月陰の剣

MIROKU

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番外編 夕に死すも可なり

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 七郎は悔しかった。
 慶安の変を経ても江戸は何も変わらない。
 天下泰平に浮かれた庶民と、相も変わらず大名を改易していく幕府。
 正雪は何のために死んだのか、と七郎は憤る。
 そして我が身を悲しんだ。七郎は右腕を肩と肘の半ばあたりから失っていた。
 右目も幼い頃に兵法修行で失っている。隻眼にして隻腕、身につけた兵法も無用の長物かもしれなかった。
「父上…… 俺はどうすれば……」
 七郎は父の墓前に立った。
 右目を失い、右腕まで失い、二度も危篤に陥りながら生き延びたのは何のためか。
 痩せこけた肉体に以前のような力は宿っていなかった。生きているのも不思議なほどの重傷を負いながら生き延びた七郎。彼の体からは気力体力が極限まで失われていた。
 長い間、七郎は父の墓前に佇んでいた。
 穏やかな風がすぐ側にある竹林を揺らし、カサカサと心地よい響きを立てる。
 七郎の魂は失望の果てに、天地宇宙と調和していた。
 七郎の脳裏には父との兵法修行が思い出された。それは懐かしくも鮮烈な記憶だ。
 七郎が父と組みつく。父は左手で七郎の右袖をつかむや否や、瞬時に体を回して投げた。
 刹那の間に道場の床に背中から叩きつけられ、七郎は何が起きたかわからなかった。
 いや、あれこそが父と祖父、そして先師から伝えられた無刀取りの真髄ではないか。
「そ、そうだったのか!」
 七郎は悟った。自分にはまだ無刀取りがあるのだ。

   **

 女性天皇が皇位を退き、三代将軍も亡くなり、慶安の変をも経た江戸。
 大乱はなくとも天下泰平からはほど遠い。
「内裏から贈り物ですと?」
「そうだ」
 國松は言った。
 染物屋の風磨の大旦那である國松は、町の顔役でもある。
 國松の怒号一つで、刀を抜いた浪人も狂気から正気に戻るという。
 その正体はすでに世を去ったとされる駿河大納言忠長だ。
 その容貌は戦国の魔王、織田信長に似るという。
 それゆえに御神君家康公に遠ざけられていたともいう。
 今、七郎は戦国の魔王の前にいるような気分だ。毎度の事ながら冷や汗が出る。
「お前を懐かしむ者がいるのではないか」
 國松の言葉に七郎は昔日を思い返す。
 内裏で出会った少女、月ノ輪。
 今では二十代半ばになっているはずだ。
「そうですな」
「先方はお前の死を信じていなかった」
「なんですと」
「内裏に向かってもかまわん、お前は何処にもいない存在なのだからな」
「國松様、お戯れを。それでは小生、まるで幽霊のごときではありませぬか」
「いや、お前は仏法天道の守護者だ」
 國松の瞳が強い光を放った。
「短い間に二度も危篤に陥り、右腕を失ってまで生き延びたのは、お前が選ばれた者だからだ。魔を降伏するためにお前は生かされたのだ」
 國松は熱く語った。
 七郎の正体は将軍家剣術指南役、柳生十兵衛三厳だ。謎の死を遂げたとされた柳生十兵衛は生きていたのだ。
「はあ」
 國松の真意がよくわからぬまま、七郎は桐の小箱を左手一本で器用に開いた。
 中には小さな押し花が入っていた。
(月ノ輪様……)
 七郎の魂は、一瞬で内裏で過ごした日々へと遊飛した。
 月ノ輪という少女が、七郎の暗黒に落ちた魂を救ってくれたのだ。
 彼女を守るために内裏に現れた魔性と戦った七郎。
 今、彼の魂は生きる活力を取り戻した。
「七郎、泣いておるのか」
「いえ」
「すまぬ、余は不粋であった」
 國松は部屋を出た。
 七郎はしばしの間、押し花を見つめていた。
 文の一つもないが、月ノ輪の思いは七郎に届いた。
「月ノ輪様……」
 七郎はつぶやいた。昔日を思い返す。
 月ノ輪と過ごした短い期間は、かけがえのない思い出――
 真の恋だったのではないか。
 長い黒髪の月ノ輪が振り返る姿、それが七郎の脳裏に思い浮かぶ。
 あの一瞬は、永遠の感動だ。


 七郎は染物屋の風磨を辞した。
 着流しの懐に桐の小箱を秘めて、七郎は江戸の大通りに出た。
 江戸城天守閣が威風堂々とそびえ立つ。強大な存在を前に人は己を知るのだ。
 と、そこで七郎の右肩が誰かにぶつかった。
「やいやい、何しやがんだテメエ!」
 ぶつかってきたのは浪人だ。みすぼらしい衣服に、すえた臭いが漂う。
 しかし妙に落ち着いている。刀柄に右手を伸ばす。近くを歩いていた者達が浪人の殺気に怯えて身を離した。
 生活の不安から人は何かに依存しようとする。そして人を斬る行為に依存してしまう者もいる。
 今の江戸にはそのような浪人が多かった。日本全国にいる。治安の悪さゆえに幕府は庶民に小太刀の所持を許可し、自衛を求めた。
「ほう…………」
 七郎は静かに浪人を見つめた。
 心は空だった。
 二度も生死の境をさまよった上に、親しかった者は他界した。
 父の又右衛門宗矩、師事した小野忠明。
 義母のように慕った春日局、因縁浅からぬ家光。
 弟の左門友矩。
 島原で出会った天草四郎と、その許嫁のウルスラ。
 由比正雪と丸橋忠弥。
 その悲しみが七郎を空にした。
 同時にさらなる高みへと導いた。
「なんだお前は!」
 浪人は七郎を前にして戸惑った。
 隻眼にして隻腕、痩せ細った体に威圧感はない。
 だが七郎の暗い眼差しが放つ気迫はどうだ。
 それは死を覚悟して死線に踏みこみ、人を殺めた事がある者の気配だ。
 それは無の境地だ――
「ぬう!」
 浪人は七郎に触発されて刀を振り上げた。
 七郎はすでに踏みこんでいる。
 右肩で浪人の胸に当たり、左手は素早く浪人の右袖をとらえ――
 回転しつつ、浪人を引き落として地面に叩きつけた。
 刹那の間に閃いたのは、七郎の左手一本による体落だ。いや、跳腰や払腰の要素も含まれている。
 何にせよ七郎は左手一本で技をしかけた。
 それは七郎が幼い日に見た、父の技の再現だった。
 同時に七郎は前途に光明を見出した。右腕を失ったが、七郎の無刀取りの妙技は完全には失われていなかった。
(月ノ輪様、俺はやるぞ!)
 七郎は心中に月ノ輪へ呼びかけた。
 彼の魂は月ノ輪によって蘇り、再び兵法の道を志したのだ。
 月ノ輪への思い、それあらばこそ七郎は夕に死すも可なりと覚悟できるのだ。
「お、おのれ~……」
 うめきながら浪人が起き上がってきた。七郎の技は今ひとつ浅かったようだ。
「ちょうど良かった、お前つきあえ」
「な、なんだと……」
「――は!」
 七郎、素早く浪人に組みついた。
 左手で浪人の右袖をつかむと同時に、彼の体は独楽のように回転している。
 右足で浪人の足を払いながら、再び投げ落とす。
 二度も背中から大地に叩きつけられた浪人は白目をむき、泡を吹いて気絶した。
「まだまだ!」
 七郎の闘志は燃える。江戸を守る、その道に後悔はない。
 月ノ輪の明るい声が七郎の魂に活を入れる。
 心と心で通じ合う――
 七郎と月ノ輪は、そのような仲だった。
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