1 / 8
寛永編
新たな江戸
しおりを挟む
武の深奥を追い求めるのは、地の果てを目指すに似たり――
島原の乱を経て数年、江戸も変わった。
参勤交代の制が始まり、全国各地の大名が江戸に住み始めた。
町民と武士階級の数は半々だが、およそ七割の土地に大名や武士達が住んでいる。
武家屋敷の改修や増築のため、浪人が労働力として雇われ、江戸では犯罪件数が減ってきた。
これは全国でも同じであった。江戸を目指す大名が道中で休むために、宿場町があちこちに設けられた。それによって全国にあふれた浪人が職を得て、山賊や追い剥ぎの類は減った。
(これも知恵伊豆様の神算鬼謀、及ばぬな)
七郎は馴染みの茶屋の店先で、床几に腰かけて青空を見上げていた。
江戸城御庭番と共に江戸城周辺にて凶賊らと斬り結び、人々の平和に貢献してきた七郎。
彼は今後は武家屋敷の見回りに就く。大名の住まう武家屋敷周辺では、強盗事件が数度起きている。
大名側も強盗に襲撃されて家士を斬殺されたり、金品を強奪されてもお上に報告もできぬ。士道不覚悟とばかりに改易を命じられるかもしれないからだ。
そんな大名達を守護するために、七郎は慣れ親しんだ江戸城周辺から離れる事になった。
「また来なさいよ」
茶屋の老婆おまつが茶のお代りを運んできた。
「……ふん」
看板娘おりんは面白くなさげに、そっぽを向いた。彼女は七郎と共に何度か出かけている仲だ。
男女の仲は進展しなかったが、思いは繫がっているかもしれぬ。
「ごちそうになった、また来るぞ」
右目の潰れた隻眼の七郎、茶を飲んで立ち上がった。新たな日々が始まる。
武家屋敷の見回りに七郎は重点を置く。それは張孔堂に足を運ぶ大名や武士が多いからだ。
「疑わしきは斬れ」
松平信綱は七郎に言った。通称、知恵伊豆だ。彼の神算鬼謀によって全国にあふれた浪人の一部は、宿場町の住人になったり、江戸で建築の職に就いたりして救済された。
江戸で働く浪人の中には、大工を目指す者も現れた。働く事に生き甲斐を見つけて、日々輝く汗を流す浪人を、七郎は微笑ましく思う。
だが、働く事を嫌う浪人は多かった。祖父や父の代に命懸けの槍働きによって得た武士の身分、それを生まれついて授かったものと誤認している者は労働を嫌った。
働かずとも食える、働くくらいならば人から盗む。極端ながら、そのような考えを持つ浪人は多かった。
だから江戸から犯罪は消える事はない。著名な火付盗賊改方の原型が出来上がるまで、まだ数十年の時を要さなければならない。
(まさか正雪が?)
七郎もまた正雪の張孔堂に通う門人だ。由井正雪は巷の噂通り、文武に優れた人物だった。人徳もあるがゆえに、江戸に知られた槍の名人、丸橋忠弥が進んで弟子となっている。
松平信綱は、その正雪を疑っていた。張孔堂に通う武士も多い。江戸に参勤交代に来た大名の中にも張孔堂に通う者が現れた。
正雪を師とし、大名、武士、町民が机を同じくして学ぶ。
七郎はそこにある種の理想を見る。人に貴賤なく、目上への敬意、目下への優しさを人心の基本とする。
それが天下泰平の、そして平和の姿というものではないか。
かの天真正伝香取神道流の飯坂長威斎、その門下に刃傷沙汰はほとんどないという。
武神、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の教えとはそのようなものではないか。
いわく、兵法とは平和の法なり。
武を以て、人々を平和に導く。
その技法の難解さ、奥深さから人は謙虚を学び、感謝を知り、尊敬を抱く。
七郎の説く理想とは雲をつかむような話であり、幕閣でも白眼視されているが、これだけは言える。
悪鬼である修羅も、時に仏敵を降伏する故に仏法の守護者なのだ。
七郎もまた人々の平和のために命を懸けて戦うからこそ、江戸の守護者なのだ。
そんな七郎は武家屋敷周辺を見て回った。当たり前だが町民の姿はほとんどない。浪人の姿もない。広い武家屋敷を囲う塀ばかりが目に入る。
(なんとも静かだな……)
武家屋敷の並ぶ閑静な住宅街に七郎は不穏な気配を抱いた。こういうところにこそ魔性が現れるのだ。
七郎は知っている。この世には人知を越えた魔性が存在する事を。七郎は島原の乱の際に魔性と出会っていた。
魔性は人の心から生まれる。人の心中に生じた悪意、即ち魔が超自然的な力に導かれて具現化するのだ。
島原では人々の悲しみから魔性が生じた。この静観な武士の居住区からは何が生まれるかわからない。
日も暮れかけた頃、七郎は腹が空くのを覚えた。辺りを見回すが、この近辺に酒場の類は見当たらない。
「お、うどん屋か」
七郎は日も暮れかけた中にうどんの屋台を見つけた。彼の仲間の源という男も、江戸市中でうどんの屋台を引いている。
「すまん、うどんを一杯」
七郎は屋台に近づき、床几に腰かけた。屋台のうどんは七郎に馴染み深いものだ。
「へい」
店主らしき男は火を起こして湯を沸かしながら、七郎には振り返らずに答えた。
「こんなところで屋台を出して客は来るのか」
七郎は探りを入れてみる。武家屋敷の並ぶ通りにうどんの屋台とは。武士階級の者が気楽にうどんを食いに来るのだろうか。
「へい、来まさあ」
店主はやはり振り返らなかった。
「お侍さん方がですねえ、小腹が空いたと言って、うどんを買いに来てくれまさあ」
「なるほど」
七郎、思わず苦笑した。気持ちはわかるのだ。
「お客さんは何を?」
「まあ、俺はごろつきに思われるだろうが…… まあ、似たようなものかな」
七郎は答えて、店主の態度を訝しむ。店主は背を見せたまま、湯を沸かす作業に従事している。それはいいが、なぜ一度も七郎に振り返らないのか。
そして七郎は気づく。すでに日は暮れかけて黄昏時だ。昼と夜の重なる時間帯であり、この黄昏時に出会う者全てが人間とは限らぬ。
「このあたりは化物でも出そうだな」
背中をヒヤリとさせて七郎はつぶやいた。何やら得体の知れぬ不安があった。不安は店主を始点としていた。
「化物ですかい」
店主は七郎に振り返った。七郎は思わず床几から腰を浮かせた。
店主の顔には目も鼻も口もない、平べったい肉の面であったからだ。
「それはこういう顔をしたやつですかい」
店主は立ち上がり、七郎に近づいてきた。七郎はすでに床几から立ち上がって、この肉面の不気味な店主から二、三歩距離を空けている。頭の中は真っ白だ。
「化物だなんて、ひどいじゃないですかい」
肉面の店主と七郎の間合いは迫った。七郎の心臓が激しく高鳴っているが、自分でそれには気づかない。
七郎は蛇ににらまれた蛙の如しだ。同時に父の又右衛門の言葉が思い返された。戦場に正々堂々はない、不意を衝かれて殺されても文句は言えぬ。
今の七郎が正にそれだ。唐突に肉面の店主を目の当たりにして意気を削がれた。頭は真っ白で何をしていいのかわからない。
しかし七郎は兵法を学び続けてきた。
隻眼ゆえに剣は上達しなかったが組討の術は練磨した。
魂に刻まれた組討の術、それが七郎を動かした。
「おお」
声は肉面の店主が発していた。彼は七郎に組みつかれた次の瞬間、体を反転させて背中から大地に落ちていた。
七郎が店主にしかけたのは後世の柔道における体落という技だ。七郎は一瞬の間に肉面の店主を大地に投げつけていた。
何が起きたかわからぬ店主が、うめきながら起き上がろうとする。七郎は間合いを離して、後腰に帯に差していた小太刀を抜いた。
この時代、幕府は町民に小太刀の所持を許可していた。これは自衛せよ、という意味だった。僅かな同心らに数十万人の江戸市民を守る事など不可能だからだ。
「ぬん」
七郎は両手で小太刀を拝み打ちにした。打ちこんだ刃が肉面の店主の顔を、真一文字に斬り裂いたかに見えた。
だが七郎はそこで我に返った。
「……これは?」
七郎は黄昏の光の中に、ただ一人立ち尽くしていた。うどんの屋台もないし、七郎は小太刀を抜いてもいなかった。
七郎の全身が冷や汗に濡れた。肉面の店主は夢か現か。七郎が見た幻であったのか。
得体の知れぬ恐怖に駆られて、七郎は足早に武家屋敷の並ぶ通りから去った。
魔性の恐ろしさを思い知らされたのだ。
**
七郎は父の又右衛門から魔性の話を聞かされた事がある。かつて御神君家康公が駿府にいた頃、ぬっぺらほふなる魔性が現れたというのだ。
それは自分が遭遇した肉面の者と同じだと七郎は直感した。人の世界と魔性の世界は昼と夜を境にして繫がっているのだ。
(奴らが俺の戦う敵か)
七郎の心身は震えた。これは恐怖ではなく武者震いであった。得体の知れぬ魔性を相手に、七郎の闘志は燃え上がるのだ。
(俺の最期を飾るに相応しい相手だ)
七郎は肉面の者と遭遇した時を思い出す。苦い敗北の味だ。
だが二度の敗北はない。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。そう心に決めて七郎は前へ進もうとする。
(兵法とは平和の法なり……)
心中につぶやきながら七郎は町中を行く。途中、道行く婦人二人にすれ違った。
「むむ」
七郎、思わず振り返った。美人だったからだ。英雄、色を好む。七郎もまた英雄かどうかは不明だが、女の色気に弱い。
「危うし危うし…… 天理天命、我にあり」
苦笑して七郎は歩き始めた。女の色気は七郎には命取りだ。ましてや、それが女の魔性であるならば。
**
武家屋敷の並ぶ一角、その外れに源のうどん屋がある。
「客は来るのか」
「来ますぜ、これが」
七郎の問いに源は答えた。源は江戸市内を回ってうどん屋の屋台を引いていたが、参勤交代が始まってすぐの頃に店を出した。
というより幕閣で店を用意したのだ。武家屋敷に住まう大名と、家臣ら武士達を監視するために。
「それで?」
「自由に外出できないんで不満が溜まってるようです。奥方を置いてきた者も多く、女遊びも盛んなようで」
「女遊びか……」
「まあまあ、若。呆れる気持ちもわかりますが、お侍さんもイライラしてるみたいですぜ」
「わからなくもないがね」
七郎は苦笑した。参勤交代で多くの大名が江戸に住むようになった。江戸には大小様々な大名が集まっている。
いわば江戸は全国の縮小図である。江戸で名が売れる事は全国に名声を轟かせる事でもある。
だからこそ大名達は上屋敷の建築には気を遣った。門構えには大名の格式が現れている。数十万石の大大名が貧相な門構えになど、決してできぬのだ。
「そう簡単に名が売れるものかね、正雪や丸橋でもあるまいし」
七郎は由井正雪の張孔堂に通っている。三十を過ぎて門下生だ。七郎が見る限りでは、正雪は文武に優れた人物だ。人徳もあり、槍の達人として知られる丸橋忠弥は、臣下のごとく接している。
そして両人ともに只者ではなかった。側で見ている七郎には、それがわかる。
「生涯は学びの園だな、うむ」
「……あのですな若。世の中は若みたいな自由人ばかりじゃないんですぜ」
「何が自由人なものか」
七郎は源の発言にムスッとした。彼は自分をそのように思った事はない。
幼い頃の兵法修行で右目を失った。視力に不安のある七郎は将軍家剣術指南役の嫡男でありながら、剣に秀でなかった。
それを恥じている七郎は弟に家督を譲り、自身は十年以上も幕府隠密として全国を行脚していた。
将軍家剣術指南役という大任から降ろされた七郎は、自身を恥ずべき者として認識しているが、日々を気楽に生きられる。
「だからこそ自由人じゃありやせんか。あっしはそれがうらやましいですぜ」
「……まあ、そうかもしれんな」
七郎は幕府では御書院番の役に就いている。これは将軍家光の身辺警護を担う、いわば親衛隊だ。
それでいて七郎は御庭番衆の源と共に大名の監視をしている。
誰もが様々なしがらみに縛られる中で、七郎は縛られる事なく生きている。
生と死は隣り合わせであるが、だからこそか七郎は魂の輝きを失わずに済んでいる……
「しかしだ。何のために生きる? 何のために死す? 自由人には進むべき道がない。朝に道を聞かば夕べに死すも可なりというではないか」
あるいは七郎は生きる答えを求めているのかもしれぬ。他者の願いを聞き入れてでの行動ではなく、自身の魂が死を賭して欲する答えを。
縛られる者は縛られる故に道を得ているのではないか。七郎の父又右衛門は兵法家として将軍家剣術指南役という大任を背負う道を進んでいる。それこそ七郎は羨望の眼差しで見つめている。
「まあ、いいじゃねえですか。難しい話は禅師の説法にお任せしやしょう」
源は酒と肴の準備を始めた。水で薄めた酒に残り物の天ぷらや竹輪など。誰も客のいない店内に明かりを灯して飲み食いする。それがたまらなく美味かった。
「ところで店員は」
七郎は気難しげに問う。源は客寄せのために十代後半の娘を数人店員に雇っていた。女日照りの男が多い江戸では、看板娘目当てにやってくる客は少なくない。
「みんな亭主持ちですぜ」
「……うむ」
七郎は厳粛な顔で酒を飲んだ。下心は霧散した。
夜半、七郎は目を覚ました。暗い店内には机に突っ伏した源のイビキが響いている。酒を飲みつつ、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
「うむ……」
七郎は寝ぼけながら店の外に出た。尿意を覚えたからだ。
だが店の外に出て夜空を見上げれば、真円を描く満月の輝きに七郎は息を呑んだ。夜は人を魅了する。月明かりの下には、昼にはない世界が広がっているからだ。
「なんだこれは……」
七郎の左の隻眼が見開かれた。彼は夜空に驚くべきものを見たのだ。
満月が浮かぶ夜空には、巨大な蜘蛛の巣が広がっていた。
一瞬、七郎は夢を見ているのかと思った。だが違っていた。身に走る不安と緊張はただごとではない。
ましてや巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く不気味な人影は何だ。
「な、何者だ……」
七郎は心身の震えをこらえてつぶやいた。それは人影への問いではなかった。自分自身への、正気を取り戻すための呼びかけであった。
「……む」
蜘蛛の巣を這う不気味な人影に七郎の声が届いたか。人影は動きを止め、蜘蛛の巣の上に静止した。
月明かりだけを頼りによくよく見れば、人影は丸みを帯びた体つきだ。艶めかしい女のようだ。
しかし人影の背からは八本に及ぶ長い脚が生えている。それは蜘蛛の脚だ。巨大な蜘蛛の巣の表面を這うのは、背から巨大な脚を生やした蜘蛛女ではないか。
月下に七郎と蜘蛛女の視線は激突した。ぶつかりあい、絡み合い、それでも尚激しく燃え上がるような視線の激突だった。
七郎が感じたのは、得体の知れぬものへ恐怖と、それに挑まんとする闘志だ。七郎はこの時、死を覚悟した。
対して蜘蛛女の心境はどうであったか。彼女は一糸まとわぬ裸身で蜘蛛の巣の上に蠢いていた。ひょっとしたら深夜の散策であったのかもしれない。
が、そこで男と出会うとは意外すぎる展開であったろう。ましてや七郎は人を殺めた事がある。生死の修羅場を経ている。
だからこそ将軍家光が一目も二目も置いて、彼に御書院番の地位を与えたままにしているのだ。七郎は肩書は御書院番だが、その務めを一日とて果たした事はないのだ。泰平の世に不似合いな七郎と出会って胸を高鳴らせる女も、いなくはなかった。
ひゅう、と夜風が吹いた。それは肌を刺すような冷気を帯びて、僅かに血臭を含んだ風であった。
七郎が眉をしかめた瞬間、夜空にかかる巨大な蜘蛛の巣と、その表面に蠢いていた蜘蛛女は消えていた。
七郎は小刻みに震える拳を固く握りしめる。夢ではない。彼は確かに人知を越えた存在と遭遇したのだ。
翌日、七郎は馴染みの茶屋を訪れた。
江戸城にほど近い茶屋へ以前は頻繁に通っていた。だが武家屋敷の見廻りの任に就いた今の七郎には遠い。
「あら、いらっしゃい」
茶屋の看板娘おりんは仏頂面で七郎を出迎えた。普段は愛想よく可愛らしい娘が、七郎の前でだけは一人の女でいられるらしい。
「いつもの」
七郎は床几に腰かけた。
「はいはい」
おりんは面倒だと言わんばかりに店の奥へ引っこんだ。今は茶屋に他の客はいなかった。
「あらあらお久しぶりねえ」
茶屋の主人のおまつも姿を見せた。
「婆さん、元気だったかね」
「まあね。あんたは生きていたんだねえ」
「ああ、まだ生きている」
七郎は青空を見上げた。おまつは七郎の正体を知らぬはずだが、なんとなく察しているのではないか。女は男の知らぬ神通力を持っている。
(俺はどうすればいいのか)
七郎は青空を見上げ、更にその先を見つめんと左の隻眼を凝らした。
果たして七郎の立ち位置は正しいのか。
将軍家剣術指南役の嫡男。
三代将軍の御書院番。
江戸城御庭番衆。
果たして何処が七郎の立ち位置なのか。今ここに来て七郎は迷う。いや、迷っているのではなく怯んでいるのかもしれない。
(勝てるのか奴らに)
七郎の脳裏に浮かぶ奇怪なる者。目も鼻も口もない肉面の者、夜空に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く蜘蛛女。
彼らは果たして現実だったろうか。七郎の頭は幻だったのかと疑うが、彼の肉体と魂は恐怖を覚えている。
それゆえに七郎は恐れ迷うのだ。はっきりとしないモヤモヤした感覚が七郎を苛立たせる。妖怪変化とは人の心に混乱を引き起こすものかもしれない。
「もうちょっと待ってなさい」
おまつの声に七郎は我に返る。おりんは店の奥で団子を焼いていた。焼き立て、出来立ての団子を七郎に食べさせようとする女心の現れだ。
「人間はね、できる事しかできないの」
おまつの言葉がまるで天の声であるかのように、七郎の魂に染みこんだ。
「そりゃそうだ」
七郎は苦笑した。当たり前の事を彼は見落としていた。男には子どもが産めぬ。産めるのは女である。当たり前だが、当たり前を見失っていたところに七郎の迷いがあったのだ。
(俺は俺だ)
七郎はただの七郎でありたいと常々思っていた。剣術指南役の嫡男でなければ御書院番でもない。ましてや江戸城御庭番衆の忍びでもない。七郎は七郎であり、彼にできる事あるならばそれは、
(江戸の未来の捨て石となろう)
七郎は死ぬ覚悟であった。江戸の未来を守る、そのために死ぬのが七郎の仕事であった。誰に強制されるのでもない、何かに無理強いされるのでもない。
七郎の魂が望むのは、江戸の未来を守る事――
いや、更に掘り進めるならば小さな子どもの未来を守るためであろうか。そのために死ぬのは七郎には恐くないのだ。
「おまちどうさま!」
おりんが盆に団子を並べた皿と湯飲み茶碗を乗せて運んできた。額に汗が光っている。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや何、かまわんさ」
「そりゃそうさ、おりんの団子ならねえ」
おまつは楽しげに笑った。七郎は畏まって団子を頬張り、おりんは傍らでその様子を見つめている。
「うむ、美味い! 江戸一番だ!」
「な、何言ってるのバカ」
「ふふふ、今日もお江戸は日本晴れだね」
おまつは微笑して江戸の空を見上げた。どこまでも青い空に白い雲がたなびいている。
七郎は江戸城の敷地内にある道場で組討術の稽古に励む。共に汗を流すのは江戸城御庭番衆の忍び達だ。七郎は彼らと共に江戸を、人々を守ってきたという誇りと自負がある。
稽古着で組合い、体勢を崩して床へ投げつける。
七郎は隻眼ゆえに剣に秀でなかったが、その代わりに組討術には秀でるようになった。
先師、祖父、父又右衛門から七郎へ受け継がれた組討術は無刀取りと称される。
「精が出るな七郎。ならば余が相手をしてやろう」
七郎の前に立ったのは國松という人物だった。國松は江戸城にほど近い染め物屋、風磨の大旦那である。
七郎と同じく髷を結わぬ総髪、その眼光の鋭さは只者ではない。幕閣の一部では密かに戦国の魔王信長に似ると囁かれている。
染め物屋の風磨は、実は風魔忍者の末裔達である。國松はいざとなれば風魔忍者を率いて実戦に参加する。
「いざ!」
稽古着の七郎、素早く國松へ踏みこんだ。
「甘い」
國松がつぶやいた時には、彼の右足が踏みこんできた七郎の出足を払っていた。出足を払われた七郎は道場の床に横倒しになった。
刹那の間に閃いた國松の技は、後世の柔道における出足払いだ。洗練された國松の技に七郎はあ然として声も出ない。
「頭を冷やせ」
「は、ははっ」
國松の言葉に、七郎は床に大の字になったまま応えた。身を起こそうにも起こせなかった。國松の技に心身共に感服したのだ。
さて、夜に姿を見せる蜘蛛女の事は、周辺の武家屋敷に住む者達の間で噂になっていた。
夜な夜な夜空に浮かぶ不気味にして巨大な蜘蛛の巣、更にその表面に人間大の蜘蛛が這っているとはただ事ではない。
「討取れ」
とある小藩の藩主は、藩の剣術指南役に命を下した。江戸には大小様々な大名が集まっている。ここで武勇を立てるのは藩の名誉だ。
また島原の乱以降、もはや日本に戦乱はなかった。武勇を立てれば、あるいはそれが幕府に認められ、恩賞に預かれるかもしれない。
この時代、金山銀山あれば幕府に申し出なければならない決まりであった。自藩に金山銀山の所持を認められれば、藩内が潤う。そんな考え方もある。
「ははっ、必ずや」
剣術指南役は自分の弟子を引き連れ、夜の町へと出た。
「さて何処ヘ行くか」
剣術指南役は頭巾で顔を隠していた。弟子の従者も頭巾で顔を隠して提灯を手にしていた。
「やはり吉原では」
「うむ、やはりそうだ」
従者と剣術指南役は頭巾の奥でニヤリとした。彼らは藩主の魔物討伐令のついでに吉原で女遊びをする腹積もりであった。いや、女遊びのついでの魔物討伐かもしれぬ。
「楽しみだのう」
「全くで。なにせ江戸勤めなんか何の楽しみもありませぬ」
剣術指南役と従者は夜道を行く。いささか片腹痛いが、彼らの気持ちもわからなくはない。江戸勤めでは武家屋敷で堅苦しい共同生活、役職の高い者ならばともかく、役職の低い者は国元に妻子を置いてくるのが普通であった。
ましてや戦の終わった時代、武士は世に不要と見られ始めていた。女達も威張り散らす武士よりは肩肘張らずにつきあえる、遊び上手な町民の男を好んだ。
だからこそ吉原のような場所がある。世の中はうまくできている。
「……こ、これは」
「まさか……」
吉原を目指していた剣術指南役と従者は足を止めた。
夜空に巨大な蜘蛛の巣が浮かんでいたからだ。
そして二人は見た。巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く黒い影を。背に八本の脚を生やした蜘蛛女を。
蜘蛛女は頭上の夜空から、二人の様子を伺っている。
「師匠!」
弟子の順三郎は師である剣術指南役に振り返った。が、その時には剣術指南役は走り去っていた。
順三郎は夜の中に消えていった剣術指南役の後ろ姿をただ呆然と見送った。剣においては藩士を指導する者であったが、実戦経験はなかった。また命を懸けて戦う勇気も持ち合わせてはいなかった。
順三郎は自身の信じていたものが、根底から崩れていくのを感じた。
師事した剣術指南役は明日からも普通に生活しているのだろうか。
魔性など噴飯物の噂話程度にとらえ、順三郎も吉原に出向くのを楽しみにしていたのは事実だ。
だが、まさか魔性を前にして師が早々と逃げ出すとは思わなかった。
何のための剣、何のための士道?
自分の魂の底まで震えるような衝撃に、順三郎の顔から血の気が引いた。
それでも順三郎は刀を抜いていた。その意地は大したものだ。
「おやおや、あんた刀が震えているよ。大丈夫かい」
蜘蛛女は、蜘蛛の巣の表面を下方へ移動していた。その蜘蛛女は順三郎の刀の先端が震えている事に気づいたようだ。
「う、う、うるさい!」
順三郎は必死に言葉を紡いだ。まだ若い順三郎は受けた衝撃から立ち直ってはいなかったが、本能的に自分の命を守るために死力を尽くしているのだ。
「食ってやるよ、頭からバリバリってね」
蜘蛛女の挑発、あるいは脅迫に順三郎は足までもがブルブル震えていた。もはや逃げる事もできない。刀を正眼に構えるのが、せめてもの抵抗だ。
「――やめておけ」
順三郎の背後の闇から野太い男の声がした。順三郎の硬直は解け、彼は背後に振り返った。蜘蛛女も突然現れた者に視線を向けた。
「ぎゃ、は、般若!」
順三郎は叫んだ。背後の闇に潜んでいたのは、黒塗りの般若面をかぶった黒装束の男だった。
「……ふふ、まあそうだな」
般若面の男は面の奥で笑った。
江戸の夜に般若面あり。
そんな噂が流れるようになったのは島原の乱を経た頃からだ。
江戸では浪人による押し込み強盗が多発していた。金を奪われるだけならまだしも、女子どもまで殺害する強盗殺人もあった。
そんな凶賊と斬り結ぶ謎の黒装束集団がいた。彼らによって命を救われた者は大勢いた。
その黒装束集団の中には、般若の面をつけた者がいた。腰に大小二刀を帯びていたが、無手にて刀を振り回す浪人を制していたという。
その鮮烈な印象ゆえに、密かに人々の噂になっていたのだ。
「また会ったな」
般若面は蜘蛛女へ気さくに声をかけた。
「心にもない事を言うな」
般若面は蜘蛛女に向かって言葉を紡いだ。
「そんな女ではあるまい」
見上げる般若面と動きを止めた蜘蛛女。二人の視線が交わる。そんな二人を順三郎は疑わしく見つめていた。
「き、貴様ら仲間か!」
「うむ?」
順三郎の発言に般若面も蜘蛛女も戸惑いを見せた。
「何を言って……」
「なんでこんな男と……」
般若面と蜘蛛女は戸惑いを隠せない。般若面はともかく、蜘蛛女にいたっては指摘されたように悪い性格ではないかもしれない。
「黙れ黙れ黙れー!」
順三郎は刀を抜いた。刃に月光が反射して淡く輝く。今の順三郎は恐慌状態であった。極度に興奮していた。自分が信じていた士道というものが幻想に過ぎなかった事に混乱し、狂いそうになっていたのだ。もはや理屈は通じなかった。
「死ねえー!」
順三郎は刀を振り上げ般若面に斬りこんだ。迷いない一刀だ。
般若面はその刃を避けた。そして半円を描くように順三郎の右手側に回りこんだ。
般若面の左手が拳となって、順三郎の鼻を軽く打つ。
「お、おお……」
順三郎は鼻を打たれた衝撃に二、三歩後退した。
「もうやめとけ」
般若面は面の奥から寂しげな声を出す。彼は正気を失った人間を何人も見てきた。そして般若面もまた正気を失った事がある。人生に何の展開も見えなくなった悲しさを般若面は知っている。
「……うおおおー!」
順三郎は再度、踏みこんで一刀を打ちこんだ。最高の心技体だ。順三郎が学び覚えた剣術の集大成であった。
だが般若面は順三郎より僅かに早く踏みこんでいた。右肩から順三郎の胸元へぶち当たる。
うめく順三郎に般若面は組みつき、彼の両腕に抱きつく。順三郎の両腕を捉えながら体を独楽のように回し、彼を背負って投げる。
順三郎は背中から大地へ投げつけられていた。
「おご……」
順三郎は地面でうめき、泡を吹いて失神した。刹那の間に閃いたのは、後世の柔道における一本背負投だ。
無手にて、刀を持った対手を制する――
それを無刀取りという。
「寝てろ」
般若面は地面に大の字で気絶している順三郎に向かって言った。
「なかなかの一刀だ、俺は負けても悔いがなかったな…… さて、お前さんは」
次いで般若面は蜘蛛女の姿を見上げた。背からは蜘蛛に似た長大な脚を八本生やしているが、その丸みを帯びた艶めかしい肢体に般若面は胸を高鳴らせた。やはり女は苦手だ。いや女の色気が苦手なのだ。
「どうするね? できれば日の光の下で会いたいもんだが」
般若面の声は落ち着いている。冷静だ。今しがた生死の境を越えたばかりだというのに。
彼はこのような荒事に慣れているのだ。死の覚悟を数え切れぬほど繰り返してきた。
そして生死の境で全身全霊を振り絞ってきた。
般若面にとって人生とは、最高の一瞬の中に在った。
幾度もの死の覚悟、全身全霊の一手。
それに満足してきた般若面は、いつ死んでも後悔はない。
最高の一手、そしてまた新たな最高の一手を追い求めていく……
般若面は永遠の挑戦を繰り返しているのだ。
「何を言ってんだい、全く男は馬鹿ばっかりだよ」
呆れた様子で蜘蛛女は蜘蛛の巣の表面を移動した。偶然なのか、蜘蛛女は般若面に背を見せている。
ツンと澄ました蜘蛛女の仕草が般若面には心地よい。
「あたしはね、夜の散策を誰にも邪魔されたくないだけさ」
「ほう、なるほど。気持ちはわかるぞ」
「そりゃあそうさ、一人の方が気楽だね……」
そう言った蜘蛛女と、夜空に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣は同時に消失した。
後に残された般若面は半ば呆然と夜空を見上げていた。が、面の奥で彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「ふふっ、面白い…… もう少し生きてみるか…… しからば御免」
般若面は夜道を駆け出した。彼の胸には明日への闘志が燃えていた。
蜘蛛女は人間を遊びで殺すような存在ではなかった。彼の予想通り、蜘蛛女は夜の散策を楽しんでいるだけなのだ。事実、彼女の目撃情報はあれど人が殺された事実はない。
般若面にはそれで充分だ。つまらぬ世の中に、何か光明が見えたような気がした。
そして般若面とは対照的に順三郎は絶望の底を見た。彼が信じていたものは幻想に過ぎなかった。
その順三郎はしばらく地面で気を失っていた。
目覚めた時、彼の本当の人生が始まった。
島原の乱を経て数年、江戸も変わった。
参勤交代の制が始まり、全国各地の大名が江戸に住み始めた。
町民と武士階級の数は半々だが、およそ七割の土地に大名や武士達が住んでいる。
武家屋敷の改修や増築のため、浪人が労働力として雇われ、江戸では犯罪件数が減ってきた。
これは全国でも同じであった。江戸を目指す大名が道中で休むために、宿場町があちこちに設けられた。それによって全国にあふれた浪人が職を得て、山賊や追い剥ぎの類は減った。
(これも知恵伊豆様の神算鬼謀、及ばぬな)
七郎は馴染みの茶屋の店先で、床几に腰かけて青空を見上げていた。
江戸城御庭番と共に江戸城周辺にて凶賊らと斬り結び、人々の平和に貢献してきた七郎。
彼は今後は武家屋敷の見回りに就く。大名の住まう武家屋敷周辺では、強盗事件が数度起きている。
大名側も強盗に襲撃されて家士を斬殺されたり、金品を強奪されてもお上に報告もできぬ。士道不覚悟とばかりに改易を命じられるかもしれないからだ。
そんな大名達を守護するために、七郎は慣れ親しんだ江戸城周辺から離れる事になった。
「また来なさいよ」
茶屋の老婆おまつが茶のお代りを運んできた。
「……ふん」
看板娘おりんは面白くなさげに、そっぽを向いた。彼女は七郎と共に何度か出かけている仲だ。
男女の仲は進展しなかったが、思いは繫がっているかもしれぬ。
「ごちそうになった、また来るぞ」
右目の潰れた隻眼の七郎、茶を飲んで立ち上がった。新たな日々が始まる。
武家屋敷の見回りに七郎は重点を置く。それは張孔堂に足を運ぶ大名や武士が多いからだ。
「疑わしきは斬れ」
松平信綱は七郎に言った。通称、知恵伊豆だ。彼の神算鬼謀によって全国にあふれた浪人の一部は、宿場町の住人になったり、江戸で建築の職に就いたりして救済された。
江戸で働く浪人の中には、大工を目指す者も現れた。働く事に生き甲斐を見つけて、日々輝く汗を流す浪人を、七郎は微笑ましく思う。
だが、働く事を嫌う浪人は多かった。祖父や父の代に命懸けの槍働きによって得た武士の身分、それを生まれついて授かったものと誤認している者は労働を嫌った。
働かずとも食える、働くくらいならば人から盗む。極端ながら、そのような考えを持つ浪人は多かった。
だから江戸から犯罪は消える事はない。著名な火付盗賊改方の原型が出来上がるまで、まだ数十年の時を要さなければならない。
(まさか正雪が?)
七郎もまた正雪の張孔堂に通う門人だ。由井正雪は巷の噂通り、文武に優れた人物だった。人徳もあるがゆえに、江戸に知られた槍の名人、丸橋忠弥が進んで弟子となっている。
松平信綱は、その正雪を疑っていた。張孔堂に通う武士も多い。江戸に参勤交代に来た大名の中にも張孔堂に通う者が現れた。
正雪を師とし、大名、武士、町民が机を同じくして学ぶ。
七郎はそこにある種の理想を見る。人に貴賤なく、目上への敬意、目下への優しさを人心の基本とする。
それが天下泰平の、そして平和の姿というものではないか。
かの天真正伝香取神道流の飯坂長威斎、その門下に刃傷沙汰はほとんどないという。
武神、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の教えとはそのようなものではないか。
いわく、兵法とは平和の法なり。
武を以て、人々を平和に導く。
その技法の難解さ、奥深さから人は謙虚を学び、感謝を知り、尊敬を抱く。
七郎の説く理想とは雲をつかむような話であり、幕閣でも白眼視されているが、これだけは言える。
悪鬼である修羅も、時に仏敵を降伏する故に仏法の守護者なのだ。
七郎もまた人々の平和のために命を懸けて戦うからこそ、江戸の守護者なのだ。
そんな七郎は武家屋敷周辺を見て回った。当たり前だが町民の姿はほとんどない。浪人の姿もない。広い武家屋敷を囲う塀ばかりが目に入る。
(なんとも静かだな……)
武家屋敷の並ぶ閑静な住宅街に七郎は不穏な気配を抱いた。こういうところにこそ魔性が現れるのだ。
七郎は知っている。この世には人知を越えた魔性が存在する事を。七郎は島原の乱の際に魔性と出会っていた。
魔性は人の心から生まれる。人の心中に生じた悪意、即ち魔が超自然的な力に導かれて具現化するのだ。
島原では人々の悲しみから魔性が生じた。この静観な武士の居住区からは何が生まれるかわからない。
日も暮れかけた頃、七郎は腹が空くのを覚えた。辺りを見回すが、この近辺に酒場の類は見当たらない。
「お、うどん屋か」
七郎は日も暮れかけた中にうどんの屋台を見つけた。彼の仲間の源という男も、江戸市中でうどんの屋台を引いている。
「すまん、うどんを一杯」
七郎は屋台に近づき、床几に腰かけた。屋台のうどんは七郎に馴染み深いものだ。
「へい」
店主らしき男は火を起こして湯を沸かしながら、七郎には振り返らずに答えた。
「こんなところで屋台を出して客は来るのか」
七郎は探りを入れてみる。武家屋敷の並ぶ通りにうどんの屋台とは。武士階級の者が気楽にうどんを食いに来るのだろうか。
「へい、来まさあ」
店主はやはり振り返らなかった。
「お侍さん方がですねえ、小腹が空いたと言って、うどんを買いに来てくれまさあ」
「なるほど」
七郎、思わず苦笑した。気持ちはわかるのだ。
「お客さんは何を?」
「まあ、俺はごろつきに思われるだろうが…… まあ、似たようなものかな」
七郎は答えて、店主の態度を訝しむ。店主は背を見せたまま、湯を沸かす作業に従事している。それはいいが、なぜ一度も七郎に振り返らないのか。
そして七郎は気づく。すでに日は暮れかけて黄昏時だ。昼と夜の重なる時間帯であり、この黄昏時に出会う者全てが人間とは限らぬ。
「このあたりは化物でも出そうだな」
背中をヒヤリとさせて七郎はつぶやいた。何やら得体の知れぬ不安があった。不安は店主を始点としていた。
「化物ですかい」
店主は七郎に振り返った。七郎は思わず床几から腰を浮かせた。
店主の顔には目も鼻も口もない、平べったい肉の面であったからだ。
「それはこういう顔をしたやつですかい」
店主は立ち上がり、七郎に近づいてきた。七郎はすでに床几から立ち上がって、この肉面の不気味な店主から二、三歩距離を空けている。頭の中は真っ白だ。
「化物だなんて、ひどいじゃないですかい」
肉面の店主と七郎の間合いは迫った。七郎の心臓が激しく高鳴っているが、自分でそれには気づかない。
七郎は蛇ににらまれた蛙の如しだ。同時に父の又右衛門の言葉が思い返された。戦場に正々堂々はない、不意を衝かれて殺されても文句は言えぬ。
今の七郎が正にそれだ。唐突に肉面の店主を目の当たりにして意気を削がれた。頭は真っ白で何をしていいのかわからない。
しかし七郎は兵法を学び続けてきた。
隻眼ゆえに剣は上達しなかったが組討の術は練磨した。
魂に刻まれた組討の術、それが七郎を動かした。
「おお」
声は肉面の店主が発していた。彼は七郎に組みつかれた次の瞬間、体を反転させて背中から大地に落ちていた。
七郎が店主にしかけたのは後世の柔道における体落という技だ。七郎は一瞬の間に肉面の店主を大地に投げつけていた。
何が起きたかわからぬ店主が、うめきながら起き上がろうとする。七郎は間合いを離して、後腰に帯に差していた小太刀を抜いた。
この時代、幕府は町民に小太刀の所持を許可していた。これは自衛せよ、という意味だった。僅かな同心らに数十万人の江戸市民を守る事など不可能だからだ。
「ぬん」
七郎は両手で小太刀を拝み打ちにした。打ちこんだ刃が肉面の店主の顔を、真一文字に斬り裂いたかに見えた。
だが七郎はそこで我に返った。
「……これは?」
七郎は黄昏の光の中に、ただ一人立ち尽くしていた。うどんの屋台もないし、七郎は小太刀を抜いてもいなかった。
七郎の全身が冷や汗に濡れた。肉面の店主は夢か現か。七郎が見た幻であったのか。
得体の知れぬ恐怖に駆られて、七郎は足早に武家屋敷の並ぶ通りから去った。
魔性の恐ろしさを思い知らされたのだ。
**
七郎は父の又右衛門から魔性の話を聞かされた事がある。かつて御神君家康公が駿府にいた頃、ぬっぺらほふなる魔性が現れたというのだ。
それは自分が遭遇した肉面の者と同じだと七郎は直感した。人の世界と魔性の世界は昼と夜を境にして繫がっているのだ。
(奴らが俺の戦う敵か)
七郎の心身は震えた。これは恐怖ではなく武者震いであった。得体の知れぬ魔性を相手に、七郎の闘志は燃え上がるのだ。
(俺の最期を飾るに相応しい相手だ)
七郎は肉面の者と遭遇した時を思い出す。苦い敗北の味だ。
だが二度の敗北はない。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。そう心に決めて七郎は前へ進もうとする。
(兵法とは平和の法なり……)
心中につぶやきながら七郎は町中を行く。途中、道行く婦人二人にすれ違った。
「むむ」
七郎、思わず振り返った。美人だったからだ。英雄、色を好む。七郎もまた英雄かどうかは不明だが、女の色気に弱い。
「危うし危うし…… 天理天命、我にあり」
苦笑して七郎は歩き始めた。女の色気は七郎には命取りだ。ましてや、それが女の魔性であるならば。
**
武家屋敷の並ぶ一角、その外れに源のうどん屋がある。
「客は来るのか」
「来ますぜ、これが」
七郎の問いに源は答えた。源は江戸市内を回ってうどん屋の屋台を引いていたが、参勤交代が始まってすぐの頃に店を出した。
というより幕閣で店を用意したのだ。武家屋敷に住まう大名と、家臣ら武士達を監視するために。
「それで?」
「自由に外出できないんで不満が溜まってるようです。奥方を置いてきた者も多く、女遊びも盛んなようで」
「女遊びか……」
「まあまあ、若。呆れる気持ちもわかりますが、お侍さんもイライラしてるみたいですぜ」
「わからなくもないがね」
七郎は苦笑した。参勤交代で多くの大名が江戸に住むようになった。江戸には大小様々な大名が集まっている。
いわば江戸は全国の縮小図である。江戸で名が売れる事は全国に名声を轟かせる事でもある。
だからこそ大名達は上屋敷の建築には気を遣った。門構えには大名の格式が現れている。数十万石の大大名が貧相な門構えになど、決してできぬのだ。
「そう簡単に名が売れるものかね、正雪や丸橋でもあるまいし」
七郎は由井正雪の張孔堂に通っている。三十を過ぎて門下生だ。七郎が見る限りでは、正雪は文武に優れた人物だ。人徳もあり、槍の達人として知られる丸橋忠弥は、臣下のごとく接している。
そして両人ともに只者ではなかった。側で見ている七郎には、それがわかる。
「生涯は学びの園だな、うむ」
「……あのですな若。世の中は若みたいな自由人ばかりじゃないんですぜ」
「何が自由人なものか」
七郎は源の発言にムスッとした。彼は自分をそのように思った事はない。
幼い頃の兵法修行で右目を失った。視力に不安のある七郎は将軍家剣術指南役の嫡男でありながら、剣に秀でなかった。
それを恥じている七郎は弟に家督を譲り、自身は十年以上も幕府隠密として全国を行脚していた。
将軍家剣術指南役という大任から降ろされた七郎は、自身を恥ずべき者として認識しているが、日々を気楽に生きられる。
「だからこそ自由人じゃありやせんか。あっしはそれがうらやましいですぜ」
「……まあ、そうかもしれんな」
七郎は幕府では御書院番の役に就いている。これは将軍家光の身辺警護を担う、いわば親衛隊だ。
それでいて七郎は御庭番衆の源と共に大名の監視をしている。
誰もが様々なしがらみに縛られる中で、七郎は縛られる事なく生きている。
生と死は隣り合わせであるが、だからこそか七郎は魂の輝きを失わずに済んでいる……
「しかしだ。何のために生きる? 何のために死す? 自由人には進むべき道がない。朝に道を聞かば夕べに死すも可なりというではないか」
あるいは七郎は生きる答えを求めているのかもしれぬ。他者の願いを聞き入れてでの行動ではなく、自身の魂が死を賭して欲する答えを。
縛られる者は縛られる故に道を得ているのではないか。七郎の父又右衛門は兵法家として将軍家剣術指南役という大任を背負う道を進んでいる。それこそ七郎は羨望の眼差しで見つめている。
「まあ、いいじゃねえですか。難しい話は禅師の説法にお任せしやしょう」
源は酒と肴の準備を始めた。水で薄めた酒に残り物の天ぷらや竹輪など。誰も客のいない店内に明かりを灯して飲み食いする。それがたまらなく美味かった。
「ところで店員は」
七郎は気難しげに問う。源は客寄せのために十代後半の娘を数人店員に雇っていた。女日照りの男が多い江戸では、看板娘目当てにやってくる客は少なくない。
「みんな亭主持ちですぜ」
「……うむ」
七郎は厳粛な顔で酒を飲んだ。下心は霧散した。
夜半、七郎は目を覚ました。暗い店内には机に突っ伏した源のイビキが響いている。酒を飲みつつ、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
「うむ……」
七郎は寝ぼけながら店の外に出た。尿意を覚えたからだ。
だが店の外に出て夜空を見上げれば、真円を描く満月の輝きに七郎は息を呑んだ。夜は人を魅了する。月明かりの下には、昼にはない世界が広がっているからだ。
「なんだこれは……」
七郎の左の隻眼が見開かれた。彼は夜空に驚くべきものを見たのだ。
満月が浮かぶ夜空には、巨大な蜘蛛の巣が広がっていた。
一瞬、七郎は夢を見ているのかと思った。だが違っていた。身に走る不安と緊張はただごとではない。
ましてや巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く不気味な人影は何だ。
「な、何者だ……」
七郎は心身の震えをこらえてつぶやいた。それは人影への問いではなかった。自分自身への、正気を取り戻すための呼びかけであった。
「……む」
蜘蛛の巣を這う不気味な人影に七郎の声が届いたか。人影は動きを止め、蜘蛛の巣の上に静止した。
月明かりだけを頼りによくよく見れば、人影は丸みを帯びた体つきだ。艶めかしい女のようだ。
しかし人影の背からは八本に及ぶ長い脚が生えている。それは蜘蛛の脚だ。巨大な蜘蛛の巣の表面を這うのは、背から巨大な脚を生やした蜘蛛女ではないか。
月下に七郎と蜘蛛女の視線は激突した。ぶつかりあい、絡み合い、それでも尚激しく燃え上がるような視線の激突だった。
七郎が感じたのは、得体の知れぬものへ恐怖と、それに挑まんとする闘志だ。七郎はこの時、死を覚悟した。
対して蜘蛛女の心境はどうであったか。彼女は一糸まとわぬ裸身で蜘蛛の巣の上に蠢いていた。ひょっとしたら深夜の散策であったのかもしれない。
が、そこで男と出会うとは意外すぎる展開であったろう。ましてや七郎は人を殺めた事がある。生死の修羅場を経ている。
だからこそ将軍家光が一目も二目も置いて、彼に御書院番の地位を与えたままにしているのだ。七郎は肩書は御書院番だが、その務めを一日とて果たした事はないのだ。泰平の世に不似合いな七郎と出会って胸を高鳴らせる女も、いなくはなかった。
ひゅう、と夜風が吹いた。それは肌を刺すような冷気を帯びて、僅かに血臭を含んだ風であった。
七郎が眉をしかめた瞬間、夜空にかかる巨大な蜘蛛の巣と、その表面に蠢いていた蜘蛛女は消えていた。
七郎は小刻みに震える拳を固く握りしめる。夢ではない。彼は確かに人知を越えた存在と遭遇したのだ。
翌日、七郎は馴染みの茶屋を訪れた。
江戸城にほど近い茶屋へ以前は頻繁に通っていた。だが武家屋敷の見廻りの任に就いた今の七郎には遠い。
「あら、いらっしゃい」
茶屋の看板娘おりんは仏頂面で七郎を出迎えた。普段は愛想よく可愛らしい娘が、七郎の前でだけは一人の女でいられるらしい。
「いつもの」
七郎は床几に腰かけた。
「はいはい」
おりんは面倒だと言わんばかりに店の奥へ引っこんだ。今は茶屋に他の客はいなかった。
「あらあらお久しぶりねえ」
茶屋の主人のおまつも姿を見せた。
「婆さん、元気だったかね」
「まあね。あんたは生きていたんだねえ」
「ああ、まだ生きている」
七郎は青空を見上げた。おまつは七郎の正体を知らぬはずだが、なんとなく察しているのではないか。女は男の知らぬ神通力を持っている。
(俺はどうすればいいのか)
七郎は青空を見上げ、更にその先を見つめんと左の隻眼を凝らした。
果たして七郎の立ち位置は正しいのか。
将軍家剣術指南役の嫡男。
三代将軍の御書院番。
江戸城御庭番衆。
果たして何処が七郎の立ち位置なのか。今ここに来て七郎は迷う。いや、迷っているのではなく怯んでいるのかもしれない。
(勝てるのか奴らに)
七郎の脳裏に浮かぶ奇怪なる者。目も鼻も口もない肉面の者、夜空に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く蜘蛛女。
彼らは果たして現実だったろうか。七郎の頭は幻だったのかと疑うが、彼の肉体と魂は恐怖を覚えている。
それゆえに七郎は恐れ迷うのだ。はっきりとしないモヤモヤした感覚が七郎を苛立たせる。妖怪変化とは人の心に混乱を引き起こすものかもしれない。
「もうちょっと待ってなさい」
おまつの声に七郎は我に返る。おりんは店の奥で団子を焼いていた。焼き立て、出来立ての団子を七郎に食べさせようとする女心の現れだ。
「人間はね、できる事しかできないの」
おまつの言葉がまるで天の声であるかのように、七郎の魂に染みこんだ。
「そりゃそうだ」
七郎は苦笑した。当たり前の事を彼は見落としていた。男には子どもが産めぬ。産めるのは女である。当たり前だが、当たり前を見失っていたところに七郎の迷いがあったのだ。
(俺は俺だ)
七郎はただの七郎でありたいと常々思っていた。剣術指南役の嫡男でなければ御書院番でもない。ましてや江戸城御庭番衆の忍びでもない。七郎は七郎であり、彼にできる事あるならばそれは、
(江戸の未来の捨て石となろう)
七郎は死ぬ覚悟であった。江戸の未来を守る、そのために死ぬのが七郎の仕事であった。誰に強制されるのでもない、何かに無理強いされるのでもない。
七郎の魂が望むのは、江戸の未来を守る事――
いや、更に掘り進めるならば小さな子どもの未来を守るためであろうか。そのために死ぬのは七郎には恐くないのだ。
「おまちどうさま!」
おりんが盆に団子を並べた皿と湯飲み茶碗を乗せて運んできた。額に汗が光っている。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや何、かまわんさ」
「そりゃそうさ、おりんの団子ならねえ」
おまつは楽しげに笑った。七郎は畏まって団子を頬張り、おりんは傍らでその様子を見つめている。
「うむ、美味い! 江戸一番だ!」
「な、何言ってるのバカ」
「ふふふ、今日もお江戸は日本晴れだね」
おまつは微笑して江戸の空を見上げた。どこまでも青い空に白い雲がたなびいている。
七郎は江戸城の敷地内にある道場で組討術の稽古に励む。共に汗を流すのは江戸城御庭番衆の忍び達だ。七郎は彼らと共に江戸を、人々を守ってきたという誇りと自負がある。
稽古着で組合い、体勢を崩して床へ投げつける。
七郎は隻眼ゆえに剣に秀でなかったが、その代わりに組討術には秀でるようになった。
先師、祖父、父又右衛門から七郎へ受け継がれた組討術は無刀取りと称される。
「精が出るな七郎。ならば余が相手をしてやろう」
七郎の前に立ったのは國松という人物だった。國松は江戸城にほど近い染め物屋、風磨の大旦那である。
七郎と同じく髷を結わぬ総髪、その眼光の鋭さは只者ではない。幕閣の一部では密かに戦国の魔王信長に似ると囁かれている。
染め物屋の風磨は、実は風魔忍者の末裔達である。國松はいざとなれば風魔忍者を率いて実戦に参加する。
「いざ!」
稽古着の七郎、素早く國松へ踏みこんだ。
「甘い」
國松がつぶやいた時には、彼の右足が踏みこんできた七郎の出足を払っていた。出足を払われた七郎は道場の床に横倒しになった。
刹那の間に閃いた國松の技は、後世の柔道における出足払いだ。洗練された國松の技に七郎はあ然として声も出ない。
「頭を冷やせ」
「は、ははっ」
國松の言葉に、七郎は床に大の字になったまま応えた。身を起こそうにも起こせなかった。國松の技に心身共に感服したのだ。
さて、夜に姿を見せる蜘蛛女の事は、周辺の武家屋敷に住む者達の間で噂になっていた。
夜な夜な夜空に浮かぶ不気味にして巨大な蜘蛛の巣、更にその表面に人間大の蜘蛛が這っているとはただ事ではない。
「討取れ」
とある小藩の藩主は、藩の剣術指南役に命を下した。江戸には大小様々な大名が集まっている。ここで武勇を立てるのは藩の名誉だ。
また島原の乱以降、もはや日本に戦乱はなかった。武勇を立てれば、あるいはそれが幕府に認められ、恩賞に預かれるかもしれない。
この時代、金山銀山あれば幕府に申し出なければならない決まりであった。自藩に金山銀山の所持を認められれば、藩内が潤う。そんな考え方もある。
「ははっ、必ずや」
剣術指南役は自分の弟子を引き連れ、夜の町へと出た。
「さて何処ヘ行くか」
剣術指南役は頭巾で顔を隠していた。弟子の従者も頭巾で顔を隠して提灯を手にしていた。
「やはり吉原では」
「うむ、やはりそうだ」
従者と剣術指南役は頭巾の奥でニヤリとした。彼らは藩主の魔物討伐令のついでに吉原で女遊びをする腹積もりであった。いや、女遊びのついでの魔物討伐かもしれぬ。
「楽しみだのう」
「全くで。なにせ江戸勤めなんか何の楽しみもありませぬ」
剣術指南役と従者は夜道を行く。いささか片腹痛いが、彼らの気持ちもわからなくはない。江戸勤めでは武家屋敷で堅苦しい共同生活、役職の高い者ならばともかく、役職の低い者は国元に妻子を置いてくるのが普通であった。
ましてや戦の終わった時代、武士は世に不要と見られ始めていた。女達も威張り散らす武士よりは肩肘張らずにつきあえる、遊び上手な町民の男を好んだ。
だからこそ吉原のような場所がある。世の中はうまくできている。
「……こ、これは」
「まさか……」
吉原を目指していた剣術指南役と従者は足を止めた。
夜空に巨大な蜘蛛の巣が浮かんでいたからだ。
そして二人は見た。巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く黒い影を。背に八本の脚を生やした蜘蛛女を。
蜘蛛女は頭上の夜空から、二人の様子を伺っている。
「師匠!」
弟子の順三郎は師である剣術指南役に振り返った。が、その時には剣術指南役は走り去っていた。
順三郎は夜の中に消えていった剣術指南役の後ろ姿をただ呆然と見送った。剣においては藩士を指導する者であったが、実戦経験はなかった。また命を懸けて戦う勇気も持ち合わせてはいなかった。
順三郎は自身の信じていたものが、根底から崩れていくのを感じた。
師事した剣術指南役は明日からも普通に生活しているのだろうか。
魔性など噴飯物の噂話程度にとらえ、順三郎も吉原に出向くのを楽しみにしていたのは事実だ。
だが、まさか魔性を前にして師が早々と逃げ出すとは思わなかった。
何のための剣、何のための士道?
自分の魂の底まで震えるような衝撃に、順三郎の顔から血の気が引いた。
それでも順三郎は刀を抜いていた。その意地は大したものだ。
「おやおや、あんた刀が震えているよ。大丈夫かい」
蜘蛛女は、蜘蛛の巣の表面を下方へ移動していた。その蜘蛛女は順三郎の刀の先端が震えている事に気づいたようだ。
「う、う、うるさい!」
順三郎は必死に言葉を紡いだ。まだ若い順三郎は受けた衝撃から立ち直ってはいなかったが、本能的に自分の命を守るために死力を尽くしているのだ。
「食ってやるよ、頭からバリバリってね」
蜘蛛女の挑発、あるいは脅迫に順三郎は足までもがブルブル震えていた。もはや逃げる事もできない。刀を正眼に構えるのが、せめてもの抵抗だ。
「――やめておけ」
順三郎の背後の闇から野太い男の声がした。順三郎の硬直は解け、彼は背後に振り返った。蜘蛛女も突然現れた者に視線を向けた。
「ぎゃ、は、般若!」
順三郎は叫んだ。背後の闇に潜んでいたのは、黒塗りの般若面をかぶった黒装束の男だった。
「……ふふ、まあそうだな」
般若面の男は面の奥で笑った。
江戸の夜に般若面あり。
そんな噂が流れるようになったのは島原の乱を経た頃からだ。
江戸では浪人による押し込み強盗が多発していた。金を奪われるだけならまだしも、女子どもまで殺害する強盗殺人もあった。
そんな凶賊と斬り結ぶ謎の黒装束集団がいた。彼らによって命を救われた者は大勢いた。
その黒装束集団の中には、般若の面をつけた者がいた。腰に大小二刀を帯びていたが、無手にて刀を振り回す浪人を制していたという。
その鮮烈な印象ゆえに、密かに人々の噂になっていたのだ。
「また会ったな」
般若面は蜘蛛女へ気さくに声をかけた。
「心にもない事を言うな」
般若面は蜘蛛女に向かって言葉を紡いだ。
「そんな女ではあるまい」
見上げる般若面と動きを止めた蜘蛛女。二人の視線が交わる。そんな二人を順三郎は疑わしく見つめていた。
「き、貴様ら仲間か!」
「うむ?」
順三郎の発言に般若面も蜘蛛女も戸惑いを見せた。
「何を言って……」
「なんでこんな男と……」
般若面と蜘蛛女は戸惑いを隠せない。般若面はともかく、蜘蛛女にいたっては指摘されたように悪い性格ではないかもしれない。
「黙れ黙れ黙れー!」
順三郎は刀を抜いた。刃に月光が反射して淡く輝く。今の順三郎は恐慌状態であった。極度に興奮していた。自分が信じていた士道というものが幻想に過ぎなかった事に混乱し、狂いそうになっていたのだ。もはや理屈は通じなかった。
「死ねえー!」
順三郎は刀を振り上げ般若面に斬りこんだ。迷いない一刀だ。
般若面はその刃を避けた。そして半円を描くように順三郎の右手側に回りこんだ。
般若面の左手が拳となって、順三郎の鼻を軽く打つ。
「お、おお……」
順三郎は鼻を打たれた衝撃に二、三歩後退した。
「もうやめとけ」
般若面は面の奥から寂しげな声を出す。彼は正気を失った人間を何人も見てきた。そして般若面もまた正気を失った事がある。人生に何の展開も見えなくなった悲しさを般若面は知っている。
「……うおおおー!」
順三郎は再度、踏みこんで一刀を打ちこんだ。最高の心技体だ。順三郎が学び覚えた剣術の集大成であった。
だが般若面は順三郎より僅かに早く踏みこんでいた。右肩から順三郎の胸元へぶち当たる。
うめく順三郎に般若面は組みつき、彼の両腕に抱きつく。順三郎の両腕を捉えながら体を独楽のように回し、彼を背負って投げる。
順三郎は背中から大地へ投げつけられていた。
「おご……」
順三郎は地面でうめき、泡を吹いて失神した。刹那の間に閃いたのは、後世の柔道における一本背負投だ。
無手にて、刀を持った対手を制する――
それを無刀取りという。
「寝てろ」
般若面は地面に大の字で気絶している順三郎に向かって言った。
「なかなかの一刀だ、俺は負けても悔いがなかったな…… さて、お前さんは」
次いで般若面は蜘蛛女の姿を見上げた。背からは蜘蛛に似た長大な脚を八本生やしているが、その丸みを帯びた艶めかしい肢体に般若面は胸を高鳴らせた。やはり女は苦手だ。いや女の色気が苦手なのだ。
「どうするね? できれば日の光の下で会いたいもんだが」
般若面の声は落ち着いている。冷静だ。今しがた生死の境を越えたばかりだというのに。
彼はこのような荒事に慣れているのだ。死の覚悟を数え切れぬほど繰り返してきた。
そして生死の境で全身全霊を振り絞ってきた。
般若面にとって人生とは、最高の一瞬の中に在った。
幾度もの死の覚悟、全身全霊の一手。
それに満足してきた般若面は、いつ死んでも後悔はない。
最高の一手、そしてまた新たな最高の一手を追い求めていく……
般若面は永遠の挑戦を繰り返しているのだ。
「何を言ってんだい、全く男は馬鹿ばっかりだよ」
呆れた様子で蜘蛛女は蜘蛛の巣の表面を移動した。偶然なのか、蜘蛛女は般若面に背を見せている。
ツンと澄ました蜘蛛女の仕草が般若面には心地よい。
「あたしはね、夜の散策を誰にも邪魔されたくないだけさ」
「ほう、なるほど。気持ちはわかるぞ」
「そりゃあそうさ、一人の方が気楽だね……」
そう言った蜘蛛女と、夜空に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣は同時に消失した。
後に残された般若面は半ば呆然と夜空を見上げていた。が、面の奥で彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「ふふっ、面白い…… もう少し生きてみるか…… しからば御免」
般若面は夜道を駆け出した。彼の胸には明日への闘志が燃えていた。
蜘蛛女は人間を遊びで殺すような存在ではなかった。彼の予想通り、蜘蛛女は夜の散策を楽しんでいるだけなのだ。事実、彼女の目撃情報はあれど人が殺された事実はない。
般若面にはそれで充分だ。つまらぬ世の中に、何か光明が見えたような気がした。
そして般若面とは対照的に順三郎は絶望の底を見た。彼が信じていたものは幻想に過ぎなかった。
その順三郎はしばらく地面で気を失っていた。
目覚めた時、彼の本当の人生が始まった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

慶安夜話
MIROKU
歴史・時代
慶安の江戸に現れた死者の行列。剣客の忍足数馬は死者の行列に挑むも、その魔性に引きこまれた。次いで死者の行列は遊女の店が並ぶ通りに現れた。そこには人斬りとあだ名される用心棒の蘭丸がいた…… 江戸を包む暗雲に蘭丸は挑む。かたわらの女が穏やかに眠れるように。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

月陰の剣
MIROKU
歴史・時代
三代将軍家光の時代―― 月ノ輪の元にやってきたのは、著名な禅師の沢庵と、隻眼の七郎という男だった…… 内裏に現れる魔性を相手に、七郎の剣が閃けば、そこには赤い雨が降る。
田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜
皐月なおみ
歴史・時代
わけあり夫婦のところに、わけあり子どもがやってきた!?
冨岡八幡宮の門前町で田楽屋を営む「のぶ」と亭主「安居晃之進」は、奇妙な駆け落ちをして一緒になったわけあり夫婦である。
あれから三年、子ができないこと以外は順調だ。
でもある日、晃之進が見知らぬ幼子「朔太郎」を、連れて帰ってきたからさあ、大変!
『これおかみ、わしに気安くさわるでない』
なんだか殿っぽい喋り方のこの子は何者?
もしかして、晃之進の…?
心穏やかではいられないながらも、一生懸命面倒をみるのぶに朔太郎も心を開くようになる。
『うふふ。わし、かかさまの抱っこだいすきじゃ』
そのうちにのぶは彼の尋常じゃない能力に気がついて…?
近所から『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになった朔太郎とともに、田楽屋の店先で次々に起こる事件を解決する。
亭主との関係
子どもたちを振り回す理不尽な出来事に対する怒り
友人への複雑な思い
たくさんの出来事を乗り越えた先に、のぶが辿り着いた答えは…?
※田楽屋を営む主人公が、わけありで預かることになった朔太郎と、次々と起こる事件を解決する物語です!
※歴史・時代小説コンテストエントリー作品です。もしよろしければ応援よろしくお願いします。
南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳
勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。
佐々木小次郎と名乗った男は四度死んだふりをした
迷熊井 泥(Make my day)
歴史・時代
巌流島で武蔵と戦ったあの佐々木小次郎は剣聖伊藤一刀斎に剣を学び、徳川家のため幕府を脅かす海賊を粛清し、たった一人で島津と戦い、豊臣秀頼の捜索に人生を捧げた公儀隠密だった。孤独に生きた宮本武蔵を理解し最も慕ったのもじつはこの佐々木小次郎を名乗った男だった。任務のために巌流島での決闘を演じ通算四度も死んだふりをした実在した超人剣士の物語である。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる