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バブルを試着(たいけん)してみませんか?

バブルスーツ

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「お客さん。着替え終わりましたか?」

 半ば無理やりスーツの試着をすることになったワタルであった。

 来て見ると、思いのほかぴったりで、裾も袖もちょうど良い長さ。前のこの服の持ち主は彼と似たような体型の持ち主であったのだろう。まるで自分がかつてこの服を来ていたかのような気がしてしまうほどであった。

 ちょっとびっくりした。ワタルは、この時代遅れの服が意外に自分に似合っていることに驚いていた.

 いや、厚い肩パッドにブカブカのウェスト。明らかに今の時代の服とは違う。これを着こなして現代の街中を歩くのは自分には無理だ。そうワタルは思っていた。

 しかし、似合っているのだ。この服が。その時代が。似合うのだった。そのことにワタルはびっくりした。

 この服の作られた時代に生まれていたら? 日本が元気な時代に青年時代を過ごしていたら? 自分は違っていたのでは? 試着室の奥の鏡に映る、自分のそんな姿を見て、そんなふうにワタルはおもってしまうのだった。

 それは、もちろん、願望も入っているだろう。大学卒業後の、自分のいまいちぱっとしない社会人生活。それも時代のせいに思えてくるのだった。

 彼は、今しがた、この時代でも一廉の社会人としてのスタートを切った同窓や同年代の若者と、友人の結婚式で会って、自らを卑下したばかり。この今の時代でも、努力して、その結果の機会を得たものへの、自分がそうでなかったことへの、嫉妬、つらみは彼を、「もしも?」の妄想に誘うのだった。

 そう。もしも……自分がバブル時代に大学を卒業していたなら? 自分は大きく化けていたのでは? 本領を発揮して、今頃は一流企業で世界を股にかける活躍を?

 ワタルの顔が少し歪む。自信なく、おどおどとしていた彼の表情は、不敵な、野心を抱くビジネスマンの顔に変わる。それは世界中を買い尽くそうとさえ思っている、かつてのジャパニーズ・ビジネスマンの顔。ナンバーワンとしての日本に自負を持ち、それに見合うだけの成果を自らに課し、プレッシャーにも負けずに、ビジネスという戦場で二十四時間戦い続ける。

 自分は……生まれた時代が違えば、そんな男になれたのでは?

 そんなことをワタルは思うのだった。

 当座の職の心配をしている男が、たかだか昔の景気の良い時代の服を着ただけで、世界のビジネスを指先ひとつで左右する傑物に変われる。妄想にしても、随分と都合が良いものである。

 しかし、社会人三年目、そんな時期に早くも友人たちに差をつけられてしまっていたワタルであった。何しろへこみにへこんで、結婚式の二次会を途中で抜けだして帰るほどに精神的にまいってしまっていた彼に免じて、誰に迷惑をかけるわけでもない妄想の一つや二つはご容赦願いたいと、切に願うわけであるが……

 服は人を作るという言葉があるように、服がワタルの秘めた可能性を引き出した。いや、もしかしたら、彼を変えてしまうことだってあるのではないか? 時代が悪いと嘆くワタルの、あらかじめ失われた人生も変わることもある。そんなことが今起きようとしている。

 #例えば_イフ__#……

   *

 鏡を見ながら、少しニヒルな笑みを浮かべて悦に入っているという、ちょっと恥ずかしい様子のワタルに、

「どうですか? 着替え終わりましたか?」

 店員が彼の着替えが終わったか聞いてきた。

 その瞬間、自分の陶酔した表情に気づき、恥ずかしくなると、

「えっ……あ、はい」

 慌てて、一瞬声を裏返しながら返事をするワタル。

 彼はさっと顔を赤くする。

 しかし、その時、カーテンが少し開き、そこから女店員が首を出して言う。
 
「おっ! お客さん良い感じですね! 似合っちゃってますね」

 そんな言葉で褒められながら、驚嘆した表情で語りかけられれば、まんざらでもない様子のワタル。無意識にカッコつけてキメ顔になってしまう。そんな様子の彼を嬉しそうに、ちょっと悪戯っぽい表情で見つめる店員。
 
「うん。心まですっかり変身ですね。これならサポートしがいがあるというものです!」

「サポート……?」

 言われた意味がわからなくて一瞬言葉を詰まらせるワタル。

「そう、サポートです! では、早速行きましょうか!」

「えっ……?」

 すると、試着室のカーテンが一気に開けられて、Tシャツにジーンズのカジュアルな格好だった彼女は、いつの間にかスーツ姿に着替えている。

「バブル……」

 今のワタルの来ている服に合わせるかのように、バブル時代のOLが着ていたような、肩パッドの張った鋭角な形のスーツ。自分の試着に付き合ってくれたのか? でもなんでそんなことをする? ワタルは女の意図がわからずに困惑する。

「言ったでしょ。試着たいけんしてみましょうかって? うちはお客様へのサポートが行き届いている店として有名なのよ。見ず知らずの場所にいきなり放り込まれてもあなたも困っちゃうでしょうから、サポートで私がついてあげる。じゃあ、行きましょうか?」

 どこへ?

 ワタルがその疑問を口に出すよりも早く、彼の手を引く店員。

「お店よろしくね!」

 彼女は、レジの後ろにいるメガネをした長い髪の別の店員に声をかけると困惑したままのワタルの手を引き、ショップの外に出る。

「あれ?」
 
 ワタルが、その瞬間に感じたのは、目眩のようなものを伴った、とてつもない違和感であった。いや、その出た場所は中目黒。それは間違いがなかった。路地から出て見えて来たのは桜並木と目黒川沿いの細い道。

 だが、

「こんな店あったっけ?」

 ワタルは首を傾げる。やはり何か違和感があった。今目の前にあるこの街の風景が、なんとなく、ここじゃないといった感覚を呼び起こした。

 もちろん、ワタルは、さっき見たばかりとはいえ、中目黒の通りの光景を、刻一もらさずにちゃんと覚えているわけではない。給料の低い職ばかり渡り歩き、なにより先立つ金も無く、おしゃれにも食べ歩きにも縁がないワタルである。

 そして、家が近いわけでも、職場が近い(そもそも失業中だが)わけでもない。異性にまるでもてないわけではないが、自分にまったく自信が持てない彼に、今彼女なできるわけもなく、デートで桜並木を散策などにも来るわけはない。

 なので、ワタルは、来たのは何年ぶりなのだろうといった中目黒なので、さっきちょっとあるいた時に見た通りの光景をしっかりと覚えているとはいいがたいのであったが……

 ——でもなにか違う。

 もし本当に違うのかと聞かれたなら、命をかけてでもと言われても、「違う」としか答えられないほどの確信をワタルは感じてしまっているのだった。ここは中目黒ではない。それによく似たどこか、といった感じがしてしまう。いや、少なくとも自分がさっきまでいたあの街ではない。

 ワタルは無意識に立ち止まり、あたりを見渡しながら、それ以上進むのに逡巡してしまっていたのだった。

「おっと、やっぱりとまどちゃってますねお客様。でも大丈夫ですよ。そんな時のために私がサポートでついてきたのですから……何なりとお聞きください」

「……」
 
 と言われても? 何を『お聞き』すれば良いのか? ここが中目黒ではないのではと訪ねるのか? 中目黒の店から出て、中目黒の街中に出て来たのは明らかなのに。そんなバカなことを聞いたら、自分がおかしくなったかと思われる? いや、もしかして今日は落ち込みすぎて、本当に自分はおかしくなってしまったのでは? ならば、ここでそれを疑われるような発言は控えた方が良いのでは。そう思えば、喉元まで出かけた言葉を、ぐっと飲み込んでしまうワタルであった。

 しかし、

「聞いて……と言われても困りますよね。何を聞けば良いかって感じですよね。ここはどこか? って思っても、今までいた中目黒以外ではありえないはずなのに、なんか違うって思ってる」

 自分の心の中を読み当てられて、思わず首肯するワタルであった。

「うん。理由はすぐわかりますよ。このまま駅まで歩いていきましょ」

 歩けば何が分かるのか? 言われるままに歩いても、違和感が増すばかりであった。やはり、この街並みは、さっきまで自分がいた「街」で見たものと違う。それは駅に近づき、店に入る前までは見えていたはずの高層ビルが忽然と消えているのが明らかになれば、自分の見間違いや何かではなく、この街に何か異常事態が起きた。自分はその渦中にいつのまにか放り込まれたのだ。とでも思わざるえない。

 ビルが消えた? 川沿いの店がいつの間にか小一時間ほどで入れ替わっている? そんなことがなぜ起きる?

 ビルが崩壊して、店舗の入れ替えが一斉に行われた? 一時間もかからないで? そんなことはそもそも不可能な上、そんな大事件が起きたにしては街はあまりに静かで、落ち着いた様子だ。

 爽やかな春の日曜の夕方。行き交う人はみな楽しげに散策を楽しんでいて、街を襲った異変などにはまったく素知らぬ顔。

 いや違う。ワタルはその時思い至った。街は異変などには襲われていない。

 異変に捉われたのは……

「さあ、着きましたよ。そろそろ分かってきたんじゃないですか?」

 その通りだった。

「僕は、どこに来たんですか?」

「ふふ。ご名答。街が様変わりしたのではなく、お客様が変わったんですよね」

「変わった?」

 ただ店員の言葉はちょっと引っかかった。ワタルが「変わった」と言ったのだ。

「たぶん、お客さまはこんな風に思ってるんじゃないですか? この眼の前の女は、どんな手を使ったのか知らないけれど、いつの間にか自分を、気が付かないうちにどこか自分の知る中目黒とよく似た街に連れて来て、なんの目的かは知らないが、自分を何かの企みに陥れようとしている」

「いや、それは……」

 女の言ったように、ワタルは、今、自分の知る中目黒とよく似た別の街に、いつの間にか女の店員によってつれてこられてしまったのだと思っていた。記憶は途中途切れていないし、だいぶ低くなってきたけれどまだ沈んでいない太陽の様子から考えて、あの古着屋に入ってからの時間もまあだいたい感覚と一致する。自分がが気を失っているうちに遠くに運ばれたとかいうのではない。

 じゃあ、どうやって? というのはわからないし、ワタルなんかをなんのために、こんな手の込んだ仕掛けにはめるのか皆目検討もつかないが、でもさすがに、「企み」に「陥れようとしている」とか言うほどの悪意は女から感じられない。きっと、何か理由があってのこの仕掛けかと彼は思うのだった。

 しかし、

「正解です。私はお客様に対して企みがあります」

「えっ……」

 あっさりとワタルの思いは否定されて、警戒の表情が彼の顔に出る。

「あ、そんなビビらないでくださいよ。最終的には大した話じゃないですよ。服屋の目的なんて、お客様に服を買ってもらうことに決まっています。私は今、お客様が着ています服を、お客様に買っていただいたいのです。大変お似合いですから……」

 しかし、そんな構えた様子のワタルにすぐに営業トーク。褒められて怒る人はまずいないし、ワタルも結構似合ってるなと自分でも思っていたので、彼の表情はちょっと緩む。その隙を女は逃さない。

「でも、だから——だからこそ、本当の意味でその服を着てもらうために、私はお客様に『変わって』もらったのです! その服を着るべき人に、その時代に生きる人に」

「……?」

 一気果敢に話す女の言葉は分かるが意味がさっぱりわからないワタル。だが勢いに押されて、疑問を口に出せないでいる。

「お客様は今、この時代の人です。このバブルのまっただなかの日本のサラリーマンなのです!」

 この時代? バブル? それはどういう意味か? と、ワタルは思った。

 言葉をそのままに取れば、今、ワタルがいるこの時代がバブルだと言いたいように聞こえるが……そんなわけはない。そのバブルの後遺症に苦しみ、失われた二十年と言われた日本。その中でずっと育ち、好景気など知らない彼であった。最近は景気の回復の報をよく聞くようにはなったが、まだまだバブルという言葉には程遠い日本である。

「さあ、参りましょう! バブルの狂乱の日本の中に!」

 やはり意味不明のことをいいながらも、自信満々のキメ顔の女を、若干引き気味に眺めるワタルであった。とはいえ、彼女の自信満々の様子に、もしかしてその言葉にも何か意味があるのでは、それがわからない自分が悪いのでは? と、相変わらず疑問も反論も口に出せないでいる。そんな彼の様子を見て、

「どうやらまだ、ピンときてないようですね。言葉をそのままの意味で捉えてくれればいいのですが……」

 女は、ワタルが彼女の言ったことの意味を理解していない、少し曲解しかけていると気づいたようだった。自分が言ったことをそのままの意味で捉えてくれるだけでいいのに。女はそう思っているのだが、

「……でも人間一度思い込んでしまったら。なかなか固定観念が取れるものじゃないですからね。それに自分がバブルの日本に来たといきなり言われて信じろとというのも難しいと気持ちは察しますよ……なら……」

 百聞は一見にしかず。彼女はそれを実行することにしたのだった。

「じゃあ、もっとそれっぽいところへ移動しちゃいましょう」
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