兵法とは平和の法なり

MIROKU

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慶安編

魔天にかかる罠

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 七郎と正雪は月下に対峙した。
 二人にとって、それは最初で最後の対決だった。
 黒装束姿の七郎と、裃姿の正雪。
 二人は抜刀して斬り結んだ。
 互いに刃を避けつつ閃く銀光。
 それは闇夜に描かれた芸術であったかもしれぬ。
 互いに後退り、刀を手にして向き合う。七郎も正雪も汗を浮かべ、決死の形相をしていたが、不意にどちらからともなく笑った。
「強いな七郎」
 正雪は、まるで弟に接しているかのようだ。
「正雪こそ」
 隻眼の七郎、ニヤリと笑った。
「さすがは江戸の名士だ」
「何を言う、七郎こそよく生きていたな」
「悪運が強いからかな」
「いや、七郎には使命があるからだ…… 七郎は倒すべき敵を倒すまで戦うのだ」
 二人の会話の意味は傍からはわからない。
 だが互いに生涯最大の好敵手だと魂で理解しあっていた…………
 次の瞬間、正雪は踏みこみ、一刀を打ちこんだ。
 七郎は刀を手放し、まっすぐに踏みこんだ。正雪の振るった刃を避けつつ、組みついて動きを封じる。
「離せ!」
 正雪は七郎を振りほどこうとした。
「目を覚ませ!」
 七郎は正雪に押されて後退した。
 無心に体が動いた。
 正雪が前へ出ようとするのと同時に、七郎の左足は後方へ半円を描く。
 左膝をつきつつ、七郎は左手で正雪の右袖を握って、彼を後方へ放った。
 正雪は刀を握ったまま前方へ一回転して、背中から大地に落ちた。
「い、今のは……」
 正雪は大の字に倒れたまま、つぶやいた。彼の目は夜空に輝く満月を見ていた。
「……無心の技」
 七郎は正雪の右袖から左手を離さず言った。しかけた彼自身が理解の及ばぬ技であった。
 後世の柔道における浮落である。二十一世紀には遣い手のいない幻の秘技とされている。
 それを七郎が成し遂げる事ができたのは、すでに死を覚悟していた事と、長い闘争の経験ゆえだろう。
 武徳の祖神も勝利の女神も、七郎が命がけで江戸の平和を守るために戦うからこそ、加護を与えてくれるのだ。
「見事だ、七郎…… お前は私の誇りだ……」
 そう言った正雪は投げられた衝撃に意識を失った。
 こうして由比正雪は捕らえられたのだ。
 由比正雪は捕方に取り囲まれて自刃したと江戸庶民には伝えられている。
 が、それは間違いだ。事実は七郎だけが知っている。
 同時に、あの無心の一手が――
 最高の一瞬は、永遠の感動だと七郎は知った。
 ――俺はやる。
 七郎は決意を改める。
 成し遂げた最高の一手、それを魂に宿して未来へ進む。
 そしてまた新たな最高の一手を得るだろう。
 七郎の歩みは止まらぬ。
 前進し、壁にぶち当たり、初心に還る……
 それを繰り返す七郎は、永遠の求道者であるかもしれない。
 
 
 江戸は夏祭で活気に満ちあふれていた。
 褌姿の男達が神輿を担ぐ。道端は見物客で賑わっている。
 出店で買ったものか、串に刺したキュウリにかぶりつく子ども達がいる。水分を多く含んだキュウリは、夏の陽射しの下では甘露のように感じるだろう。
 七郎は人々の平和な姿に微笑する。自分が命を懸けてきた事は間違いではなかったと、満足したのだ。
 数年前の大飢饉をも思い出す。全国で食糧不足となり、寒村では人間の骸すら食らったという。
 現世に現れた餓鬼地獄を乗り越え、人々は笑顔を取り戻した……
「ん?」
 ふと七郎は神輿の担ぎ手の中に、艶めかしい姿を見た。
 それは胸にサラシを巻き、腰には男と同じように褌を締めた美女であった。額に締めた鉢巻も勇ましい。
 いい年した七郎が思わず胸を高鳴らせる美女は、よくよく見れば、蘭丸の押しかけ女房ねねであった。
「お、お前は何をしている?」
「ふん!」
 七郎の穏やかな問に、ねねは平手打ちで返した。
「女が神輿の担ぎ手をしてはいけないというの!?」
「そ、そんな事は言ってないぞ!」
 七郎は打たれた頬を押さえた。真面目に涙が滲んだ。
「おいおい、おっさん。姐さんをなめたら、俺達が黙ってねえぜ」
 担ぎ手の男達が物騒な視線を七郎に向けてきた。どうやら彼らは、ねねを姐さんと慕っているらしい。
 いつの間に、そのような人間関係が形成されたのかはわからない。驚く七郎の見ている前で、更に数名の女の担ぎ手が現れた。
 まだ嫁入り前と思われる娘がいれば、亭主と子を持つ女房もいる。
 女達の素肌を晒した艶めかしい一張羅に、見物客の中から感嘆のため息が漏れた。
 この時代、女性の社会的地位は高いとはいえぬ。世の中を動かしているのは男である。
 女性は全てから抑圧されているかもしれない。それに対して、ねねは一人で抗っているのだ。
 ねねの非常識な行いもまた、世界を革命する力なのではないか。
 言葉にするのは難しいが、ねねの持つ魂の輝きは、女のみならず、世の男をも動かしている。
 ねねは、たった一人で世界を動かしているのだ――
「七郎さん」
 ねねが一歩、七郎に迫った。
「な、何かね」
 七郎はねねのさらしを巻いた胸元に目を奪われつつも、彼女が真剣な顔をしているのに気づいた。
「蘭丸様をお願いします」
「何だと」
「典太を持って出向いています」
 ねねの言葉に七郎は眉をひそめる。典太とは七郎が蘭丸に授けた名刀、三池典太の事だ。
 後世では国宝に数えられ、魔物をも断つと言われる三池典太。
 かつて七郎が家光の辻斬りを止めた際に、春日局から謝礼として賜ったものだ。
 それを持って蘭丸が出向いているとは。
 何処に? 何のために?
 ねねは真剣な眼差しで七郎を見つめて、何も言わぬ。時に神仏のような神秘の雰囲気を漂わせるねねは、七郎にも蘭丸にも謎の女だ。
「頼みますわね、わたくしはお祭りですから!」
 ねねは拳を固く握って、鼻息荒く宣言した。どうやらねねは蘭丸を手伝う気はさらさらなく、七郎におまかせする気満々のようだ。
 七郎はがっかりした。
「へいへい……」
 七郎は場を去った。人々は夏祭りを大いに楽しんでいた。自分には不似合いだと思いつつ、七郎は小路に入った。騒がしいのは苦手だ。
 細長い杖を突きつつ、七郎は見慣れぬ小路を行く。人の姿はなかった。人々は表通りの夏祭りの喧騒に引かれていると見える。
(俺はこっちでいい)
 ぼんやりしながら七郎は考えた。
 将軍家剣術指南役、柳生又右衛門宗矩の嫡男、柳生十兵衛三厳。
 それが七郎の正体だが、公の彼はすでに死んだ。
 今ここにいるのは、ただの隻眼の七郎だ。
 隻眼ゆえに剣には秀でず、宗矩から無刀取りの妙技を受け継いだからこそ、今がある。
 無刀取りの技と精神が、七郎を危機と災禍から救っているのだ。
 脳裏に浮かぶ女性の笑顔に七郎の魂は安らぎを得た。
 ――私は、うららじゃありません。ウルスラですよ……
 金色の髪の少女が七郎に向かって微笑む光景。今ではまるで夢のような――
「おい」
 突然、呼びかけられて七郎は足を止めた。小路の先には浪人が数名いた。
「羽振りはいいかい? ちょっと恵んでくれや」
 浪人は刀を鞘ごと肩に担いでいた。尾羽打ち枯らした浪人らは、むっとする体臭を放っていた。
(なるほどな)
 七郎は自嘲した。自分のような人間には輝かしい世界よりも、暗く濁った世界が相応しいように思われた。
 何も言わぬ七郎を見つめて浪人らはニヤニヤしていた。怯えているように見受けられたのだろう。小太刀も差さずに杖一本しか持たぬ七郎を恐れる理由もない。
 刀の威を利用して他者から金品を欲求する荒事に、浪人達は慣れていた。
「身ぐるみ脱いで置いていけ」
 浪人の一人は刀柄に手をかけた。七郎はまだ間合いを開いている。一足飛びに斬られる事はないが、すでに殺気が小路に満ちていた。
 暑い夏の陽射しも、蝉の鳴き声も、夏祭りの喧騒も、七郎には遠い出来事のように思われた。
「やむをえぬな」
 と言いつつ七郎は杖を手にして踏みこんだ。
 およそ三尺あまりの黒塗りの杖が横薙ぎに振るわれた。
 その一撃が先頭の浪人の横っ面を打つ。激痛に浪人は悲鳴を上げた。
「御免」
 七郎は杖を振るって浪人を片っ端から打ち据えた。しなりのある細い杖に打たれると、痛みが体の芯にまで響く。その激痛に浪人は悲鳴を上げるのだ。
 この杖は、細い竹の枝を数本まとめて紐で隙間なく縛り上げ、その上から黒漆を塗って固めたものだ。
 選りすぐった竹の枝をまとめた杖は剛と柔、両方の特徴を併せ持つ。
 体重を支えるような杖ではないが、細くしなやかな杖の一撃は、革の鞭で打たれるような激しさを秘めていた。
 また、隻眼の七郎の視力を補うものでありながら、いざ用いれば刀と同等以上の働きをする。
 後世では失伝されたという十兵衛杖の原型かもしれぬ。
「ちいい」
 舌打ちしながら浪人らが逃げ去った。七郎は刀を抜く暇も与えなかった。生死の境を幾度か乗り越えた七郎は先手を取る有効性を知っている。
「……お前さんは逃げぬのかね」
 七郎は最後に残った浪人を油断なく見据えた。
 浪人は無言である。痩せこけた生気のない顔つきだが、目だけがギラギラと輝いていた。
 七郎は浪人の不気味な気配に覚えがあった。これは人ならざる魔性ではないのか。
 夜の闇の中で、幾度も七郎は魔性と出会い、命のやり取りに及んできた。
 今もまた七郎は魔性との因縁を感じずにはいられなかった。
「キエー!」
 浪人が気合と共に抜き打ちに斬りつけてきた。
 七郎は左手の杖で浪人の一刀を横薙ぎに打ち払い、懐に踏みこんだ。
 突き出した肘を浪人の鳩尾に叩きこむ。一瞬、動きの止まった浪人の腰に抱きつき、七郎は体を回す。
「ぬあ!」
 七郎は浪人を投げて大地に叩きつけた。技の型は上手投げに似ているが、これは後世の柔道における大腰だ。
 倒れた浪人から数歩、身を離して七郎は浪人を油断なく見据えた。
 浪人は上半身だけ身を起こし、ぶるぶると震えていた。
 やがて震えが治まると、前のめりに突っ伏した。
「何だと?」
 七郎は浪人にゆっくり近づいた。そして浪人の背中が裂けているのに気づいた。
 裂けた背中からは生理的嫌悪感をもよおす粘液が漏れていた。その粘液は小路の奥へと続いていた。
「……化物か」
 七郎は直感した。新たな化物が現れたのだと。それは人の皮を被って擬態しているのだ。得体の知れぬ魔性であった。
 七郎は杖を手にして小路の奥へ、地に残された粘液を追う。
 すでに死は覚悟している。
 七郎は仏法天道の守護者なのだ。
(父上と老師のおかげだ)
 七郎は二人からの指導を思い出す。今、生あるのは二人から受け継いだ技と魂があるからだ。
 幼い七郎と木剣を手にしての稽古の最中、宗矩は鋭く突いて七郎の右目を潰した。
 ――あの時、わしはお前の中に神を見た。
 と、宗矩は死の間際に七郎に告げた。神とは何なのか、七郎にはわからない。父の又右衛門の技も入神の域であるが、その事なのだろうか。
 何にせよ右目を失い意気消沈した七郎を、再び兵法の道へ導いたのは、小野次郎右衛門忠明であった。
 ――我が流派は一刀に始まり、一刀に終わる。
 忠明によれば、刀を用いようと槍を用いようと、一刀にて敵を仕留めるがゆえに、一刀流だという。
 視力に不安のある七郎は精妙なる剣技を身につける事はできない。
 が、隻眼であろうと、敵を倒すための一手を身につける事はできるはずだ。
 決意した七郎は再び父の宗矩に兵法指南を求めた。宗矩は剣ではなく、先師の上泉信綱より伝わる組討術である「無刀取り」の妙技を伝授した。
 後世ではいわゆる柔術と称される技術である。視力に不安のある七郎でも、対手と組みつけば、その不安は消える。
 父の宗矩、師事した忠明との兵法修行が七郎を成長させた。
 捨身必滅、一打必倒。
 その気概が七郎に常勝無敗を授けてきた。だから今、七郎は生きているのだ…………
「む」
 七郎は粘液が途切れているのに気づいた。同時に彼は小路から出た。
 そして目を見張った。小路から出た先は彼の知る江戸の町ではなかった。
「なんだこれは……」
 江戸とよく似た街並みだが、そこは異国の匂いに満ちていた。
 道行く人々は江戸の住民に似ているが衣服が違う。雰囲気が違う。
(ここは俺がいた江戸ではない……)
 戦慄が七郎の全身を駆け抜けて、途端に全身から汗が吹き出した。
 七郎は小路を抜けて、別の世界へ来ていたのだ。
 
 
 蘭丸はとある屋敷にいた。
 高貴な身分の者が住む豪奢な館であった。
 彼は広間に敷かれた絨毯に正座し、館の女主人と対面していた。
 七郎から彼に授けられた名刀、三池典太は右側へ置かれていた。これは刀を抜く気はないという礼儀である。
「俺は江戸に帰りたい」
 蘭丸はまっすぐに女主人を見つめて言った。
 長い黒髪を無造作に後ろで束ねた着流し姿の美男子だ。
 美女のような顔立ちをした優男だが、実際には人を斬った事もある。
 その精神は常に明鏡止水で、人間的ではないが、だからこそ七郎は三池典太を授けた。
 蘭丸ならば七郎の後を継ぎ、江戸の夜に潜む魔物を斬れるのではないか。それに美男だから、三池典太の元の持ち主である春日局も案外、喜ぶかも――
 そんな淡い期待と共に蘭丸は三池典太を授けられたが、まだ魔物は斬っていない。
「そのような寂しい事を言うな」
 上座の女主人は妖艶に微笑んだ。
 異国の姫のような装いも麗しい、長い黒髪の女主人。
 その女主人は蘭丸を熱く見つめている。ねっとりとまとわりつくような、人によっては生理的嫌悪感をもよおすであろう熱い視線であった。
「もう少しここにおっていいのだぞ」
「いや、俺は江戸に帰る」
 蘭丸の視線が女主人に突き刺さる。彼の殺気を秘めた視線を浴びても、女主人はそれも一興程度にしか感じておらぬ。
「なんとも強情な―― だがそれがいい」
 女主人は言った。その目は燃える情念を宿している。蘭丸と閨を共にする執念の炎だ。
 蘭丸はそれに気づいているのか、いないのか。
 座したまま女主人を見つめる蘭丸は静かである。
 必殺の機を狙っているのだ。
 だが、今はその機ではない。
 女主人から賓客扱いされているが、他の住人からは、そのように見られていない。
 部屋の外には殺気を隠さずに控えている女衆がいる。数名の女衆は残らず得物を手にしていた。
 ましてや女主人はどうだ。一見すれば隙だらけ、はだけた胸元は蘭丸を誘っているようでもある。
 だが、蘭丸が刀を抜いて斬りつければ、死ぬのは自分ではないか。そのような予感がする。
 妖艶な美女だが、その実、得体の知れぬ魔性であった。蘭丸は人を斬った事もあるが、その彼ですらがためらいを感じている……
「ほれ、馳走を用意せい」
 女主人が手を叩けば、女衆が料理を運びこんできた。山海の珍味かと思われるような大皿小皿の数々だが、蘭丸は手を出さなかった。
「茶だけはいただこう」
 そう言って蘭丸は、傍らに座った給仕の女に言った。女は蘭丸の横顔へ熱い視線を注ぎながら、甘い香りがほのかに漂う茶碗を差し出した。
「ふふふ……」
 女主人は口元を隠して含み笑いした。下品な笑いを見られたくないという意図があった。
 
 
 七郎は見知らぬ町の通りを進む。
 闇雲に歩くようでいて、彼は何かに導かれるように、力強い足取りだ。
 内なる何かに導かれるように七郎は進む。内なる何かとは、ねねの加護であったが七郎が知る由はない。
 ねねも女だ、愛する蘭丸に手を出す女は、嫉妬のあまり八つ裂きにしたくなるかもしれない。
 また、蘭丸を守るために七郎に無理難題を押しつけて、自分は祭に参加しているねねだ。
 女心は天より高く、海より深い――
(腹が減ったな……)
 七郎、通りで足を止め、店先の陳列棚を眺めた。
 見た事のない魚の姿煮が大皿に載せられている。獣肉と思しき焼肉もまた皿に盛られていた。
 七郎は獣肉を口にする事は稀だ。江戸では獣肉を滅多に口にしない。魚がほとんどであり、たまに鳥肉を口にするくらいだ。
 獣肉は薬屋に売られている。滋養強壮の薬として扱われているのだ。密かな愛好家もおり、七郎も決して嫌悪するわけではないが、この世界の食べ物に手を出すのはためらわれた。
「……おいおい、人間の匂いがしないか」
 店の主人が――これは六尺を優に越える大男だった――鼻を鳴らした。
「ああ、本当だ。人間の匂いだ」
「おお、美味そうな人間の匂いだ」
「人間なんかしばらく食べてないなあ」
 と、店先に集まった者達も鼻を鳴らし始めた。それは肉食獣が獲物の匂いを嗅ぎ取ったような光景であり、七郎は顔から血の気が引いてきた。
「おや、お前さん人間臭いな」
「き、気のせいだろ」
 七郎は笑ってごまかした。
「ねえねえ、あんたさあ人間じゃない? なんで人間がこんなところにいるの?」
 色気を発散する年増女が七郎の体の匂いを嗅ぐ。周囲の者達の目も、七郎の方へ向いた。
「最近は人間がまぎれこむ事があるらしい」
「まあ、それじゃこの男も?」
「かなり年食ってるけど、煮たら美味そうだな」
「俺は年食ってない! 少しだ、少し!」
 叫んで七郎は手にした杖で、側に来た男の頭を打った。男は意識を失って地に倒れた。
「なんだい、年食って肉固そうなのに」
「いやいや、年食った人間を美味く食べるコツもあるんだ」
「お前ら何だ! かかってこいやー!」
 七郎は群衆に向かって叫んだ。
 異世界に来た恐怖と不安、更に年食った人間と評価された事が、七郎の理性を失わせた。
「あら、それじゃ今日は人間狩りだね」
「任せろ、仕留めてやる」
 年増女に代わって、店主が大包丁を手にして店先に出てきた。
「は!」
 七郎の烈火の気迫が空気を震わせ、周囲の群衆すら怯ませた。
 虚を突かれて息を呑んだ店主へ、七郎は矢のように突き進んだ。
 店主の右足を、七郎は右足で払った。体勢を崩した店主は後方に倒れて後頭部を強打してうめく。
 刹那の間に閃いたのは、七郎の小内刈だ。
「なんだい、美味しくいただいてやろうってのに」
「うるさい、だまれ! 美味しく食べられてたまるか!」
「こんの人間があー!」
 群衆が七郎に向かって雪崩れこんできた。中には手斧を握った凶悪な者もいる。
「おととい来やがれ!」
 七郎、襲いくる群衆に背を向けて逃げ出した。数の暴力は如何ともしがたい。幕府隠密として日本全国を駆け回った七郎の健脚は、たちまち群衆を引き離した。
(ねねめ、あの女狐!)
 七郎は心中に毒づきながら、町中を駆け抜け、いつしか館の前にたどり着いた。
 なんという偶然だろう、この館は蘭丸が女主人に囚われている館ではないか。
 息を整えながら、七郎は館の門前に立つ。目指すべき敵は近い。
(ここに蘭丸が……)
 七郎は門前から館を眺めた。なぜここに蘭丸がいるとわかるのか、七郎はそれを疑問にも思わない。
 あるいは七郎は、ねねによって遠隔操作されているのかもしれない。謎の女ねねの事だ、人間を操り人形にする妖術を心得ていてもおかしくない。
 しかし七郎の魔を降伏しようとする意志、そして柔よく剛を制す無刀取りの技だけは真実だ。
 七郎はその心と技だけを以て、幾多の死線を辛くも乗り越えてきた。
「何してるでやす?」
「ん?」
 呼ばれて七郎がふりかえれば、そこには一人の女がいた。
「御館様の男…… じゃないなあ」
 女はジロジロと七郎を見つめた。褐色の肌に白い髪を持つ、退廃的な雰囲気をまとわりつかせた女である。
 年の頃は十七、八か。江戸では嫁に行って子を産んでいてもおかしくない年頃だ。
 肌に刻まれた奇妙な紋様が七郎の目を引いた。
「なんだ、お前は?」
「うーん、あちきの好みじゃないなあ」
「おい」
「でも御館様の事だから、たまには年食った男も」
「おいってば」
「さっきの色男は良かったなあー」
「いい加減にせんか! お前は誰だ!」
「え、あちきは黒夜叉ってんですが」
「うむう……」
 七郎は黒夜叉と名乗った女を観察した。観の目だ。心の目で相手を観察するのだ。
「お前さんは館の使用人か」
「まあ、そうでやすねえ」
 言って黒夜叉は眉をしかめた。彼女は御館様に、あまりいい感情は抱いていないようだ。
「色男というのは、こう、長い髪を後ろで縛った、女みたいな奴ではないか」
「あ、そうそう! その色男でやす!」
「俺はその色男を助けに来たのだ」
 七郎は左の隻眼を細めた。彼の必殺の気迫がにじみ出す。七郎の目的は蘭丸を救出する事だ。それは果たして彼の意志かはわかりかねる、ねねに操られているかもしれない。
 それでも七郎は女の願いを聞き、応えてきた。春日局、忠長の愛妾にして真田幸村の娘、そして天草四郎と恋仲であったウルスラ……
 だからこそ七郎は常勝無敗の道を辿れたのか。己のためでなく、腕自慢技自慢でもなく、ただ女の命懸けの思いに応える――
 そんな七郎には、勝利の女神がいつだって微笑んでくれたのだ。
「えー、おじさんひょっとして衆道の念者でやすか?」
「違うわ!」
 七郎の殺気も霧散する黒夜叉の言であった。衆道とは男色の事であり、念者とは恋人の事である。
 なるほど、女の黒夜叉から見れば、色男の蘭丸と七郎は、衆道の仲に思われても仕方ない。
「し、衆道ってお尻の穴を……」
「おいおい……」
 七郎は苦笑した。決死の気迫も完全に霧散した。どうやら黒夜叉は不思議な力があるようだ。
「でも御館様に食べられちまうでやす、それが悔しいでやす」
「何、食うだと?」
「そうでやすよ」
 黒夜叉は残念そうな顔をした。まだ話した事もない黒夜叉にここまで慕われるとは。七郎の胸には、蘭丸への嫉妬の炎がメラメラ燃え上がった。
「おい、そこで何をしている?」
 野太い声に七郎と黒夜叉は振り返った。見れば館の使用人だろうか、見上げるような大男が立っていた。
「ほお…………」
 七郎、大男を見据えた。七郎は五尺七寸前後だが、大男は七尺あまりの背丈を持つ。
 体つきも筋骨隆々としていて、思わず息を呑む威圧感に満ちていた。
「黒夜叉、お前はまた遊んでいやがるのか」
「す、すいませんでやす……」
「全く使えんなあ、これだからお前の一族は」
 大男の言葉に黒夜叉は蒼白になってうつむいた。事情を知らぬ七郎だが、大男からは嫌な気配しか感じない。
(何処へ行ってもこんなものか)
 江戸とは別の世界へ来ても、やはりそこには同じものがあるのだと七郎は気づいた。彼らの一族も幕閣では白眼視されていた。
 戦国の世に、柳生の庄でひっそりと生きてきた臆病者。
 それが如何なる理由か、御神君家康公に寵愛され、将軍家剣術指南役に就くとは。
 ましてや全国の大名を観察する大目付の役職を任されるとは。
 父祖の代から戦場を駆け、命懸けの槍働きで旗本の禄高を授かってきた者としては、七郎ら柳生の者は妬みややっかみの対象であった。
 七郎の父などは城中で斬りつけられた事もある。その時は幼い七郎も宗矩の側にいた。
 あまり覚えてはいない。ただ城の廊下で宗矩は幕閣の者に呼び止められ、一方的に侮蔑された。
 それに対し、宗矩は静かに言葉を返すのみであった。畏まって聞いていたが、その態度が幕閣の者の怒りに油を注いだらしかった。
 ――死ね、柳生の魔剣!
 抜刀して斬りかかった幕閣の者へ、宗矩は素早く組みつき、横へ放り投げたように見えた。
 これは宗矩が左手一本でしかけた体落であった。
 後世の柔道の技、それを宗矩は刹那の間に、刃を避けつつ左手一本でしかけたのだ。
 後で知ったが、この時の宗矩は息子を守るために、頭が真っ白になっていたという。白紙の境地、いわゆる無の境地に到っていたのだろう。
「人間か、年食ってるが煮たら美味いかな」
「年など食っておらんわ!」
 七郎、思わず叫んでしまった。一体、彼らと自分と何が違うのか。大男は七郎を品定めするかのように、ジロジロと眺めていた。
「元気がいいな、今夜の飯にちょうどいい」
 大男は一歩、前に出た。七郎をニヤニヤ見つめている。どうやら七郎は獲物と認識されたようだ。黒夜叉はまだうつむいている。江戸とは違う異世界に来たが、どうやら此処は人食らう人の住まう世界だったようだ。
「悪いが、色男を連れて帰らねばならんのだ」
 七郎の目つきは変わった。雰囲気も違う。黒夜叉と楽しげに会話していた時とは、まるで別人だ。
「ほう、こりゃ煮込み甲斐がありそうだ」
 大男は腰に差していた鉈のような大包丁を抜いた。
 
 
 
 
 
 館の中では蘭丸が女主人から歓待されていた。
 が、蘭丸は座したまま用意された料理には一切手を出さなかった。
 渇きに耐えられなかったか、甘い匂いを発する茶だけは一口、口にした。
「これ」
 上座の女主人が手を叩けば、給仕を務めていた下女達が膳を手にして部屋を出ていく。残されたのは蘭丸と女主人だけであった。
「惜しいのう」
 女主人は扇で口元を隠しながら、やや横目になって蘭丸を見つめた。魅惑の流し目だが、蘭丸に動じた様子はない。
「気に入らぬのが気に入った」
 女主人はつぶやいた。今、蘭丸の前に出した料理には人肉料理も混じっていた。だが蘭丸は察知したのかしないのか、全く手を出さなかった。
 女主人の妖艶な色香にも、側に控えた下女らにも視線を送らなかった。女主人の知る限り、このような男は初めてであった。蘭丸は女の色気にも、自身の色欲にも動じぬ鋼の精神を有しているのだ。
 これが七郎ならば、腹が減れば料理を食らい、女主人の誘惑に負けていただろう。もっとも、女主人ら異世界の住人が人間を食らう事には嫌悪している。
 蘭丸は女主人らが人間を食らう事を否定も肯定もしていない。だが決して相容れる事はない。
 七郎と蘭丸、二人は水と油のように性質が違うが、だからこそ強い縁を持っているのかもしれない。
「わらわはな……」
 女主人は上座から立ち上がり、蘭丸の方へと歩み寄った。
 この間、蘭丸は微動だにしない。右脇に三池典太を鞘ごと置いて、正座したままである。
「お主の子が欲しいぞ……」
 言って女主人は服を脱ぎ始めた。衣擦れの音が部屋に響く。女主人は自身の言葉に恥じらっているのか、僅かに頬を朱に染めていた。妖艶な女主人の意外な仕草であった。
 蘭丸は何を考えているのか、尚も座したままだ。
 だが蘭丸の目は、獲物を狙う鷹の目だ。必殺の機を狙っているのだ。
「お前は知っているか」
 蘭丸は座したまま女主人の艶めかしい肢体を見上げた。
「人の内に潜む化物を」
 蘭丸の目には強い輝きがあった。女主人の裸体にも動じぬ強い意志、それは自身の使命を全うせんとする決意だ。
「奴らを知っておるのか?」
 女主人は眉をしかめた。蘭丸は人の内から現れた化物(それは七郎も目撃している)を追って、この世界に来た。
 女主人は化物の仲間かと思ったが、どうやら違うようだ。女主人の感情の中に、蘭丸は真実を感じ取った。
「敵の敵は味方……」
 蘭丸はつぶやいた。美女のような顔立ちをした蘭丸を見つめて、女主人は熱い吐息を漏らした。


 館の門前には殺気が満ちていた。
 館の門番である大男と、この世界に紛れこんだ七郎が対峙しているのだ。
 傍から二人を眺めている黒夜叉は蒼白になっている。
 江戸と異なる世界の空に、鈍い陽光が輝いていた。
「煮込んで食ってやろう」
 大男は鉈を手にして七郎に斬りつけた。七郎は刃を避けて素早く距離を取った。
 そして背を見せ、振り返った時、七郎の顔には黒塗りの般若面があった。
「ひい」
 黒夜叉は悲鳴を上げそうになった。七郎が化物に変身したと思ったのだ。
 それは大男も同じであった。この世界には般若の面はない。異なる文化を持つ者にしてみれば、般若とは悪鬼の顔に見えるだろう。
 対する七郎は――
 般若面の奥で、七郎の顔は無表情であった。
 彼は兵法の鬼となったのだ。
 感情も理性もない白紙の境地に七郎は到っていた。
 七郎の脳裏には数々の死闘が思い返される。
 家光の辻斬りを止め、忠長の狂気を制し、丸橋忠弥の槍を防ぎ、由比正雪へ無手で挑む。
 命のやり取りを経て到達した七郎の白紙の境地は、常人には理解しがたいものであろう。
 あるいは七郎が到達したのは、仏法の者が目指す菩提の境地かもしれない。
「……隙だらけだな」
 般若面の七郎は、ゆっくりと大男の前に踏みこんだ。虚を衝かれた大男が、慌てたように鉈を振り上げ、打ちこんできた。
「ふっ」
 七郎は後退しながら大男の鉈を避けた。大男が二度、三度と鉈を振り回すのも避けた。
 そして七郎は疾風のように大男に組みついた。同時に左足が後方へ孤を描く。
 次の瞬間、七郎は大男を後方へ投げ飛ばしていた。
 宙を舞った大男は背中から大地に落ち、一声うめいて気絶した。傍から見ていた黒夜叉には、七郎が手だけで大男を投げ飛ばしたように見えた。
 これは浮落だった。後世の柔道の技で、二十一世紀においては遣い手のいない幻の秘技とされている。
(正雪……)
 浮落を放った七郎は、しばし呆然とした。
 白紙の境地から無心に放った浮落は、かつて七郎が由比正雪との対決の際に、咄嗟に繰り出した技でもあった。
 七郎の学んだ無刀取りの中にはない。ゆえに技名もない。七郎すら忘れていた無心の一手が、今この対決の際に繰り出されるとは。
(学ぶべき事を多く残しているのは、我が身であった)
 七郎は鈍い輝きを放つ異世界の空を見上げた。
 父の又右衛門宗矩、師事した小野次郎右衛門忠明、三代将軍家光、大納言忠長、槍の遣い手の丸橋忠弥、由比張孔堂正雪……
 幾多の戦いの中から、七郎は何かを見出そうとしていた。
 それは武の深奥か、それとも心の旅の終着点か。
「もういっぽん!」
 般若面の七郎は大男に向かって再度対決を求めたが、対手は地に倒れて気絶していた。
「す、凄いでやす!」
 黒夜叉は浮落の妙技に拍手していたが、真剣な七郎を置き去りにした、どこか間の抜けた展開であった。


 やがて、しばしの時が流れた。
 蘭丸は褥から出ると身支度を整えた。
「憎たらしい男…… もう行ってしまうの?」
 褥に全裸で横たわった館の女主人は、恨めしそうに言った。
「俺はもう行く。行かねばならん」
 蘭丸は着流しの帯に三池典太を鞘ごと差しこんだ。彼の顔には女と肌を合わせた感慨らしきものが、何も浮かんでいない。その様子に女主人は苛立ったようだが、すぐに苦笑した。
「まあよい……」
 女主人は自身の下腹部を愛しげに撫でた。満足げでもある。人喰らう者であるが、紅潮した顔は美しい。女は男と交わった後が最も美しいかもしれない。
「ええい、どこだ、蘭丸!」
 その時、廊下から騒々しい声が響いてきた。ドスドスと足音荒く、廊下を渡ってきたのは、般若面を外した七郎であった。
 隻眼の無頼漢といった風貌に、館の誰もが怯んでいた。ましてや館の守衛とでもいうべき七尺の大男は、七郎の無刀取りに制されて、気絶しているのだ。
「蘭丸、ここかあ!」
 七郎は思い切りよく襖を開いた。そこは女主人の部屋であり、室内には目を丸くした蘭丸がいた。
「誰じゃ」
 女主人も薄衣一枚羽織った姿で七郎に憎悪混じった視線を向けた。帰るといった蘭丸への苛立ちを、七郎へ八つ当たりという形で向けているように思われる。
「あ、こ、これは失礼!」
 七郎、女主人の艶姿に赤面して背を向けた。すでに他界した春日局が見ていれば、ため息をついただろう。七郎はいくつになっても女に弱い。ましてや情事の邪魔をしたとあらば申し訳なさに切腹しかねない。
「七郎殿……」
「蘭丸、無事か? 帰るぞ」
「待ちや、誰じゃお主」
「お、御館様あ……」
 七郎の背後には弱々しげな黒夜叉が控えていた。
「衆道の念者が、そちらの色男を取り戻しに来たんでやすう……」
「なんと」
 女主人、黒夜叉の発言に驚いて蘭丸に振り返った。
「どういう事じゃ?」
 女主人は蘭丸がまさか衆道だとは思わなかった。
「……どういう事です?」
 蘭丸は七郎が衆道とは知らなかった。
「ど、どういう事だ!」
 七郎は黒夜叉に向かって叫んだ。衆道に間違われるなど存外である。
「違うんでやすか?」
「違う、俺は念者ではない!」
「七郎殿、その娘は?」
「はわあ、やっぱり色男でやすー!」
「ええと、こやつは黒夜叉といったな?」
「待てえい、貴様ー!」
 廊下には七郎に制された大男までもが現れた。
「まさか、あれで決着がついたなどと思っていないだろうな!」
 大男は手に鉈を握ったままであった。
「まさかな……」
 七郎の顔から感情も理性も消えていく。
 江戸に出没する無数の凶賊を相手するうちに、七郎は人間をやめてしまったのだ。
 鬼と会っては鬼となる――
 それもまた七郎の到達した境地の一つである。
「……お主ら全員出ていけー!」
 女主人の金切り声に、七郎も蘭丸も震え上がって硬直した。


 夕闇の下を七郎と蘭丸は小走りに駆けた。
 江戸に似た街並みも、これで見納めかもしれぬ。
 七郎は自身がやってきた小道を、蘭丸と共に駆けていた。
「なるほど、奴らは人喰らう者だが、魔性とは違うのだな」
「そうです」
 蘭丸は自身が知った事を、駆けながら七郎に話した。
 あの女主人は人喰らう者だが、人の内に潜む化物ではなく、むしろ敵対しているという。
 この異世界にも、あの化物が現れ始めたというのだ。人の内に巣食う化物は、外見では判断できぬ。
 化物どもは知らず知らずの内に数を増やしているという。一体どこからやってきたかもわからぬ、得体の知れぬ化物であった。
(あるいは、奴らの仲間か?)
 七郎は記憶の中の月光蝶を思い出す。背に蝶のような羽根を生やし、頭部に触覚を蠢かす美しい魔性。
 あの月光蝶の目的は江戸に災禍を広げる事であった。月光蝶に関わる者全てが狂い、人間をやめて凶行に走った。
 しかし、人の内に潜む化物の目的は何か。奴らは人間を食糧にしている異次元の生物であった。
 そして、あの女主人は子を産むのが運命だった。この世界では一部の女だけが子を産む事ができるという。
 ましてや、この世界では子が産まれなくなってきているらしい。江戸でそのような話は聞いた事がないが、あの化物が関係しているのではないか。
 何にせよ、女主人は新たな血を求めて、蘭丸と交わった。やがて時が来れば一度に四、五人の子を出産するという。
 それは蘭丸の子であるはずだが、当の蘭丸は不動の姿勢を崩さない。
「……お前、ねねにバレたら殺されるかもしれんぞ」
「は?」
「言うなよ、この世界で何があったか、ねねには言わん方がいいぞ」
 七郎はねねを思い出して背筋が震えた。同時に女主人の金切り声をも思い出した。修羅場をくぐり抜けた七郎ですらが、震えを感じる迫力があった。
 そして今は女主人の「出ていけ」という言葉を曲解、便乗し、七郎と蘭丸はどさくさに紛れて館を飛び出してきた。
「ここだ!」
 七郎は小路を見つけて叫び、飛びこんだ。蘭丸も後に続く。尚も小走りに駆け抜けた二人は、やがて小路から出た。
 そこは江戸の街であった。夕闇の中にカラスが飛んでいる。振り返れば、小路の先は行き止まりであった。七郎と蘭丸が訪れたあの異世界は幻だったのだろうか。
「不思議なものだ……」
 七郎は全身に汗をかいていた。あの世界は何だったのか。仏法に言う六道のいずれかか、それとも悪鬼の住まう世界であったのか。
 女主人を始めとした彼らに人を喰うなと諭しても、決して止める事はあるまい。人間が魚や鳥などの生き物を喰らう事をやめぬように。
「うわあ、ここは一体どこでやすか?」
 明るい女の声に、七郎と蘭丸は振り返った。そこには黒夜叉の無邪気な顔があった。
 褐色の肌に白い髪、はだけた着物から漂う退廃の雰囲気。
 しかし、今の彼女は妙に明るかった。あの世界で過ごしていた辛苦に満ちた日常から脱出したからか?
「お、お前は、いつの間に?」
「こっそり後をついてきたでやす! これも惚れた女の一念でやす!」
 黒夜叉は七郎に向かってにっこり微笑んだ。そして蘭丸へ笑顔を向ける。
 蘭丸は少々驚いたといった様子である。が、黒夜叉の女心には気づかない。
 また蘭丸が三池典太を抜く事がなかったのは幸いか。あの女主人は人喰らう存在だが、邪悪ではなかった。自身の宿命に従い、多くの子を産もうとする慈母であった。
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