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第一章 シータ研究所

第一章 シータ研究所(3)この宇宙で最も幸福たりえる存在

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 外へ出ると、高層の白い建物が立ち並んでいて、空はペンキで塗ったように真っ青だった。

 きょうのところは、ゴールデン所長からの話も終わったので、家に帰るようにと言われ、その通りにすることにした。

 家まではスズランが車で送ってくれるという話になり、ぼくはそれを大変ありがたいと思った。というのも、家までは多少距離があるということだったし、だいいち、ぼくは自分の家がどこにあるのかさえ知らないからだ。

 タイヤがなくて、地面から二十センチくらい浮きあがった車を回してくると、スズランはぼくに助手席に乗るように言った。言われるままに、ぼくはそうさせてもらう。車はすいっと走り出した。

 こうして、外の明るい場所で見れば、スズランは綺麗な子だった。緑色に染めたショートヘアーに、胸元まで伸びる長いもみあげ。一筋の白いメッシュ。黒い革ジャンにデニムのホットパンツ。ボーダー柄のニーソックスの先に、かかとの高いブーツを履いている。口紅が紫色なので、無表情でいるときはぎょっとするが、ぼくと話すときはだいたい笑顔だから、可愛い人だなという印象がある。

「……これでも、あたしは本当に悪かったと思ってるんだ」

「なにがですか?」

 ぼくはスズランの言葉に、そんな焦点のぼけた返答をしてしまった。しかたないじゃないか。悪かったと思われるようなことをされた実感なんて、どこにもないのだから。

 顔をしかめるスズラン。だが、運転中なので、視線は進行方向から外さなかった。
 視界の左右を、白い建物が後方へと飛んでいく。車は軽快に地平線の向こうまで駆けていきそうだ。

「航宙艦でひいてしまったことさ。だから、あんたが無事に社会復帰して、問題なく暮らせるまで、あたしが面倒をみる。言っただろ、なんでもするって」

「うん、ありがとう。でも、きっと大丈夫だよ。この通り、身体は動くんだし……」

「それじゃあ、あたしが納得できないんだ。もし、あたしが目を離した隙に何かあってみろ、今後怖くて眠れない。だから、責任をとらせてくれ」

「うん……。そういうことなら、よろしく」

 派手な衣装と化粧の割に、表情は柔らかいスズラン。言葉遣いに反して、心根もとても柔和なようだ。そんなまっすぐな優しさを受けて、ぼくはむず痒い思いをした。

「にゃーん……」

 ふと、後部座席から猫の鳴き声がした。振り返ってみてみると、黒猫が座っている。シータ研究所の医務室で見た猫と同じだった。

「なんだ、車に乗って来ちゃったのか。ユウキ、あれお前の猫か?」

 バックミラーごしに、スズランが猫を見る。猫は悠然と、後ろ足で耳を掻いていた。

「まさか。でも、ついて来てしまったものはしょうがないよ。次にシータ研究所に行くまで、預かっておこうかな」

 ぼくは、黒猫がじっとぼくのほうを見ているのに気がついた。猫って視線を合わせるのを嫌がる生き物じゃなかったっけ。

 ◇◇◇

 ぼくの家だという建物の前で、スズランは車を停めた。家の周りは見渡す限り畑になっていて、他の建物はまるでない。

 ほんとうに、僻地に住んでいたんだなと思う。

 振り返れば、畑の中に、大地がえぐれ、焼け跡になっている場所があった。スズランが言うには、そこがぼくが宇宙船にひき殺された場所だということだ。……実感はない。

 スズランがドアの鍵を開けてくれて、ぼくは家に入った。やはり、家の中について憶えていることはなにもない。まるで他人の家だ。

 彼女はソファーに荷物を投げるように置き、自身もどかっと座った。あっという間にくつろいでしまった。

 ぼくはというと、所在ないので、冷蔵庫から適当に飲み物を取り出すと、なにも考えずに呷った。よくわからない味だが、悪くはない清涼飲料水だ。

「ユウキ、わたしはお前が社会的に立ち直るまで、ここで暮らすからな。よろしくな」

「えっと、……よろしくお願いします」

 とはいえ、こちらは軍隊で働いていた身だ。外見こそ幼くなってしまったが、スズランのような少女に社会のことを心配されるいわれはないと思う。

 ひとまず、明日は畑に出て畑仕事をやってみようと思う。ユウキは元々農家だったらしいので、家のどこかに農具でもあるだろう。まずはそれを探すところからだ。

「――とはいえ、農具ってどこにあるんだろう」

「農具?」

「明日は畑に出てみようと思って。ほら、ぼくは農家だから……」

「それには及ばないと思うぞ。ほら」

 スズランはソファーの前のテーブルのボタンを押し、そこに大きなホログラムのスクリーンを表示させた。二、三回適当な操作をして、なんらかの情報画面を表示する。

「この画面によると、お前が手を入れなきゃならない作業は全部終わってる。定期的な手入れも全部機械がやるようになってる」

「えっ」

「だいたい、仕事なんてほとんど全部機械が勝手にやってくれるご時世じゃないか。『機械による生活保障』。まさかそんな常識まで忘れているなんて……」

 前言撤回。ぼくはどうやら、この社会のことをなにも知らないようだ。スズランには居てもらわないと困ったことになりそうだ。

「それに、明日行く必要があるのは畑じゃなくって学校だ。しばらくプルノス・アカデミーを欠席してるんだから、復帰できるなら復帰しないと」

「そ、そうか。学校が先だね」

 このあともしばらくスズランと話をしたが、総合して考えるに、元の世界の大学のような進学先はなく、高校か中学のような義務教育らしい学校を出たあとは、全員が働きに出るようだ。プルノス・アカデミーはこのタイプの最終の義務教育学校に該当するらしい。

 ユウキはもともと農家として働きながらアカデミーに通っていたようだ。とはいえ、農作業さえもほぼ全部機械がやってくれる。『機械による生活保障』によって誰もが食うに困らないというのが、この世界のあり方らしい。要は、学校を出たあとに仕事を選ぶというのは、「どんな仕事を機械にさせて飯を食っていくか」を選ぶということらしい。

 なんという気楽な社会だろう。

「ところでさ、ユウキ。使ってない部屋があったみたいだから、あたしのベッドを運び込ませておいたよ。問題ないよね?」

「うん。別に、問題ないよ」

「……なに? 一緒に寝たい?」

「いや、さすがにそれは……」

 ダメだろう。いまは十六歳の少年――しかも、十三歳の美少女にも見える外見――だとしても、高校生程度の女の子と同じベッドで眠るわけにはいかない。向こうにその気はないにしても……。

「ははは、冗談だよ、冗談」

 スズランはカラカラ笑っている。本当に冗談だったのか、内心本気だったのかはわからない。

 ◇◇◇

 その夜、ぼくとスズランは隣り合った別の部屋で眠りについた。だが、ぼくは眠れずに、夜中に目を覚ます。

 お前は特別な存在なんだよ――

 なにかの声がする。しかし、音がしているようには感じない。音ではない声が、ぼくに語りかけてくる。

 家の入口の外に、何者かの気配を感じて、ぼくは部屋を出て、静かで冷たい空気の張り詰めたリビングを横切り、エントランスのドアを出た。

 そこには、あの黒猫が座っていた。

「やあ、ユウキ」

「ね、猫が喋ったっ!?」

 驚いてしまう。唐突に、猫が人間の言葉で話し始めたのだから。

「その反応……やはり、上手く行っているようじゃないか」

「上手くって、なにがだよ。お前は何者だ」

「いやいや、こっちの話。……おいらは黒猫のペシェ。きみのレクトリヴの能力を司っている存在さ」

「司っている……って、いったい」

「きみには、人智を超えた強度のレクトリヴ能力が備わっている。その能力をもってすれば、この宇宙の支配さえ容易いことだ。だけど、それを全部解放するにはまだ早い。だからおいらが段階的に能力を返してあげるのさ」

「そんな……宇宙の支配だなんて、大それた……」

「別に支配に限ったことじゃない。この宇宙の破壊だって、新たな宇宙の創造だって、きみにとっては思いのままさ。元来きみは、そういったことができる存在なんだ」

「そんな……。いや、気づけばこんな美しい少年に生まれ変わっていたけれど、さすがにそこまでは……。だって、本当のぼくは……」

 本当のぼくは、軍隊でろくに昇格もできず、あちこちを転戦するのに振り回されるだけの下級兵士だったはずだ。

 うまく士官学校に滑り込んだ高校の同級生の槐(かい)が少尉として自分の上に配属されたとき、なんて馬鹿馬鹿しいんだと思った。なにせ、あいつはスポーツ推薦で一芸入試的に士官学校に滑り込んだだけのヤツなのに、それがもとで自分とそこまで差が付くなんて……。

 いや、本当はわかっている。ぼくは軍隊に思い入れもなければ、国防に情熱もない。ただ、認められたいだけだ。人から認められたくて、階級を上げたくて、実力以上の資格試験にいくつも挑戦していたら、全部に落ちてしまった。情けない話だ。

 でも、人から認められるのは必要なことじゃないか。人より優れていることは必要なことじゃないか。昇進するのにはもちろん、年俸を得るのにも――そして、幸福になるのにだって。

「ふうん。興味深いねえ。事前に仕込んだものとはどうも違うようだけど」

 黒猫のペシェは目を細める。笑っているのだろうか。

 いや――この猫、ぼくの心を読んでいる?

「では、きみ、幸福になりたまえよ。優れた者のみ幸福になれるのだとしたら、きみはこの宇宙で最も幸福たりえる存在だよ」

 ペシェの声は、ぼくの心の中で響き渡った。
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