付き従いて……

神光寺かをり

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第一節 会議は眠る

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「異義あり!」

 叫び声が議場に響いた。
 ……もっとも、声の主には叫んだ気など無いらしい。彼自身は普通に喋っているつもりなのだが、周囲の者には怒声にしか聞こえない。
 それが張飛ちょうひ益徳えきとくの声の特徴であり、短所である。
 その声に彼の義兄・・が、

「却下」

 にべもなく即答した。

「まだ何も言ってないのにぃ!」

 張飛がごねる。

「おまえの言いたい事など見通せる。大体、おまえが禁酒令に賛同するとは、初手はなから思っておらん」

 そう言って、義兄・劉備りゅうび玄徳げんとくはため息を吐いた。
 彼には義弟おとうとが本日の議題「禁酒令の発布」を素直に受け入れないであろう事は解っていた。
 強情で一本気で酒好きの張飛をどのように説得するか。劉備は立案された法よりも、そちらに頭を悩ませていた。


 時は建安十五年(西暦二一〇年)初夏の頃であった。
 先の荊州牧けいしゅうのぼく劉表りゅうひょうの長子・劉琦りゅうきの死後、劉備は牧の位を引き継いで長沙ちょうさに駐留していた。
 そして、積年の策である益州えきしゅうへの進軍を、この地を足掛かりに実行に移そうとしていた。
 ただし、表向きは「益州牧・劉璋りゅうしょうたすけるため」であるが。

 しかし長く戦禍せんかに晒されてきた荊州では、数十万の兵を送り出すために必要な兵糧を確保するのが難かった。

「ですから、それを備蓄するためにも、向こう一年間は酒造を禁止するのです。ひえあわ・麦・米……酒造りに使う穀類を兵糧として供出させるのが目的です」

 軍師将軍・諸葛亮しょかつりょう孔明こうめいが、法案の骨子を述べる。
 同じ説明を、今日何度繰り返したか判らない。
 が。
『酒をかてに動く男』である張飛が、納得しようはずもない。

「ナァ軍師どの。酒は戦の必需品だぜ。兵共を慰めるには酒が一番だ。それに、戦神を祭るにも御神酒おみきは必要だろ?」

 酒呑さけのみは何かと理由付けをしては呑みたがる。
 どちらかというと議論をうとんずる方である、武偏者ぶへんものの張飛が、こうまで積極果敢に弁ずるのも、単にからだろう。
 しかし酒を呑まない者には酒呑みの理論など通用しない。
 それを立証したのが、つい先頃まで「阿花あか」の小字こあざなで呼ばれていた、まだ元服間もない若者、王索おうさく寧国ねいこくであった。

「戦神は出陣するときに祭るもの。慰労は戦が終わってからするもの。今は酒の必要などないでしょう?」

 涼やかな声音が議場を渡たる。

「がっ……?」

 張飛は口をパクリと開けたまま、硬直した。

 王索は、右の頬に五寸ばかりの刀傷がある以外は、十人並み以上の器量を持つ、十六才のだ。
 というのは、彼女の母親の姓である。
 実を言うと彼女は、父親の姓どころか、顔すら覚えていない。父のことを母親に尋ねると、ひどく辛そうな顔をするので、聞き出すこともはばかられた。
 それもあって彼女は、母親が再婚した相手を「父」と呼んでいる。
 今の王索の父親・・は、張飛のもう一人の義兄である関羽かんう雲長うんちょうであった。
 
 さかのぼること二年前、劉備軍は長阪ちょうはんの地で、曹操そうそう率いると交戦し、敗走した。
 この戦で王索は顔に傷を得た。
 平常、口には出すことはないが、彼女はこれを気に病んでいる。
 元々、女の技を学ぶより、男児が学ぶ様な学問や剣術を好む、風変わりな娘であったが、この傷が、彼女の決意を強いものとした。
 良家の子女で有る事を捨て、武家の子息として生きることを決めたのだ。

 さて、劉備はこのが忠孝厚く知慮深い事を知っていた。
 故に彼女の決意を聞きつけるや、文書や印受をつかさどる、一種の書記官である「主簿しゅぼ」として取り立てた。
 このは彼女の優秀さを表すと同時に、婦女子をも幕下に加えねばならぬほど、劉備配下に人材が不足している事も証している。
 
 話を戻そう。

 張飛の誤算はこのの酒量を踏み誤った事に発する。
 下戸げこというのではないが、若い王索の酒量は張飛のそれには到底及ばない。大酒呑みの気持ちなど彼女には理解できないのだ。

「兵が飢えていては、良い将が率い、良い策を弄したところで、勝つことが出来ません。よろしいですか、叔父上おじうえが一年にだけの酒を造る粟を兵糧に用いれば、ざっと百人の兵を三年は養えるのですよ」

 王索の言葉に呼応して笑い声が起きた。
 臨席者の大半が、彼女に同意している。
 特に関羽の長子で、王索にとっては義兄あにに当たる、関平かんへい和国わこくの笑いぶりは、一際大仰だ。

「叔父御、諦めなさいませ。叔父御では索の弁舌には勝てませぬぞ」

 そう言うと、彼はカラカラと笑った。
 二人の甥に見捨てられた張飛は、慌てて反論を考えた。の、だが、良い台詞が浮かばない。
 しかたなく『誰か味方してはくれまいか』と、議場を見回した。
 生真面目でお堅い趙雲ちょううん子龍しりゅうが酒呑みの弁護をしてくれるとは考え難い。
 張飛から見れば新参である魏延ぎえん黄忠こうちゅうの両将軍はいわずもかな、劉封りゅうほう糜竺びじく伊籍いせき孫乾そんけんといった文官達が主君にあがなう筈もない。
 馬良ばりょう馬謖ばしょくの兄弟などは、共々諸葛亮を兄と慕っているほどだから、その策に反対するわけがない。

「そうだ、ほう軍師!」

 張飛ははたと膝を打って、つぶらな瞳を輝かせた。
 副軍師ふくぐんし中郎将ちゅうろうしょう龐統ほうとう士元しげんの酒好きは……量は別として……張飛といい勝負だった。
 所が、張飛と目が会った龐統は、ニッと笑って

「張将軍。残念ながらそれがしは今、酒を断っておりましてな」

 と、首を横に振ったのだ。
 もはや孤立無援となった張飛は、一縷の望みを賭けて壁際の長椅子を見た。

 そこに一人のおとこが伸びていた。

 簡雍、あざな(通称名)を憲和という。
 生まれは幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん ……つまり張飛、そして劉備と同郷である。
 一つ年下のこの男を、張飛は深く尊敬している。
 機知に富み、すこぶる口が達者で、そういった方面に関しては実に凡庸ぼんような張飛とは、全く正反対の素質を有していたからだ。
 元々張飛は「頭の良い者」に弱かった。無い物ねだりとは言い過ぎだが、憧れる気持ちが強い。
 我の強い彼が、年下の諸葛亮や龐統の言う事を、割と素直に聞き入れる理由がそこにある。
 しかも簡雍はただの頭でっかち・・・・・ではない。
 彼が普通の、つまり生真面目で慣例にこだわり柔軟さのかけらも感じられない『知識人』とは、かなり毛色が違っているという事こそが、張飛が彼に一目置いている所以だ。
 はっきり言って、簡雍の外見に知的な色はない。
 結い上げた髪はいつも乱れており、ひげも整わない。かんは始終曲がり、着物のあわせが歪んでいない日はない。
 よほどの事がない限り、彼の服装は常に乱れている。

 それは今日も変わりない。それどころか、彼はその服装で長椅子に寝ているのだ。主君の前で、である。
 そして整わない髭をでている。
 まぶたを堅く閉じている。
 眠っているのかも知れない。
 普通の人間がこの様な態度を取れば、いくら劉備がお人好しでも、官邸から蹴り出される事だろう。
 しかし簡雍に限っては、許されている。
 その横柄さを差し引いても余りある機知を彼は持っており、主君がそれを愛しているのだ。

 張飛は、彼の機知が自分に都合良く働いてくれまいか、と願った。
 熱い視線が自分に向けられている事に気付いているのかいないのか、簡雍は静かに口を開け、若い主簿に声をかけた。

「なぁ……阿花……」

「はい叔父上」

 関羽が七つばかり年下のこの才人を、弟同然に扱っているので、義娘むすめの王索は簡雍を叔父として敬っている。
 歯切れの好い返事を聞いて、簡雍は薄目を開けた。

「さっきの計算だがな、間違っているぞ」

「は?」

 王索はきょとんとした目で簡雍を見た。周囲の者の視線も、全て彼に集まる。
 視線の中心で、簡雍はゆっくりと上体を起こした。そして欠伸あくびを一つしてから言った。

「翼徳が一年間に腹ン中に捨てちまう酒は、兵余りを三年間飢えさせる。人じゃ利かねぇよ」

 簡雍に視線を浴びせていた者すべてが爆笑した。
 ただ一人、張飛を除いて。
 


 かくして禁酒令は発動し、違反者には十杖以上の棒罰ぼうたたきが科せられる事と相成った。

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