竜頭

柔太郎と清次郎

おはぎ

　戸板に尻をぶつけた清次郎は、

「うひっ」

　珍妙な声を出し、今度は斜め前に蛙のように飛び跳ねた。
　一つ、二つ、と蛙かえる跳とびに飛ぶ清次郎の向かった先は、この板の間から戸外へ抜け出せる出口の戸だった。

「何処どこへ行くつもりだ」

　言いはしたが、柔太郎には清次郎の目的は解っている。

『土産みやげを渡すことは元より、一番の目的である時計を自慢することは達成したのだから、さっさと赤松家という「我が家」に……いいや、江戸に帰りたいのに違いない』
　新しい物も、古い物も、人も、機会も、何もかもたっぷりと満ちている、学びに溢れた大都市に、今すぐにも駆け戻りたいのだろう。

「待て、清次郎！」

　柔太郎は蛙跳びの背中に呼びかけた。

「待てと言われて待つ阿あ呆ほうはおりません」

　清次郎は板戸に飛びついた。それを開けようとした、まさにそのとき、柔太郎が静かに言った。

「柳やなぎ町まち、松屋のおはぎ」

　清次郎の動きがピタリと止まった。板戸をそっと締めて、後ずさりに数歩。くるりと振り向いた清次郎は、堪えられない笑みを満面にたたえている。

　柳町は北きた国ぐに街かい道どう筋すじの町まち家やだが、宿しゅく駅えきとしての上田の本ほん陣じんや問とい屋や場ばからは、曲がり角二つ分、離れたところだ。北国街道をさらに進めば職しょく人にん町まちの紺こん屋や町まちに続く。街道を逸それ、蛭ひる沢さわ川がわに掛かる橋を渡れば上田城の三の丸内となり、武士達が暮らすの木き町まちとなる。芦田家が暮らす御お徒か士ち長屋もその町内にあった。

　柳町には、藩主肝きも煎いりの絹糸・絹織物や、上うえ田だ紙がみと呼ばれる薄い紙ティッシュペーパー、といった名産品を商う店、それを江戸や京きょう大おお坂さかほか全国に販売する商人達が宿泊する旅はた籠ごがある。
　それらに並んで、地元の者たちも訪れる食品の店、道具の店、職人の店がある。
　その中には、芦田家が行おこなっている内職の成果物の取引先もあるのだ。柔太郎も清次郎も、そこそこの頻ひん繁ぱんさでこの町に訪れている。

　道の両側にぎっしりと並んだ店てん舗ぽの中に、菓か子し舗みせの松まつ屋や宇う右衛門えもんもあった。

　清次郎は口元をだらしなく半開きにしていた。よだれが垂れそうになっている。
　餌を待たされている子犬のような、という表現が一番しっくりくる顔だろう。

　赤松清次郎は甘党だ。酒はほとんど受け付けない。

「酒が好きな御仁は、憂さ晴らしに酒を喰ろうてお眠りになれば良い。しかし俺のような人間の場合、甘い物をひとつふたつ口に放り込んで茶を喫キツした方がずっと疲れに効く」

　そう公言して、清次郎はたびたび甘い物を食べる。外出をするにも、懐ふところに乾ひ菓が子しやら飴あめ玉だまを入れた小袋を忍ばして歩く。
　そんな清次郎が、昔馴染んだ松屋のおはぎと聞いて、おとなしくしていられるはずがないのだ。
　柔太郎の目に、清次郎の尻であるはずのない尻尾がぶんぶんと振り回されているのが、見えた気がした。

「もしかして、松屋のおはぎをそれがしに頂けるので？」

　返事もせず、柔太郎は先ほど清次郎が取り付いた板戸とは別の戸口に向かった。ここからは裏庭まで続く通とおり土ど間まに出ることができる。
　土間の途中にこぢんまりした台所がある。
　竈かまどに湯が沸わいていた。
　柔太郎は台所の戸棚の脇におかれていた風呂敷包みを取り上げた。
　おはぎの菓子折にしては大きすぎる。
　来た道を戻った柔太郎は、子犬清次郎の前に座り直し、縦に長い風呂敷包みを彼の膝先に置いた。

　奇妙な形の風呂敷包みに眼を瞬しばたたかせた清次郎だったが、すぐにその中味を察した。
　細かく観察をするまでもなく、風呂敷の縛りめの隙間から、柄え樽だるの柄が突き出て見えているのだ。そうなれば風呂敷包みの中味の大半は液体である。
　また風呂敷の下の、樽の蓋あたりから柄の間にかけて、四角い何が乗せられている様子も見て取れた。これは折詰おりと見て良い。
　折詰の中味は松屋のおはぎに違いない。では柄樽の中味はと言うと、

「松屋から北に二つ隣、小こ堺さかい屋や平へい助すけの銘めい酒しゅ・亀き齢れいだ。赤松のお父上はお前とちがって、さとうといっても左党こちらの方であられるからな」

　柔太郎は左手に猪ちょ口くを持つ仕草をしてみせた。