サルヴィーニャ

にわとうこ

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 エルカノハは木の上で息をひそめていた。

 エルカノハが音を立てないように木の下を窺うと、それは大きな熊のような獣が、恐ろしい唸り声を上げながらのしのしと歩いてきていた。ふと後ろ足で立ち、両手をぶらりと下げ、鼻先を上げて少し上を見ながらどうやら匂いを嗅いでいるようだ。
 熊は木も登るし走るのも速いと言われる。この獣がその熊なのかも定かではなかったが、いずれにしてもこのままでは見つかるのは時間の問題と思われた。

 小鹿のような獣を初めて解放してから、毎日森を歩いて魔に触れた者を見つけては解放する日々を送り、握りしめる杖には二十余りの線が刻まれていた。
 それまでは小さな兎や小鳥といったような自分の体よりも小さい者が対象であった。まるでエルカノハに危険の無いよう精霊が調整しているかのようだ、きっとそうなのだろうと油断をするとまたこれだ。

 森をいつものように歩く内に、いつも同行してくれている精霊たちがこれまでになく焦ったような声で騒ぎ始めたかと思うと、赤紫の精霊が急に肩から降りてエルカノハをどのような力でか木の枝の上に押し上げたのだ。

 近づいてきた熊のような獣が盛んにこちらを嗅ぎながら上を見やるも、エルカノハの上を素通りするかのように視線が合わず、恐らく気配が感じられてもこちらが見えないのか位置を掴めていないようだった。

 エルカノハがいる木の枝の真下まで来ると、後ろ足で立つ熊の頭はもう足を伸ばせば触れられるような距離だ。思わず滲む涙が落ちないように、震える手が木を揺らして音を出さないように、呼吸の音もさせないようにと焦るが、そう思う程に呼吸は荒くなってしまう。破裂しそうな心臓の音ががんがんと耳元で煩い。どうせならもう一段高いところに上げてくださればなどと恨み節をこぼしたくもなるが、この距離について考えてふと冷静になってみれば、こちらを視認できない獣がすぐ近くで頭をさらしている今の状況が実は絶好の機会なのではないかと気づいた。

 あのように大きな獣を解放するには、どれだけ力を籠めれば良いのかしら。
息を潜めるのをやめ、深呼吸する。獣が気配に気づいたのか、焦点の合わない目をこちらへ向けている。枝や葉を揺らすのも構わず、杖を大きく振り上げ、近づいていた鼻先あたりに思い切り振り下ろした。

 ごめんなさい。ごめんなさいね。

 ギャンと大きく一鳴きして、両手で鼻先を押さえた獣の後頭部に続けてもう一振り、さらに幾度か。獣がどうっと大きな音を立てて横倒しになった時には、エルカノハは激しく嗚咽しながら声が出せぬ苦しいまま大粒の涙をこぼしていた。

 ぶるぶると大きく震えながら杖を握りしめて涙を流していると、赤紫の精霊が木の上に現れまた肩の上までやってきて、髪を引きながら呆れたような声で言う。

『だからエルがやることではないのだよ。あの小屋でもどこででも、ただ伸び伸びと過ごしておればよいものを』
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