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第一章

想い

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 大量の汚泥が体にまとわりつくような感覚だった。
 上を向くと、水面が見える。その先からは光が見えるが、もがけどそこに届くことはない。
 呼吸がままならない。酸素を求めて口が開閉し、その度に肺の中の空気が漏れる。
 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
 視界が暗くなる。力が抜ける。何も聞こえ──いや。
 聞こえる。何かが聞こえる。

 ──────?

 それが言葉だということだけが、辛うじて理解できた。
 でも、なんだ? 何を言ってる?

 ────て。

 身体から力を抜いて、耳を澄ませる。
 聞かなければいけない気がした。それを求められている気がした。

 ────許して。

 …………何、を?
 理解に苦しむ。訳が分からない。
 でも……どうしてだろう? 頬を何か、冷たいものが伝う感覚がするのは──


 ◇◆◇◆◇◆


 意識が少しだけ覚醒し、寝ぼけ半分に体を起こす。
 俺が寝ていたのはどうやら簡易なベッドらしい。周りを見渡すと、天幕の内側と机に置かれた水差し、俺の為に用意されたと思しき保存食がすぐに食べられる形で置かれている。
 暫くして、どうして俺が横になっているのかと心中を焦燥が支配する。
 その時、折よく天幕の入り口が開かれ、タルトが入ってきた。
 どこか暗い顔で、見たこともないくらいに申し訳なさそうに目を伏せている。どうかしたのだろうか。

「あ……起きられたのですね。おはようございます。と言っても、日が落ちてもう随分経っていますが……」
「あ、あぁ。おはよう……じゃなくて! なんで俺こんなところで寝て……!?」
「疲れから、だと思います。会議中に突然倒れられたので……どうしたのかと、心配しました」

 そう……だった。確か、二人が白熱した論争を繰り広げているのを聞いているうち、だんだんと目蓋が落ちてきて、恐らく俺はそのまま眠ってしまったのだ。
 十日しかない試験期間。何が起こるかわからない以上一秒たりとも無駄にしていい時間はないと心得ていたつもりだった。でも、どうやら体はついてきてくれなかったらしい。

「……ごめん。みんな頑張ってるのに、俺だけ」
「いえ、私こそ……申し訳ありません。慣れないあなたにばかり、大変な役目を押し付けてしまっていました。手を貸してくれるだけでもありがたいというのに、試験を通ってからのことまで貪欲に考えて、貴方の負担ばかり増やしてしまっていました。本当に……」
「いいよ、いいよ。俺がやりたくてやってることだし、一回手伝うって言ったんだ。頼られないと寧ろ悲しくなる。タルトにだって大切な想いがあるんだろ?」

 気負わせまいと無理に明るく笑顔を浮かべてみたが、どうやら察せられてしまったらしくタルトの顔はより一層暗くなる。
 ……こんな顔が見たくて手伝っているわけではないんだけれど。
 いや。タルトも本当はそれがわかっていて、本当はここは俺の為にも笑うべきだとわかっていて、それでもどうしても申し訳なく思ってしまうのだろう。それだけの優しさを、彼女は持っている。
 だからこそ、気になる。そこまでして彼女はどうして軍に入り、より高い地位を望むのか。
 そんな願望とは縁遠そうな人物なのに。
 そんな考えが、顔にでも書いてあったのか。タルトは、隠すほどのことでもないですから、と小さく笑って、自分のことをぽつぽつと話し始めた。

「私の父は……軍人でした。父はかの共和国建国の際の一斉蜂起にも参加した、常に民を想い働けるような人道的で情に厚い人でした。この軍服も、父からの授かりものです」
「父親……か。でした、っていうのは」
「はい。父は数年前に病に倒れ、この世を去りました。母は……父とは違って帝国貴族でありましたから、既得権益を好きなだけむさぼることが出来る帝国から離れてはくれず、私は孤独の身になりました。父が遺した財産は、私が慎ましやかに生きる分には十分なものでした」
「……成程ね」

 聞く限りは平民の軍人と、腐った帝国貴族がどう間違えば結婚し子をなすに至るのか、疑問ではあるが……話の筋には関係がないのだろう。

「いつもは私とよく遊んでくれる父は、しかしいつも民の為に力を尽くしていて。そのために私を少し蔑ろにすることすらあるほどでした。父の意思を継ぎたかった……というと、少し違うのだと思います。そういった気持ちも勿論ありましたが、私は何より父の一番大切だったものがどんなものなのか、見てみたかったんです。その為に、私は父と同じところまで行きたかった。軍部のトップに立っていた父に追いつきたかった……人から見れば、大した理由には見えないかもしれませんが……」
「いや、わかるよ。……俺はそれなりに幸せな家庭だったから、父親を喪ったタルトの気持ちはわからないかもしれないけど。タルトがその目的の為に、どれだけ一生懸命に頑張って来たかはわかる」

 少しの間だけれど肩を並べて勉強して、その姿を見てきたから。他の人と比べて勉強をするには劣悪な環境。恵まれていないからと言い訳をして、諦めることも出来ただろうわ、それでも歯を食いしばって頑張って、遂には筆記で二位を取るまでになったその努力を。

「だから、俺にも頑張らせてくれ。タルトの努力の万分の一でも頑張らなきゃ、俺はタルトの前で胸も張れない。それに……」
「それに……?」
「俺だって男なんだからさ。可愛い女の子の前でくらい格好つけたっていいだろ?」

 俺は、自分の顔が少し顔が赤いことを自覚しつつもそんな恥ずかしい事を口にする。
 タルトが少し、笑う。
 哀しそうなあの顔はいつのまにか何処かへと飛んで行ったようだった。
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