欠陥品の文殊使いは最強の希少職でした。

登龍乃月

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第八章 ロンシャン撤退戦ー後編ー

三六一話 アストラ

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「……ここは……どこだ……?」

 アストラは小さく呟いた。
 だがその問いは周囲に漂う灰色の霧に飲み込まれていった。
 霧は重く、体にまとわりつくかのように動いてアストラの体を飲み込んでいく。
 振り払っても振り払っても、霧はまるで意志を持つかのようにユラリユラリと揺れてアストラを包もうと這い寄ってくる。

「俺は一体……?」

 自分の身に何が起きたのかを思い出そうとすると、頭の奥が酷く痛み、考える事を阻害してくる。
 しつこくまとわりつく霧から逃れるべく、アストラは一歩一歩ゆっくりと前に進み始めた。
 明かりは無く、数メートル先は何も見えない漆黒が口を開けている。
 けれどアストラは、進まなければならない、と心のどこかから聞こえる声に従って慎重に歩みを続ける。
 どれほど歩いたのか、アストラは耳に届く自らの足音が変化した事に気付く。
 コツコツという硬い床を歩く音から、ピチャ、ピチャ、という雨時の地面を歩いているような水の音が聞こえ始めた。
 
「……水……? いや、この臭いは……」

 相変わらず重い霧が周囲に漂っているが、霧に混じって鉄のような臭いと生臭い臭い、そして硫黄のような臭いと腐敗臭が鼻を突いた。
 まるで魚市場の魚を一斉に腐らせたような、そんな刺激臭が漂っている。
 だが不思議と吐き気は催さず、不快感を感じる事も無い。
 希薄した現実感の中、臭いの一つが血液の臭いである事は少なからず分かった。
 アストラはその場でしゃがみ込み、足元に広がる水を手で掬う。
 掌にあるのは水では無く、やはり血、足元に広がっているのは大量の血液。
 くるぶし辺りまで浸かるほどの大量の血液。
 一体どれほどの生物を殺めれば、これ程までに流れると言うのだろうか。
 
「……ぁぁぁ、あ……」

「おお……おおぁ……」

「はぁぁぁ……はぁぁぁぁ……」

 アストラが非現実的な量の血に困惑していると、向かう先から小さい呻きのような声が聞こえてきた。
 眉を寄せて声の方に近付いて行くと、霧の中から薄らと無数の人の顔が浮かび上がり始めた。
 
「壁……なのか……?」

 ピンク色の肉のような壁一面にビッシリと浮かび上がった無数の人面は、口々に嘆くような呻き声を上げてはいるが明確な自我は無いようだった。
 眼球があるべき場所には何も無く、闇深い黒があるだけ。
 あまりに非現実的な光景に瞠目しつつも、アストラは無数の顔から目が離せなかった。
 これが現実であるはずがない、と嘆きの呻きの只中で自らの心に言い聞かせて歩く速度を上げた。
 歩けば歩くほどに時間の感覚が薄れていく。
 腕も足も自分のものでは無いかのように重く、力が入らない。
 しかし視界だけは驚くほど鮮明で、研ぎ澄まされている感覚があった。
 不可解な出来事だらけだが、今のアストラはただ前に進むという胸の内の声だけを信じて道を行く。
 最初は広かったはずの通路だが、今となっては二メートル程の距離までに狭まっている。
 両サイドの壁にはやはり一面の顔、顔、顔、顔。
 声は呪詛の声と化したようにおどろおどろしいものへ変り、黒く染まった眼孔からは小さな手が蛆虫のように這い出し始め、うぞうぞとおぞましく蠢いている。
 纏わり付いていた霧は灰色から徐々に黒へと変り、アストラはそれが瘴気だという事を無意識に感じ始めていた。

『オオオ……グルルル……ゴアァァ……』

「獣の声……? にしては……変だ」

 呪詛の祠と化した通路が唐突に開け、巨大な円形の空洞が姿を現し、その中央に鎮座する像から奇妙な唸り声が鳴っている。
 人の声と獣の声、そして魔導技巧の起動音が混ざりあったような声。
 ここで初めてアストラは背筋に薄ら寒いものが走り、数歩後ずさってしまう。
 像は動物と昆虫を無理矢理くっつけたような形をしており、頭部には虫の複眼と二対の瞳、頭頂部からは長い触角が伸びていた。
 昆虫のような首は長く、多数の節足が生えている。
 胴体はドラゴンをモチーフにしている風にも見受けられ、背中には一対の大きな羽、尻尾部分には三匹の大蛇が生えていた。
 だが一番目を引くのは、口の部分と胴体の左右にある砲塔のような存在と、像の真上に浮かんでいる大きく細長い紫色のクリスタルだ。
 クリスタルは静かに浮遊し、怪しくもどこか厳かな光を薄らと放っていた。
 
「おぞましい……」

 アストラが無意識に口走ると、合成生物の像の瞳が怪しく光り、周囲の瘴気をどんどんと取り込み始めた。
 すると広場全体がうねり、空洞自体がゆっくりと収縮を始めたのだ。
 危険を感じたアストラは急いでこの場を離れようと踵を返し、来た道を戻るべく走り出した。
 
「…………ラ! ……アス……ラ!」

 重い手足を前後に動かし、転びそうになりながらも足を止める事はしない。
 今止まれば永遠に戻れない、とアストラは心のどこかで感じていた。
 微かに届く聞き覚えのある女性と少年の声を頼りに必死に駆け続ける。
 空洞から遠のけば遠のくほど、自分の体に活力が戻って来るのを感じ、アストラは僅かな笑みを浮かべた。
 ふと視線を感じ、走りながら首を後ろへ回すが見えるのは黒一色。
 首を戻し前を向くと、段々と近付いてくる声の持ち主が脳裏にぼんやりと浮かんでくる。
 自分の身に何が起きたのかも朧げながら思い出してきた。
 
「そうだ。私はまだ死ねない! 国の為、私自身の為にも!」

 生きる意志を取り戻したアストラが、吐き出すように口を開くと前方が突如激しく輝きだした。
 自分が居るべき場所はここでは無いと確信したアストラは、少しの躊躇もせず、その光の中に飛び込んで行ったのだった。
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