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あやかし
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武藤の屋敷に近づくにつれ、空気は重く青臭い風となって渦巻くようになっていた。
「ほんに、強い邪気じゃこと」
桜女はむしろ嬉しげに言う。
「大概の妖怪変化なら、弁丸が鎮の小刀をかざしただけで逃げ帰るのですが、この邪気は鎮の大刀で払っても……一度は怯みはしても、じきに戻ってくるのです」
協丸が忌々しげに言うと、
「確かにこれは人の力では如何ともできますまい」
桜女がふうと息を吐いた。
「じゃからババを呼びに行ったに。あの老いぼれのずぼらのズクなしめ。絶対に境内から出ようとせん」
弁丸が悪態をついた瞬間、パリンという音がして、ブワリと空気が揺れた。
驚いて目を閉じた協丸が、おそるおそる目を開けると、弟の頭の上に白い固まりが乗っているのが見えた。
「あ、シロ……?」
丸い珠となって桜女の懐に収まっていたはずの大トカゲが、いつの間にやら元の姿に戻っている。
桜女がけたけたと笑った。
「シロは姫様の一番の使い魔。姫様の悪口は、シロの逆鱗じゃと、お前もよう知っておるはずなのに」
つられて協丸も笑ったが、弁丸だけは笑わず、
「わかっておるが、油断した。こりゃ、シロ! 乗るな、噛むな! 桜女、シロを剥がせ。協丸、笑うな」
巨大な白トカゲを引きはがすのに苦戦していた。頭を捕まれても、尾を引かれても、白トカゲは弁丸の頭の上にしがみついて離れない。目をつり上げて、鼻息を荒くして、茶筅髷にかじりついている。
その滑稽な様を眺めつつ、したたか笑った後、
「シロ、戻りゃ」
桜女はシロに呼びかけた。するとあっさりとシロは弁丸の頭から降り、
「きゅうぃぃ」
と一啼きしてまた珠に変化した。
「全く、シロが居るとろくなことがない」
さんざんに乱れた茶筅髷をなおしながら、弁丸がぼやく。
「でも、シロは勘のよい子。ほうら、もう見つけた……」
桜女は手のひらの上のシロを弁丸と協丸の鼻先にかざして見せた。
真円の白い珠は、ぼんやりと光を放っている。その白い輝きの中、中心からずれたスミの方に、暗く沈んだ影が浮かんでいた。
「これは……一体?」
協丸が首をかしげるのに、桜女が
「邪の固まりが、この方向にあると言うこと」
と答えた。
「この……方向、と言うと……」
三人の目は珠の中心から影を抜け、深い森のはずれの方へと向けられた。
弁丸の鼻がぴくりと動いた。
「どうやら洞があるらしいな……。つい最近屋敷に戻ったワシはあんな洞を知らんが、ずっと母上のそばに暮らした協丸ならあれを知っていよう?」
「嫌みな物言いをするな」
「何だ、協丸も知らんのか? 内に籠もって勉学ばかりしていると、世間のことがわからなくなるようだな」
「私は別に籠もっているわけではないし、あの洞穴のことを全く知らないわけでもない。ただ、あの洞穴は大昔から入り口を塞いであったから……」
「塞いで?」
桜女はすすっと洞穴に近づいた。あわてて弁丸・協丸も後に続いた。
ごろごろと岩や石くれが転がる山の斜面を、日の当たらぬ方へ進むと、確かにぱっくりと開いた闇の入り口があった。
大人一人がようやくくぐれるだろうというその穴からは、かび臭い湿った空気が出たり入ったりしている。
桜女はその洞の回りの岩肌と、あたりにいくつも転がっている尖った石を見て、にこりと笑った。
「封印の呪符の切れ端が、粉みじんになって散らばっている。ずいぶん古い封印じゃから、もう『縛る』力が消えてしまって、中のモノを押さえきれなくなったのでしょう」
「封印というのは、そのように不確かなものですか?」
協丸は少々不安げに訊いた。桜女はうなずいて、
「あい、若様。モノには全て寿命がございますれば」
「寿命……」
「今の世の人ならば五十年、城ならば百年持てば上々。千歳に動かぬ山々であっても、万の年の後まで同じくそこにあるとは限りませぬ。ましてや人のこしらえた紙に人の書いた呪が、永久に封魔の力を保てる訳がありましょうや?」
「確かにそなたの言うとおりだ。しかし呪符の力がそのように不確かなら、人はいつも魔物やあやかしに怯え続けねばならないのか」
協丸は、不満とも悲しみとも恐怖とも諦めとも納得とも取れる声で言った。すると弁丸が、実にあっさりとした声音で、
「モノには全て寿命があると言うたであろう。じゃから当然あやかしにも寿命がある。怖いと怯える前に、倒してしまえばいい」
言い放つと、やおら洞の中に入っていった。
「待て、弁丸」
五歩ほど中へ入った暗がりから、不機嫌そうに振り向いた弁丸へ、協丸が心配そうな真顔でいう。
「弁丸、倒せばいいなどと簡単に言うな。大体、岩長姫さまに助勢を頼みに行ったのは、お前のその霊刀でもあの『あやかし』が払えなんだからではないか。いくら桜女殿の前で良い格好をしたくとも、無理はせん方が良い」
「協丸!」
頭のてっぺんから湯気を噴き出しながら、弁丸は五歩戻ってきた。
「よいか、誤解するでないぞ。わしは良い格好をしたいから倒せばいいと言うたのではない。倒せるから、倒せばいいと言うたのじゃ。確かにこの霊刀だけでは倒すことはできなんだが、桜女の霊力が加われば倒せる」
「……桜女殿の、霊力……か」
協丸がちらりと見やると、桜女は黒い眉毛をわずかに下げて、
「ほんに弁丸は、真っ直ぐすぎてまるで『ヒト』では在らぬよう」
辛そうに微笑んだ。
そうして、再び掌の中のシロの珠を覗き込む。戻ってきた弁丸と、協丸も珠を覗き込んだ。
「どうやら洞の奥、ではないような」
一番最初に顔を上げたのは桜女だった。続いて弁丸と協丸がほとんど同時に頭を上げて、顔を同じ方向へ向けた。
洞の入り口からわずかに北東にずれたあたりの山肌に、六つの眼と一つの珠の光が注がれている。
枯れた木があった。
根本はから枝先まで苔で被われている。
もろく湿っぽい樹皮は腐敗していて、どんよりと黒ずんでいる。
「アレを依り代にしているような」
桜女がにこりと笑うのに、協丸が訊ねる。
「ヨリシロとは?」
「形のないモノが形を欲して取り憑く物」
桜女はふわりと朽ち木の根本へよった。
「封印が解けたので外へでたものの、どうにも『形』が欲しくなったので、すぐ側にあった生き物に取り憑くことにした。ところが憑いてみたものの、それは寿命の尽きかけた樹。このままではあまりに頼りないゆえ、贄をもってこの樹を強めんと……」
桜女は言いながら、紙垂の付いた玉串で樹の根本を指し示した。
覗き込んで、協丸は思わず鼻と口を押さえた。
朽ち木が根を張っている場所に、どろりとした土の塊が在る。その中で濁酒色の芋虫の群れが、ワサワサと蠢いていた。
眉間に突き刺さるような腐臭を発する塊は、いくつもの白い塊を抱いている。
「……人の、骸か?」
白く丸いものにぽかりと開いた二つの穴から顔をそむけ協丸が振り返ると、桜女は小さくうなずいた。その脇で弁丸が忌々しげに舌打ちをしている。
「まったく、ウチの領民を肥としか思うておらんとは、ろくでもない『あやかし』じゃ。今すぐ斬ってくれる」
「ほんに、強い邪気じゃこと」
桜女はむしろ嬉しげに言う。
「大概の妖怪変化なら、弁丸が鎮の小刀をかざしただけで逃げ帰るのですが、この邪気は鎮の大刀で払っても……一度は怯みはしても、じきに戻ってくるのです」
協丸が忌々しげに言うと、
「確かにこれは人の力では如何ともできますまい」
桜女がふうと息を吐いた。
「じゃからババを呼びに行ったに。あの老いぼれのずぼらのズクなしめ。絶対に境内から出ようとせん」
弁丸が悪態をついた瞬間、パリンという音がして、ブワリと空気が揺れた。
驚いて目を閉じた協丸が、おそるおそる目を開けると、弟の頭の上に白い固まりが乗っているのが見えた。
「あ、シロ……?」
丸い珠となって桜女の懐に収まっていたはずの大トカゲが、いつの間にやら元の姿に戻っている。
桜女がけたけたと笑った。
「シロは姫様の一番の使い魔。姫様の悪口は、シロの逆鱗じゃと、お前もよう知っておるはずなのに」
つられて協丸も笑ったが、弁丸だけは笑わず、
「わかっておるが、油断した。こりゃ、シロ! 乗るな、噛むな! 桜女、シロを剥がせ。協丸、笑うな」
巨大な白トカゲを引きはがすのに苦戦していた。頭を捕まれても、尾を引かれても、白トカゲは弁丸の頭の上にしがみついて離れない。目をつり上げて、鼻息を荒くして、茶筅髷にかじりついている。
その滑稽な様を眺めつつ、したたか笑った後、
「シロ、戻りゃ」
桜女はシロに呼びかけた。するとあっさりとシロは弁丸の頭から降り、
「きゅうぃぃ」
と一啼きしてまた珠に変化した。
「全く、シロが居るとろくなことがない」
さんざんに乱れた茶筅髷をなおしながら、弁丸がぼやく。
「でも、シロは勘のよい子。ほうら、もう見つけた……」
桜女は手のひらの上のシロを弁丸と協丸の鼻先にかざして見せた。
真円の白い珠は、ぼんやりと光を放っている。その白い輝きの中、中心からずれたスミの方に、暗く沈んだ影が浮かんでいた。
「これは……一体?」
協丸が首をかしげるのに、桜女が
「邪の固まりが、この方向にあると言うこと」
と答えた。
「この……方向、と言うと……」
三人の目は珠の中心から影を抜け、深い森のはずれの方へと向けられた。
弁丸の鼻がぴくりと動いた。
「どうやら洞があるらしいな……。つい最近屋敷に戻ったワシはあんな洞を知らんが、ずっと母上のそばに暮らした協丸ならあれを知っていよう?」
「嫌みな物言いをするな」
「何だ、協丸も知らんのか? 内に籠もって勉学ばかりしていると、世間のことがわからなくなるようだな」
「私は別に籠もっているわけではないし、あの洞穴のことを全く知らないわけでもない。ただ、あの洞穴は大昔から入り口を塞いであったから……」
「塞いで?」
桜女はすすっと洞穴に近づいた。あわてて弁丸・協丸も後に続いた。
ごろごろと岩や石くれが転がる山の斜面を、日の当たらぬ方へ進むと、確かにぱっくりと開いた闇の入り口があった。
大人一人がようやくくぐれるだろうというその穴からは、かび臭い湿った空気が出たり入ったりしている。
桜女はその洞の回りの岩肌と、あたりにいくつも転がっている尖った石を見て、にこりと笑った。
「封印の呪符の切れ端が、粉みじんになって散らばっている。ずいぶん古い封印じゃから、もう『縛る』力が消えてしまって、中のモノを押さえきれなくなったのでしょう」
「封印というのは、そのように不確かなものですか?」
協丸は少々不安げに訊いた。桜女はうなずいて、
「あい、若様。モノには全て寿命がございますれば」
「寿命……」
「今の世の人ならば五十年、城ならば百年持てば上々。千歳に動かぬ山々であっても、万の年の後まで同じくそこにあるとは限りませぬ。ましてや人のこしらえた紙に人の書いた呪が、永久に封魔の力を保てる訳がありましょうや?」
「確かにそなたの言うとおりだ。しかし呪符の力がそのように不確かなら、人はいつも魔物やあやかしに怯え続けねばならないのか」
協丸は、不満とも悲しみとも恐怖とも諦めとも納得とも取れる声で言った。すると弁丸が、実にあっさりとした声音で、
「モノには全て寿命があると言うたであろう。じゃから当然あやかしにも寿命がある。怖いと怯える前に、倒してしまえばいい」
言い放つと、やおら洞の中に入っていった。
「待て、弁丸」
五歩ほど中へ入った暗がりから、不機嫌そうに振り向いた弁丸へ、協丸が心配そうな真顔でいう。
「弁丸、倒せばいいなどと簡単に言うな。大体、岩長姫さまに助勢を頼みに行ったのは、お前のその霊刀でもあの『あやかし』が払えなんだからではないか。いくら桜女殿の前で良い格好をしたくとも、無理はせん方が良い」
「協丸!」
頭のてっぺんから湯気を噴き出しながら、弁丸は五歩戻ってきた。
「よいか、誤解するでないぞ。わしは良い格好をしたいから倒せばいいと言うたのではない。倒せるから、倒せばいいと言うたのじゃ。確かにこの霊刀だけでは倒すことはできなんだが、桜女の霊力が加われば倒せる」
「……桜女殿の、霊力……か」
協丸がちらりと見やると、桜女は黒い眉毛をわずかに下げて、
「ほんに弁丸は、真っ直ぐすぎてまるで『ヒト』では在らぬよう」
辛そうに微笑んだ。
そうして、再び掌の中のシロの珠を覗き込む。戻ってきた弁丸と、協丸も珠を覗き込んだ。
「どうやら洞の奥、ではないような」
一番最初に顔を上げたのは桜女だった。続いて弁丸と協丸がほとんど同時に頭を上げて、顔を同じ方向へ向けた。
洞の入り口からわずかに北東にずれたあたりの山肌に、六つの眼と一つの珠の光が注がれている。
枯れた木があった。
根本はから枝先まで苔で被われている。
もろく湿っぽい樹皮は腐敗していて、どんよりと黒ずんでいる。
「アレを依り代にしているような」
桜女がにこりと笑うのに、協丸が訊ねる。
「ヨリシロとは?」
「形のないモノが形を欲して取り憑く物」
桜女はふわりと朽ち木の根本へよった。
「封印が解けたので外へでたものの、どうにも『形』が欲しくなったので、すぐ側にあった生き物に取り憑くことにした。ところが憑いてみたものの、それは寿命の尽きかけた樹。このままではあまりに頼りないゆえ、贄をもってこの樹を強めんと……」
桜女は言いながら、紙垂の付いた玉串で樹の根本を指し示した。
覗き込んで、協丸は思わず鼻と口を押さえた。
朽ち木が根を張っている場所に、どろりとした土の塊が在る。その中で濁酒色の芋虫の群れが、ワサワサと蠢いていた。
眉間に突き刺さるような腐臭を発する塊は、いくつもの白い塊を抱いている。
「……人の、骸か?」
白く丸いものにぽかりと開いた二つの穴から顔をそむけ協丸が振り返ると、桜女は小さくうなずいた。その脇で弁丸が忌々しげに舌打ちをしている。
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