけない会話を盗み聞きする形になってしまった。
「あの頃は、おまえを守ってやれなくて、本当にすまなかったと思う。あんな形で終わらせたことを今でも後悔してる」
「マネージャー…」
「今ならこの立場もあるし、前よりはマシなことができる」
「でも、私は」
「考えてみてくれないか」
「…少し、時間をください」
玲奈さんの返事に、頭を後ろから殴られたような衝撃が走った。
俺とではないつながりに、玲奈さんが考える余地を持ちたいと思ったことがショックだった。
拳を握りしめた。
これは玲奈さんが悪いんじゃない。
玲奈さんをここまで不安にさせて、俺から心が離れる隙を与えてしまった自分自身のせいだ。
深呼吸を何度もして、心臓はバクバクしたままで、ゆっくりとドアを開けた。
「あれ、くまちゃん?」
長椅子に座ったままの玲奈さんが青白い顔のまま、優しく微笑んでくれた。
その向かいにパイプ椅子に座ったスーツの男性がいた。俺よりも10歳は年上だろう。
落ち着いた雰囲気の人だった。俺を見ても顔色ひとつ変えなかった。
すぐに何かを察したように立ち上がって、コートとかばんを取った。
「それじゃあな、橘、体に気をつけろよ。無理はするな」
「ご心配おかけして、すみませんでした。ありがとうございます」
俺の横を通り過ぎるときに小さく会釈をしてくれた。俺も頭を下げた。ドアを閉めて、玲奈さんの元に急いだ。
玲奈さんの前に膝をついて手を取った。玲奈さんの手はとても冷たかった。
「来てくれたの?」
「当たり前です。もともと、俺のせいですから」
「ちがうのに…でも、嬉しい。ありがとう」
「玲奈さん、あの人は…」
「ん?なぁに?」
いつものように優しく微笑んでくれている玲奈さんに、胸がずきんと痛んだ。
こんなに体調が悪いときでも、玲奈さんは俺の前で無理をしてしまう。俺が頼りないせいで。
玲奈さんの手をぎゅっと握りしめると、玲奈さんも握り返してくれた。
その時、ドアがノックされて、マキさんが入って来た。
「失礼します。先輩、明日は休んでください。体のこともですけど、まだ何があるかわかんないんで」
「…うん、ごめんね」
「熊野さん、ご友人のことでこんなこと言うのは嫌なんですけど、出方次第では、警察も関与させます。私たち、先輩が一番大事なんで」
「わかってます。俺もちゃんとします。ご迷惑おかけしてすみません」
いつになくマキさんの声が真剣だった。本当はもっと強い言葉で俺を非難したいんだと思う。それを玲奈さんの前だから遠慮したんだと思う。つくづく、俺はだめだと思った。
「玲奈さん、家まで送ります。病院は行かなくていいですか?」
「うん、大丈夫。ありがと」
「先輩のコートとバッグです」
マキさんから受け取って、コートを羽織らせると、手を取って店を出た。ずっとマキさんとカホさんは俺達を心配そうに見ていた。誰も俺を責めないことが、余計俺にはこたえた。
玲奈さんは歩くのも辛そうで、ずっと腰を支えて歩いた。本当は抱えたかったけど、人前でそれはって言われて、そうなった。玲奈さんは俺の体にもたれてゆっくりと歩いた。
車に乗ってからはシートを倒して、ぐったりとしたままだった。
声もかけられないくらい、具合が悪そうで、俺のせいで招いたことだと苦しくてたまらなかった。
玲奈さんが好きだ。他の誰にも渡したくない。
でも、今の俺には、それを伝えるだけの資格もない。玲奈さんを引き留める言葉さえかけられない。
どうにかしないと。俺が、玲奈さんを守らないと。
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