フツウな日々―ぼくとあいつの夏休み―

神光寺かをり

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夏休みの間

73.知らなかったでは済まされない事。

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 龍神が渦にふわりと飛び乗った。
 龍の心を乗せたまま、龍神は渦と一緒にものすごい勢いで上昇した。
 水面を突き抜け空高く舞い上がると、水面の下がった池と、その周りの乾いた集落と、力無く流れる川と、その先の町とを、全部見下ろせる高さで止まった。

『雨は降らせてやろう。ただし、水はこの池に残っておるだけじゃ。
 どれほど降ったとして、精々せいぜいふだが他の支流と合流するあたりの少しばかり下流に流着くか着かぬか程度の勢い付けじゃ』

 龍神の声は、確かに龍に向けて発せられている。
 龍は声のする方向……つまり、頭の上の方を見た。
 黒い雲の渦がある。その中心に、人の目をした大蜥蜴おおとかげの顔があった。

「あっ」

 小さく声を上げた。同時に自分の手を見た。
 心細いほど小さな掌が、脂汗でじっとり湿っている。

「僕の手だ」

 安心と不安と、安堵と疑問が、いっぺんに彼の頭の中に広がる。
 蜥蜴とかげの顔、へびの身体、わしの爪、そして人間の眼を持った龍神は、じっと龍を見ている。

『世の中には、知らなかったでは済まされぬ事もある。
 おまえが何の気なしに、ただ面白がってやったことは、つまりそう云うことだ』

「僕の、やったこと?」

 龍は龍神の顔をじっと見た。でも龍神は龍の質問に答えてはくれなかった。

『知らなくてやらかした失態であっても、尻ぬぐいは自分でやらねばならぬ。
 自分でやらねば意味がない』

 龍神のコトバの最後の方は、少し弱々しい声になっていた。それはまるで、自分の言ったことで自分を納得させようとしている風だ。
 龍を見つめる龍神の人間の眼は、鏡の中の自分の滑稽おかしさを見ているような色で笑った。

 軽蔑している。照れている。懐かしんでいる。愛している。

『解るな?』

 ぽつり、と龍神が言った。
 龍は押し黙っていた。

 龍脈は、多分水の流れのこと。
 それが滞っているってことは、水が流れなくなっているってこと。
 水が流れなくなると、雨も降らなくなるってこと。
 雨が降らないからますます水が流れないってこと。
 そこまでは解った気がする。

 龍脈の滞りを無くせば、元通りに水が流れるようになって、雨が降る。
 それもなんとなく解る。

 じゃあ、具体的に何をどうしたらいいのかは、さっぱり解らない。
 龍は半泣き顔で龍神を見上げた。
 龍神は何も言わない。大きな人間の目玉で彼を見ている。
 でも蜥蜴とかげの顔形をしている今の龍神の表情は、起こっているのか、呆れているのかぜんぜん解らない。
 ただなんとなく、笑ってはいないだろうし、優しい顔もしていないんじゃないか、とは思える。

 龍は心細くなった。半泣き顔は、次第に全泣き顔に変ってゆく。
 泣くまいと目を閉じた。真っ暗闇の中に放り出された気分になって、ますます辛くなる。
 こらえきれなくなった涙が、目頭と目尻と鼻の穴からいっぺんにあふれ出た。雫はほっぺたを伝ってあごに流れ、ひとかたまりの大きな雨垂れになって、落ちた。

 途端。

 ゴウゴウ、ザアザア、ゴロゴロ、ザブザブ。

 遠くで音がした。
 どろりと重たい風が龍の身体の回りに絡み付く。
 湿った空気が嗚咽おえつする肺の中に入り込み、体の中に充満する。
 もがいてももがいても、重たい湿気をはらえない。吸い込んでも吸い込んでも、空気が入ってこない。
 胸が苦しい、息が苦しい。
 龍はもっと大きく手足をばたつかせた。
 かき分け、かき分け、かき分ける。
 蹴り出し、蹴り出し、蹴り進む。
 やがて手の先が、どろどろした湿気の外側の、何もない場所に突き抜けた。
 龍を細く目を開けた。手の先に明るい場所が見える。
 その一点に頭を突っ込むと、彼は潜水でプールの端から端まで泳いだみたいな勢いで、息を吸った。

「ぶわぁ!!」

 肺が空気を受け入れた。
 見開いた眼に、蛍光灯けいこうとうの瞬きが突き刺さった。 
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