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柔太郎と清次郎
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算額とは、簡単に言えば寺社に奉納する絵馬に近しいものだ。
絵馬との違いは、木の板に描かれるのが馬の絵や願い事ではなく、算学の問題とその回答であること、だ。
元々は算学者が日頃の研鑽を神仏の前に表し、今後の精進を記念するために拵えるものだった。
『私は日々努力を重ねた結果、次のような難問を解くだけの学力を得ることができました。今後もより一層頑張る所存ですので、神よ仏よ、どうか私をお導き下さい』
といったような文言と共に、自分が解くことができるようになったという難問を描き、またその解も書き、それを寺社に納める。額は絵馬堂などに掲げられて、参拝者の目に曝される。
算額に描かれる問題は、二十一世紀の数学でいうところの平面幾何に当たるものがほとんどだ。文字と数字で板面が埋め尽くされる代数や解析といった分野の問題よりも、円や角や線を美しく組み合わせた幾何学文様であるほうが人目を引くものだからだろう。
実際、白木屋庄兵衛もそのために弁天堂に算額があることに気付いたのだ。
時代が下って、江戸末期には学問を生業とする者たちばかりか、白木屋のような市井に暮らす算学数寄の諸人が、算額を奉納することが増えた。
そういった人々は、神仏のみならず自分同様の「見も知らぬ同好の士」の前に日頃の研鑽を表し、今後の精進を記念するために算額を作り、奉納している。
そういうものの中には、問題だけが描かれて回答の記載がない額もある。そんな算額からは、奉納主の「神仏への感謝」「今後の精進」の心持ちと、それ以外のなにがしかの強い思いの方が、強く感じられる。
「俺が考えたこの難問を、解ける物なら解いてみせろ!」
という傲岸不遜な果状として、算額という制度を利用している者がいることを否定することができる者はいないのではあるまいか。
奉納者の心持ちはともかくも、額を見た算学数寄たちは、描かれた問題を解こうとする。彼らの心持ちもともかくとして、それは学問の研鑽を積むことに繋がる。そしてまた、自らも新たな問題を額に描いて奉納する――。
こうして算額という板きれは、逢ったことのない学友たちが、ゆっくりとした交流をするための道具と化した。
そう言った事情を、赤松清次郎はよく知っている。出教授の隙間を縫って方々の寺社を廻っては、算額を探すともなく探すぐらいには熟知している。
問題を解こうと思ってのことではない。算額の問題よりも遙かに手応えのある問題が、彼の学ぶ瑪得瑪弟加塾に集積され、渦巻いて、解かれることを待っているのだから、そちらに手を出す必要はなかった。
清次郎はただ、寺社に算額を奉納するほどに算学に打ち込み、のめり込んでいる人々の存在を知ろうとしているのだった。
算学を好む人々がいて、算学を楽しむ人々がいて、そのことを広く知らしめようとする人々がいる。そのことが知れるのが嬉しいのだ。
あちらこちらの絵馬堂などを覗き込み、暗がりに算額を見付けると、清次郎の頬はにんまりと緩む。
そのとき、参拝の人々が奇妙なものを見るような目を自分に向けていることに、清次郎は気付いていた。気付いていたが、同好の士の存在を知る喜びは隠せるものではない。
清次郎は算額を見て微笑する。
だいたい、侍のくせに算盤きちがいの自分は、子ども時代に周囲から奇異の目で見られていた。白眼には慣れきっている。
白木屋が紙に引き写してきた算額の問題を見た清次郎は、嬉しさを小さな笑みにしていた。
「それで、白木屋殿、本日は出教授の日取りでもないのになんの目的で内田先生を呼び出したのです? ……まぁ、内田先生がご多忙で、代わりに俺なんかが来ちまったのは、申し訳けないですけども」
紙を畳の上にまっすぐに置き戻した清次郎が問うと、
「いやいや、手前といたしましては、赤松先生に来ていただいて大助かりでございますよ。内田の大先生よりも赤松先生の方が話がいたしやすうございますから。何分にも、若い方の方が考え方が柔らかい」
白木屋庄兵衛はにこやかに応えた。
絵馬との違いは、木の板に描かれるのが馬の絵や願い事ではなく、算学の問題とその回答であること、だ。
元々は算学者が日頃の研鑽を神仏の前に表し、今後の精進を記念するために拵えるものだった。
『私は日々努力を重ねた結果、次のような難問を解くだけの学力を得ることができました。今後もより一層頑張る所存ですので、神よ仏よ、どうか私をお導き下さい』
といったような文言と共に、自分が解くことができるようになったという難問を描き、またその解も書き、それを寺社に納める。額は絵馬堂などに掲げられて、参拝者の目に曝される。
算額に描かれる問題は、二十一世紀の数学でいうところの平面幾何に当たるものがほとんどだ。文字と数字で板面が埋め尽くされる代数や解析といった分野の問題よりも、円や角や線を美しく組み合わせた幾何学文様であるほうが人目を引くものだからだろう。
実際、白木屋庄兵衛もそのために弁天堂に算額があることに気付いたのだ。
時代が下って、江戸末期には学問を生業とする者たちばかりか、白木屋のような市井に暮らす算学数寄の諸人が、算額を奉納することが増えた。
そういった人々は、神仏のみならず自分同様の「見も知らぬ同好の士」の前に日頃の研鑽を表し、今後の精進を記念するために算額を作り、奉納している。
そういうものの中には、問題だけが描かれて回答の記載がない額もある。そんな算額からは、奉納主の「神仏への感謝」「今後の精進」の心持ちと、それ以外のなにがしかの強い思いの方が、強く感じられる。
「俺が考えたこの難問を、解ける物なら解いてみせろ!」
という傲岸不遜な果状として、算額という制度を利用している者がいることを否定することができる者はいないのではあるまいか。
奉納者の心持ちはともかくも、額を見た算学数寄たちは、描かれた問題を解こうとする。彼らの心持ちもともかくとして、それは学問の研鑽を積むことに繋がる。そしてまた、自らも新たな問題を額に描いて奉納する――。
こうして算額という板きれは、逢ったことのない学友たちが、ゆっくりとした交流をするための道具と化した。
そう言った事情を、赤松清次郎はよく知っている。出教授の隙間を縫って方々の寺社を廻っては、算額を探すともなく探すぐらいには熟知している。
問題を解こうと思ってのことではない。算額の問題よりも遙かに手応えのある問題が、彼の学ぶ瑪得瑪弟加塾に集積され、渦巻いて、解かれることを待っているのだから、そちらに手を出す必要はなかった。
清次郎はただ、寺社に算額を奉納するほどに算学に打ち込み、のめり込んでいる人々の存在を知ろうとしているのだった。
算学を好む人々がいて、算学を楽しむ人々がいて、そのことを広く知らしめようとする人々がいる。そのことが知れるのが嬉しいのだ。
あちらこちらの絵馬堂などを覗き込み、暗がりに算額を見付けると、清次郎の頬はにんまりと緩む。
そのとき、参拝の人々が奇妙なものを見るような目を自分に向けていることに、清次郎は気付いていた。気付いていたが、同好の士の存在を知る喜びは隠せるものではない。
清次郎は算額を見て微笑する。
だいたい、侍のくせに算盤きちがいの自分は、子ども時代に周囲から奇異の目で見られていた。白眼には慣れきっている。
白木屋が紙に引き写してきた算額の問題を見た清次郎は、嬉しさを小さな笑みにしていた。
「それで、白木屋殿、本日は出教授の日取りでもないのになんの目的で内田先生を呼び出したのです? ……まぁ、内田先生がご多忙で、代わりに俺なんかが来ちまったのは、申し訳けないですけども」
紙を畳の上にまっすぐに置き戻した清次郎が問うと、
「いやいや、手前といたしましては、赤松先生に来ていただいて大助かりでございますよ。内田の大先生よりも赤松先生の方が話がいたしやすうございますから。何分にも、若い方の方が考え方が柔らかい」
白木屋庄兵衛はにこやかに応えた。
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