切り札の男

古野ジョン

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第一部 切り札の男

第三話 右腕

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 久保雄大には、忘れられない夏がある。それは中学二年生の頃。シニアのエースとして活躍していた彼は、全国大会の準決勝まで勝ち進んでいた。

 試合は七回表まで終わり、二対二の同点だった。久保のチームは先攻であるから、裏に得点を許せばサヨナラ負けである。久保はその試合、既に六回まで投げていた。

「監督、俺に代えてください。久保の球は捉えられてます」

 そう言うのは、三年生の投手の八木倫太郎やぎりんたろうだ。彼も中学生にしては好投手だったが、チームでは久保に次ぐ二番手投手だった。

 彼の提案は当然のことであった。というのも、久保は五回までは無失点であったが、六回に二失点を許して同点とされていたからだ。だが、久保は意地を張った。

「いや、監督。俺に投げさせてください!!」

 それに対し、八木も言い返す。

「お前はもう十分投げただろう。俺に任せておけ」

「おい、落ち着けよお前ら」

 捕手の松澤健太まつざわけんたが宥めてきた。彼も同じく三年生だった。ライバル同士でとにかく熱くなりがちな久保と八木に対して、常に冷静沈着であった。

「あくまで監督が決めることだ。お前らが言い争って決めることじゃない」

「じゃあ、どうなんですか監督!!」

 八木が問うと、監督は静かに答えた。

「……久保、お前が七回も投げろ。八木、お前は延長で使う」

「はい!!」

「そんな……」

 久保は大きな声で返事をした。当然自分が投げるのだと思っていた八木は、監督の決断に驚きを隠せなかった。

「なぜですか、監督!!」

「いいから、お前は延長に備えて準備していろ」

 監督にそう言われ、八木は渋々ブルペンに向かった。

 そして迎えた七回裏。久保は三連打を許し、あっさりサヨナラ負けを喫した。

 彼はその試合のあと、「自分が意地を張った責任を取る」という名目でチームを去った。だが本当の理由は違った。

 無理に投げ続けた代償として、右腕が壊れてしまったのである。かつての球が、もう投げられない。自分が目標としていたプロ野球なんて、夢のまた夢。それを知っていながら野球を続けるのは、中学二年生にとっては酷なことだった。

 その年、八木と松澤は自英学院高校へと進学した。自英学院は野球の強豪校であり、甲子園にも何度も出場している。八木は高校でその才能を開花させ、今や自英学院のエースナンバーを背負っている――

***

 一打席勝負の翌日。正式に野球部へと入部した久保は、部員の前で挨拶をすることになった。

「久保雄大です!よろしくお願いします!!」

 部員たちは拍手で出迎えた。そして、竜司が口を開いた。

「改めて、キャプテンの滝川竜司だ。よろしくな」

「はい。お願いします」

「うちは部員も多くないし、君でちょうど十八人だ。副キャプテン、自己紹介してくれ」

神林翔平かんばやししょうへいだ。三年で、ポジションはキャッチャーだ。久保、頑張ろうな」

「はい!ありがとうございます」

 その後、各部員の自己紹介があった。そして最後に、ジャージ姿のまなが自己紹介した。

「一年の滝川まな!前にも言ったけど、マネージャーやってるからよろしくね!」

「よし、これで全員だな!」

 竜司がそう言うと、久保は質問をした。

「そういえば、監督はいないんですか?」

「一応顧問はいるけど、あんま野球に詳しくないんだ」

「じゃあ、試合のサインとかどうしてるんですか」

「あたし!!」

 まなが大きな声で割って入った。

「え?」

「あー、試合のサインはまなが出すことになってるんだ」

「どういうことですか?」

 そう聞くと、竜司はくすりと笑った。

「まあ、そのうち分かるさ」

「はあ、そうですか」

 すると、竜司が久保の背中をバーンと叩いた。

「というわけで、久保!我が大林高校野球部へようこそ!!」

 久保の気持ちが、一段と引き締まった。シニアの頃とはまるで違うが、もう一度野球を真剣にやり込むという実感が湧いてきたのだ。

「はい!!頑張ります!!」

 そして練習が始まった。球を投げられない久保は、グラウンドの隅で素振りに徹していた。シニアの頃は四番を打つほどの強打者でもあった。投球も守備も出来ない彼にとって、残されたのは打撃しかない。ただひたすら、バットを振り続けた。

 しばらくすると、まながボールの入ったかごとネットを持ってきた。

「久保くーん、手伝うよー!!」

「滝川か、どうしたんだ?」

「久保くん、打撃練習しかすることないでしょ?練習相手いないかなって」

「そりゃ、助かるけど」

「じゃあ、トス出してあげるから打ちなよ」

 そうして、トスバッティングが始まった。まなのトスする球を、良い音を響かせて久保が打ち返していく。

「滝川、トスするのうまいな」

「まあ、中学の頃からやってるからねー」

 そんな会話をしながら、ただ打ち続けていく。やがて全て打ち終わり、二人でネットに入った球をかごに戻し始めた。

 久保はふと、グラウンドで守備練習をする部員たちを見た。何でもないように、捕った球を一塁に送球していく。そんな当たり前の景色でも、彼にとっては羨ましいものだったのだ。

「やっぱり、みんなと練習したい?」

 久保の後ろから、まなが声をかけてきた。

「野球をやる以上は、そりゃな」

「そっか……」

 まなは黙り込んでしまった。

「どうした、滝川?」

「あたしと同じだね」

「え?」

 意外な言葉に、久保は驚かされた。

「あたし、中学の頃はマネージャーじゃなくて選手だったから」

 久保に対し、まなは静かにそう告げた。彼女はグラウンドの方を見つめ、少し寂しそうな表情をしていた。

 それを見た久保は、何かを思いついたようにはっとした。バットを持ち、まなに差し出した。

「今度は滝川が打てよ。俺がトスするからさ」

 まなは困惑した表情で、久保に返事した。

「えっ??いいよ、私は」

「何言ってんだよ。こういうのはかわりばんこだろ」

「じゃ、じゃあ……」

 久保に促されるまま、まなはバットを受け取った。

「よし、いくぞ」

 久保がトスをあげ、今度はまながバットを振る。最初は戸惑っていた彼女も、段々と本気でスイングするようになってきた。

「久保くん、もっと速く!!」

「おうよ!!」

 カーンカーンという音が響き渡る。まなは、打撃の感触を存分に味わっていた。そして、あっという間にかごの球を打ち尽くしてしまった。

「ありがとう、久保くん!! すっごい楽しかった!!」

「なら、良かったよ」

 ボールを片付けながら、二人は楽しげに会話していた。昨日いがみ合っていたとは思えないほど、すっかり打ち解けてしまったのである。二人にとって、野球とはそういうものだった。

「滝川、今日は助かったよ。良ければ、明日からも手伝ってくれないか」

「もちろん! その代わり、お願いがあるんだけど」

「なに?」

「おにーちゃんと間違えないように、まなって呼び捨てにして!」

 まなは少し照れながら、そう言った。

「分かったよ、まな。明日からもよろしくな!」

 そう言って、二人はハイタッチした。

 間もなく他の部員たちの練習も終わり、ミーティングの時間となった。竜司がいろいろと話したあと、こんなことを言いだした。

「それからだな、来月に練習試合をすることになった。夏の大会に向けて、本気でいくぞ」

「相手はどこなんだ?」

 副キャプテンの神林がそう問うと、竜司はふふんと小さく笑った。

「相手はなんと、自英学院だ!!」

 それを聞いた久保の表情が、一気に曇った。
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