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第一 疑惑
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無知蒙昧の凡人が
聖なる知識に触れたらば
どんな裁きが下るやら
「化学者 タッチ ザ エクスプロージョン」
唐突に静寂を斬り裂いた、奇妙奇天烈ながらやかましい音楽で目が覚めた。頭が痛い。
私はまだ睡魔に足を掴まれたままだったが、無理にでも体を起こす必要があった。
「ノレル ア カペラ ラ ラ ラ」
常人では聴き取り得ない、実に奇妙な音楽は、私の手によってそこで止められることとなった。
自分でも妙なセンスをしているということは自覚しているが、電話が掛かってくる度にこれが流れるのは如何なるものだろうか。
「おっはよぉぉうござぁいまぁぁす!」
先程の曲を遥かに超えるやかましい声が、再び静寂を斬り裂いた。
「っす・・・」
寝起き、というよりつい数秒前まで眠っていたので、まともに挨拶を返すことすらままならず、やっとの思いで私はほぼ唸り声に近い挨拶を返した。
無理にでも起きなければならないのも当然である。電話を掛けてきたその人は、私が日頃お世話になっている先輩だからだ。
「あぇ、寝起きか。いつまで寝てんだよお前は。」
時計に目をやると、短針は三、長針は七を指していた。
「おかげさまで、今日は早起きっすよ・・・」
なんせ私は、所謂夜型人間だ。人々が行動する時間には眠り、人々が休む時間には行動する。
「もう三時半じゃねえかよ。何が早起きだ。」
常識人には、非常識人の常識が通用しない。理解もできないことだろう。
「で、なんすか急に。」
「あぁそう、クワガタ捕まえたんだよ。お前昆虫好きじゃん?要るよな?」
クワガタという単語一つで、私は、足を掴んだままの睡魔を蹴飛ばすことができた。
今は七月も半ばに差し掛かる頃だし、何せ、私は昆虫、特にカブトムシやクワガタムシをはじめとした甲虫がたまらなく好きなのだから。
「まじすか、要ります・・・けど、どこで捕まえたんすか?」
「捕まえたっつーか拾ったんだよ。仕事場の排水溝になんか黒いのが落ちてんの見えてさ。で、よく観たらクワガタだったんだよ。」
「あぁ、仕事場山ん中ですもんね・・・多分ドルクス属のなんかっすね。」
「ドルクー・・・?なんか知らんがとりま持ってくわ。入れもんないから今俺の腕に掴まってもらってんの。」
「えぇ・・・どういう状態っすかそれ・・・」
クワガタムシを腕に掴まらせたまま住宅街を移動する人間が、どこにいるというのだろうか。
先輩の発言から、私はそれがドルクス属、つまりオオクワガタ属の何かであることは把握していた。
人目によく留まるものといえば、概ねヒラタクワガタかコクワガタのどちらかであろう。
ましてや、この周辺にアカアシクワガタなど、それら以外が生息しているという情報は聞いたこともない。
しかし、気になる点があった。ヒラタクワガタも、コクワガタも、刺激すると大半の個体は擬死、つまり死んだフリをする。
それを腕に掴まらせたまま移動するとは・・・
それに、先輩の話ぶりとその周囲の雑音から、仕事帰りの車内であることは明確であった。
あの人はあの人の車を自分で運転して通勤している。
要は、腕にクワガタがくっついたまま、車を運転してこちらに向かって移動中ということだ。なんとシュールな絵面であろうか。
・・・ではなくて、本来擬死するであろうクワガタが、なぜそのような環境下で人の腕にずっと掴まっているのか。
たまたまそういう個体なのかもしれないが、既に私は、何か違和感を覚えていた。
「まーとりあえずあと二十分くらいで着くと思うからさー、起きといてね。」
「・・・うっす。」
再び静寂が訪れた。元自衛官であることも相まって、先輩はとにかく声が大きい。
・・・いずれにしても起きなければ。
私は寝室を後に、サッサと歯磨きと洗顔を済ませ、コーヒーを二杯用意した。
「おーーーーーっす」
玄関から、扉を開けなくてもわかるくらい、はっきりとした大きな声が聞こえた。到着したようだ。
「おす。とりあえず上がってくださいよ・・・マジで腕にクワガタくっついてるし・・・」
「おう」
確かに、そのクワガタは、先輩の筋肉質な腕をがっしりと抱えていた。
「お、コーヒー用意してくれてたん?相変わらず気が利くねぇ。」
「まあ、あらかじめ来ることがわかってますし・・・いつもと違って。」
いつも、先輩は突然うちにやってくる。私が所謂貧乏人でもあることに気を配ってか、時折冷凍の唐揚げやら、肉やら酒やら、様々な飲食物を提供してくれる。
・・・事前連絡もなく突然に。いつも。
せめてものお礼にと、私はいつも珈琲を淹れる。私にとって良き嗜好品であるだけでなく、私の淹れる珈琲は美味いと、知り合いの中では好評なのだ。
「で、これは何だ?ヒラタ?コクワ?」
「コクワっすね。しかも随分立派な。」
泥にまみれていたが、大型のコクワガタだった。しかし何かがおかしい。汚れているせいだろうか?
「こいつえらく力強くてさぁー、よくずっと掴まってられたよなぁ。」
「力強く・・・?」
「あぇ?なんか変か?」
「コクワガタはそんなに脚の力は強くないはずなんすよね。」
「はぇー。」
先輩は、昆虫にさほど興味がないらしい。
実際、多少の知識があればすぐにわかるはずのコクワガタがコクワガタということすら直前までわからなかったのだから、ましてやそれぞれの種が持つ生態や性質など知っているわけがない。
「でもたまたまかもしれんやん?」
恐らく個体差のことを言っているのだろう。
「まあ、そうかもしれないっすけど・・・一応調べてみますね。」
「お前そういうの詳しいもんなー。」
「単に好きなだけっすよ。専門家じゃないですし。」
好きなものであるなら、ある程度の知識が付くのは当然だ。かと言って、深い知識があるのか問われると、そうでもない。
例えば、銃が好きな人がいるとして、その人にM4カービンを見せれば、大概の場合はすぐにそれがM4だとわかるだろうし、その使い方もわかるだろう。
しかし、M4であるとわかった人でも、それが西暦何年にアメリカ軍に採用されたもので、どのような作動方式をしていて、どのようなライフリングが刻まれているかなんて、余程オタクであるか専門家でない限りわかる人はそう居ない。
単純に生き物が好きなだけの私が、まさかそんな領域に片足を突っ込むことになるとは、この時全くもって予想していなかった。
聖なる知識に触れたらば
どんな裁きが下るやら
「化学者 タッチ ザ エクスプロージョン」
唐突に静寂を斬り裂いた、奇妙奇天烈ながらやかましい音楽で目が覚めた。頭が痛い。
私はまだ睡魔に足を掴まれたままだったが、無理にでも体を起こす必要があった。
「ノレル ア カペラ ラ ラ ラ」
常人では聴き取り得ない、実に奇妙な音楽は、私の手によってそこで止められることとなった。
自分でも妙なセンスをしているということは自覚しているが、電話が掛かってくる度にこれが流れるのは如何なるものだろうか。
「おっはよぉぉうござぁいまぁぁす!」
先程の曲を遥かに超えるやかましい声が、再び静寂を斬り裂いた。
「っす・・・」
寝起き、というよりつい数秒前まで眠っていたので、まともに挨拶を返すことすらままならず、やっとの思いで私はほぼ唸り声に近い挨拶を返した。
無理にでも起きなければならないのも当然である。電話を掛けてきたその人は、私が日頃お世話になっている先輩だからだ。
「あぇ、寝起きか。いつまで寝てんだよお前は。」
時計に目をやると、短針は三、長針は七を指していた。
「おかげさまで、今日は早起きっすよ・・・」
なんせ私は、所謂夜型人間だ。人々が行動する時間には眠り、人々が休む時間には行動する。
「もう三時半じゃねえかよ。何が早起きだ。」
常識人には、非常識人の常識が通用しない。理解もできないことだろう。
「で、なんすか急に。」
「あぁそう、クワガタ捕まえたんだよ。お前昆虫好きじゃん?要るよな?」
クワガタという単語一つで、私は、足を掴んだままの睡魔を蹴飛ばすことができた。
今は七月も半ばに差し掛かる頃だし、何せ、私は昆虫、特にカブトムシやクワガタムシをはじめとした甲虫がたまらなく好きなのだから。
「まじすか、要ります・・・けど、どこで捕まえたんすか?」
「捕まえたっつーか拾ったんだよ。仕事場の排水溝になんか黒いのが落ちてんの見えてさ。で、よく観たらクワガタだったんだよ。」
「あぁ、仕事場山ん中ですもんね・・・多分ドルクス属のなんかっすね。」
「ドルクー・・・?なんか知らんがとりま持ってくわ。入れもんないから今俺の腕に掴まってもらってんの。」
「えぇ・・・どういう状態っすかそれ・・・」
クワガタムシを腕に掴まらせたまま住宅街を移動する人間が、どこにいるというのだろうか。
先輩の発言から、私はそれがドルクス属、つまりオオクワガタ属の何かであることは把握していた。
人目によく留まるものといえば、概ねヒラタクワガタかコクワガタのどちらかであろう。
ましてや、この周辺にアカアシクワガタなど、それら以外が生息しているという情報は聞いたこともない。
しかし、気になる点があった。ヒラタクワガタも、コクワガタも、刺激すると大半の個体は擬死、つまり死んだフリをする。
それを腕に掴まらせたまま移動するとは・・・
それに、先輩の話ぶりとその周囲の雑音から、仕事帰りの車内であることは明確であった。
あの人はあの人の車を自分で運転して通勤している。
要は、腕にクワガタがくっついたまま、車を運転してこちらに向かって移動中ということだ。なんとシュールな絵面であろうか。
・・・ではなくて、本来擬死するであろうクワガタが、なぜそのような環境下で人の腕にずっと掴まっているのか。
たまたまそういう個体なのかもしれないが、既に私は、何か違和感を覚えていた。
「まーとりあえずあと二十分くらいで着くと思うからさー、起きといてね。」
「・・・うっす。」
再び静寂が訪れた。元自衛官であることも相まって、先輩はとにかく声が大きい。
・・・いずれにしても起きなければ。
私は寝室を後に、サッサと歯磨きと洗顔を済ませ、コーヒーを二杯用意した。
「おーーーーーっす」
玄関から、扉を開けなくてもわかるくらい、はっきりとした大きな声が聞こえた。到着したようだ。
「おす。とりあえず上がってくださいよ・・・マジで腕にクワガタくっついてるし・・・」
「おう」
確かに、そのクワガタは、先輩の筋肉質な腕をがっしりと抱えていた。
「お、コーヒー用意してくれてたん?相変わらず気が利くねぇ。」
「まあ、あらかじめ来ることがわかってますし・・・いつもと違って。」
いつも、先輩は突然うちにやってくる。私が所謂貧乏人でもあることに気を配ってか、時折冷凍の唐揚げやら、肉やら酒やら、様々な飲食物を提供してくれる。
・・・事前連絡もなく突然に。いつも。
せめてものお礼にと、私はいつも珈琲を淹れる。私にとって良き嗜好品であるだけでなく、私の淹れる珈琲は美味いと、知り合いの中では好評なのだ。
「で、これは何だ?ヒラタ?コクワ?」
「コクワっすね。しかも随分立派な。」
泥にまみれていたが、大型のコクワガタだった。しかし何かがおかしい。汚れているせいだろうか?
「こいつえらく力強くてさぁー、よくずっと掴まってられたよなぁ。」
「力強く・・・?」
「あぇ?なんか変か?」
「コクワガタはそんなに脚の力は強くないはずなんすよね。」
「はぇー。」
先輩は、昆虫にさほど興味がないらしい。
実際、多少の知識があればすぐにわかるはずのコクワガタがコクワガタということすら直前までわからなかったのだから、ましてやそれぞれの種が持つ生態や性質など知っているわけがない。
「でもたまたまかもしれんやん?」
恐らく個体差のことを言っているのだろう。
「まあ、そうかもしれないっすけど・・・一応調べてみますね。」
「お前そういうの詳しいもんなー。」
「単に好きなだけっすよ。専門家じゃないですし。」
好きなものであるなら、ある程度の知識が付くのは当然だ。かと言って、深い知識があるのか問われると、そうでもない。
例えば、銃が好きな人がいるとして、その人にM4カービンを見せれば、大概の場合はすぐにそれがM4だとわかるだろうし、その使い方もわかるだろう。
しかし、M4であるとわかった人でも、それが西暦何年にアメリカ軍に採用されたもので、どのような作動方式をしていて、どのようなライフリングが刻まれているかなんて、余程オタクであるか専門家でない限りわかる人はそう居ない。
単純に生き物が好きなだけの私が、まさかそんな領域に片足を突っ込むことになるとは、この時全くもって予想していなかった。
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