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7 貴方の元には……

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「き、聞かないでよ」
「でも、……いままでランチはともかく、夜は一度も来てくれなかったのに。いきなりこんな……」
 ジャックの纏う雰囲気が、明るく高揚したものから、急速にすぅっと冷え、硬くなった。
 え、と思うまもなく、リリアの肩がぐっと掴まれ、ジャックと正面から向かい合う形にさせられる。
 ジャックの顔は真剣そのものだった。
「ジャック?」
「中尉、なにかありました?」
 リリアの腹の底がひやっと冷えた。
 スパイのさがで、咄嗟に、部屋のなかに目を走らせてしまう。
 何か、武器になるものはないか。
 そんなことしたくないのに、万が一を考えてしまって……。
 しかし、ジャックはどこまでもリリアを信じていた。
「……なんかあったんなら俺、手伝うんで言ってください。中尉がいきなりこんなこと……。嬉しいっすけど、なんか変ですよ。どうしたんすか?」
 不安げで、心配そうで。
 真摯で。
 騙す罪悪感にリリアの心が軋む。
(でも、本当のことは言えない……)
 リリア自身のためにも、ローズのためにも、……ジャックのためにも。
 リリアが潜入スパイだとバレてしまったら、ジャックを消さなくてはいけなくなる。
 だが、このままではジャックが納得しないだろうということもわかっていた。
 任務中の違和感は、どんな些細なことも見逃してはならないと指導しているのは、ほかならぬリリアだった。
「……実は、その……異動が決まったの」
「異動って、どこにですか!?……チームごと、っすよね……?」
 ジャックの声が揺れる。
 リリアは首を横に振った。
「ううん。私だけ。誰も連れて行かない。どこ……っていうのは言えないの。しばらく潜ることになる」
「じゃあ、……会えないってことですか? 連絡もなし?」
「うん……。ごめん。本当に、これ以上は聞かないで。言えないの」
 言えるのは、ここまで。
「…………その異動って、栄転、なんすか?」
 ジャックはまだ、呑めない、という顔をしていた。
 普段、リリアにてらいなく好意を示し、明るく接してくれるジャックだが、本当の境界線がわからないわけではない。一線はちゃんと守っている。上下関係の一線はもちろん、個人としての一線だって。
 リリアが判断してもう決めてしまったことに、あくまで他者であるジャックが口を出せないときっとわかっていて、それでも彼自身が呑み込めないのだろう。
「異動を断る、とかできないんすか? だって中尉、俺らのチームのこと、最高だっていつも言ってるじゃないですか。俺らを見捨てて行くんすか? 俺を置いて?」
「…………」
「いや、すんません。……こんな。中尉が決めたんだったら、この国のためになることなんでしょうけど、いきなりだったから」
 ジャックは、くしゃっと前髪を掴んで、もう一度「すんません」と口にした。
(ジャックは悪くない……)
 では自分が悪いのかというと、それも違うとリリアは思った。
 リリアだって生きるためにやっている。
 お互いが惹かれ合わなければ、よかったのかもしれない。
 ただ、……そう、巡り合わせが悪かったのだ。
 リリアにはリリアの道があって、ジャックにはジャックの道がある。
 たまたま重なっていた道の、分かれ道が来てしまった。
 これからの道を別々に歩いて行くために、なにかよすががほしかった。
 リリアは繋いでいるジャックの手をぎゅっと握った。
「ううん。……私のほうこそごめんね。私は貴方たちを、……貴方を置いて行く」
 それはリリアの中で、もう決まった事実だ。
「……帰って、来ますか?」
 帰って来ない。
 もう二度と。
 リリアは首を振った。
「それもわからない。だから……、だから、待たないで?」
 私の帰りなんて。
「これっきりで、忘れてほしいの。勝手なお願いだってことはわかってる。でも……」
 ジャックがぎゅっと口を引き結んだ。
 その顔は、いまにも泣きそうだった。
「チームのみんなにも、次の全体ミーティングで伝えるつもり」
「…………」
「………………だから、何がってわけじゃないけど。最後に一回くらい、貴方に応えてもいいかなって思ったの。……その、私も、ジャックのことは嫌いじゃないし……」
 そこまで言って、この言い方はフェアじゃないな、とリリアは思った。
 それに、このままではリリアの気持ちも終われない。
「ううん。……私もジャックのこと、好きで」
 とても、ジャックの顔は見上げられなかった。
 顔だけじゃなく、体まで熱くて、変な汗をかいている。
 繋いだ手まで湿ってきたような気がして離したかったが、ジャックにぎゅっと握られていてそれは叶わなかった。
「……………ジャック?」
 無言のままのジャックにさすがに不安になり、そっと呼びかける。
「なんでいまさら、……そんなこと言うんですか。そんな……。もっと前に言ってくれてれば、もっと一緒にいられたのに……!」
 それは……。
(本国の任務中に、よそ見をする余裕なんてなかったんだもの……)
 一歩間違えば、自分だけではなく、ローズにまで被害が及ぶ。
 そんな状況で、とてもじゃないがバレないように恋愛をする心の余裕などなかった。
 いまだってそうだ。
 今夜一度きりの関係だと思えばこそ、応じる気になった。ジャックを好きだと思う、自分の心を許すことができた。
 どう伝えればいいのか困って、リリアは口を噤んで、視線を落とした。
(今夜はもう、駄目かもしれない……)
 ジャックが嫌だと言うのなら、……リリアにはどうしようもない。
 リリアも泣きそうになっていた。
 今夜のことを最初に思いついたときは、驚いたとしても、ジャックは二つ返事でOKしてくれると思っていた。
 自惚れているわけではないが、好きな相手から誘われれば普通、嬉しいものだろう。
 だから、どうすればいいのかわからなかった。
 リリアの肩を掴むジャックの手に力が篭る。
「中尉、俺を憐れんで無理してたりしませんか? 本当に、中尉もしたいと思ってくれてます?」
「それは……」
 心を深掘りしてみれば、正直、どっちの気持ちもあった。
 ここで「憐れみなんてない。本当に貴方が好きなだけ」と言い切ることは可能だったが……。ジャックは信じてくれるだろうか。信じて……くれない気がした。
 リリアも、嘘をつかなくていいところは、なるべく嘘をつきたくない。
(……どうしよう)
 リリアは思い切って、顔を上げてみた。
 そこには、ジャックの不安そうな顔があった。
 くぅーんと耳を垂れた、リリアの可愛いわんこが苦しげな顔をしていた。リリアを見下ろす焦茶の大きな瞳が揺れている。
(あ、駄目だ……)
 これは駄目だ。
 これは反則だろう。
 理屈を飛び越えて、なんとかしてあげたいという感情が湧き起こってくる。
 ジャックを少しでも安心させるために、リリアは優しく笑いかけた。
「……あのねジャック、私、貴方のこと本当に可愛いと思ってるの。本当よ。いっつも付いてきてくれて、慕ってくれて。……だから、憐れみがないと言ったら嘘になるけど……でも、ちゃんと、私もしたいから大丈夫。ちゃんと、ジャックが好き。だから、えっと……」
 リリアはちらっとベッドのほうを見て、赤面した。
(ちゃんと私が言わないと……。私から誘ったんだから)
 意を決して、ジャックを見上げる。
「……お願いします。私と一緒に、その……ッ」
 勢いのまま言い切ろうとしたリリアの口元が、ジャックの大きな手のひらで塞がれてしまった。
 ジャックの目には、切ない色が宿っていて。
 それでもようやく、ぎこちなくも、にっといつもの悪戯っぽい笑みを浮かべてくれた。
「……そっから先を言われたら、男の立場ないっすよ中尉」
 ジャックの手が外される。
「……ジャック」
「中尉はいつも、無茶する俺らを制するふりして、一番無茶してますもんね……」
 ジャックが無言で、そっとリリアの銀の長い髪を撫で、さらと流れる髪の一房を掬い上げた。
 ぎゅっと目を瞑ったジャックが、静かにその銀髪の先に唇を押し付ける。
 すべてを受け入れるための儀式のように。
 激情を押し殺すかのように。
 やがて目を開いたジャックが手の力を緩めれば、銀髪はその手からするんっと滑り落ちてしまった。
「俺……、中尉のこと忘れないんで」
「……ジャック」
「本当は行かないでくださいって言いたいんです。……でも、中尉は、行くって決めたら行っちゃうでしょう?」
 こくんと、頷くことしかできない。
 わかりました、とジャックは言った。
「中尉とたった一度の夜。……中尉に俺のこと、刻み込むんで。中尉も俺のこと、忘れないでください」
 近づいてきたジャックの唇を、リリアは今度こそ、柔らかく受け止めた。

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