兵法とは平和の法なり

MIROKU

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寛永編

道を知る

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    *

 七郎は外道医(外科医)に刀で斬られた傷を縫ってもらった。
 傷は浅いが膿んではいけない。数日は安静にとの事であった。
 ――命を拾った。世には名人達人が掃いて捨てるほど在る事を改めて思い知った。
 七郎は屋敷の庭で一人佇み瞑想する。夜の気に自身の魂が溶けこみ調和していくような感覚があった。
 ――俺は何者だ? 俺は一人の挑戦者だ。無駄は何一つない、無心に一手を放つのみ。
 先祖から血と共に受け継がれた戦う魂、先師から受け継いだ無刀取りの妙技。
 魂と技、どちらが欠けても今の七郎はない。
 江戸を守る仏法天道の守護者。
 それが今の七郎だ。命を懸けて奮戦するのは、彼には罪滅ぼしの償いのためでもあるからだ。
 そして七郎が守るべきものは確かにあった。
 ――あの茶屋のためだけにでも俺は死なねばならんな。
 七郎は瞑想したまま苦笑した。茶屋のおりんとおまつ、二人が七郎の怪我を心配していた事を思い出す。おりんの泣き顔は初めて見た。
 普段は七郎を雑に扱うおりんとおまつだが、それは愛情の裏返しだったのだ。
 夜の闇の中で、七郎の瞑想は続く。屋敷の主にして弟の又十郎が小言を告げに来るまで、七郎は天地宇宙との魂の調和を続けていた。
 戦いの先に何が待つのか?
 答えは天が出す。
 七郎は悔いを残さず戦うまでだ。


 翌日、武家屋敷の庭で働く政の姿がある。
 小柄で身軽な彼は高所の仕事を得意とし、屋敷の女中らには一目もニ目も置かれた。今、巷で評判の旅芸人一座の女軽業師とも大差ないであろう、と。
「そりゃまあ、子どもの頃からやってりゃな」
 と政は得意げだ。普段なら接する事のない、武士階級の女の前だ。少々得意になるのも愛嬌だろう。
 江戸城御庭番として政は幼少から忍びの修行をしていた。小柄な彼は手裏剣術に秀でており、五間の距離からならば、風魔を率いる國松とて勝てるかわからない。
 いわば江戸城御庭番の切り札だ。もう一人の切り札は大柄で怪力無双の源だ。源は武家屋敷に近い地にうどん屋を設けて、ひそかに大名の動静を観察している。
 源と政は江戸城御庭番の飛車角のようなものだ。七郎も二人に勝るとも劣らぬ兵法の遣い手ではあるが、得意とする技が違う。質が違う。単純な比較はできないが、源も政も並々ならぬ腕前である。
 さて、一仕事終えた政は女中から茶を出されて、縁側で休憩していた。昼時であり、帰りに源のうどん屋で腹を満たそうと考えていた。
「これ」
 その時、縁側に現れたのは妖艶な年増女であった。女中らの首魁とでも形容すべき年増女だが、政は胸が高鳴るのを抑えられない。
 それほどに凄絶な美、そして匂うような色香であった。
「へ、へい。何でやすか」
「庭に池も造りたい、鯉を放し、小舟も漕げるような…… 見積もってくれ」
 女の言葉を政は夢見心地で聞いていた。女の色香にやられたらしい。男は悲しい生き物だ。


 夜、政は源のうどん屋にいた。店内は行灯の明かりで照らされている。すでに店じまいだ。
「それでなあ、奥方様が美人でよう」
「ほう、そりゃいいこった」
「庭に池を造ってほしいって事だが、こりゃ大仕事だぜ」
「おい政、いい顔してるじゃねえか」
「当たり前よ、大仕事が待ってんだ、これで燃えなきゃ男じゃねえ」
「何言ってやがる、こっちは毎日が大仕事だ」
「……なんだかよう、俺たちも若に似てきたな」
 源と政は店の残り物で楽しく酒を飲んだ。
 二人共に江戸城御庭番だ。しばらく前は、源はうどんの屋台を引いて江戸市中を見回り、政は浪人に仕事を斡旋する商人に扮していた。
 今は江戸に集まった全国各地の大名を見張る役に就いている。幕閣では気力のない浪人よりも、江戸に参勤交代でやってきた大名の動静に目を光らせていた。
 なにぶん前例のない事だ。何が起きるかわからない。だが江戸に大名を集める事によって、全国に派遣されていた隠密の数は激減した。大名が江戸に集まった事により、その動静を探るのが容易になったからだ。
 七郎も元は全国を巡る公儀隠密だったが、参勤交代が始まると共に、江戸に呼び戻されている。
「あとは嫁さんだなー」
「空から女の子でも降ってこねえかなー」
 酒に酔った源と政の馬鹿話は続く。


 更にしばらくして、江戸は深夜となった。
 深い闇が江戸全体を覆っている。星明かりだけでは歩くのも難しい武家屋敷の並ぶ通りを、静かに進むのは黒装束の男であった。
 ――夜は好きだ、昼間とは違う自分になれる……
 腰に大小二本の刀を差しながら音も立てずに進むのは、いつぞやの夜に魔性と遭遇した般若面である。
 ――昼間の俺はまるで、風に吹かれる塵芥のようだ……
 般若面は面の奥で考える。
 江戸の夜に現れる兵法の達人と噂される般若面も、その内面には耐え難き飢えと渇きに似た鬱憤を抱えていた。
 並の人間ならば鬱憤を晴らすために何かするところを、この般若面は自分の使命に殉ずる事で、心の曇りを晴らしていた。
 兵法においては、いつでも死ねるという思いあればこそ般若面は満たされる。
 あとは酒と煙草、そして女がいれば般若面は充分だ。
 ――いや、まだまだだな。
 般若面は足を止めて面の奥で苦笑する。彼にはまだやる事がある。
 父と先師から受け継いだ技、その体現。
 この一事のみを以てしても、数十年で成し遂げる事ができるかどうか。
 兵法とは平和の法なり。
 強ければ良いわけではない。
 人より優れれば良いわけではない。
 般若面が守るのは江戸の人々の平和だ。
 守る事ができなければ、たとえ天下無双に成り得ても、偽善に等しいと般若面は考えている。
 敵は、この世の悪意全てだ。
 新たな敵は、人の悪意より生じた魔性だ。
 魔性を討てず、また討たずして、兵法とは平和の法なりなどと論じる事はできぬ。
 皮肉にも彼の思いは、江戸を守って死んだ時にこそ満たされる。
 生き延びている限り般若面が真の満足を得る事はない。
「……む」
 般若面は足を止めた。夜風が冷えてきたような気がしたのだ。
 闇の中で般若面は気を研ぎ澄ます。面の奥で隻眼は半眼に閉じられて、彼の精神は天地宇宙との調和を果たしていた。
 そして――
 般若面は視線の先に目指すべき敵の姿を発見した。
 武家屋敷の屋根の上に立つ妖艶な人影。
 それは一糸まとわぬ白い裸体を惜しげもなくさらし、背には透き通る透明な羽根を、頭部には蠢く触角を備えた人ならざる者である。
「月光蝶……」
 七郎は咄嗟に魔性の女を、そう呼んだ。
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