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無音
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今日の診察もだいたい終わりだな。俺は前の患者のカルテを書きながら、ふうと息をついた。「先生、あと一人お待ちです」という看護師の声に、俺は了解と返事をした。
少し待つと、二十代くらいの若い男が姿を見せた。男は「失礼します」と不安げな声で言いながら、診察室に入ってきた。俺は椅子に座るよう促し、診察を始める。
「今日はどうされましたか?」
「あのー、今日具合が悪いというわけでなくて」
「というと?」
「ここしばらく、変なんです」
慢性の疾患だろうか。もっと詳しく聞いてみないと分からないな。
「具体的にはどのように変なのですか?」
「あの、聴診器で胸の音を聞いてくださいませんか」
「え?」
胸の音を聞いてほしい?そんなふうにリクエストされるのは初めてだな。胸痛か何かで困っているのだろうか。
「胸が痛いとか、そういった症状でしょうか?」
「いえ、そうじゃないんです。とにかく聞いてみてください」
なんだかやけに必死だ。そんなに言うなら聞いてみるか。俺は聴診器を手に取り、患者の胸に当てる。
ん?聞こえない。生きている人間なら誰でも聞こえるはずの音が全く聞こえない。聴診器が壊れたのか?
「すいません、一度大きく深呼吸してください」
そう言うと、男は大きく息を吸って、吐いた。すると、両耳にごおおという音が聞こえてきた。呼吸音が聞こえているということは、聴診器の故障じゃない。まさか……
「私、この間から心臓の音が聞こえないんです」
その言葉を聞き、俺は大きく動揺した。病気で心音に雑音が混ざるってのはよくある。が、心音そのものを聞き取れないとはどういうことだ。
少し考えたが、とりあえずレントゲンを撮ることにした。何の病気か分からんが、撮ってみないと始まらない。男をレントゲン室に案内し、レントゲン写真を撮る。
しばらくして出てきた画像を見て、俺は驚いた。なんと、はっきり心臓の形が写っているではないか。形になんの異常もないし、全く健康的な心臓に見える。とにかく、話を聞いてみなければ。俺は改めて男を診察室に呼び、いろいろと話を聞いてみることにした。もしかしたら、最近の出来事に何かヒントがあるかもしれない。
「心臓の音がしないのはいつからですか?」
「正確には分かりません。ふと違和感があって他人に聞いてもらったら、音がしなかったんです」
「最近、何かありましたか?どんな些細なことでも構いませんから」
「ありません。最近は仕事が少なくて、暇してますし」
ますます分からなくなってきた。俺は診断をつけるのを諦め、後日もう一度来てもらうよう頼んだ。男は了解し、今日は帰って行った。
その後、いろいろな文献を調べたり、他の医者に聞いて回ったりしたが、原因と思しき疾患を見つけることは出来なかった。
結局大した成果がないまま、その男は再びやってきた。俺は再度、いろいろと問診する。
「最近はどうですか?」
「相変わらず聞こえないみたいです」
「体重、睡眠状況、体温などに変化はありましたか?」
「ありません。毎日健康ですし、よく眠れていますね。昼まで寝ちゃうこともありますよ」
手がかりなしか。俺は聴診器を手にし、もう一度胸の音を聞いてみることにした。「では、失礼しますね」と言いながら、男の胸に聴診器を押し当てる。
やはり心音が聞こえない。俺は前と同じように、深呼吸してもらうことにした。
「すいません、深呼吸してみてください」
「分かりました」
男はゆっくりと息を吸った。ん?
前回、呼吸音は聞こえたのに、今日はそれすらも聞こえない。何度も深呼吸してもらうが、やはり聞こえない。聴診器は別に壊れていないようだが、これは……どうしたものか。
「あのお、どうなんですか?」
「どうやら、呼吸音も聞こえなくなったようです」
「ええっ?」
「もう一度、レントゲンを撮ってみましょう」
そうして、再度レントゲンを撮ることにした。が、画像に写っているのは健康的な心臓と肺だった。こんな病気、見たことがない。ますます混乱してきた。
よし、やれることは全部やってみよう。
「そこのベッドに横になって、服を脱いでみてくれませんか?体表から観察してみます」
「分かりました」
そうやって俺は服を脱がせ、男を寝かせた。上半身を見る限り異常はない。「少し触りますね」と言って、俺は触診に移る。
たしかに、ここに心臓があるはず…… 俺はそう思いながら、胸のあたりの皮膚をさわる。が、何もない。これも駄目だな、そう思っていた矢先、手先に変な感覚を覚えた。
なんだ、これ?俺はそのあたりを重点的に触ってみる。すると、かすかに傷のようなものがある。見た目では分からないほどだが、一体これは何だろう。
「あの、胸のこのあたりに傷があるんですが心当たりはありますか?」
「え?ないです」
「昔に手術などされたことは?」
「ありません。昔から健康でしたから」
うーむ……。気のせいか。そういえば、腹の音はどうなんだろう。折角服を脱いでもらってるし、聞いてみるか。
そして腹に聴診器を当ててみると、ぐるぐると腸蠕動音が聞こえてきた。こっちは聞こえるのか、よく分からんなあ。
結局その日も何も分からず、また後日来てもらうことにした。男が診察室から出るのを見送ってしばらくしたあと、病院受付のおばちゃんがやって来た。
「あの、先生?」
「ああ、受付の。どうかされました?」
「あの若い男の患者さんいるでしょ?」
「ええ」
「何だか最近、お金に困ってるみたいよ」
「というのは?」
「仕事が減って家賃払うのも大変なんだって言ってたわ。先生何か聞いてない?」
「特には聞いてないですね」
前のときに仕事が減って暇だとは言っていたが、そんなに金がなかったのか。けど、今回の件に関係があるかは分からないな。
「分かりました、教えていただきありがとうございます」
俺はおばちゃんに礼をした。
俺は再びいろいろと調べたが、何も手がかりは得られなかった。胸の傷だけが気になるが、本人も分からないんだからどうしようもない。次の診察で分からなかったら、紹介状を書いて大きい病院に転院してもらおう。
そんなことを考えていると、次の診察の日になった。前回までと同様に胸の音を聞くが、相変わらず何も聞こえない。じゃあ腹の音はどうか。俺は男の腹に聴診器を当てる。
「……何も聞こえない」
「え?」
「お腹の音も聞こえなくなったようです。正直、私では力不足です。大学病院に紹介しますから、そこで精密検査を受けましょう」
「分かりました。先生、今までありがとうございました」
まさか腹の音まで聞こえなくなるとは。もう降参だよ、こんなのは。俺は紹介状を認め、男に手渡した。
それから一年ほど経った。いつも通り診察をしていると、電話が鳴った。電話を取ると、例の男を紹介した大学病院からだった。
「そちらから紹介していただいた患者さんについてお伝えすることがありまして」
「はあ、どんな用件です?」
「あの患者さん、診察中に亡くなりまして」
え??亡くなった??
「どういうことですか?」
「ええ、こちらで診察しているときに突然倒れられましてね」
「それで」
「心肺蘇生を試みましたが、あっという間に亡くなられました。死因の見当がつかなかったので、解剖することになりました」
「ほう」
解剖したなら、無音だった原因も分かるかもしれない。そんな淡い期待を抱いたが、斜め上の方向に裏切られた。
「あの患者さん、臓器が全てハリボテでした」
は??ハリボテ??
「作り物だったんですよ。見た目は立派だったんですが、中身はずさんでした」
「ええ?」
それでレントゲンでは正常に写っていたのか。ただ中身がずさんだから音がせず、挙句の果てに機能しなくなったというわけか。
「それから、手術痕が多く見られました。体表のはうまく隠してあったのですが、内部にははっきりと残っていましたよ」
「つまり、どういうことです?」
「あの患者さん、臓器をすり替えられていたんですよ」
俺はそれが何を意味するのかを理解し、恐怖で慄いた。そうか、最初は心臓だけすり替えられたあと、肺、消化器と少しずつすり替えられたんだ。そして全部すり替わるまで男が死なないように、質の低いハリボテ臓器を仕込んでいたんだ。
男は相当金に困っていたようだし、もしかしたら危ないところから金を借りていたのかもしれない。けど、今日日あからさまに臓器売買なんて出来るわけがないから、用意周到に実行されたんだ。
だがそれでも不審な点はある。「いつ」すり替えが行われたんだ。男は特に変なことは無いと言っていたし。俺は電話先に向かって問いかける。
「いえ、それはおかしいでしょう。そんなすり替え、どうやってやるんですか」
「警察に通報したら捜査が進みましてね。アパートの大家がグルだったんですよ」
「というのは?」
「男の寝ている間に家に忍び込んで、すり替えをしていたんです。麻酔を周到にかけて、気づかれぬように」
馬鹿な。そんなことがあり得てたまるのか……。ん?待てよ。
俺は、診察の中で男が言っていたことを必死に思い出した。……そうだ、まさにこんなことを言っていたな。
「よく眠れていますね。昼まで寝ちゃうこともありますよ」
少し待つと、二十代くらいの若い男が姿を見せた。男は「失礼します」と不安げな声で言いながら、診察室に入ってきた。俺は椅子に座るよう促し、診察を始める。
「今日はどうされましたか?」
「あのー、今日具合が悪いというわけでなくて」
「というと?」
「ここしばらく、変なんです」
慢性の疾患だろうか。もっと詳しく聞いてみないと分からないな。
「具体的にはどのように変なのですか?」
「あの、聴診器で胸の音を聞いてくださいませんか」
「え?」
胸の音を聞いてほしい?そんなふうにリクエストされるのは初めてだな。胸痛か何かで困っているのだろうか。
「胸が痛いとか、そういった症状でしょうか?」
「いえ、そうじゃないんです。とにかく聞いてみてください」
なんだかやけに必死だ。そんなに言うなら聞いてみるか。俺は聴診器を手に取り、患者の胸に当てる。
ん?聞こえない。生きている人間なら誰でも聞こえるはずの音が全く聞こえない。聴診器が壊れたのか?
「すいません、一度大きく深呼吸してください」
そう言うと、男は大きく息を吸って、吐いた。すると、両耳にごおおという音が聞こえてきた。呼吸音が聞こえているということは、聴診器の故障じゃない。まさか……
「私、この間から心臓の音が聞こえないんです」
その言葉を聞き、俺は大きく動揺した。病気で心音に雑音が混ざるってのはよくある。が、心音そのものを聞き取れないとはどういうことだ。
少し考えたが、とりあえずレントゲンを撮ることにした。何の病気か分からんが、撮ってみないと始まらない。男をレントゲン室に案内し、レントゲン写真を撮る。
しばらくして出てきた画像を見て、俺は驚いた。なんと、はっきり心臓の形が写っているではないか。形になんの異常もないし、全く健康的な心臓に見える。とにかく、話を聞いてみなければ。俺は改めて男を診察室に呼び、いろいろと話を聞いてみることにした。もしかしたら、最近の出来事に何かヒントがあるかもしれない。
「心臓の音がしないのはいつからですか?」
「正確には分かりません。ふと違和感があって他人に聞いてもらったら、音がしなかったんです」
「最近、何かありましたか?どんな些細なことでも構いませんから」
「ありません。最近は仕事が少なくて、暇してますし」
ますます分からなくなってきた。俺は診断をつけるのを諦め、後日もう一度来てもらうよう頼んだ。男は了解し、今日は帰って行った。
その後、いろいろな文献を調べたり、他の医者に聞いて回ったりしたが、原因と思しき疾患を見つけることは出来なかった。
結局大した成果がないまま、その男は再びやってきた。俺は再度、いろいろと問診する。
「最近はどうですか?」
「相変わらず聞こえないみたいです」
「体重、睡眠状況、体温などに変化はありましたか?」
「ありません。毎日健康ですし、よく眠れていますね。昼まで寝ちゃうこともありますよ」
手がかりなしか。俺は聴診器を手にし、もう一度胸の音を聞いてみることにした。「では、失礼しますね」と言いながら、男の胸に聴診器を押し当てる。
やはり心音が聞こえない。俺は前と同じように、深呼吸してもらうことにした。
「すいません、深呼吸してみてください」
「分かりました」
男はゆっくりと息を吸った。ん?
前回、呼吸音は聞こえたのに、今日はそれすらも聞こえない。何度も深呼吸してもらうが、やはり聞こえない。聴診器は別に壊れていないようだが、これは……どうしたものか。
「あのお、どうなんですか?」
「どうやら、呼吸音も聞こえなくなったようです」
「ええっ?」
「もう一度、レントゲンを撮ってみましょう」
そうして、再度レントゲンを撮ることにした。が、画像に写っているのは健康的な心臓と肺だった。こんな病気、見たことがない。ますます混乱してきた。
よし、やれることは全部やってみよう。
「そこのベッドに横になって、服を脱いでみてくれませんか?体表から観察してみます」
「分かりました」
そうやって俺は服を脱がせ、男を寝かせた。上半身を見る限り異常はない。「少し触りますね」と言って、俺は触診に移る。
たしかに、ここに心臓があるはず…… 俺はそう思いながら、胸のあたりの皮膚をさわる。が、何もない。これも駄目だな、そう思っていた矢先、手先に変な感覚を覚えた。
なんだ、これ?俺はそのあたりを重点的に触ってみる。すると、かすかに傷のようなものがある。見た目では分からないほどだが、一体これは何だろう。
「あの、胸のこのあたりに傷があるんですが心当たりはありますか?」
「え?ないです」
「昔に手術などされたことは?」
「ありません。昔から健康でしたから」
うーむ……。気のせいか。そういえば、腹の音はどうなんだろう。折角服を脱いでもらってるし、聞いてみるか。
そして腹に聴診器を当ててみると、ぐるぐると腸蠕動音が聞こえてきた。こっちは聞こえるのか、よく分からんなあ。
結局その日も何も分からず、また後日来てもらうことにした。男が診察室から出るのを見送ってしばらくしたあと、病院受付のおばちゃんがやって来た。
「あの、先生?」
「ああ、受付の。どうかされました?」
「あの若い男の患者さんいるでしょ?」
「ええ」
「何だか最近、お金に困ってるみたいよ」
「というのは?」
「仕事が減って家賃払うのも大変なんだって言ってたわ。先生何か聞いてない?」
「特には聞いてないですね」
前のときに仕事が減って暇だとは言っていたが、そんなに金がなかったのか。けど、今回の件に関係があるかは分からないな。
「分かりました、教えていただきありがとうございます」
俺はおばちゃんに礼をした。
俺は再びいろいろと調べたが、何も手がかりは得られなかった。胸の傷だけが気になるが、本人も分からないんだからどうしようもない。次の診察で分からなかったら、紹介状を書いて大きい病院に転院してもらおう。
そんなことを考えていると、次の診察の日になった。前回までと同様に胸の音を聞くが、相変わらず何も聞こえない。じゃあ腹の音はどうか。俺は男の腹に聴診器を当てる。
「……何も聞こえない」
「え?」
「お腹の音も聞こえなくなったようです。正直、私では力不足です。大学病院に紹介しますから、そこで精密検査を受けましょう」
「分かりました。先生、今までありがとうございました」
まさか腹の音まで聞こえなくなるとは。もう降参だよ、こんなのは。俺は紹介状を認め、男に手渡した。
それから一年ほど経った。いつも通り診察をしていると、電話が鳴った。電話を取ると、例の男を紹介した大学病院からだった。
「そちらから紹介していただいた患者さんについてお伝えすることがありまして」
「はあ、どんな用件です?」
「あの患者さん、診察中に亡くなりまして」
え??亡くなった??
「どういうことですか?」
「ええ、こちらで診察しているときに突然倒れられましてね」
「それで」
「心肺蘇生を試みましたが、あっという間に亡くなられました。死因の見当がつかなかったので、解剖することになりました」
「ほう」
解剖したなら、無音だった原因も分かるかもしれない。そんな淡い期待を抱いたが、斜め上の方向に裏切られた。
「あの患者さん、臓器が全てハリボテでした」
は??ハリボテ??
「作り物だったんですよ。見た目は立派だったんですが、中身はずさんでした」
「ええ?」
それでレントゲンでは正常に写っていたのか。ただ中身がずさんだから音がせず、挙句の果てに機能しなくなったというわけか。
「それから、手術痕が多く見られました。体表のはうまく隠してあったのですが、内部にははっきりと残っていましたよ」
「つまり、どういうことです?」
「あの患者さん、臓器をすり替えられていたんですよ」
俺はそれが何を意味するのかを理解し、恐怖で慄いた。そうか、最初は心臓だけすり替えられたあと、肺、消化器と少しずつすり替えられたんだ。そして全部すり替わるまで男が死なないように、質の低いハリボテ臓器を仕込んでいたんだ。
男は相当金に困っていたようだし、もしかしたら危ないところから金を借りていたのかもしれない。けど、今日日あからさまに臓器売買なんて出来るわけがないから、用意周到に実行されたんだ。
だがそれでも不審な点はある。「いつ」すり替えが行われたんだ。男は特に変なことは無いと言っていたし。俺は電話先に向かって問いかける。
「いえ、それはおかしいでしょう。そんなすり替え、どうやってやるんですか」
「警察に通報したら捜査が進みましてね。アパートの大家がグルだったんですよ」
「というのは?」
「男の寝ている間に家に忍び込んで、すり替えをしていたんです。麻酔を周到にかけて、気づかれぬように」
馬鹿な。そんなことがあり得てたまるのか……。ん?待てよ。
俺は、診察の中で男が言っていたことを必死に思い出した。……そうだ、まさにこんなことを言っていたな。
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