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柔太郎と清次郎
プライム・ナンバー
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「江戸はよいなぁ。物も人も機宜もあふれている。海無しの田舎とは大違いだ。山奥には物も人も流れては来ない」
柔太郎は微笑したまま腕組みし、顎を上げた。当然目は天井に向く。
煤竹の隙間から煙の匂いが漏れている気がする。
「お陰で、おれなんかがこんな分不相応な品物を手に入れられたわけですよ」
清次郎は懐中時計の紐を持って持ち上げ、兄の眼前に突きつけるように見せて、胸を張った。
「池之端中町と言えば、私が学んだ昌平黌からも、手塚律蔵先生が本郷元町に開いた又新堂塾からも近い場所だ。
まかり間違っていたら、私の方が先にその白木屋という仁と出逢うていたかもしれない」
「ならばいっそ、もう一遍遊学しちまえばどうですか? そしたら、前の時とは違う新しい出逢いっちゅうのもあるかもしれない。
ほれ昌平黌を出た後に入門なさった手塚先生の蘭学塾に、もう一度入り直すとか。兄上はあそこで随分と秀才の評判を取ったそうじゃないですか。
……そうだ、神田の於玉ヶ池あたりに真田公御家中の佐久間修理どのが朱子学の私塾を開いたとか開くとかいう話を、聞いたような気がしますし」
清次郎は兄の眼前で懐中時計を振り子のように揺すった。
「一度、儒学と蘭学の学問を終えたということになっていて、召し出されて藩校で勤めているものを、もう一度学ばせろとは、幕府にも藩にも容易く頼める物ではない」
「兄上は本当に堅い」
柔太郎は顎を持ち上げたまま、眼球だけを下に向けた。
丸い懐中時計が揺れている。
「それじゃぁ、別の学問をやりたくなったとかいう体にすればどうです? 例えば、国学とか、洋学とか、兵学とか、いっそ本道とか」
「自分に自信のある算学は勧めないと見える」
清次郎は懐中時計の紐を抓んでいない方の手を、懐中時計の揺れよりも激しく左右にに振った。
「逆、逆。
だって、それで実はそっちの道でもおれなんかよりも兄上の方が優秀なんだとバレっちまったら困りますからね。
なんたってそいつはおれが江戸にいる口実なんですよ。
もし兄上が江戸に蹴り出された後、おれは首根っこがひっ捕まえられて引き戻されたらどうするんですか。
そんでこんな山奥の、烏の住処みたいな城の中に押し込まれるんですよ。
そんなのは真っ平御免被ります」
「お前はよほどに国元に居たくないのだな」
柔太郎は天井に向けていた顔を正面まで戻した。
相変わらず目の前で懐中時計を揺らしている清次郎は、短く、きっぱりと、力強く、
「金輪際、居たくありませんね」
と、迷いなく言い切った。兄の顔を見据え、真面目な顔をして懐中時計を振り続けている。
「お前はよほどに懐中時計を自慢したいのだな」
「だって、そのために持ってきたんですよ。わざわざ父上たちが母上の実家の鼠宿村まで祝い事に出かけて留守になっている頃合いを、ちゃーんと見計らって」
兄が懐中時計に目を注いでいることを確認すると、清次郎は振り子に振るのを止めた。それでも懐中時計は掲げたまま、真面目顔で、
「おれはこの手に刻を手に入れた思いでいるんです。
これが美しいんですよ。外見だけじゃなくて、中が美しい。
江戸で時計師だという職人に裏蓋を開けてもらって、仕掛けをチラリと見せて貰ったんですよ。
特に歯車の美しさ!」
「歯車、な。確かにあの円と円の組み合わせと、かっちりとした動きは美しいだろうな。懐中時計の中味など、私は見たことがないから解らぬが」
少々拗ねた口ぶりになっているな、と柔太郎は胸の内で自嘲した。
「そう、形の美しさ! 動きの美しさ! その上に!」
清次郎の顔が、ずいっと柔太郎の眼前に迫った。
「歯数が素になっているンですよ」
清次郎はうっとりとした目で、自らが掲げた時計の裏蓋側を見ている。
柔太郎は微笑したまま腕組みし、顎を上げた。当然目は天井に向く。
煤竹の隙間から煙の匂いが漏れている気がする。
「お陰で、おれなんかがこんな分不相応な品物を手に入れられたわけですよ」
清次郎は懐中時計の紐を持って持ち上げ、兄の眼前に突きつけるように見せて、胸を張った。
「池之端中町と言えば、私が学んだ昌平黌からも、手塚律蔵先生が本郷元町に開いた又新堂塾からも近い場所だ。
まかり間違っていたら、私の方が先にその白木屋という仁と出逢うていたかもしれない」
「ならばいっそ、もう一遍遊学しちまえばどうですか? そしたら、前の時とは違う新しい出逢いっちゅうのもあるかもしれない。
ほれ昌平黌を出た後に入門なさった手塚先生の蘭学塾に、もう一度入り直すとか。兄上はあそこで随分と秀才の評判を取ったそうじゃないですか。
……そうだ、神田の於玉ヶ池あたりに真田公御家中の佐久間修理どのが朱子学の私塾を開いたとか開くとかいう話を、聞いたような気がしますし」
清次郎は兄の眼前で懐中時計を振り子のように揺すった。
「一度、儒学と蘭学の学問を終えたということになっていて、召し出されて藩校で勤めているものを、もう一度学ばせろとは、幕府にも藩にも容易く頼める物ではない」
「兄上は本当に堅い」
柔太郎は顎を持ち上げたまま、眼球だけを下に向けた。
丸い懐中時計が揺れている。
「それじゃぁ、別の学問をやりたくなったとかいう体にすればどうです? 例えば、国学とか、洋学とか、兵学とか、いっそ本道とか」
「自分に自信のある算学は勧めないと見える」
清次郎は懐中時計の紐を抓んでいない方の手を、懐中時計の揺れよりも激しく左右にに振った。
「逆、逆。
だって、それで実はそっちの道でもおれなんかよりも兄上の方が優秀なんだとバレっちまったら困りますからね。
なんたってそいつはおれが江戸にいる口実なんですよ。
もし兄上が江戸に蹴り出された後、おれは首根っこがひっ捕まえられて引き戻されたらどうするんですか。
そんでこんな山奥の、烏の住処みたいな城の中に押し込まれるんですよ。
そんなのは真っ平御免被ります」
「お前はよほどに国元に居たくないのだな」
柔太郎は天井に向けていた顔を正面まで戻した。
相変わらず目の前で懐中時計を揺らしている清次郎は、短く、きっぱりと、力強く、
「金輪際、居たくありませんね」
と、迷いなく言い切った。兄の顔を見据え、真面目な顔をして懐中時計を振り続けている。
「お前はよほどに懐中時計を自慢したいのだな」
「だって、そのために持ってきたんですよ。わざわざ父上たちが母上の実家の鼠宿村まで祝い事に出かけて留守になっている頃合いを、ちゃーんと見計らって」
兄が懐中時計に目を注いでいることを確認すると、清次郎は振り子に振るのを止めた。それでも懐中時計は掲げたまま、真面目顔で、
「おれはこの手に刻を手に入れた思いでいるんです。
これが美しいんですよ。外見だけじゃなくて、中が美しい。
江戸で時計師だという職人に裏蓋を開けてもらって、仕掛けをチラリと見せて貰ったんですよ。
特に歯車の美しさ!」
「歯車、な。確かにあの円と円の組み合わせと、かっちりとした動きは美しいだろうな。懐中時計の中味など、私は見たことがないから解らぬが」
少々拗ねた口ぶりになっているな、と柔太郎は胸の内で自嘲した。
「そう、形の美しさ! 動きの美しさ! その上に!」
清次郎の顔が、ずいっと柔太郎の眼前に迫った。
「歯数が素になっているンですよ」
清次郎はうっとりとした目で、自らが掲げた時計の裏蓋側を見ている。
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