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『碓氷峠』
父・真田昌幸直筆の書状……というか、書き付けには、ただそれだけが書かれていました。
当たり前の指示書であればその後に当然続くであろう、命令を書いた「本文」がありません。
「全く、我が一族は性急な者ばかりだ」
誰に言うとでもなく、呟きました。
本文のない命令書の本文に当たる部分は自分で考え、動かねばならぬ。
その程度のことが出来なければ、あの人の部下や、ましてや倅は務まりません。
父の考えていることを推察するか、あるいは、その場で己の思う最適な行動を取るか――。
「あの親父殿の腹の内など、私ごときに判るはずがない」
私はこの時の己が僅かに笑ったのを覚えています。
それはともかくとして。
例えその詳細がわからずとも、命令は命令です。
今この時においては、出向いた先でのことはさておき、私は碓氷峠に向かわなければならなりません。
そして、出向く道中から行く先にたどり着くまでの間に、何のためにそこに向かうのか、あるいは誰かと相対する必要があるのか、そしてその相手をどのように出迎えねばならぬのかを考えねばなりません。
目的地に着くまでに思い付かなかったとしても、出迎える相手が眼前に現れる直前までには、私が決めねばならぬのです。
問題は、「出迎える相手は何処の誰か」ということでしょう。
このとき、甲州上州、そして信州を欲し、狙っていた陣営といえば、上杉、北条、徳川の諸勢力、ということになりましょう。
これ以外に、例えば奥州の方々の中にも食指を動かさんという向きはあったのやも知れませんが、あちらの方々が信濃に入るには、まずご自身の領内の安寧を量った上で、北条と当たる必要がありました。ですからこの線は他の三つよりは薄いと断ずることが出来ます。
そして先の三家の中で一番薄いのは上杉です。
彼の方々の本拠はは越後にあります。従って攻め込んでくるとすれば、境を接する北信濃からということになります。
あの鬼武蔵殿が放棄した北信濃には、一揆勢を除けば、あまり障害となる存在がありません。上杉勢は速やかに進入し、彼の地を掌握なされるでしょう。
ですから上杉勢が北信濃を抑えた上で、更に東信濃をもお望みであるならば、そのまま千曲川沿いに上田の平へ進むか、あるいは地蔵峠を越えて真田の庄方面へ向かう、というのが筋です。言わずもがな、どちらの道を取るにしても碓氷峠とは逆方角です。
次に徳川陣営です。
こちらは、本領の三河から入る形となります。
南信濃から進むか、あるいはまず甲斐から入るか。
その時徳川の本体が何処にあるのかによりますが、もし甲斐から入った場合、そこには滝川の諸将と兵がおります。また、その旗下ということになっている武田の遺臣もおります。
織田信長御生害、そのことをまだ知らされていない……であろう武田の遺臣と、元より「同僚」である滝川様と徳川勢が出会ったなら、どうなるのか?
滝川左近将監一益様と徳川蔵人佐様とが不仲であるとは聞き及ばぬ事です。――飛び抜けて良好であるとも聞かぬことですが――それにしても、戦になるとはあまり考えられません。
恐らくはこの、徳川・滝川の二筋の「川」は、並び流れるか、そうでなければ滝川が徳川に流れ込んで一筋の大川になるでしょう。そして北条を飲み込み、碓氷峠と云わずどの山をも越えて、信濃に押し寄せてくると考えられます。
ではそこに北条殿の軍勢しかいなかったなら?
恐らく戦になるでしょう。この時点では勝敗は判断しかねました。それでも徳川勢が碓氷峠を越えようというのなら、その戦に勝つことが必要でした。
しかし、織田信長様御生害の折りにはまだ大阪に居られた徳川家康様です。その後、無事ご本領に戻られたとして、次にどのような動きをなさるでしょうか。
確かに領土拡大の好機ではあります。北条方の不穏な動きも気にかかるでしょう。しかしそれよりも、大謀反人・惟任日向守を討つ方を優先するとも考えられます。
となれば、一番濃い線は、北条ということになります。
織田家から武田攻めの報奨が与えられなかった北条殿のことです。信長公という枷がなくなれば、長年欲し続けたこの土地に食指を動かさぬ訳がないではないですか。
偉大な主君を失って浮き足立つ滝川も、寄る辺を失った武田の残党も踏みつぶし、怒濤の勢いで攻め込んでくるのに、何の障害もないのです。
定めし小勢を率いた私は、昼なお暗い山の中で、北条の大軍と対峙することになる。その公算が高い。
背筋の寒いことです。
多勢を目前に見たならば、戦わぬにしても震えが来るものです。しかし――。
ええそうです。
この時私は、真田と北条とがすぐに戦になるとは考えておりませんでした。
碓氷峠に出張る理由は、そこに来た何者かを「丁重に出迎えるため」であると確信していたのです。
考えてもご覧なさいませ。武田が滅びつつあるとき、父は……真田昌幸は何をしましたか。
武田四郎勝頼公に信濃岩櫃まで撤退するように進言するその裏で、あの男は、織田様に馬を贈り、同時に北条に割の良い文を送っていたのですよ。
その人が、この時に北条方か、はたまた徳川方か上杉方か、あるいはその総てにか、何らかの手を回していない筈がないでしょう。
それでも私は、もう一つ、峠を越えようと者がいる可能性も考えておりました。
出浦盛清が、近々滝川様と北条との間に大規模な戦が起きると申しました。そして悲しいかな、その戦では北条方が勝つことがめ煮見えております。
そうなれば、生き延びた「敗将」や「敗残兵」が信濃へ落ち延びようとするに違いありません。その地に将が目をかけてやっていた土豪がいたなら、それを頼って来ることは想像に易いことです。
私は父の寄越した書き付けを、それこそ穴の開くほどじっと見ました。
『碓氷峠』
たった三文字からなかなか目を離すことが出来ません。私は顔も上げず、どうにか目玉だけを持ち上げて、
「垂氷」
呼ばれた垂氷めは、不調法にも白い顔の半分と黒い目玉だけを、僅かに引き開けた襖の隙から覗かせました。
その目玉は、なにやら奇妙なイキモノでも見るかのような色合いで、私と向き合いで座っている出浦対馬の柔和そうな丸顔を、ちらちらと見ています。
「父の命で碓氷峠へ行くことになった」
間髪を入れず、応えが返ってきました。
「お供いたしますとも」
間髪を入れず、私も返答しました。
「お前はこの主水佐殿と厩橋に向かってくれ」
「はいはい」
そういったなんとも気楽そうに返答したのは、出浦盛清でした。素早くひょいと立ち上がります。
襖の向こうでは黒い目が輝いておりました。
「厩橋と言うことは、慶様との繋ぎですか?」
その人の名を聞いて、私は漸く頭を持ち上げる気力を得ました。
「前田宗兵衛殿は厩橋には居られぬ。今頃は武蔵国の当たりまで出張っておいでだ」
私は意識して硬い口調で決めつけました。
襖の陰の目の光には、失望のような不安のような色が加わりました。
「では、何を?」
「厩橋に当家からの証人がいる」
垂氷が何か言いかけましたが、その前に盛清が、
「つまり、手薄な城に忍び込むか急襲するかして、厩橋に閉じ込められている於菊様をお助けしろ、ということでありますな。承知承知」
ひょいひょいと歩むと、開き掛けの襖を大きく開け放ちました。
「さ、参りましょうかね」
垂氷は盛清の柔和顔を見上げ、固唾を飲み込むと、頭を振ったのです。
「嫌でございます」
これを聞いて盛清は私の顔色を窺い見つつ、
「……と、申されておりますが?」
丸い狸面は、呆れたというでもなく、困ったというでもなく、おかしくてならないといった具合の色をしておりました。
私は何も言いませんでした。言わぬまま、垂氷めの目の玉のあたりに視線を投げました。
すると垂氷はブルリと身震いしたかと思うと、急に居住まいを正して、
「わたしは砥石の殿様から、若様の武運長久の祈祷をする役目を、専属にするように仰せつかったのです。お側に居らねば祈祷が出来ません」
真面目な顔をして申したものです。私は少々可笑しく思ったのですが、笑うことは堪えました。
「使いに出ろと命じた時には、走るのが好きだと申して、喜々として私から離れて何処までも行くではないか」
そこまで言うと、一呼吸置いて、
「それとも、慶次郎殿が居らぬ厩橋には興味がないか?」
意地悪く言い足しました。
垂氷は激しく頭を振りました。
「それは違います。断じて違います」
「では、何故だ?」
「わたしが今まで喜んで若様のお使いに出たのは、ご命令が『行って帰って来い』だったからです。『行け』と言うだけのご命令ならば、キッパリ御免にございます」
垂氷は吻を尖らせました。於亀が火男の面を真似しているようでした。
その面を出浦盛清がしみじみと眺め見て、
「仲のお宜しいことは何よりなんですがねぇ」
などという、何か含みのある、それでいてワケの通らぬような事を申したものです。
申したと思ったときには、拗ねてそっぽを向いた垂氷の奥襟をがっちりと掴んでおりました。
「さて、参りますよ」
盛清は掴んだモノを引き摺って歩き出しました。その様は、田舎の禅寺に幾年幾十年も掛けっぱなしにされてたっぷりと抹香に燻された軸から抜け出てきた釈契此の様に見えました。
ただ、この狸面の、忍者を自称する布袋尊が引き摺っているのは頭陀袋などではなく、生きた人間です。それも垂氷です。温和しく引き摺られてゆくはずがありましょうや。
暴れました。
裳裾が乱れはだけるのも意に介せず、手足と言わず体中をバタバタと振り揺すり、城内隅々まで聞こえるほどの大声でぎゃぁぎゃぁと喚いたものです。駄々を捏ねる童のそのものでした。
喚き声の主は廊下へ出、出口の側へ曲がり、柱やら壁やらの陰に隠れて、私からは姿が見えなくなりました。その後に及んでもまだ声も床を叩き蹴飛ばす音も聞こえます。
私は、次第に遠くへ去って小さくなって行くその音に、声を掛けたのです。
「頼んだぞ!」
思わぬ大声でありました。自分でも驚くほどの声量でした。
途端、音がぴたりと止みました。
静寂が続き、息が詰まるかと思ったころ、
「承知いたしました」
泣き腫らした童めが、掠れた声を張り上げて答えてくれたものでした。
父・真田昌幸直筆の書状……というか、書き付けには、ただそれだけが書かれていました。
当たり前の指示書であればその後に当然続くであろう、命令を書いた「本文」がありません。
「全く、我が一族は性急な者ばかりだ」
誰に言うとでもなく、呟きました。
本文のない命令書の本文に当たる部分は自分で考え、動かねばならぬ。
その程度のことが出来なければ、あの人の部下や、ましてや倅は務まりません。
父の考えていることを推察するか、あるいは、その場で己の思う最適な行動を取るか――。
「あの親父殿の腹の内など、私ごときに判るはずがない」
私はこの時の己が僅かに笑ったのを覚えています。
それはともかくとして。
例えその詳細がわからずとも、命令は命令です。
今この時においては、出向いた先でのことはさておき、私は碓氷峠に向かわなければならなりません。
そして、出向く道中から行く先にたどり着くまでの間に、何のためにそこに向かうのか、あるいは誰かと相対する必要があるのか、そしてその相手をどのように出迎えねばならぬのかを考えねばなりません。
目的地に着くまでに思い付かなかったとしても、出迎える相手が眼前に現れる直前までには、私が決めねばならぬのです。
問題は、「出迎える相手は何処の誰か」ということでしょう。
このとき、甲州上州、そして信州を欲し、狙っていた陣営といえば、上杉、北条、徳川の諸勢力、ということになりましょう。
これ以外に、例えば奥州の方々の中にも食指を動かさんという向きはあったのやも知れませんが、あちらの方々が信濃に入るには、まずご自身の領内の安寧を量った上で、北条と当たる必要がありました。ですからこの線は他の三つよりは薄いと断ずることが出来ます。
そして先の三家の中で一番薄いのは上杉です。
彼の方々の本拠はは越後にあります。従って攻め込んでくるとすれば、境を接する北信濃からということになります。
あの鬼武蔵殿が放棄した北信濃には、一揆勢を除けば、あまり障害となる存在がありません。上杉勢は速やかに進入し、彼の地を掌握なされるでしょう。
ですから上杉勢が北信濃を抑えた上で、更に東信濃をもお望みであるならば、そのまま千曲川沿いに上田の平へ進むか、あるいは地蔵峠を越えて真田の庄方面へ向かう、というのが筋です。言わずもがな、どちらの道を取るにしても碓氷峠とは逆方角です。
次に徳川陣営です。
こちらは、本領の三河から入る形となります。
南信濃から進むか、あるいはまず甲斐から入るか。
その時徳川の本体が何処にあるのかによりますが、もし甲斐から入った場合、そこには滝川の諸将と兵がおります。また、その旗下ということになっている武田の遺臣もおります。
織田信長御生害、そのことをまだ知らされていない……であろう武田の遺臣と、元より「同僚」である滝川様と徳川勢が出会ったなら、どうなるのか?
滝川左近将監一益様と徳川蔵人佐様とが不仲であるとは聞き及ばぬ事です。――飛び抜けて良好であるとも聞かぬことですが――それにしても、戦になるとはあまり考えられません。
恐らくはこの、徳川・滝川の二筋の「川」は、並び流れるか、そうでなければ滝川が徳川に流れ込んで一筋の大川になるでしょう。そして北条を飲み込み、碓氷峠と云わずどの山をも越えて、信濃に押し寄せてくると考えられます。
ではそこに北条殿の軍勢しかいなかったなら?
恐らく戦になるでしょう。この時点では勝敗は判断しかねました。それでも徳川勢が碓氷峠を越えようというのなら、その戦に勝つことが必要でした。
しかし、織田信長様御生害の折りにはまだ大阪に居られた徳川家康様です。その後、無事ご本領に戻られたとして、次にどのような動きをなさるでしょうか。
確かに領土拡大の好機ではあります。北条方の不穏な動きも気にかかるでしょう。しかしそれよりも、大謀反人・惟任日向守を討つ方を優先するとも考えられます。
となれば、一番濃い線は、北条ということになります。
織田家から武田攻めの報奨が与えられなかった北条殿のことです。信長公という枷がなくなれば、長年欲し続けたこの土地に食指を動かさぬ訳がないではないですか。
偉大な主君を失って浮き足立つ滝川も、寄る辺を失った武田の残党も踏みつぶし、怒濤の勢いで攻め込んでくるのに、何の障害もないのです。
定めし小勢を率いた私は、昼なお暗い山の中で、北条の大軍と対峙することになる。その公算が高い。
背筋の寒いことです。
多勢を目前に見たならば、戦わぬにしても震えが来るものです。しかし――。
ええそうです。
この時私は、真田と北条とがすぐに戦になるとは考えておりませんでした。
碓氷峠に出張る理由は、そこに来た何者かを「丁重に出迎えるため」であると確信していたのです。
考えてもご覧なさいませ。武田が滅びつつあるとき、父は……真田昌幸は何をしましたか。
武田四郎勝頼公に信濃岩櫃まで撤退するように進言するその裏で、あの男は、織田様に馬を贈り、同時に北条に割の良い文を送っていたのですよ。
その人が、この時に北条方か、はたまた徳川方か上杉方か、あるいはその総てにか、何らかの手を回していない筈がないでしょう。
それでも私は、もう一つ、峠を越えようと者がいる可能性も考えておりました。
出浦盛清が、近々滝川様と北条との間に大規模な戦が起きると申しました。そして悲しいかな、その戦では北条方が勝つことがめ煮見えております。
そうなれば、生き延びた「敗将」や「敗残兵」が信濃へ落ち延びようとするに違いありません。その地に将が目をかけてやっていた土豪がいたなら、それを頼って来ることは想像に易いことです。
私は父の寄越した書き付けを、それこそ穴の開くほどじっと見ました。
『碓氷峠』
たった三文字からなかなか目を離すことが出来ません。私は顔も上げず、どうにか目玉だけを持ち上げて、
「垂氷」
呼ばれた垂氷めは、不調法にも白い顔の半分と黒い目玉だけを、僅かに引き開けた襖の隙から覗かせました。
その目玉は、なにやら奇妙なイキモノでも見るかのような色合いで、私と向き合いで座っている出浦対馬の柔和そうな丸顔を、ちらちらと見ています。
「父の命で碓氷峠へ行くことになった」
間髪を入れず、応えが返ってきました。
「お供いたしますとも」
間髪を入れず、私も返答しました。
「お前はこの主水佐殿と厩橋に向かってくれ」
「はいはい」
そういったなんとも気楽そうに返答したのは、出浦盛清でした。素早くひょいと立ち上がります。
襖の向こうでは黒い目が輝いておりました。
「厩橋と言うことは、慶様との繋ぎですか?」
その人の名を聞いて、私は漸く頭を持ち上げる気力を得ました。
「前田宗兵衛殿は厩橋には居られぬ。今頃は武蔵国の当たりまで出張っておいでだ」
私は意識して硬い口調で決めつけました。
襖の陰の目の光には、失望のような不安のような色が加わりました。
「では、何を?」
「厩橋に当家からの証人がいる」
垂氷が何か言いかけましたが、その前に盛清が、
「つまり、手薄な城に忍び込むか急襲するかして、厩橋に閉じ込められている於菊様をお助けしろ、ということでありますな。承知承知」
ひょいひょいと歩むと、開き掛けの襖を大きく開け放ちました。
「さ、参りましょうかね」
垂氷は盛清の柔和顔を見上げ、固唾を飲み込むと、頭を振ったのです。
「嫌でございます」
これを聞いて盛清は私の顔色を窺い見つつ、
「……と、申されておりますが?」
丸い狸面は、呆れたというでもなく、困ったというでもなく、おかしくてならないといった具合の色をしておりました。
私は何も言いませんでした。言わぬまま、垂氷めの目の玉のあたりに視線を投げました。
すると垂氷はブルリと身震いしたかと思うと、急に居住まいを正して、
「わたしは砥石の殿様から、若様の武運長久の祈祷をする役目を、専属にするように仰せつかったのです。お側に居らねば祈祷が出来ません」
真面目な顔をして申したものです。私は少々可笑しく思ったのですが、笑うことは堪えました。
「使いに出ろと命じた時には、走るのが好きだと申して、喜々として私から離れて何処までも行くではないか」
そこまで言うと、一呼吸置いて、
「それとも、慶次郎殿が居らぬ厩橋には興味がないか?」
意地悪く言い足しました。
垂氷は激しく頭を振りました。
「それは違います。断じて違います」
「では、何故だ?」
「わたしが今まで喜んで若様のお使いに出たのは、ご命令が『行って帰って来い』だったからです。『行け』と言うだけのご命令ならば、キッパリ御免にございます」
垂氷は吻を尖らせました。於亀が火男の面を真似しているようでした。
その面を出浦盛清がしみじみと眺め見て、
「仲のお宜しいことは何よりなんですがねぇ」
などという、何か含みのある、それでいてワケの通らぬような事を申したものです。
申したと思ったときには、拗ねてそっぽを向いた垂氷の奥襟をがっちりと掴んでおりました。
「さて、参りますよ」
盛清は掴んだモノを引き摺って歩き出しました。その様は、田舎の禅寺に幾年幾十年も掛けっぱなしにされてたっぷりと抹香に燻された軸から抜け出てきた釈契此の様に見えました。
ただ、この狸面の、忍者を自称する布袋尊が引き摺っているのは頭陀袋などではなく、生きた人間です。それも垂氷です。温和しく引き摺られてゆくはずがありましょうや。
暴れました。
裳裾が乱れはだけるのも意に介せず、手足と言わず体中をバタバタと振り揺すり、城内隅々まで聞こえるほどの大声でぎゃぁぎゃぁと喚いたものです。駄々を捏ねる童のそのものでした。
喚き声の主は廊下へ出、出口の側へ曲がり、柱やら壁やらの陰に隠れて、私からは姿が見えなくなりました。その後に及んでもまだ声も床を叩き蹴飛ばす音も聞こえます。
私は、次第に遠くへ去って小さくなって行くその音に、声を掛けたのです。
「頼んだぞ!」
思わぬ大声でありました。自分でも驚くほどの声量でした。
途端、音がぴたりと止みました。
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