33 / 79
BOOK2(前半)
アステカ文明、タロカン。
しおりを挟む
去年君が気にしていたことだよ。
また、ウィキペディアのベタ貼りか…。
だってwikiおもしろいよ。みんなにもみせたくない?
まぁ、じゃ、適当に貼っとくか…。
結局、妥協しちゃうんだ…。
僕は妥協した。コンプロマイズだっけか…。僕は思った。
アステカ(Azteca、古典ナワトル語(英語版): Aztēcah)は、1428年頃から1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ(古典ナワトル語: mēxihcah メーシッカッ)、アコルワ、テパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。
名称
「アステカ」という名称は19世紀はじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者兼探検家である)が名付けた造語で、自称ではない。民族の伝説上の故地であるアストランに由来する名称だが、メシカの人々はアストランを去った後に新しい民族としてのアイデンティティを得たのであって、故地によって名前をつけるのは適切ではないという批判がある[1]。それ以外にも、言語・地理・政治・民族・土器の種類などのどれを基準としてアステカと言っているのかわからない、範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、メキシコ盆地のすべての人を指す場合もあれば、ナワトル語話者すべてを指す場合もあれば、アステカ三国同盟を指す場合もあれば、マヤとオアハカ州の住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある、という問題がある[1]。とはいえ、アステカという言葉は長く使われているために、にわかに変えられないが、より明確にするためには以下のような語を用いることができる。
地理的名称としては中央メキシコ、またはその中のメキシコ盆地など
民族名としてはナワ族、またはその一部であるメシカ(ただし「ナワ」は研究者による呼称であり自称ではない)
言語名としてはユト・アステカ語族のナワ語群、またはその一部であるナワトル語
歴史
詳細は「アステカの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
建国
歴史的には、アステカ人の移動と定住は12世紀ごろより続いた北部からのチチメカ人の南下・侵入の最後の1章にあたる。アステカ神話によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテスココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325(または1345)年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシカ族は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。その後、一部が分裂して近くの島に姉妹都市・トラテロルコを建設したとされる[2][3]。
アスカポツァルコの属国として
アステカの神殿(メキシコ州)
アステカのイーグル戦士の彫像
アステカのジャガー戦士
スペイン征服時のメキシコ盆地
アステカ神話を題材としたメキシコの国章
アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるテパネカ族の国家アスカポツァルコに朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王(トラトアニ)に即位し、世襲の王族となった。当時のアスカポツァルコ王テソソモクは一代の英主であり、彼の時代にアスカポツァルコはメキシコ盆地のかなりの部分を制圧する。アステカはアスカポツァルコの属国として兵員を提供する義務があったが、やがてアスカポツァルコの許可のもと、アステカは独自に出兵を行うようになり、テスココ湖の南部にあるいくつかの集落を領土にくわえた。こうして、アカマピチトリはアスカポツァルコの属国として領土を拡張することで国力を増加させた[4]。
1396年にアカマピチトリが死去すると、その子であるウィツィリウィトルが長老による評議会によって王に選出された。ウィツィリウィトルも父同様アスカポツァルコに従い、その過程で領土を拡大した。このころ、アスカポツァルコ最大のライバルはテスココ湖東岸のアコルワ人の都市テスココとなっていた。テスココ王のイシュトリルショチトル・オメトチトリはチチメカの王を称し、アスカポツァルコと対決する姿勢を取った。イシュトリルショチトルの妻はアステカの有力者であるチマルポポカの娘であり、この姻戚関係を利用してテスココはアステカに共闘を呼び掛けたが、1417年にアステカの第三代国王に就任したチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟を堅持してテスココと敵対する方針を取った[5]。
1418年、アスカポツァルコとテスココはついに開戦し、アスカポツァルコが勝利。イシュトリルショチトルは殺害され、息子のネサワルコヨトルは逃亡してテスココはアスカポツァルコの支配下に入った。この戦いでアステカは大きな役割を果たし、アスカポツァルコの最有力の同盟都市のひとつとなった。
覇権
1426年にテソソモクが死亡すると、アスカポツァルコ王にはテソソモクの息子であるマシュトラが即位したが、権力闘争が激化し、その過程でチマルポポカも暗殺された。かわって1427年に王位についたイツコアトルはアスカポツァルコへの敵対を強め、一触即発の雰囲気となった。この時テスココの旧主であるネサワルコヨトルが同盟案を携えてテノチティトランを訪れ、アステカに援助を要請した。この案は受け入れられ、まずアステカ軍はテスココへ侵攻してネサワルコヨトルを支配者とし[6]、その後両都市と、さらに湖の西岸にあるテパネカ人の都市トラコパンの三都市が同盟を結んでアスカポツァルコへ侵攻し、1428年に滅亡させた。こうしてアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟(英語版)を結成した[4]。これがいわゆる「アステカ帝国」である。こののちアステカの勢力がほかの二都市を圧して伸びていくものの、国制上はアステカは最後までアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンの三都市同盟だった。アスカポツァルコ崩壊後、三都市はその領土を分割し、テスココは湖の東部を、トラコパンはアスカポツァルコを含む湖の西部を、そしてテノチティトランは湖の北部と南部の支配権を得た。この勢力図はその後も継承され、各都市はそれぞれその方向に勢力を拡大していった。
アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、イツコアトルは勢力拡大に乗り出した。まず最初に手を付けたのが、ネサワルコヨトルへの軍事援助とテスココ湖南部への出兵である。テスココを奪回したばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定した勢力基盤を築き上げておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍としてテスココ湖東部のアコルワ人地域への出兵を行い、この地域をテスココの勢力範囲として確定させた。アコルワ人地域の制圧をもって、1431年にネサワルコヨトルはテスココ王に正式に即位した。一方テノチティトラン独自の動きとしては、テスココ湖南部のソチミルコ地域へ出兵し、この地域を完全にアステカの支配下においた。この地域はチナンパ畑の広がる非常に肥沃な穀倉地帯であり、ここを制圧したことでアステカの食糧事情は大幅に改善され、また同盟の他二都市に対する優位を保つ力の源泉ともなった。この地域を制圧するとすぐにイツコアトルはテノチティトランとテスココ湖南部のイツタパラパンとを結ぶ土手道を築き、これによってテノチティトランから帝国南部への交通が大幅に改善されたほか、淡水のテスココ湖南部と塩水のテスココ湖北部の水が交わるのを防ぎ、南部の農業生産に改善をもたらした[7]。1433年にはさらにメキシコ盆地の南にあるクアナウワク(現在のクエルナバカ)地方に同盟三都市で共同出兵して占領し、これがアステカの領土拡大の端緒となった。アステカ王イツコアトル・テスココ王ネサワルコヨトル・トラコパン王トトキルワストリの三者同盟は強固なものであり、特にテスココ王のネサワルコヨトルは法治システムや征服した領内の旧支配者を復位させて間接統治するシステムの整備、さらにはテスココ湖内の堤防建設などによってアステカの基礎を固めるのに大きな役割を果たした。
1440年、イツコアトルの後を継いでモクテスマ1世が即位する。モクテスマ1世はまず南に隣接する地域(現在のモレロス州やゲレーロ州北部)などの支配を固めるとともに、ネサワルコヨトルの支援を得てテスココ湖を南北に分断する堤を築いた。この堤によってテスココ湖の水位調節がうまくいくようになったほか、テスココ湖中部のテノチティトラン周辺の湖水の塩分濃度を下げ、農業用水の確保も可能になった[8]。統治が固まると、モクテスマ1世は遠征を頻繁に行い、メキシコ湾岸の熱帯地方を占領・従属させて勢力を拡げた(花戦争)。また、南東のミシュテカ人地方にも侵攻し、商業都市コイシュトラワカをはじめとするいくつかの地域を支配下におさめた。征服した土地に対して貢ぎ物を要求したが統治はせず、自治を許していた。被征服地は度々反乱を起こしたが、武力で鎮圧された[9]。1469年にモクテスマ1世が死去したころには、現在のベラクルス州の大半にあたる太平洋岸地区や、プエブラ州の南部、オアハカ州の一部までがアステカ領となっていた。
1469年、モクテスマ1世の死去に伴いアシャヤカトルが即位した。彼もまた周辺地域に盛んに出兵し、征服を行った。1472年にはテスココ国王であり、長年アステカ三国同盟の重鎮であったネサワルコヨトルが死去した。1473年には、アステカ内の2大都市であり、徐々に対立を深めていたテノチティトランとトラテロルコの間で内戦がおこった。この内戦は短期間で終わり、テノチティトランの優位が確立された。国内の再統一を済ませると、アシャヤカトルは西へと侵攻し、1475年から1476年にかけての戦いでトルーカを征服し、西に隣接する大国タラスコ王国へと侵攻したものの、大敗を喫した[10]。1479年には、太陽の石を奉納している。
1481年にアシャヤカトルが死去するとその弟であるティソクが即位したものの、彼は軍事的には無能であり、1486年に暗殺された。
1486年にティソクの弟であるアウィツォトルが即位すると、再び軍事的拡張が再開した。彼の代にアステカ帝国の領土は太平洋沿岸の熱帯地方まで到達した。アステカの支配地域は太平洋岸に沿って西に細く伸びるようになったが、これは西の大国タラスコ王国への侵攻拠点とする目的も持っていた。治世の末期には南東方向へも進出し、現在のチアパス州南端にあたりカカオの大生産地であったソコヌスコまでを征服したが次第に前線が遠くなるにつれ兵站の問題が発生し、それ以上先へ進むことは出来なかった[11]。この遠征の指揮官は、次の国王となるモクテスマ・ショコヨツィンであった。アウィツォトルの治世には、それまでテノチティトランなどの帝国中心都市のみに限られていた神殿の建設などの公共事業も積極的に推し進められ[12]、宗教的な統一が図られるようになった。
1502年、アウィツォトルが死去し、モクテスマ・ショコヨツィンがモクテスマ2世として王位につくと南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、ヨピ人などを服従させて新たな領土を獲得した。しかし、南端のトトテペク王国(スペイン語版、英語版)は抵抗を続けた[13]。モクテスマ2世は儀礼の強化などにより貴族と平民の間の差を確立する政策を取った。また、モクテスマ2世は優れた指揮官であり、彼の時代にオアハカの大部分がアステカ領となり、また周辺諸国へも積極的に出兵していった。
1519年にエルナン・コルテス率いるスペイン人が到来した時点で、アステカの支配は約20万平方キロメートルに及び首都テノチティトランの人口は数十万人に達し[13]、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した[2]。この時アステカの勢力は絶頂に達しており、領域は本来の領土であるメキシコ盆地をはるかに越え、現在のメヒコ州、モレロス州、プエブラ州、ゲレロ州、オアハカ州、ベラクルス州、イダルゴ州の大部分、ケレタロ州の南部、チアパス州の海岸部を支配下におさめ、メキシコ中部をほぼ統一する中央アメリカ最大の帝国を築き上げていた。ただし、トラスカラ州にはトラスカラ王国が割拠しており、アステカと激しい戦いを連年つづけていた。また、西部のタラスコ王国との戦いも膠着していた。東に広がる後古典期のマヤ文明の諸国には進軍することはなかったが、商人(ポチテカ)による交易ネットワークによって結ばれていた。1519年の状況はこのようなものであり、近隣諸国でアステカを打倒しうる勢力は存在せず、統治システムにも綻びは見られなかった。
スペインのアステカ帝国征服
詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるアステカ帝国の征服(英語版)」を参照
一の葦
アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた[14]。「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きな彗星が現れた。また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた[15]。そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ[16]、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった[17][注釈 1]。
滅亡
メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。1519年2月、ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆した[20]。コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行い(セントラの戦い(スペイン語版))、その勝利の結果として贈られた女奴隷20人の中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた[21]。
サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラ(スペイン語版、英語版)の町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍した[22]。コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ。10月18日、チョルーラの虐殺(スペイン語版)が起きた。1000人のトラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍した[23]。
1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した[24]。コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた[25]。
1520年5月、ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは120人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した[26]。
コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た(トシュカトル大祭の虐殺(スペイン語版、英語版))。コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう[27](これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)。1520年6月30日、メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。この出来事をスペイン人は「悲しき夜(La Noche Triste)」と呼ぶ。王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。7月7日、オツンバの戦い(スペイン語版、英語版)。
1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した(テノチティトラン包囲戦(スペイン語版、英語版))。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした[28]。
植民地時代の人口減少
詳細は「en:Population history of indigenous peoples of the Americas」を参照
その後スペインはアステカ帝国住民から金銀財宝を略奪し徹底的に首都・テノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した[29]。
社会構造
国制
アステカは国制上はメシカ人のテノチティトラン・アコルワ人のテスココ・テパネカ人のトラコパンの三都市同盟であり、それは1428年の同盟締結から1521年の帝国滅亡にいたるまで全く変わらなかった。同盟内でテノチティトランに次ぐ勢力を持ったのはテスココで、学問や文化の中心地となっていた。とくにテスココ王のネサワルコヨトルは政治・文化面で様々な貢献をなした名君であり、その子であるネサワルピリも名君として知られ、この2代においてはテスココはアステカに対抗しうる力を持った存在であった。トラコパンはこの三都市中では最も勢力が弱く格下扱いとなっていた[30]。しかし、徐々にテノチティトランおよびトラテロルコを中心とするメシカ(アステカ)が勢力を拡大していき、三都市同盟を代表するようになっていった。アステカ帝国の歴代君主とはすなわちメシカ人のトラトアニを指す。かなりの独立性を持っていたテスココも、ネサワルピリの死後急速にアステカの支配権が強まっていった。
三都市はそれぞれ自都市に属する属国を持っており、そこから貢納を受け取っていた。各属国の王は以前からその土地を支配していた王であることもあったし、宗主国から任命された支配者であることもあった。各都市はそれぞれ領域を広げていったが、アステカ帝国の特徴としては、帝国内に多数の独立勢力を抱えていたことである。トラスカラ王国などのこういった独立勢力は、アステカと激しい戦闘を繰り広げ、周辺地域がすべてアステカの支配下に落ちても抵抗を続けていた。これらの独立勢力はやがてスペイン人の侵入時にスペインと同盟を結び、兵力・物資の供給地並びに根拠地として、アステカ滅亡に大きな役割を果たした。また、周辺諸地域への支配は厳しく、しばしば反乱が起き、それに対する再征服もよくあることであった。こうした支配地域の反感は、スペイン人侵入時にそれら地域の離反という形で現れ、帝国の急速な瓦解の一因となった。
階級社会
アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、王(トラトアニ)は王家の中から選ばれた。王であるトラトアニはもともと外務をつかさどる長であり、内務をつかさどる長であるシワコアトルとは対になる存在であった。シワコアトルの地位にはアステカ帝国成立期にはイツコアトルの弟であるトラカエレルが就いており、強い権限をいまだ保持していたが、トラカエレルの死後にその地位は急速に低落し、スペイン人が到来したころにはトラトアニは完全な絶対君主となっていた。貴族階層には、世襲 貴族に加え、戦争などで功績をあげて平民から引き上げられた貴族が存在した。大多数の平民はマセワルであった。さらに商人(ポチテカ)は、平民ではあるが特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷(トラコトリ)が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされた[2]。
軍国主義
アステカは軍国主義の色彩の強い国家であった。この性格は終末古典期以降のメソアメリカの諸国家に特徴的であり、アステカはテオティワカン衰退後の終末古典期から後古典期の中でとりわけ強大な国家であった。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。武器としては鉄器は存在せず、青銅器も武器には使用されず、黒曜石による石器が中心であり、黒曜石の刃を木剣に挟んだマカナや、木製の柄の先に黒曜石の刃を付けた石槍であるホルカンカやテポストピリー、手持ちの投槍器であるアトラトルなどが主な武器であった。
道路網整備と経済の発達
アステカのカレンダー
アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備していた。この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500~700粒で奴隷1人と交換できた。トウモロコシや芋類・豆類などの農産物、プルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。こうした地域に根付いた商業のほか、長距離交易も行われていた。長距離交易はポチテカによって行われており、ケツァールの羽やヒスイ、カカオといった熱帯産の高級品を主に取り扱っていた。こうした商品の主な産地は東方のマヤ文明の諸都市やその近隣地方であった。また、支配下諸地域からの貢納もこの道路網を利用して行われており、持ち込まれる大量の貢納品はアステカ経済の大きな一部分をなしていた。
食料
「アステカ料理」も参照
アステカの食糧生産の基盤は、高い生産性を誇るチナンパ農業である。アステカの覇権以前はテノチティトランの島内にチナンパが造成されていたものの、テノチティトラン・トラテロルコ両市の食糧をまかなうにはとても足りず、食糧の安定供給は急務となっていた。アステカが覇権を握ると勢力圏内に積極的にチナンパの造成を始め、とくにテスココ湖の南部には大規模なチナンパ地帯が造成されて穀倉地帯となっていた。このほか、テスココ支配下のアコルワ人地域では段々畑が造成されるなど、食糧供給と農業開発にアステカの歴代君主は心を砕いた。
アステカの中心作物はトウモロコシであり、これは主穀であり経済の基盤ともなっていた。トウモロコシは粥やタマル(団子)、トルティーヤにして食べられていた。このほか、アステカで主に栽培されていた作物にはトウガラシ、インゲンマメ、トマト、アマランサス、カボチャ、サツマイモ、クズイモ、ピーナッツなどがあった。飲料としてはリュウゼツランから醸造されるプルケ酒が重要であったが、より格の高い飲料としてはカカオから作られるショコラトルが珍重されていた。ショコラトルは価値が高く、原料のカカオ豆は貨幣として流通するほどだった。また、香料としてはバニラが珍重されていた。
文化
アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。鉄器は存在せず、青銅器は利用はあったものの装飾品利用が主なものであり、日用品や武器などは黒曜石などの石で造られたものが大半であった。
アステカは大規模な土木工事を盛んに行った国家であり、神殿の建設や水利工事などで高い技術力を持っていた。特に水利工事は湖に囲まれているテノチティトランを都とするアステカにとっては非常に重要な技術であり、上記のイツコアトルによるイツタパラパン道の建設やモクテスマ1世によるテスココ湖中堤防の建設などの湖の治水が積極的に行われた。このほか、塩水湖中にあり生活用水の不足しがちなテノチティトランに水を供給するため、モクテスマ1世は1466年にチャプルテペク水道橋を建設し、西のチャプルテペクの泉から湖を越えて市内に水を供給した。
アステカは、精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。アステカの暦は2つあり、占術に使う260日暦(トナルポワリ)と、国家行事を運営するための太陽暦である365日暦(シウポワリ)の二つの暦の体系を持っていた。この二つの暦が重なり合うのは52年に1度であり、そのためアステカにおいては52年を1つの周期として扱っていた。
アステカはそれまでのメソアメリカ諸文明の神々を継承し取り入れ、複雑な信仰体系を構築した。アステカ神話においてはアステカの民族神であるウィツィロポチトリをはじめ、ケツァルコアトルやテスカトリポカ、雨神トラロックなど様々な神があがめられ、崇敬を受けていた。アステカ神話においては世界の創造と破壊は過去4回起きており、現在の世界は5番目のものであると考えられていた。1479年にアステカ王アシャヤカトルによって奉納され、現代では最も高名なアステカの遺物のひとつとなっている太陽の石には、この世界観や暦が刻まれている。
人身御供
生贄の儀式。石器のナイフで胸を裂き、心臓を取り出す
アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供の神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった(花戦争)。
ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、手づかみで動いている心臓を摘出した。シペ・トテックに捧げられた生贄は、神官達が生きたまま生贄から生皮を剥ぎ取り、数週間纏って踊り狂った。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、生贄を火中に放り込む事もあった。
現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった[要出典]。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に扱われた[要出典]。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあった。
そうじゃなくて、続きだとよ。あぁ、前章の続きか…。
なんだったけか?
「ゴエティア」に語られるこれらの魔神の縁起は次のようなものである[注 3]。
「これらは72人の強大な王侯たちであり、ソロモン王はかれらに、ベリアル、ビレト、アスモダイ、ガープが首領であるところの軍勢とともに一つの真鍮器[注 4]に入るよう命じたのである。これはかれらの高慢のゆえであろうと思われる。というのもソロモンはかれらを拘束した理由を明かさなかったからである。かくてソロモンはかれらを縛して容器に密閉し、神聖な力によってバビロンの深い湖か穴に逐いやったのであるが、バビロニアのひとびとがこれを見て訝しみ、大きな財宝が入っているやもしれぬ、と容器をこじ開けようとして湖に入り込んだ。しかし彼らが器を開封した途端、霊の頭目たちは自分たちに服属する軍団とともに挙って奔出したのであった。そしてベリアルの他はみな元の位置に復帰してしまった。一方、ベリアルは或る偶像に入り込み、バビロニア人がしたように生贄を捧げてその偶像を神として祀るひとびとに応答するようになったのである。」
ソロモンと悪霊
旧約聖書には書かれていないが、第三代イスラエル王であったソロモンがその英知をもって悪霊を支配していたという話はヘレニズム期のユダヤ人の間に流布していた[注 5]。このような偉大な知恵者とされたソロモンにまつわる伝説から、その後千年に亘って、ソロモンに由来すると偽った文献群(ノーマン・コーンは偽ソロモン文書 pseudo-Solomonic books と呼んだ[17])がヘブライ語やギリシア語、アラビア語で書かれることになったが、中世盛期後半頃から、魔術師が悪霊を呼び出す術(ニグロマンシー)について記した、それまでとは趣を異にする偽ソロモン文書がヨーロッパで作られるようになった[18]。『レメゲトン』はこうした文献の流れを汲んでいる。
関連文献
「ゴエティア」に列挙される72人の悪魔のうち、68人はヨーハン・ヴァイヤーの「悪魔の偽王国」(1577年)に記述されているものと共通する(ただし記載される順番は異なる)。同じ68人の悪魔がレジナルド・スコット(英語版)の『魔女術の発見』(1584年)第15巻第2章にも記されており、この部分は事実上「悪魔の偽王国」の英訳である。ただし「悪魔の偽王国」で列挙された悪魔は総勢69人であり、そのうちプルフラスだけは『魔女術の発見』には記載されておらず、ゴエティアの72人の悪魔のリストにも入っていない。
「悪魔の偽王国」の悪魔は、フランスのジャーナリストであったジャック・アルバン・シモン・コラン(1794年-1881年)がコラン・ド・プランシーというペンネームで出版した『地獄の辞典』にも多数登場する[19]。『地獄の辞典』において脚色が施された悪魔の描写は、その第6版(1863年)に加えられたルイ・ル・ブルトンの挿絵とともに、現代の通俗的な悪魔のイメージに影響を与えた[20]。
解釈
構成する悪魔の中には、フェニックス、バアル、アスタロトのように、他の宗教・神話の神や霊鳥に淵源を見出すことのできるものも含まれる。西洋の悪魔についての一般論としては、モロク神やバアル・ゼブブのように、イスラエル民族周辺の諸国民の神々が嫌悪すべき異教神として悪しきデーモンに貶められた例があり[21]、偶像崇拝を禁じる古代ユダヤ人や後世のキリスト教徒によって、異教の神々が悪魔の地位へ落とされていったとされる[22]。
「72」という数字は、十二宮の1つの宮をさらに6区画に分割して得られる数字で、象徴的な全方角の支配者を定めるための図から得られたものらしい。そのためウァサゴのように名前以外の正確な姿や性格、特徴の伝えられていない悪魔もいる。アメリカのオカルティスト、ロン・マイロ・デュケット(英語版)は、ゴエティアの72人の悪霊はシェム・ハ=メフォラシュ(Shem-ha-mephorash)の72の神名と72の天使に対応するとしている[23]。
一覧
表の左端の数字は「ゴエティア」における記載順を示す。「ゴエティア」の中では「第24の霊はナベリウスと呼ばれる」といった形で順序数に言及されている。またこれらの印章は、マクレガーメーザースが均等にトレースしたものであり、本来は手書きの印章が紹介されている。
刊行
生涯の大半を大英博物館の図書室やパリの図書館での魔術書渉猟に没頭した[31]イギリスのオカルティスト、マグレガー・マサース(1854年-1918年)は、大英博物館で『レメゲトン』の古写本を発見し、これを筆写して1898年頃、決定稿に仕上げた[32]。同じ頃A・E・ウェイトによって私家出版された『黒魔術と契約の書』(1898年)には、『レメゲトン』の第1部「ゴエティア」の抄録が他のさまざまなグリモワールとともに収められていた[25](1910年『儀式魔術の書』として再刊)。一方、黄金の夜明け団の指導者であった前述のマグレガー・マサースの作成した『レメゲトン』の写本は、同団のメンバーに貸し出されていた。その1部が団員のアラン・ベネットを経てアレイスター・クロウリーの所持するところとなり[32]、1904年、クロウリーによって『ソロモン王のゴエティアの書』として出版された(ただし『レメゲトン』のうち第2部以降は収録されていない)。その後アメリカでその海賊版が出版された[32]。
1995年にはハイメニーアス・ベータ(英語版)の編集による、クロウリー版『ゴエティア』のイラスト入り新版[33]がアメリカで出版された。これは元の版と異なり、アレイスター・クロウリーによる悪魔のスケッチとともに『地獄の辞典』のルイ・ル・ブルトンのイラストが使用されている[34]。2001年には、魔法書研究家ジェゼフ・ピーターソンの編集により、「レメゲトン」の第5部までを収録したのみならず「悪魔の偽王国」まで併載した『ソロモンの小さな鍵』が出版された。その他、20世紀後半から21世紀に数種類の編集版が英米で出版されている。
表題の意味
ゴエティア(ラテン語:Goetia)はギリシア語の γοητεία (ゴエーテイア)がラテン語化したもので、呪術・妖術などを意味する語である。
ギリシア語には魔術に類する言葉は何種類か存在するが、ゴエーテイアは古代ギリシアで γόης (ゴエース)と呼ばれた呪術師の業(わざ)を指し、呪術・妖術・奇術・いかさまを意味する[35]。その呼称は古代ギリシアのシャーマン的呪術師が霊を呼ぶために発する喚(おめ)き声に由来するといわれており[36]、「嘆き悲しむ、泣き叫ぶ、呻吟する」を意味する動詞の γοάω (ゴアオー)に関連する。
ルネサンス期の人文主義者ピコ・デラ・ミランドラは、魔術には悪霊の業である神霊魔術と自然哲学の完成形である自然魔術の2種類があると論じ、前者はギリシア人のいう「ゴエーテイア」、後者は「マゲイア」に相当するとした[37]。ネッテスハイムのコルネリウス・アグリッパは『学問の空しさと不確かさについて』の中で、ゴエティアを「不浄な霊による業」と定義している。
日本のポピュラーカルチャー
現代日本の通俗的な書籍では、ゴエティアに登場する悪魔が“ソロモン王によって封印された72柱の魔神”(健部ら 1989[38])、“72体のソロモンの悪魔”(山北 1998[39])といったフレーズで紹介されている。
続いて、ナワトル語…。
ナワトル語(ナワトルご、nāhuatl [ˈnaːwatɬ] ( 音声ファイル))は、ユト・アステカ語族のナワ語群に属する言語で、2015年現在、メキシコなどで推定170万人の話者を擁する。2003年に施行された「先住諸民族の言語権に関する基本法」(Ley General de Derechos Lingüísticos de los Pueblos Indígenas) によって、スペイン語や他67の先住民語と同等に、名目上はメキシコの公用語とみなされている。
概要
ナワトル語は話者数でいえば北アメリカ大陸最大の先住民語である。INALIによると、2010年においてメキシコの5歳以上のナワトル語話者の数は1,544,968人とされる[2]。
INALIの定義ではナワ語群のうちポチュテコ語(消滅)とエルサルバドルのナワト語(ピピル語)を除いたものをナワトル語としている[3]。現代ナワトル語は多くの方言に分かれているが、分類については意見の一致を見ない[4]。この方言の中にはナワトル語話者同士でも意志の疎通が困難なものもある。すべてのナワトル語は程度の差こそあれ、様々な面でスペイン語の影響を強く受けている。
過去においてはメソアメリカの広い地域で共通語として使われていた。スペイン人による侵略がはじまった16世紀ごろのナワトル語を古典ナワトル語と称する[4]。古典ナワトル語はメキシコ盆地で話されていた方言で、名称に反して、比較的影響地域が狭く革新的な方言である。現代ナワトル語で古典ナワトル語のすべての特徴を受け継いでいる方言はないが、ミルパ・アルタ方言など、メキシコ盆地の現代ナワトル語は古典ナワトル語的な特徴をもっている。
アステカ人はナワトル語圏文化の影響を強く受けている。テパネカ族、アコルワ族、トラスカルテカ族、ソチミルカ(英: Xochimilca)族もその例である。ナワトル語がテオティワカンで話されていた可能性はかなり高い。[要出典]これらの部族が優位に立つにつれ、特にアステカ帝国の権勢の後の古典ナワトル語は、メソアメリカの広い地域で共通語として使われるようになった。こうした状況は12世紀に始まり、スペインがメキシコに侵入する16世紀まで続いた。
音声と正書法
以下は古典ナワトル語の音声である。
ナワトル語の正書法は標準化されたことがなく、スペイン語にない母音の長短の区別やサルティージョ (saltillo (linguistics)) と呼ばれる音節末の声門破裂音は文献ではほとんど無視されているが、17世紀のイエズス会士の文法学者オラシオ・カロチ (Horacio Carochi) などの著書によってわずかに知ることができる[5]。
アステカ神話
アステカ神話(アステカしんわ、英: Aztec mythology)は、アステカ時代の中央メキシコで伝えられた神話である。
アステカの中心都市であるテノチティトランの建設は14世紀、アステカ帝国の成立は15世紀であるが、メキシコ盆地ではそれよりはるか以前から文明が発達していた。たとえば主要な神のうちトラロックは7世紀以前にさかのぼるテオティワカンに見られる[1]。ケツァルコアトルもテオティワカンに見られ、さらにオルメカ文明にさかのぼる[2]。アステカ神話はテオティワカンやトゥーラの古い神話を引きついでいるものが多いが、それに自らの伝統をつけ加えている[3]。また、アステカ帝国がメキシコ盆地から周辺地域に拡大するに従い、それらの外部の神話も取りこまれていった。たとえばシペ・トテックは元々メキシコ湾岸およびオアハカ地方で信仰されていた神だった[4]。
アステカの宗教にとってもっとも重要なものは太陽崇拝と農業であり、この目的のために人間を犠牲として神に捧げたり、放血儀礼が行われた[3]。ほかのメソアメリカと同様、アステカ暦には260日の周期からなるトナルポワリと365日の周期からなるシウポワリがあり、祭祀と重要な関係を持っていた。この2つの周期が一巡するカレンダー・ラウンドの境目(約52年に一度)には新しい火の祭りという重要な祭祀が行われた。スペイン人の到来以前、最後の新しい火の祭りは1507年に行われた[5]。
アステカ暦
アステカ暦(Aztec calendar)またはメシカ暦(Mexica calendar)は、中央メキシコにおける他の先コロンビア人と同様、アステカ人が使用していた暦である。この暦は、古代メソポタミア文明の存在していた時期からその基本構造を共有する、メソアメリカの暦の1つである。
上述の地域においては、シウポワリ(ナワトル語が原語である。この語は太陽周期に近い、365日の周期を持つアステカの太陽暦を意味する。この暦は年単位で数える)、トナルポワリ(こちらもナワトル語が原語である。この語は260日の周期を持つアステカの太陽暦を意味する。この暦は日単位で数える)と呼ばれる暦を用いていたようである。これら2つの暦の組み合わせにより、カレンダー・ラウンドと呼ばれる、52年の「世紀」を形成した。前者は、太陽周期に暦の基盤をおいているため、農業カレンダーであると見なされている。一方で、後者は神聖な暦であると見なされている。
で、トナルポワリ
トナルポワリでは、上述のように260日周期で構成され、毎日1から13の間の数字と、20日分の記号のうち1つの組み合わせで日月の経過を表す。太陽の出入に応じて、数字と記号の両方をそれぞれ1進めるのである。例えば、1のワニの後に2の風、3の家、4のトカゲ、13の葦まで続き、その後、数字の周期が再開する(20日の周期は、この時点で一巡していない)。13の日の直後の日として、1のジャガー、2の鷲などが現れる。この周期は1のウサギから始まり、13の花で終わる20週目まで同様に続く。2つの暦の周回(20日の符号と13の数字)のために260日丁度(13×20日)を要し、一連の流れを再調整して、1つのワニから再び繰り返す。
日周期を示す記号
中部メキシコで使用される暦上の1日分の記号は、ミシュテカの人々によって使用されているものと同じで、他のメソアメリカの暦のものと類似している。それぞれの日の記号は、4つの基本的な方向の1つと関連している。
1日を示す記号の描かれ方・彫られ方にはいくつかの種類が存在している。この表の絵は「Codex Magliabechiano」から取った。
ジャガーはなぜ東なのだろう?
規則性的にいうと、「北」なんじゃないかと思うんだけれども?
わからん…。タロカンの話にうつる?
タロカンはwikiにはなくて、調べようとすると、タールカーンという、アフガニスタンの州都がでてくるぞ?
ブラックパンサーの世界も所詮はフィクションということなのかもしれない…。
どこまでが、真実で、どこまでが、真実でないか…。
でも、重要なのは真実味を持った嘘の物語でしょ?それとも、真実の方が大切だというのかい?
まぁ、多くの人にとっては、そうかもしれない…。結局のところ、正解かそうでないかで、人は振り分けられるものだろ?そうじゃなかったかね?ぼうや…。
「ぼうや」と呼ばれ、僕は少しだけ辟易とした。
「ブラックパンサーの何を一体見ていたのだろう?」
僕は確かに、ブラックパンサーを見ていた。でも、ある意味では何も見てはいなかったのかもしれない。
「いいや、君はきちんと見ていたはずだ。全部が全部英語だったから、少し難しく感じた?」
いや、あれって、英語以外も入っていたような作りだったよ…、少なくとも、僕にはそういう風に聞こえた…。
ふぅん…。
皮膚呼吸できるようになった、人類というSFか…。
ゼルダの伝説とかでもそうじゃない?
ある特定のアイテムを使うと、水の中での長時間の潜水が可能になるみたいな話?それって、現実かな?
また、ウィキペディアのベタ貼りか…。
だってwikiおもしろいよ。みんなにもみせたくない?
まぁ、じゃ、適当に貼っとくか…。
結局、妥協しちゃうんだ…。
僕は妥協した。コンプロマイズだっけか…。僕は思った。
アステカ(Azteca、古典ナワトル語(英語版): Aztēcah)は、1428年頃から1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ(古典ナワトル語: mēxihcah メーシッカッ)、アコルワ、テパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。
名称
「アステカ」という名称は19世紀はじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者兼探検家である)が名付けた造語で、自称ではない。民族の伝説上の故地であるアストランに由来する名称だが、メシカの人々はアストランを去った後に新しい民族としてのアイデンティティを得たのであって、故地によって名前をつけるのは適切ではないという批判がある[1]。それ以外にも、言語・地理・政治・民族・土器の種類などのどれを基準としてアステカと言っているのかわからない、範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、メキシコ盆地のすべての人を指す場合もあれば、ナワトル語話者すべてを指す場合もあれば、アステカ三国同盟を指す場合もあれば、マヤとオアハカ州の住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある、という問題がある[1]。とはいえ、アステカという言葉は長く使われているために、にわかに変えられないが、より明確にするためには以下のような語を用いることができる。
地理的名称としては中央メキシコ、またはその中のメキシコ盆地など
民族名としてはナワ族、またはその一部であるメシカ(ただし「ナワ」は研究者による呼称であり自称ではない)
言語名としてはユト・アステカ語族のナワ語群、またはその一部であるナワトル語
歴史
詳細は「アステカの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
建国
歴史的には、アステカ人の移動と定住は12世紀ごろより続いた北部からのチチメカ人の南下・侵入の最後の1章にあたる。アステカ神話によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテスココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325(または1345)年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシカ族は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。その後、一部が分裂して近くの島に姉妹都市・トラテロルコを建設したとされる[2][3]。
アスカポツァルコの属国として
アステカの神殿(メキシコ州)
アステカのイーグル戦士の彫像
アステカのジャガー戦士
スペイン征服時のメキシコ盆地
アステカ神話を題材としたメキシコの国章
アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるテパネカ族の国家アスカポツァルコに朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王(トラトアニ)に即位し、世襲の王族となった。当時のアスカポツァルコ王テソソモクは一代の英主であり、彼の時代にアスカポツァルコはメキシコ盆地のかなりの部分を制圧する。アステカはアスカポツァルコの属国として兵員を提供する義務があったが、やがてアスカポツァルコの許可のもと、アステカは独自に出兵を行うようになり、テスココ湖の南部にあるいくつかの集落を領土にくわえた。こうして、アカマピチトリはアスカポツァルコの属国として領土を拡張することで国力を増加させた[4]。
1396年にアカマピチトリが死去すると、その子であるウィツィリウィトルが長老による評議会によって王に選出された。ウィツィリウィトルも父同様アスカポツァルコに従い、その過程で領土を拡大した。このころ、アスカポツァルコ最大のライバルはテスココ湖東岸のアコルワ人の都市テスココとなっていた。テスココ王のイシュトリルショチトル・オメトチトリはチチメカの王を称し、アスカポツァルコと対決する姿勢を取った。イシュトリルショチトルの妻はアステカの有力者であるチマルポポカの娘であり、この姻戚関係を利用してテスココはアステカに共闘を呼び掛けたが、1417年にアステカの第三代国王に就任したチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟を堅持してテスココと敵対する方針を取った[5]。
1418年、アスカポツァルコとテスココはついに開戦し、アスカポツァルコが勝利。イシュトリルショチトルは殺害され、息子のネサワルコヨトルは逃亡してテスココはアスカポツァルコの支配下に入った。この戦いでアステカは大きな役割を果たし、アスカポツァルコの最有力の同盟都市のひとつとなった。
覇権
1426年にテソソモクが死亡すると、アスカポツァルコ王にはテソソモクの息子であるマシュトラが即位したが、権力闘争が激化し、その過程でチマルポポカも暗殺された。かわって1427年に王位についたイツコアトルはアスカポツァルコへの敵対を強め、一触即発の雰囲気となった。この時テスココの旧主であるネサワルコヨトルが同盟案を携えてテノチティトランを訪れ、アステカに援助を要請した。この案は受け入れられ、まずアステカ軍はテスココへ侵攻してネサワルコヨトルを支配者とし[6]、その後両都市と、さらに湖の西岸にあるテパネカ人の都市トラコパンの三都市が同盟を結んでアスカポツァルコへ侵攻し、1428年に滅亡させた。こうしてアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟(英語版)を結成した[4]。これがいわゆる「アステカ帝国」である。こののちアステカの勢力がほかの二都市を圧して伸びていくものの、国制上はアステカは最後までアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンの三都市同盟だった。アスカポツァルコ崩壊後、三都市はその領土を分割し、テスココは湖の東部を、トラコパンはアスカポツァルコを含む湖の西部を、そしてテノチティトランは湖の北部と南部の支配権を得た。この勢力図はその後も継承され、各都市はそれぞれその方向に勢力を拡大していった。
アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、イツコアトルは勢力拡大に乗り出した。まず最初に手を付けたのが、ネサワルコヨトルへの軍事援助とテスココ湖南部への出兵である。テスココを奪回したばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定した勢力基盤を築き上げておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍としてテスココ湖東部のアコルワ人地域への出兵を行い、この地域をテスココの勢力範囲として確定させた。アコルワ人地域の制圧をもって、1431年にネサワルコヨトルはテスココ王に正式に即位した。一方テノチティトラン独自の動きとしては、テスココ湖南部のソチミルコ地域へ出兵し、この地域を完全にアステカの支配下においた。この地域はチナンパ畑の広がる非常に肥沃な穀倉地帯であり、ここを制圧したことでアステカの食糧事情は大幅に改善され、また同盟の他二都市に対する優位を保つ力の源泉ともなった。この地域を制圧するとすぐにイツコアトルはテノチティトランとテスココ湖南部のイツタパラパンとを結ぶ土手道を築き、これによってテノチティトランから帝国南部への交通が大幅に改善されたほか、淡水のテスココ湖南部と塩水のテスココ湖北部の水が交わるのを防ぎ、南部の農業生産に改善をもたらした[7]。1433年にはさらにメキシコ盆地の南にあるクアナウワク(現在のクエルナバカ)地方に同盟三都市で共同出兵して占領し、これがアステカの領土拡大の端緒となった。アステカ王イツコアトル・テスココ王ネサワルコヨトル・トラコパン王トトキルワストリの三者同盟は強固なものであり、特にテスココ王のネサワルコヨトルは法治システムや征服した領内の旧支配者を復位させて間接統治するシステムの整備、さらにはテスココ湖内の堤防建設などによってアステカの基礎を固めるのに大きな役割を果たした。
1440年、イツコアトルの後を継いでモクテスマ1世が即位する。モクテスマ1世はまず南に隣接する地域(現在のモレロス州やゲレーロ州北部)などの支配を固めるとともに、ネサワルコヨトルの支援を得てテスココ湖を南北に分断する堤を築いた。この堤によってテスココ湖の水位調節がうまくいくようになったほか、テスココ湖中部のテノチティトラン周辺の湖水の塩分濃度を下げ、農業用水の確保も可能になった[8]。統治が固まると、モクテスマ1世は遠征を頻繁に行い、メキシコ湾岸の熱帯地方を占領・従属させて勢力を拡げた(花戦争)。また、南東のミシュテカ人地方にも侵攻し、商業都市コイシュトラワカをはじめとするいくつかの地域を支配下におさめた。征服した土地に対して貢ぎ物を要求したが統治はせず、自治を許していた。被征服地は度々反乱を起こしたが、武力で鎮圧された[9]。1469年にモクテスマ1世が死去したころには、現在のベラクルス州の大半にあたる太平洋岸地区や、プエブラ州の南部、オアハカ州の一部までがアステカ領となっていた。
1469年、モクテスマ1世の死去に伴いアシャヤカトルが即位した。彼もまた周辺地域に盛んに出兵し、征服を行った。1472年にはテスココ国王であり、長年アステカ三国同盟の重鎮であったネサワルコヨトルが死去した。1473年には、アステカ内の2大都市であり、徐々に対立を深めていたテノチティトランとトラテロルコの間で内戦がおこった。この内戦は短期間で終わり、テノチティトランの優位が確立された。国内の再統一を済ませると、アシャヤカトルは西へと侵攻し、1475年から1476年にかけての戦いでトルーカを征服し、西に隣接する大国タラスコ王国へと侵攻したものの、大敗を喫した[10]。1479年には、太陽の石を奉納している。
1481年にアシャヤカトルが死去するとその弟であるティソクが即位したものの、彼は軍事的には無能であり、1486年に暗殺された。
1486年にティソクの弟であるアウィツォトルが即位すると、再び軍事的拡張が再開した。彼の代にアステカ帝国の領土は太平洋沿岸の熱帯地方まで到達した。アステカの支配地域は太平洋岸に沿って西に細く伸びるようになったが、これは西の大国タラスコ王国への侵攻拠点とする目的も持っていた。治世の末期には南東方向へも進出し、現在のチアパス州南端にあたりカカオの大生産地であったソコヌスコまでを征服したが次第に前線が遠くなるにつれ兵站の問題が発生し、それ以上先へ進むことは出来なかった[11]。この遠征の指揮官は、次の国王となるモクテスマ・ショコヨツィンであった。アウィツォトルの治世には、それまでテノチティトランなどの帝国中心都市のみに限られていた神殿の建設などの公共事業も積極的に推し進められ[12]、宗教的な統一が図られるようになった。
1502年、アウィツォトルが死去し、モクテスマ・ショコヨツィンがモクテスマ2世として王位につくと南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、ヨピ人などを服従させて新たな領土を獲得した。しかし、南端のトトテペク王国(スペイン語版、英語版)は抵抗を続けた[13]。モクテスマ2世は儀礼の強化などにより貴族と平民の間の差を確立する政策を取った。また、モクテスマ2世は優れた指揮官であり、彼の時代にオアハカの大部分がアステカ領となり、また周辺諸国へも積極的に出兵していった。
1519年にエルナン・コルテス率いるスペイン人が到来した時点で、アステカの支配は約20万平方キロメートルに及び首都テノチティトランの人口は数十万人に達し[13]、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した[2]。この時アステカの勢力は絶頂に達しており、領域は本来の領土であるメキシコ盆地をはるかに越え、現在のメヒコ州、モレロス州、プエブラ州、ゲレロ州、オアハカ州、ベラクルス州、イダルゴ州の大部分、ケレタロ州の南部、チアパス州の海岸部を支配下におさめ、メキシコ中部をほぼ統一する中央アメリカ最大の帝国を築き上げていた。ただし、トラスカラ州にはトラスカラ王国が割拠しており、アステカと激しい戦いを連年つづけていた。また、西部のタラスコ王国との戦いも膠着していた。東に広がる後古典期のマヤ文明の諸国には進軍することはなかったが、商人(ポチテカ)による交易ネットワークによって結ばれていた。1519年の状況はこのようなものであり、近隣諸国でアステカを打倒しうる勢力は存在せず、統治システムにも綻びは見られなかった。
スペインのアステカ帝国征服
詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるアステカ帝国の征服(英語版)」を参照
一の葦
アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた[14]。「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きな彗星が現れた。また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた[15]。そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ[16]、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった[17][注釈 1]。
滅亡
メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。1519年2月、ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆した[20]。コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行い(セントラの戦い(スペイン語版))、その勝利の結果として贈られた女奴隷20人の中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた[21]。
サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラ(スペイン語版、英語版)の町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍した[22]。コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ。10月18日、チョルーラの虐殺(スペイン語版)が起きた。1000人のトラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍した[23]。
1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した[24]。コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた[25]。
1520年5月、ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは120人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した[26]。
コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た(トシュカトル大祭の虐殺(スペイン語版、英語版))。コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう[27](これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)。1520年6月30日、メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。この出来事をスペイン人は「悲しき夜(La Noche Triste)」と呼ぶ。王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。7月7日、オツンバの戦い(スペイン語版、英語版)。
1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した(テノチティトラン包囲戦(スペイン語版、英語版))。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした[28]。
植民地時代の人口減少
詳細は「en:Population history of indigenous peoples of the Americas」を参照
その後スペインはアステカ帝国住民から金銀財宝を略奪し徹底的に首都・テノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した[29]。
社会構造
国制
アステカは国制上はメシカ人のテノチティトラン・アコルワ人のテスココ・テパネカ人のトラコパンの三都市同盟であり、それは1428年の同盟締結から1521年の帝国滅亡にいたるまで全く変わらなかった。同盟内でテノチティトランに次ぐ勢力を持ったのはテスココで、学問や文化の中心地となっていた。とくにテスココ王のネサワルコヨトルは政治・文化面で様々な貢献をなした名君であり、その子であるネサワルピリも名君として知られ、この2代においてはテスココはアステカに対抗しうる力を持った存在であった。トラコパンはこの三都市中では最も勢力が弱く格下扱いとなっていた[30]。しかし、徐々にテノチティトランおよびトラテロルコを中心とするメシカ(アステカ)が勢力を拡大していき、三都市同盟を代表するようになっていった。アステカ帝国の歴代君主とはすなわちメシカ人のトラトアニを指す。かなりの独立性を持っていたテスココも、ネサワルピリの死後急速にアステカの支配権が強まっていった。
三都市はそれぞれ自都市に属する属国を持っており、そこから貢納を受け取っていた。各属国の王は以前からその土地を支配していた王であることもあったし、宗主国から任命された支配者であることもあった。各都市はそれぞれ領域を広げていったが、アステカ帝国の特徴としては、帝国内に多数の独立勢力を抱えていたことである。トラスカラ王国などのこういった独立勢力は、アステカと激しい戦闘を繰り広げ、周辺地域がすべてアステカの支配下に落ちても抵抗を続けていた。これらの独立勢力はやがてスペイン人の侵入時にスペインと同盟を結び、兵力・物資の供給地並びに根拠地として、アステカ滅亡に大きな役割を果たした。また、周辺諸地域への支配は厳しく、しばしば反乱が起き、それに対する再征服もよくあることであった。こうした支配地域の反感は、スペイン人侵入時にそれら地域の離反という形で現れ、帝国の急速な瓦解の一因となった。
階級社会
アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、王(トラトアニ)は王家の中から選ばれた。王であるトラトアニはもともと外務をつかさどる長であり、内務をつかさどる長であるシワコアトルとは対になる存在であった。シワコアトルの地位にはアステカ帝国成立期にはイツコアトルの弟であるトラカエレルが就いており、強い権限をいまだ保持していたが、トラカエレルの死後にその地位は急速に低落し、スペイン人が到来したころにはトラトアニは完全な絶対君主となっていた。貴族階層には、世襲 貴族に加え、戦争などで功績をあげて平民から引き上げられた貴族が存在した。大多数の平民はマセワルであった。さらに商人(ポチテカ)は、平民ではあるが特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷(トラコトリ)が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされた[2]。
軍国主義
アステカは軍国主義の色彩の強い国家であった。この性格は終末古典期以降のメソアメリカの諸国家に特徴的であり、アステカはテオティワカン衰退後の終末古典期から後古典期の中でとりわけ強大な国家であった。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。武器としては鉄器は存在せず、青銅器も武器には使用されず、黒曜石による石器が中心であり、黒曜石の刃を木剣に挟んだマカナや、木製の柄の先に黒曜石の刃を付けた石槍であるホルカンカやテポストピリー、手持ちの投槍器であるアトラトルなどが主な武器であった。
道路網整備と経済の発達
アステカのカレンダー
アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備していた。この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500~700粒で奴隷1人と交換できた。トウモロコシや芋類・豆類などの農産物、プルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。こうした地域に根付いた商業のほか、長距離交易も行われていた。長距離交易はポチテカによって行われており、ケツァールの羽やヒスイ、カカオといった熱帯産の高級品を主に取り扱っていた。こうした商品の主な産地は東方のマヤ文明の諸都市やその近隣地方であった。また、支配下諸地域からの貢納もこの道路網を利用して行われており、持ち込まれる大量の貢納品はアステカ経済の大きな一部分をなしていた。
食料
「アステカ料理」も参照
アステカの食糧生産の基盤は、高い生産性を誇るチナンパ農業である。アステカの覇権以前はテノチティトランの島内にチナンパが造成されていたものの、テノチティトラン・トラテロルコ両市の食糧をまかなうにはとても足りず、食糧の安定供給は急務となっていた。アステカが覇権を握ると勢力圏内に積極的にチナンパの造成を始め、とくにテスココ湖の南部には大規模なチナンパ地帯が造成されて穀倉地帯となっていた。このほか、テスココ支配下のアコルワ人地域では段々畑が造成されるなど、食糧供給と農業開発にアステカの歴代君主は心を砕いた。
アステカの中心作物はトウモロコシであり、これは主穀であり経済の基盤ともなっていた。トウモロコシは粥やタマル(団子)、トルティーヤにして食べられていた。このほか、アステカで主に栽培されていた作物にはトウガラシ、インゲンマメ、トマト、アマランサス、カボチャ、サツマイモ、クズイモ、ピーナッツなどがあった。飲料としてはリュウゼツランから醸造されるプルケ酒が重要であったが、より格の高い飲料としてはカカオから作られるショコラトルが珍重されていた。ショコラトルは価値が高く、原料のカカオ豆は貨幣として流通するほどだった。また、香料としてはバニラが珍重されていた。
文化
アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。鉄器は存在せず、青銅器は利用はあったものの装飾品利用が主なものであり、日用品や武器などは黒曜石などの石で造られたものが大半であった。
アステカは大規模な土木工事を盛んに行った国家であり、神殿の建設や水利工事などで高い技術力を持っていた。特に水利工事は湖に囲まれているテノチティトランを都とするアステカにとっては非常に重要な技術であり、上記のイツコアトルによるイツタパラパン道の建設やモクテスマ1世によるテスココ湖中堤防の建設などの湖の治水が積極的に行われた。このほか、塩水湖中にあり生活用水の不足しがちなテノチティトランに水を供給するため、モクテスマ1世は1466年にチャプルテペク水道橋を建設し、西のチャプルテペクの泉から湖を越えて市内に水を供給した。
アステカは、精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。アステカの暦は2つあり、占術に使う260日暦(トナルポワリ)と、国家行事を運営するための太陽暦である365日暦(シウポワリ)の二つの暦の体系を持っていた。この二つの暦が重なり合うのは52年に1度であり、そのためアステカにおいては52年を1つの周期として扱っていた。
アステカはそれまでのメソアメリカ諸文明の神々を継承し取り入れ、複雑な信仰体系を構築した。アステカ神話においてはアステカの民族神であるウィツィロポチトリをはじめ、ケツァルコアトルやテスカトリポカ、雨神トラロックなど様々な神があがめられ、崇敬を受けていた。アステカ神話においては世界の創造と破壊は過去4回起きており、現在の世界は5番目のものであると考えられていた。1479年にアステカ王アシャヤカトルによって奉納され、現代では最も高名なアステカの遺物のひとつとなっている太陽の石には、この世界観や暦が刻まれている。
人身御供
生贄の儀式。石器のナイフで胸を裂き、心臓を取り出す
アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供の神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった(花戦争)。
ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、手づかみで動いている心臓を摘出した。シペ・トテックに捧げられた生贄は、神官達が生きたまま生贄から生皮を剥ぎ取り、数週間纏って踊り狂った。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、生贄を火中に放り込む事もあった。
現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった[要出典]。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に扱われた[要出典]。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあった。
そうじゃなくて、続きだとよ。あぁ、前章の続きか…。
なんだったけか?
「ゴエティア」に語られるこれらの魔神の縁起は次のようなものである[注 3]。
「これらは72人の強大な王侯たちであり、ソロモン王はかれらに、ベリアル、ビレト、アスモダイ、ガープが首領であるところの軍勢とともに一つの真鍮器[注 4]に入るよう命じたのである。これはかれらの高慢のゆえであろうと思われる。というのもソロモンはかれらを拘束した理由を明かさなかったからである。かくてソロモンはかれらを縛して容器に密閉し、神聖な力によってバビロンの深い湖か穴に逐いやったのであるが、バビロニアのひとびとがこれを見て訝しみ、大きな財宝が入っているやもしれぬ、と容器をこじ開けようとして湖に入り込んだ。しかし彼らが器を開封した途端、霊の頭目たちは自分たちに服属する軍団とともに挙って奔出したのであった。そしてベリアルの他はみな元の位置に復帰してしまった。一方、ベリアルは或る偶像に入り込み、バビロニア人がしたように生贄を捧げてその偶像を神として祀るひとびとに応答するようになったのである。」
ソロモンと悪霊
旧約聖書には書かれていないが、第三代イスラエル王であったソロモンがその英知をもって悪霊を支配していたという話はヘレニズム期のユダヤ人の間に流布していた[注 5]。このような偉大な知恵者とされたソロモンにまつわる伝説から、その後千年に亘って、ソロモンに由来すると偽った文献群(ノーマン・コーンは偽ソロモン文書 pseudo-Solomonic books と呼んだ[17])がヘブライ語やギリシア語、アラビア語で書かれることになったが、中世盛期後半頃から、魔術師が悪霊を呼び出す術(ニグロマンシー)について記した、それまでとは趣を異にする偽ソロモン文書がヨーロッパで作られるようになった[18]。『レメゲトン』はこうした文献の流れを汲んでいる。
関連文献
「ゴエティア」に列挙される72人の悪魔のうち、68人はヨーハン・ヴァイヤーの「悪魔の偽王国」(1577年)に記述されているものと共通する(ただし記載される順番は異なる)。同じ68人の悪魔がレジナルド・スコット(英語版)の『魔女術の発見』(1584年)第15巻第2章にも記されており、この部分は事実上「悪魔の偽王国」の英訳である。ただし「悪魔の偽王国」で列挙された悪魔は総勢69人であり、そのうちプルフラスだけは『魔女術の発見』には記載されておらず、ゴエティアの72人の悪魔のリストにも入っていない。
「悪魔の偽王国」の悪魔は、フランスのジャーナリストであったジャック・アルバン・シモン・コラン(1794年-1881年)がコラン・ド・プランシーというペンネームで出版した『地獄の辞典』にも多数登場する[19]。『地獄の辞典』において脚色が施された悪魔の描写は、その第6版(1863年)に加えられたルイ・ル・ブルトンの挿絵とともに、現代の通俗的な悪魔のイメージに影響を与えた[20]。
解釈
構成する悪魔の中には、フェニックス、バアル、アスタロトのように、他の宗教・神話の神や霊鳥に淵源を見出すことのできるものも含まれる。西洋の悪魔についての一般論としては、モロク神やバアル・ゼブブのように、イスラエル民族周辺の諸国民の神々が嫌悪すべき異教神として悪しきデーモンに貶められた例があり[21]、偶像崇拝を禁じる古代ユダヤ人や後世のキリスト教徒によって、異教の神々が悪魔の地位へ落とされていったとされる[22]。
「72」という数字は、十二宮の1つの宮をさらに6区画に分割して得られる数字で、象徴的な全方角の支配者を定めるための図から得られたものらしい。そのためウァサゴのように名前以外の正確な姿や性格、特徴の伝えられていない悪魔もいる。アメリカのオカルティスト、ロン・マイロ・デュケット(英語版)は、ゴエティアの72人の悪霊はシェム・ハ=メフォラシュ(Shem-ha-mephorash)の72の神名と72の天使に対応するとしている[23]。
一覧
表の左端の数字は「ゴエティア」における記載順を示す。「ゴエティア」の中では「第24の霊はナベリウスと呼ばれる」といった形で順序数に言及されている。またこれらの印章は、マクレガーメーザースが均等にトレースしたものであり、本来は手書きの印章が紹介されている。
刊行
生涯の大半を大英博物館の図書室やパリの図書館での魔術書渉猟に没頭した[31]イギリスのオカルティスト、マグレガー・マサース(1854年-1918年)は、大英博物館で『レメゲトン』の古写本を発見し、これを筆写して1898年頃、決定稿に仕上げた[32]。同じ頃A・E・ウェイトによって私家出版された『黒魔術と契約の書』(1898年)には、『レメゲトン』の第1部「ゴエティア」の抄録が他のさまざまなグリモワールとともに収められていた[25](1910年『儀式魔術の書』として再刊)。一方、黄金の夜明け団の指導者であった前述のマグレガー・マサースの作成した『レメゲトン』の写本は、同団のメンバーに貸し出されていた。その1部が団員のアラン・ベネットを経てアレイスター・クロウリーの所持するところとなり[32]、1904年、クロウリーによって『ソロモン王のゴエティアの書』として出版された(ただし『レメゲトン』のうち第2部以降は収録されていない)。その後アメリカでその海賊版が出版された[32]。
1995年にはハイメニーアス・ベータ(英語版)の編集による、クロウリー版『ゴエティア』のイラスト入り新版[33]がアメリカで出版された。これは元の版と異なり、アレイスター・クロウリーによる悪魔のスケッチとともに『地獄の辞典』のルイ・ル・ブルトンのイラストが使用されている[34]。2001年には、魔法書研究家ジェゼフ・ピーターソンの編集により、「レメゲトン」の第5部までを収録したのみならず「悪魔の偽王国」まで併載した『ソロモンの小さな鍵』が出版された。その他、20世紀後半から21世紀に数種類の編集版が英米で出版されている。
表題の意味
ゴエティア(ラテン語:Goetia)はギリシア語の γοητεία (ゴエーテイア)がラテン語化したもので、呪術・妖術などを意味する語である。
ギリシア語には魔術に類する言葉は何種類か存在するが、ゴエーテイアは古代ギリシアで γόης (ゴエース)と呼ばれた呪術師の業(わざ)を指し、呪術・妖術・奇術・いかさまを意味する[35]。その呼称は古代ギリシアのシャーマン的呪術師が霊を呼ぶために発する喚(おめ)き声に由来するといわれており[36]、「嘆き悲しむ、泣き叫ぶ、呻吟する」を意味する動詞の γοάω (ゴアオー)に関連する。
ルネサンス期の人文主義者ピコ・デラ・ミランドラは、魔術には悪霊の業である神霊魔術と自然哲学の完成形である自然魔術の2種類があると論じ、前者はギリシア人のいう「ゴエーテイア」、後者は「マゲイア」に相当するとした[37]。ネッテスハイムのコルネリウス・アグリッパは『学問の空しさと不確かさについて』の中で、ゴエティアを「不浄な霊による業」と定義している。
日本のポピュラーカルチャー
現代日本の通俗的な書籍では、ゴエティアに登場する悪魔が“ソロモン王によって封印された72柱の魔神”(健部ら 1989[38])、“72体のソロモンの悪魔”(山北 1998[39])といったフレーズで紹介されている。
続いて、ナワトル語…。
ナワトル語(ナワトルご、nāhuatl [ˈnaːwatɬ] ( 音声ファイル))は、ユト・アステカ語族のナワ語群に属する言語で、2015年現在、メキシコなどで推定170万人の話者を擁する。2003年に施行された「先住諸民族の言語権に関する基本法」(Ley General de Derechos Lingüísticos de los Pueblos Indígenas) によって、スペイン語や他67の先住民語と同等に、名目上はメキシコの公用語とみなされている。
概要
ナワトル語は話者数でいえば北アメリカ大陸最大の先住民語である。INALIによると、2010年においてメキシコの5歳以上のナワトル語話者の数は1,544,968人とされる[2]。
INALIの定義ではナワ語群のうちポチュテコ語(消滅)とエルサルバドルのナワト語(ピピル語)を除いたものをナワトル語としている[3]。現代ナワトル語は多くの方言に分かれているが、分類については意見の一致を見ない[4]。この方言の中にはナワトル語話者同士でも意志の疎通が困難なものもある。すべてのナワトル語は程度の差こそあれ、様々な面でスペイン語の影響を強く受けている。
過去においてはメソアメリカの広い地域で共通語として使われていた。スペイン人による侵略がはじまった16世紀ごろのナワトル語を古典ナワトル語と称する[4]。古典ナワトル語はメキシコ盆地で話されていた方言で、名称に反して、比較的影響地域が狭く革新的な方言である。現代ナワトル語で古典ナワトル語のすべての特徴を受け継いでいる方言はないが、ミルパ・アルタ方言など、メキシコ盆地の現代ナワトル語は古典ナワトル語的な特徴をもっている。
アステカ人はナワトル語圏文化の影響を強く受けている。テパネカ族、アコルワ族、トラスカルテカ族、ソチミルカ(英: Xochimilca)族もその例である。ナワトル語がテオティワカンで話されていた可能性はかなり高い。[要出典]これらの部族が優位に立つにつれ、特にアステカ帝国の権勢の後の古典ナワトル語は、メソアメリカの広い地域で共通語として使われるようになった。こうした状況は12世紀に始まり、スペインがメキシコに侵入する16世紀まで続いた。
音声と正書法
以下は古典ナワトル語の音声である。
ナワトル語の正書法は標準化されたことがなく、スペイン語にない母音の長短の区別やサルティージョ (saltillo (linguistics)) と呼ばれる音節末の声門破裂音は文献ではほとんど無視されているが、17世紀のイエズス会士の文法学者オラシオ・カロチ (Horacio Carochi) などの著書によってわずかに知ることができる[5]。
アステカ神話
アステカ神話(アステカしんわ、英: Aztec mythology)は、アステカ時代の中央メキシコで伝えられた神話である。
アステカの中心都市であるテノチティトランの建設は14世紀、アステカ帝国の成立は15世紀であるが、メキシコ盆地ではそれよりはるか以前から文明が発達していた。たとえば主要な神のうちトラロックは7世紀以前にさかのぼるテオティワカンに見られる[1]。ケツァルコアトルもテオティワカンに見られ、さらにオルメカ文明にさかのぼる[2]。アステカ神話はテオティワカンやトゥーラの古い神話を引きついでいるものが多いが、それに自らの伝統をつけ加えている[3]。また、アステカ帝国がメキシコ盆地から周辺地域に拡大するに従い、それらの外部の神話も取りこまれていった。たとえばシペ・トテックは元々メキシコ湾岸およびオアハカ地方で信仰されていた神だった[4]。
アステカの宗教にとってもっとも重要なものは太陽崇拝と農業であり、この目的のために人間を犠牲として神に捧げたり、放血儀礼が行われた[3]。ほかのメソアメリカと同様、アステカ暦には260日の周期からなるトナルポワリと365日の周期からなるシウポワリがあり、祭祀と重要な関係を持っていた。この2つの周期が一巡するカレンダー・ラウンドの境目(約52年に一度)には新しい火の祭りという重要な祭祀が行われた。スペイン人の到来以前、最後の新しい火の祭りは1507年に行われた[5]。
アステカ暦
アステカ暦(Aztec calendar)またはメシカ暦(Mexica calendar)は、中央メキシコにおける他の先コロンビア人と同様、アステカ人が使用していた暦である。この暦は、古代メソポタミア文明の存在していた時期からその基本構造を共有する、メソアメリカの暦の1つである。
上述の地域においては、シウポワリ(ナワトル語が原語である。この語は太陽周期に近い、365日の周期を持つアステカの太陽暦を意味する。この暦は年単位で数える)、トナルポワリ(こちらもナワトル語が原語である。この語は260日の周期を持つアステカの太陽暦を意味する。この暦は日単位で数える)と呼ばれる暦を用いていたようである。これら2つの暦の組み合わせにより、カレンダー・ラウンドと呼ばれる、52年の「世紀」を形成した。前者は、太陽周期に暦の基盤をおいているため、農業カレンダーであると見なされている。一方で、後者は神聖な暦であると見なされている。
で、トナルポワリ
トナルポワリでは、上述のように260日周期で構成され、毎日1から13の間の数字と、20日分の記号のうち1つの組み合わせで日月の経過を表す。太陽の出入に応じて、数字と記号の両方をそれぞれ1進めるのである。例えば、1のワニの後に2の風、3の家、4のトカゲ、13の葦まで続き、その後、数字の周期が再開する(20日の周期は、この時点で一巡していない)。13の日の直後の日として、1のジャガー、2の鷲などが現れる。この周期は1のウサギから始まり、13の花で終わる20週目まで同様に続く。2つの暦の周回(20日の符号と13の数字)のために260日丁度(13×20日)を要し、一連の流れを再調整して、1つのワニから再び繰り返す。
日周期を示す記号
中部メキシコで使用される暦上の1日分の記号は、ミシュテカの人々によって使用されているものと同じで、他のメソアメリカの暦のものと類似している。それぞれの日の記号は、4つの基本的な方向の1つと関連している。
1日を示す記号の描かれ方・彫られ方にはいくつかの種類が存在している。この表の絵は「Codex Magliabechiano」から取った。
ジャガーはなぜ東なのだろう?
規則性的にいうと、「北」なんじゃないかと思うんだけれども?
わからん…。タロカンの話にうつる?
タロカンはwikiにはなくて、調べようとすると、タールカーンという、アフガニスタンの州都がでてくるぞ?
ブラックパンサーの世界も所詮はフィクションということなのかもしれない…。
どこまでが、真実で、どこまでが、真実でないか…。
でも、重要なのは真実味を持った嘘の物語でしょ?それとも、真実の方が大切だというのかい?
まぁ、多くの人にとっては、そうかもしれない…。結局のところ、正解かそうでないかで、人は振り分けられるものだろ?そうじゃなかったかね?ぼうや…。
「ぼうや」と呼ばれ、僕は少しだけ辟易とした。
「ブラックパンサーの何を一体見ていたのだろう?」
僕は確かに、ブラックパンサーを見ていた。でも、ある意味では何も見てはいなかったのかもしれない。
「いいや、君はきちんと見ていたはずだ。全部が全部英語だったから、少し難しく感じた?」
いや、あれって、英語以外も入っていたような作りだったよ…、少なくとも、僕にはそういう風に聞こえた…。
ふぅん…。
皮膚呼吸できるようになった、人類というSFか…。
ゼルダの伝説とかでもそうじゃない?
ある特定のアイテムを使うと、水の中での長時間の潜水が可能になるみたいな話?それって、現実かな?
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/sf.png?id=74527b25be1223de4b35)
『邪馬壱国の壱与~1,769年の眠りから覚めた美女とおっさん。時代考証や設定などは完全無視です!~』
姜維信繁
SF
1,769年の時を超えて目覚めた古代の女王壱与と、現代の考古学者が織り成す異色のタイムトラベルファンタジー!過去の邪馬壱国を再興し、平和を取り戻すために、二人は歴史の謎を解き明かし、未来を変えるための冒険に挑む。時代考証や設定を完全無視して描かれる、奇想天外で心温まる(?)物語!となる予定です……!
年下の地球人に脅されています
KUMANOMORI(くまのもり)
SF
鵲盧杞(かささぎ ろき)は中学生の息子を育てるシングルマザーの宇宙人だ。
盧杞は、息子の玄有(けんゆう)を普通の地球人として育てなければいけないと思っている。
ある日、盧杞は後輩の社員・谷牧奨馬から、見覚えのないセクハラを訴えられる。
セクハラの件を不問にするかわりに、「自分と付き合って欲しい」という谷牧だったが、盧杞は元夫以外の地球人に興味がない。
さらに、盧杞は旅立ちの時期が近づいていて・・・
シュール系宇宙人ノベル。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/sf.png?id=74527b25be1223de4b35)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる