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全ては神の導きのままに
第1話
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ファティア公爵の娘、アレクサンドラ・リーチェは社交界では有名人だ。
誰もが溜息を吐く美貌、理想的な身体つき、外見だけではなく一度見聞きした事は直ぐに理解してしまう聡明さ、類まれな話術。彼女は幼少時から頭角を現し、男女問わず若者達の憧れの的であった。
勿論縁談は滝のように降って湧いたが、彼女を囲い込もうとした当時の王の計らいにより早々に第一王子と婚約。それを知った彼女と同世代の大勢の男子達は失恋の悲しみに枕を濡らしたという。
18となった今でも美貌と聡明さは変わらず、いや更に伸ばしこれほど王妃として、また国母として相応しい者はいないと絶大な支持と賞賛を受けていた。
ところが第一王子レオナルドとアレクサンドラが正式に婚姻を結ぶ半年前から事情は大きく変わって来た。教会が管理している魔方陣から聖女が召喚されたのだ。
この国はかつて地下深くから湧き出る瘴気の所為で、人や動植物は長くは生きていられない土地であった。それがこうして心身ともに健康に生きていられるのはタラスティナ王国が崇める神の助力によるものだ。
遠い昔に瘴気で苦しむ人間を憂いた神が先祖達に接触し、瘴気を浄化すると共に逞しく生きられるよう魔術を授けたのが信仰の始まりとされている。この国が他国よりも優位に出られるのは当時から受け継がれて来た魔術のお陰だ。
そうして先祖達は力を合わせ、王を中心に1つに纏まると神は魔方陣を残して眠りについたという。その魔法陣は教会の1番神聖な間にて今も神官達の手で大切に管理されている。
神が眠ってからは自分達だけの力で乗り越えなければならなかったが、代わりに神はいつでも見守ってくれていた。なぜなら瘴気が蔓延するたびに聖女を遣わしてくれたからだ。
魔方陣から不定期に現れる少女達は肌の色も髪も瞳の色も様々であったが、共通して10代後半くらいの年齢である事と強い浄化の力を持っていた。
魔術に長けている者でも不可能な、瘴気を祓える少女の出現に国中の人間が大いに沸いた。神が己の代わりとして聖女を遣わしてくれたに違いない。そう確信した当時の人々は、魔方陣から少女が現れるたびに聖女として手厚く持てなしたのだ。
聖女達の中には少女らしく王子と恋に落ちる者もいた。2人を見ていた当時の神官の計らいで結ばれてからというもの、王子が聖女を妻や側室に限らず娶るのが慣わしとなっている。
娶るのは恋愛的な意味を除いても役割を終えた聖女への今後の生活の保障も兼ねている。レオナルドも単に今回の聖女であるアイラへの最大級の謝礼として娶るだけならば何も問題は無かったであろう。
あろうことかレオナルドはアイラに心変わりしてしまったのだ。
レオナルドは甘いマスクと洗練された所作で、婚約者がいてもなお年若い令嬢から憧れの視線を向けられる人気者だ。そんな彼に見染められたらアイラだって悪い気はしない。アレクサンドラも被害者だと一定数の人間が囁くのはここにある。
レオナルドは分かりやすくアレクサンドラよりもアイラと一緒に過ごす時間が増えるようになった。周囲がアレクサンドラを気遣ってもっと婚約者を大事にするよう進言しても「突然見知らぬ場所へ来て心細いだろうから」と取り合わない。彼には寂しそうに1人でいる婚約者の姿が見えていないのかと立腹した者もいた。
その執心ぶりはゆくゆくはアレクサンドラではなく聖女を王妃に据える算段では、などと心無い噂まで流れる始末であった。
国王夫妻が健在であったなら叱る事もできたであろう。だが王妃はレオナルドを出産した時に帰らぬ人となり、王は大病を患って伏せっている。本当に王子たる彼を止められる者はいなかった。
だからであろうか。あんな事件が起きたのは。
その日レオナルドは社交シーズン中を利用し、普段は遠方に住む親戚も招いて身内向けのお茶会を開いていた。といってもそれは建前で、アレクサンドラを心配した親戚が彼と共にいられる時間を作ろうと提案したのだが。
結局席が隣同士にも関わらずアイラにばかり話しかけるレオナルドを見かねて親戚達が彼女に話を振る形になってしまったが、それでも多少なりとも彼と会話が出来て久しぶりに嬉しそうな顔を見せてくれていた。
2人以外の心はさておき、表面上は和やかな時間が流れていたのだ。その時間は脆くも崩れ去ってしまったのだが。
数瞬前まで朗らかに笑っていたアイラの顔から突然血の気が引く。激しく咳き込んだ所為でテーブルに置かれた物はなぎ倒され、美しい刺繍が施されたクロスに染みが広がる。呼吸がままならないのか、ヒューヒューと弱弱しい呼吸を繰り返す彼女の尋常ではない様子に、周囲の人間が毒を疑いだしたところで彼女の身体は傾き地面へと崩れ落ちる。和やかなお茶会は一瞬で騒然となった。
幸い致死量には至らず命に別状は無かったが、次は毒を盛った犯人捜しが行われた。もうお分かりであろう、レオナルドは真っ先にアレクサンドラを疑ったのだ。
幸い身内向けのお茶会だったので事件を知っているのは一部の人間だけである。だが箝口令を敷いたとはいえあの時のメイド達がいつ口を滑らせるとも分からない。部外者に知れ渡る前に当事者達は彼に考え直すよう、秘密裏に調査を入れるよう説得した。
アイラを害する動機はあるが仮にも婚約者なのだ。真っ当な対応をしてくれると周囲は期待していた。しかしその希望も虚しく散る事となる。
「アレクサンドラ・リーチェ!この国の聖女に毒を盛り殺害を企てたお前の罪は重い!お前を国外追放に処する!」
なんとレオナルドはまともな調査もせずに己の婚約者を断罪したのだ。しかもわざわざあの時の当事者以外の人間も出席している、アイラの回復祝いのパーティーに呼び出してまで。
「殿下!ここは裁判所ではございません!それに判決を下すのは裁判官の役目です!」
「黙れ!ルイ!裁判の必要など無い!あろうことか聖女を害したのだ、これ以上この国に留めておくことは出来ん!」
従者が一喝され、ならば自分がと抗議をしようとする人々を制したのは他ならぬ彼女であった。裁判で無罪を勝ち取っても一度疑われれば以前と同じ目では見てくれない。針の筵のような場所にいるくらいならこの国を出て行くと。
そう言われてしまえば彼等も口を噤むしかなかった。彼女の家庭環境はお世辞にも良くないのは社交界では有名で、容疑をかけられた娘を両親は庇うどころか我が家の恥だと勘当してしまうのは容易に考えられた。彼等に出来る事と言えば、当面の金銭の援助と路頭に迷わないよう国外の知り合いを訪ねる便宜を図らうのみだった。
そして追放当日、あの茶会の参加者と彼女と懇意にしていた者達の中でも特に親しかった数人が忙しい合間を縫って見送りに来ていた。レオナルドの心象を悪くする事を恐れてか単なる薄情か、彼ら以外の者は誰も来ておらず、かつての婚約者の姿さえ無い寂しいものだった。
しかも護衛の数は両手で足りる程で、か弱い令嬢を守るには余りにも少ない。いくら容疑がかけられていたにせよ、情と言うものがないのかと酷い仕打ちに彼等は憤慨し、自分の護衛を貸し出そうとした。
だがそれも監視に止められてしまった。まるで道中不届きな輩に襲われても構わないとでもいうかのように。
あまり不憫さにいよいよ堪忍袋の緒が切れそうになったその時、アレクサンドラは王宮の方角に向かって微笑んだ。
「このような嫌がらせ、問題ありません。私は神の加護がついているのですもの」
それは失望や怨嗟、自分の境遇を嘆くようなものではなく、視線の向こうにいる者達を潮笑うような、瞳の奥に隠し切れない愉悦の色があった。
脳が認識した瞬間、彼等は一様に背筋を震わせた。膝が勝手に笑って冷や汗が止まらない。見送り人の1人が視線だけで周りの様子を窺えば、兵士達も顔を真っ白にして小刻みに震えていた。
あれは何だ!? あれは何だ!? あれは何だ!!!!
たおやかな少女に似つかわしくない膨大な威圧感と形容しがたい悍ましい感覚に、目の前に居る少女が果たして人間なのかどうかなどと馬鹿げた考えが浮かぶ。本能は今すぐこの場から立ち去れと引っ切り無しに警告を入れるが、肝心の足は固まってしまい動けない。
たった数秒の出来事が彼等にとってはもっと長い時間に感じられた。
とうとう膝を着きかけた瞬間、あれだけ場を支配していた威圧感が跡形も無く消える。恐怖が残る中で恐る恐る彼女を伺ってみれば、何事も無かったかのように緩く口角を上げて淑女の笑みを浮かべていた。
先程までの彼女は一体何だったのか。もしや幻だったかもしれぬと思い直そうとしていると、彼女はおもむろに腰を抜かしている監視役に顔を向けた。
「あらごめんなさい。先程の事はお忘れになって」
そう言われた監視役はあれだけ真っ青になって震えあがっていたというのに、瞬く間に血の気が戻り尻餅を着いている自分に首を傾げながら立ち上がる。そして彼女に「もう気は済んだでしょう」と小馬鹿にするように声を掛けるとさっさと馬車に乗るよう促したのだ。
貴族である彼等は監視役の豹変の原因を直ぐに理解した。記憶を曇らせる魔術を使ったのだと。
しかし彼女の両親は魔術の才に恵まれず、有能な彼女も魔術だけはからしきだった筈だ。貴族なのに魔術の才能がない事にコンプレックスを抱いていた両親は、だからこそ自分達の事を棚に上げて娘を冷遇していたのだが。それがたった今、いともたやすく使用してみせたのだ。しかも呪文を詠唱せずに。
「気にかけてくださったお礼に1つ、伝えておきましょう」
彼女は監視役の苛立った視線を歯牙にもかけずに彼等に歩み寄ると、手にしている扇を開いて内緒話をするように声を潜めた。
「即座に行動する事をおすすめしますわ。大切なものを失いたくないのであれば」
どういう事だと問いかける彼等には答えずに背を向けた彼女は一度も振り向かずに馬車に乗り込む。
結局意味深長な言葉を残して去って行く姿を眺め、やがて消えると彼等は示し合わせたかのように一斉に目を合わせた。言葉を交わさずとも分かる。全員の目は何かしらの大きな災いの予感を抱いており、楽観的に構えていては後悔すると直感するには充分であった。
その日を境に彼等は本当に重要な社交以外は顔を出さずに屋敷に引きこもるようになった。山のような量の書類と格闘し、様々な人とやり取りをし、夜遅くまで考え事をしている姿を使用人達は心配そうに見守る日々が続いた。
そうして彼女を見送った人間以外は誰も知らぬまま、表面上は容疑者の国外追放により事件は解決したかに思えたが、彼等の不安は見事に的中していた。
アレクサンドラを乗せて出発した馬車が無事に目的地に辿り着ける訳もなく。山の麓の細い道を通りがった際、突然馬の足元に数本の矢が刺さったのだ。
驚いた馬は宥めようとする御者を振り落として暴走し始め、護衛はと言えば追いかけようともせずにこれ幸いとばかりにアレクサンドラを放置して来た道を引き返したのだ。
護衛はリーチェ家と敵対する家の息がかかっており、あらかじめ襲撃があれば何も対処せずに戻るよう命令されていたのだ。
「あーあ、可哀そうになぁ。ありゃきっと慰み者にされるぜ」
護衛の1人が心にもない事を言いだし、周りもそれに同意する。きっと馬車を襲ったのは最近此処らで暴れている山賊だろう。襲った人間の中に女、それもとびっきりの上玉が居れば間違いなく欲望のはけ口にされる。かつては大貴族の令嬢でも今は何の後ろ盾も無い哀れな娘だ。
「隊長、どうせなら俺らも味見くらいしても良かったんじゃないですか?」
「駄目だ。橋から落ちたって嘘の信憑性を上げる為に細工をする必要がある。女を抱きたいなら報酬もらって娼館にでも行け」
暢気に馬を走らせながら護衛達は和気藹々と言葉を交わす。後の惨状を見なくて済んだのは幸いであったのか、それとも危機感を覚える機会を失われてしまった不幸かは誰にも分からない。
一方馬車は暴走していた馬の体力が尽きてスピードが落ち始めると、両脇から馬に乗った男性達が現れ手綱を取る。巧みな手さばきによって馬は徐々に落ち着きを取り戻し、程なくして足を止めた。
それを合図に木々の間からぞろぞろと男達が馬車の周りを取り囲む。彼等の恰好は押しなべて薄汚れた服を纏っており、欲望に濡れた下品な顔を隠そうともしていない。まかり間違っても本当の護衛などではないだろう。
中でも一際屈強なリーダーらしき男が、のしのしと近づいて馬車の扉に手を伸ばす。しかしドアノブに手をかけるよりも先に開き、中から搭乗者が姿を現した。貴族らしき身なりの妙齢の女だ。しかも1人だけ。
個人用の馬車を使える人間など貴族か金持ちかだ。なおかつ数人だけの護衛を連れて人気のない道を通るなど、明らかに訳ありですと言っているようなものである。
経験上こういった輩はありったけの金目の物を持ち出している。それらを目当てに襲撃を試みたが、まさかの予想外の収穫に全員が沸き立った。
アレクサンドラの美貌とドレスの上からでも分かる豊満な肢体に賤しい口笛と歓声が飛び交う。娼婦でも滅多にお目に掛れないような上玉に皆色めき立ちギラギラと目を輝かせていた。一部の者など既に下腹部を膨らませている有様だ。
「随分乱暴なお誘いね。レディの扱いがまるでなってないわ」
「そりゃすまねぇ。俺達乱暴さをウリにしてるからよぉ」
リーダーはアレクサンドラの嫌味も意に介さず嗤い飛ばす。金品は大した成果は得られないだろうが、極上の女がいるなら話は別だ。しかも顔に似合わず肝が据わっているときた。
いかにもか弱い女を好き勝手にするのも良いが、気の強い女の身も心も屈服させるのも悪くはない。
リーダーは頭の中で目の前の女をどうやって追い詰め、身体を暴き、快楽を植え付けるかビジョンを浮かべる。どんなに鼻っ柱が強かろうと所詮女は女。力で捻じ伏せてしまえばこちらのものだ。場合によっては狼の餌にせず女房にしてやっても良い。これで慢性的な女日照りも解消される。
脳内で着々と組み立てられる未来のビジョンに自然と男の口角も上がる。
「嬢ちゃんも分かるだろ?大人しくしといてくれりゃ悪いようにはしねぇ。むしろ可愛がってやるからよ」
さて、この女はどう答えるか。身分を声高に唱えて激昂するか、護身用の短剣を使って抵抗を試みるか。あるいは黙って睨みつけるか。
「あら、可愛がってくれるの?それじゃあお願いしようかしら」
しかし予想に反して女は乗り気だった。お高い貴族様だと思っていたがどうやらとんでもない好色だったらしい。
色の良い返事に部下が一斉に沸き立つ。尻軽じゃ締め付けは期待出来ないかもしれないが、一生お目に掛れるかどうかも分からない一級品を味わえるのだ。それ以上求めるのは贅沢と言うものだろう。
「そうかい?それじゃあ早速……」
男が自分達のねぐらに案内しようと一歩踏み出したその時、背後からグチャリと何かが潰れる嫌な音と「ギャッ」とくぐもった声がした。一瞬何が起きたのか分からず振り返ると、部下の1人が木の枝のような質感の触手に覆われた化け物に潰されているのが見えた。
「ヒィイイッ!!」
「何だコイツ!?」
下敷きにされた部下から赤黒い液体が地面に広がり、卑猥な空気が一転して阿鼻叫喚となる。近くにいた部下達は剣で切りかかるが、硬質な音が響くだけで化け物には一切効いていないようだった。それどころか反撃されてしまい、何人もの部下達が触手によって全身を貫かれ血を吐いて絶命した。
「グエッッ!!」
「うわぁあああっっ!!こっちにもいたぁあああ!!」
「逃げろぉおおお!!」
化け物は1匹だけではなかったようで、人の3倍は超えそうな大きさの身体を何処に隠していたのか、わらわらと集まって野盗達を追いかけ始める。しかも見た目に反して知能が高いのか、個々で連携して確実に部下達を追いつめいたぶっていく姿は悪魔としか言いようがない。
「どうしたのかしら?可愛がってくれるんじゃなかったの?折角みんな遊びたがっているのに」
そんな地獄絵図でも女は変わらずコロコロと笑いながら眺めている。捕まった部下達は1人は骨が折れる程に揺さぶられ、1人は乱暴な動作で高く放り投げられては叩きつけられるように触手の中へと収まる。この世の地獄のような惨劇を目にしても、子どもの無邪気な遊びを見守る親のような瞳に男の全身から冷や汗が噴き出る。
「何なんだ!?お前は一体何なんだよぉ!?」
すっかり恐怖に支配された男は後ずさりながら喚き散らす。女が一歩ずつ近づくたびに下がり、腰に佩いていた剣を振り回してこれ以上近づけさせないようにする。
「知りたいの?教えてあげる」
突如女の目が怪しく光る。警戒して目を合わせていた男はその光を正面から受け止めてしまい、指の1本すら動かせなくなる。最初は静止していただけの男だが、唇が震え目が充血してくる。か細い息で「止めてくれ……」「もう入って来るな……」と小さく言葉が漏れるが、それでも彼女は止まらない。
とうとう意味のない言葉の羅列を吐き散らしながら首をがむしゃらに動かす。四肢の自由があればきっと手足を振って暴れていただろう。だがそれも長くは続かず、目から血涙を流し口から泡を吹き、最期には力なく冷たい地面へとくず折れた。
このような惨劇にも関わらず、無惨に殺された野盗の話は人々の話題には上がらなかった。彼女が去った後は化け物や死体はおろか、周囲に散らばっていた肉片や血痕も1つ残らず跡形も無く消え失せたからである。
その代わりに近辺の村を荒らしまわっていた集団の噂がぱったりと止み、怯えて暮らしていた麓の村人達はホッと胸を撫で下ろすのだった。
誰もが溜息を吐く美貌、理想的な身体つき、外見だけではなく一度見聞きした事は直ぐに理解してしまう聡明さ、類まれな話術。彼女は幼少時から頭角を現し、男女問わず若者達の憧れの的であった。
勿論縁談は滝のように降って湧いたが、彼女を囲い込もうとした当時の王の計らいにより早々に第一王子と婚約。それを知った彼女と同世代の大勢の男子達は失恋の悲しみに枕を濡らしたという。
18となった今でも美貌と聡明さは変わらず、いや更に伸ばしこれほど王妃として、また国母として相応しい者はいないと絶大な支持と賞賛を受けていた。
ところが第一王子レオナルドとアレクサンドラが正式に婚姻を結ぶ半年前から事情は大きく変わって来た。教会が管理している魔方陣から聖女が召喚されたのだ。
この国はかつて地下深くから湧き出る瘴気の所為で、人や動植物は長くは生きていられない土地であった。それがこうして心身ともに健康に生きていられるのはタラスティナ王国が崇める神の助力によるものだ。
遠い昔に瘴気で苦しむ人間を憂いた神が先祖達に接触し、瘴気を浄化すると共に逞しく生きられるよう魔術を授けたのが信仰の始まりとされている。この国が他国よりも優位に出られるのは当時から受け継がれて来た魔術のお陰だ。
そうして先祖達は力を合わせ、王を中心に1つに纏まると神は魔方陣を残して眠りについたという。その魔法陣は教会の1番神聖な間にて今も神官達の手で大切に管理されている。
神が眠ってからは自分達だけの力で乗り越えなければならなかったが、代わりに神はいつでも見守ってくれていた。なぜなら瘴気が蔓延するたびに聖女を遣わしてくれたからだ。
魔方陣から不定期に現れる少女達は肌の色も髪も瞳の色も様々であったが、共通して10代後半くらいの年齢である事と強い浄化の力を持っていた。
魔術に長けている者でも不可能な、瘴気を祓える少女の出現に国中の人間が大いに沸いた。神が己の代わりとして聖女を遣わしてくれたに違いない。そう確信した当時の人々は、魔方陣から少女が現れるたびに聖女として手厚く持てなしたのだ。
聖女達の中には少女らしく王子と恋に落ちる者もいた。2人を見ていた当時の神官の計らいで結ばれてからというもの、王子が聖女を妻や側室に限らず娶るのが慣わしとなっている。
娶るのは恋愛的な意味を除いても役割を終えた聖女への今後の生活の保障も兼ねている。レオナルドも単に今回の聖女であるアイラへの最大級の謝礼として娶るだけならば何も問題は無かったであろう。
あろうことかレオナルドはアイラに心変わりしてしまったのだ。
レオナルドは甘いマスクと洗練された所作で、婚約者がいてもなお年若い令嬢から憧れの視線を向けられる人気者だ。そんな彼に見染められたらアイラだって悪い気はしない。アレクサンドラも被害者だと一定数の人間が囁くのはここにある。
レオナルドは分かりやすくアレクサンドラよりもアイラと一緒に過ごす時間が増えるようになった。周囲がアレクサンドラを気遣ってもっと婚約者を大事にするよう進言しても「突然見知らぬ場所へ来て心細いだろうから」と取り合わない。彼には寂しそうに1人でいる婚約者の姿が見えていないのかと立腹した者もいた。
その執心ぶりはゆくゆくはアレクサンドラではなく聖女を王妃に据える算段では、などと心無い噂まで流れる始末であった。
国王夫妻が健在であったなら叱る事もできたであろう。だが王妃はレオナルドを出産した時に帰らぬ人となり、王は大病を患って伏せっている。本当に王子たる彼を止められる者はいなかった。
だからであろうか。あんな事件が起きたのは。
その日レオナルドは社交シーズン中を利用し、普段は遠方に住む親戚も招いて身内向けのお茶会を開いていた。といってもそれは建前で、アレクサンドラを心配した親戚が彼と共にいられる時間を作ろうと提案したのだが。
結局席が隣同士にも関わらずアイラにばかり話しかけるレオナルドを見かねて親戚達が彼女に話を振る形になってしまったが、それでも多少なりとも彼と会話が出来て久しぶりに嬉しそうな顔を見せてくれていた。
2人以外の心はさておき、表面上は和やかな時間が流れていたのだ。その時間は脆くも崩れ去ってしまったのだが。
数瞬前まで朗らかに笑っていたアイラの顔から突然血の気が引く。激しく咳き込んだ所為でテーブルに置かれた物はなぎ倒され、美しい刺繍が施されたクロスに染みが広がる。呼吸がままならないのか、ヒューヒューと弱弱しい呼吸を繰り返す彼女の尋常ではない様子に、周囲の人間が毒を疑いだしたところで彼女の身体は傾き地面へと崩れ落ちる。和やかなお茶会は一瞬で騒然となった。
幸い致死量には至らず命に別状は無かったが、次は毒を盛った犯人捜しが行われた。もうお分かりであろう、レオナルドは真っ先にアレクサンドラを疑ったのだ。
幸い身内向けのお茶会だったので事件を知っているのは一部の人間だけである。だが箝口令を敷いたとはいえあの時のメイド達がいつ口を滑らせるとも分からない。部外者に知れ渡る前に当事者達は彼に考え直すよう、秘密裏に調査を入れるよう説得した。
アイラを害する動機はあるが仮にも婚約者なのだ。真っ当な対応をしてくれると周囲は期待していた。しかしその希望も虚しく散る事となる。
「アレクサンドラ・リーチェ!この国の聖女に毒を盛り殺害を企てたお前の罪は重い!お前を国外追放に処する!」
なんとレオナルドはまともな調査もせずに己の婚約者を断罪したのだ。しかもわざわざあの時の当事者以外の人間も出席している、アイラの回復祝いのパーティーに呼び出してまで。
「殿下!ここは裁判所ではございません!それに判決を下すのは裁判官の役目です!」
「黙れ!ルイ!裁判の必要など無い!あろうことか聖女を害したのだ、これ以上この国に留めておくことは出来ん!」
従者が一喝され、ならば自分がと抗議をしようとする人々を制したのは他ならぬ彼女であった。裁判で無罪を勝ち取っても一度疑われれば以前と同じ目では見てくれない。針の筵のような場所にいるくらいならこの国を出て行くと。
そう言われてしまえば彼等も口を噤むしかなかった。彼女の家庭環境はお世辞にも良くないのは社交界では有名で、容疑をかけられた娘を両親は庇うどころか我が家の恥だと勘当してしまうのは容易に考えられた。彼等に出来る事と言えば、当面の金銭の援助と路頭に迷わないよう国外の知り合いを訪ねる便宜を図らうのみだった。
そして追放当日、あの茶会の参加者と彼女と懇意にしていた者達の中でも特に親しかった数人が忙しい合間を縫って見送りに来ていた。レオナルドの心象を悪くする事を恐れてか単なる薄情か、彼ら以外の者は誰も来ておらず、かつての婚約者の姿さえ無い寂しいものだった。
しかも護衛の数は両手で足りる程で、か弱い令嬢を守るには余りにも少ない。いくら容疑がかけられていたにせよ、情と言うものがないのかと酷い仕打ちに彼等は憤慨し、自分の護衛を貸し出そうとした。
だがそれも監視に止められてしまった。まるで道中不届きな輩に襲われても構わないとでもいうかのように。
あまり不憫さにいよいよ堪忍袋の緒が切れそうになったその時、アレクサンドラは王宮の方角に向かって微笑んだ。
「このような嫌がらせ、問題ありません。私は神の加護がついているのですもの」
それは失望や怨嗟、自分の境遇を嘆くようなものではなく、視線の向こうにいる者達を潮笑うような、瞳の奥に隠し切れない愉悦の色があった。
脳が認識した瞬間、彼等は一様に背筋を震わせた。膝が勝手に笑って冷や汗が止まらない。見送り人の1人が視線だけで周りの様子を窺えば、兵士達も顔を真っ白にして小刻みに震えていた。
あれは何だ!? あれは何だ!? あれは何だ!!!!
たおやかな少女に似つかわしくない膨大な威圧感と形容しがたい悍ましい感覚に、目の前に居る少女が果たして人間なのかどうかなどと馬鹿げた考えが浮かぶ。本能は今すぐこの場から立ち去れと引っ切り無しに警告を入れるが、肝心の足は固まってしまい動けない。
たった数秒の出来事が彼等にとってはもっと長い時間に感じられた。
とうとう膝を着きかけた瞬間、あれだけ場を支配していた威圧感が跡形も無く消える。恐怖が残る中で恐る恐る彼女を伺ってみれば、何事も無かったかのように緩く口角を上げて淑女の笑みを浮かべていた。
先程までの彼女は一体何だったのか。もしや幻だったかもしれぬと思い直そうとしていると、彼女はおもむろに腰を抜かしている監視役に顔を向けた。
「あらごめんなさい。先程の事はお忘れになって」
そう言われた監視役はあれだけ真っ青になって震えあがっていたというのに、瞬く間に血の気が戻り尻餅を着いている自分に首を傾げながら立ち上がる。そして彼女に「もう気は済んだでしょう」と小馬鹿にするように声を掛けるとさっさと馬車に乗るよう促したのだ。
貴族である彼等は監視役の豹変の原因を直ぐに理解した。記憶を曇らせる魔術を使ったのだと。
しかし彼女の両親は魔術の才に恵まれず、有能な彼女も魔術だけはからしきだった筈だ。貴族なのに魔術の才能がない事にコンプレックスを抱いていた両親は、だからこそ自分達の事を棚に上げて娘を冷遇していたのだが。それがたった今、いともたやすく使用してみせたのだ。しかも呪文を詠唱せずに。
「気にかけてくださったお礼に1つ、伝えておきましょう」
彼女は監視役の苛立った視線を歯牙にもかけずに彼等に歩み寄ると、手にしている扇を開いて内緒話をするように声を潜めた。
「即座に行動する事をおすすめしますわ。大切なものを失いたくないのであれば」
どういう事だと問いかける彼等には答えずに背を向けた彼女は一度も振り向かずに馬車に乗り込む。
結局意味深長な言葉を残して去って行く姿を眺め、やがて消えると彼等は示し合わせたかのように一斉に目を合わせた。言葉を交わさずとも分かる。全員の目は何かしらの大きな災いの予感を抱いており、楽観的に構えていては後悔すると直感するには充分であった。
その日を境に彼等は本当に重要な社交以外は顔を出さずに屋敷に引きこもるようになった。山のような量の書類と格闘し、様々な人とやり取りをし、夜遅くまで考え事をしている姿を使用人達は心配そうに見守る日々が続いた。
そうして彼女を見送った人間以外は誰も知らぬまま、表面上は容疑者の国外追放により事件は解決したかに思えたが、彼等の不安は見事に的中していた。
アレクサンドラを乗せて出発した馬車が無事に目的地に辿り着ける訳もなく。山の麓の細い道を通りがった際、突然馬の足元に数本の矢が刺さったのだ。
驚いた馬は宥めようとする御者を振り落として暴走し始め、護衛はと言えば追いかけようともせずにこれ幸いとばかりにアレクサンドラを放置して来た道を引き返したのだ。
護衛はリーチェ家と敵対する家の息がかかっており、あらかじめ襲撃があれば何も対処せずに戻るよう命令されていたのだ。
「あーあ、可哀そうになぁ。ありゃきっと慰み者にされるぜ」
護衛の1人が心にもない事を言いだし、周りもそれに同意する。きっと馬車を襲ったのは最近此処らで暴れている山賊だろう。襲った人間の中に女、それもとびっきりの上玉が居れば間違いなく欲望のはけ口にされる。かつては大貴族の令嬢でも今は何の後ろ盾も無い哀れな娘だ。
「隊長、どうせなら俺らも味見くらいしても良かったんじゃないですか?」
「駄目だ。橋から落ちたって嘘の信憑性を上げる為に細工をする必要がある。女を抱きたいなら報酬もらって娼館にでも行け」
暢気に馬を走らせながら護衛達は和気藹々と言葉を交わす。後の惨状を見なくて済んだのは幸いであったのか、それとも危機感を覚える機会を失われてしまった不幸かは誰にも分からない。
一方馬車は暴走していた馬の体力が尽きてスピードが落ち始めると、両脇から馬に乗った男性達が現れ手綱を取る。巧みな手さばきによって馬は徐々に落ち着きを取り戻し、程なくして足を止めた。
それを合図に木々の間からぞろぞろと男達が馬車の周りを取り囲む。彼等の恰好は押しなべて薄汚れた服を纏っており、欲望に濡れた下品な顔を隠そうともしていない。まかり間違っても本当の護衛などではないだろう。
中でも一際屈強なリーダーらしき男が、のしのしと近づいて馬車の扉に手を伸ばす。しかしドアノブに手をかけるよりも先に開き、中から搭乗者が姿を現した。貴族らしき身なりの妙齢の女だ。しかも1人だけ。
個人用の馬車を使える人間など貴族か金持ちかだ。なおかつ数人だけの護衛を連れて人気のない道を通るなど、明らかに訳ありですと言っているようなものである。
経験上こういった輩はありったけの金目の物を持ち出している。それらを目当てに襲撃を試みたが、まさかの予想外の収穫に全員が沸き立った。
アレクサンドラの美貌とドレスの上からでも分かる豊満な肢体に賤しい口笛と歓声が飛び交う。娼婦でも滅多にお目に掛れないような上玉に皆色めき立ちギラギラと目を輝かせていた。一部の者など既に下腹部を膨らませている有様だ。
「随分乱暴なお誘いね。レディの扱いがまるでなってないわ」
「そりゃすまねぇ。俺達乱暴さをウリにしてるからよぉ」
リーダーはアレクサンドラの嫌味も意に介さず嗤い飛ばす。金品は大した成果は得られないだろうが、極上の女がいるなら話は別だ。しかも顔に似合わず肝が据わっているときた。
いかにもか弱い女を好き勝手にするのも良いが、気の強い女の身も心も屈服させるのも悪くはない。
リーダーは頭の中で目の前の女をどうやって追い詰め、身体を暴き、快楽を植え付けるかビジョンを浮かべる。どんなに鼻っ柱が強かろうと所詮女は女。力で捻じ伏せてしまえばこちらのものだ。場合によっては狼の餌にせず女房にしてやっても良い。これで慢性的な女日照りも解消される。
脳内で着々と組み立てられる未来のビジョンに自然と男の口角も上がる。
「嬢ちゃんも分かるだろ?大人しくしといてくれりゃ悪いようにはしねぇ。むしろ可愛がってやるからよ」
さて、この女はどう答えるか。身分を声高に唱えて激昂するか、護身用の短剣を使って抵抗を試みるか。あるいは黙って睨みつけるか。
「あら、可愛がってくれるの?それじゃあお願いしようかしら」
しかし予想に反して女は乗り気だった。お高い貴族様だと思っていたがどうやらとんでもない好色だったらしい。
色の良い返事に部下が一斉に沸き立つ。尻軽じゃ締め付けは期待出来ないかもしれないが、一生お目に掛れるかどうかも分からない一級品を味わえるのだ。それ以上求めるのは贅沢と言うものだろう。
「そうかい?それじゃあ早速……」
男が自分達のねぐらに案内しようと一歩踏み出したその時、背後からグチャリと何かが潰れる嫌な音と「ギャッ」とくぐもった声がした。一瞬何が起きたのか分からず振り返ると、部下の1人が木の枝のような質感の触手に覆われた化け物に潰されているのが見えた。
「ヒィイイッ!!」
「何だコイツ!?」
下敷きにされた部下から赤黒い液体が地面に広がり、卑猥な空気が一転して阿鼻叫喚となる。近くにいた部下達は剣で切りかかるが、硬質な音が響くだけで化け物には一切効いていないようだった。それどころか反撃されてしまい、何人もの部下達が触手によって全身を貫かれ血を吐いて絶命した。
「グエッッ!!」
「うわぁあああっっ!!こっちにもいたぁあああ!!」
「逃げろぉおおお!!」
化け物は1匹だけではなかったようで、人の3倍は超えそうな大きさの身体を何処に隠していたのか、わらわらと集まって野盗達を追いかけ始める。しかも見た目に反して知能が高いのか、個々で連携して確実に部下達を追いつめいたぶっていく姿は悪魔としか言いようがない。
「どうしたのかしら?可愛がってくれるんじゃなかったの?折角みんな遊びたがっているのに」
そんな地獄絵図でも女は変わらずコロコロと笑いながら眺めている。捕まった部下達は1人は骨が折れる程に揺さぶられ、1人は乱暴な動作で高く放り投げられては叩きつけられるように触手の中へと収まる。この世の地獄のような惨劇を目にしても、子どもの無邪気な遊びを見守る親のような瞳に男の全身から冷や汗が噴き出る。
「何なんだ!?お前は一体何なんだよぉ!?」
すっかり恐怖に支配された男は後ずさりながら喚き散らす。女が一歩ずつ近づくたびに下がり、腰に佩いていた剣を振り回してこれ以上近づけさせないようにする。
「知りたいの?教えてあげる」
突如女の目が怪しく光る。警戒して目を合わせていた男はその光を正面から受け止めてしまい、指の1本すら動かせなくなる。最初は静止していただけの男だが、唇が震え目が充血してくる。か細い息で「止めてくれ……」「もう入って来るな……」と小さく言葉が漏れるが、それでも彼女は止まらない。
とうとう意味のない言葉の羅列を吐き散らしながら首をがむしゃらに動かす。四肢の自由があればきっと手足を振って暴れていただろう。だがそれも長くは続かず、目から血涙を流し口から泡を吹き、最期には力なく冷たい地面へとくず折れた。
このような惨劇にも関わらず、無惨に殺された野盗の話は人々の話題には上がらなかった。彼女が去った後は化け物や死体はおろか、周囲に散らばっていた肉片や血痕も1つ残らず跡形も無く消え失せたからである。
その代わりに近辺の村を荒らしまわっていた集団の噂がぱったりと止み、怯えて暮らしていた麓の村人達はホッと胸を撫で下ろすのだった。
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