42 / 78
夏休みの間
42.どっちでも良いよ。
しおりを挟む
天井が回っている。
でも龍は目をつぶっているのだから、本当に天井が回っているのか、そんな気がしているだけなのか、それとも自分の体が回って落ちていっているのか判らない。
「助けて」
腕を突き上げる。龍の腕は何にもない空間で頼りない水草みたいにゆらゆらと揺れた。
てのひらを大きく、指の間が破けるんじゃないかというくらい大きく広げる。
指にも、てのひらにも、何も触るものがない。
指先から戻ってくる血液が冷たい。二の腕の筋肉がぴくぴくした。
「助けて、『トラ』」
言った直後、彼の指先にひんやりとした物が巻き付いた。
そっと目を開けた龍は、天井と床の間でふらふら揺れている自分の指が、細くて白い、そして冷たい別の指に握られているのを見つけた。
指は白い腕に繋がっている。長い腕は華奢な肩に繋がっている。肩の上には少し長い首があって、首の上にはまぁるい頭が乗っていた。
遠くに見えるその顔は真っ白で、短く切りそろえられた真っ黒な前髪は少し湿っているようで、わずかに前に垂れ下がっている。
ほんの少し八の字に下がった眉毛の下には、黒目がちな瞳が不安そうに光っていた。
「『トラ』?」
龍の耳に、そう言う自分の声が聞こえた。同時に、
「ひぃちゃん?」
そう呼ぶY先生の声も聞こえた。
龍は混乱した。自分の声が呼んだ名前と、先生の声が呼んだ名前はぜんぜん違っていて、絶対に重ならない音だった。
でも、自分の目と先生の目が同じ物を見ているのは間違いなかった。
二人から見つめられている、「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれているその人は、とても困った、すごく戸惑った顔をしていたけれど、龍の手をしっかり握ったまま、
「うん」
小さな声で言った。
細い指先できれいに切りそろえられた爪が、ピンク色に光っている。
「『トラ』? 『ヒメコ』ちゃん?」
龍が訊くと、
「うん」
困り顔が上下に揺れる。
龍は混乱した。
どうしても「トラ」という名前の友達と、「ヒメコ」という可愛らしい名前の会ったことのない女の子とが同じ人のことだとは思えない。
だいたい「トラ」が「ヒメコ」ちゃんだったら、「トラ」が女の子だということじゃないか。
混乱した龍はもう一度訊いた。
「『トラ』で、『ヒメコ』ちゃん?」
訊いておいて、自分でちょっと可笑しくなった。
その前にいった言葉と、一文字しか違っていない。
なんだか可笑しくて溜まらないのだけれど、名前のことで笑うのは「トラ」な「ヒメコ」ちゃんに悪いと思った。だから唇をぎゅっと引き締めたのだけれども、ほっぺただけはこらえきれずに、ぴくりと持ち上がった。
「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれているらしいその子は、龍をじっと見ていた。
そうして、彼の頬がぴくんと動くと、気恥ずかしそうにニコリと笑って、小さく、
「うん」
とうなずいた。
龍はホッとした。
自分が「トラ」な「ヒメコ」ちゃんの名前のことで笑ってしまったことを、「ヒメコ」ちゃんな「トラ」が怒っていないらしいというのが判ったからなのか。
それとも「トラ」の笑顔を久しぶりに見たからなのか。
どっちなのかわからない。
多分両方の理由が正解だとも思う。
ホッとはしたけれど、それでもまだ龍はちょっと混乱していた。
「どっちで呼んだらいい?」
龍は「トラ」で「ヒメコ」ちゃんな、とても大切な友達の手をぎゅっと握った。
「ヒメコ」ちゃんな「トラ」は龍の手をぎゅっと握り返した。それから気恥ずかしそうで、寂しそうで、嬉しそうで、悲しそうな笑顔で答えた。
「どっちでも良いよ。どっちもボクの名前だから」
でも龍は目をつぶっているのだから、本当に天井が回っているのか、そんな気がしているだけなのか、それとも自分の体が回って落ちていっているのか判らない。
「助けて」
腕を突き上げる。龍の腕は何にもない空間で頼りない水草みたいにゆらゆらと揺れた。
てのひらを大きく、指の間が破けるんじゃないかというくらい大きく広げる。
指にも、てのひらにも、何も触るものがない。
指先から戻ってくる血液が冷たい。二の腕の筋肉がぴくぴくした。
「助けて、『トラ』」
言った直後、彼の指先にひんやりとした物が巻き付いた。
そっと目を開けた龍は、天井と床の間でふらふら揺れている自分の指が、細くて白い、そして冷たい別の指に握られているのを見つけた。
指は白い腕に繋がっている。長い腕は華奢な肩に繋がっている。肩の上には少し長い首があって、首の上にはまぁるい頭が乗っていた。
遠くに見えるその顔は真っ白で、短く切りそろえられた真っ黒な前髪は少し湿っているようで、わずかに前に垂れ下がっている。
ほんの少し八の字に下がった眉毛の下には、黒目がちな瞳が不安そうに光っていた。
「『トラ』?」
龍の耳に、そう言う自分の声が聞こえた。同時に、
「ひぃちゃん?」
そう呼ぶY先生の声も聞こえた。
龍は混乱した。自分の声が呼んだ名前と、先生の声が呼んだ名前はぜんぜん違っていて、絶対に重ならない音だった。
でも、自分の目と先生の目が同じ物を見ているのは間違いなかった。
二人から見つめられている、「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれているその人は、とても困った、すごく戸惑った顔をしていたけれど、龍の手をしっかり握ったまま、
「うん」
小さな声で言った。
細い指先できれいに切りそろえられた爪が、ピンク色に光っている。
「『トラ』? 『ヒメコ』ちゃん?」
龍が訊くと、
「うん」
困り顔が上下に揺れる。
龍は混乱した。
どうしても「トラ」という名前の友達と、「ヒメコ」という可愛らしい名前の会ったことのない女の子とが同じ人のことだとは思えない。
だいたい「トラ」が「ヒメコ」ちゃんだったら、「トラ」が女の子だということじゃないか。
混乱した龍はもう一度訊いた。
「『トラ』で、『ヒメコ』ちゃん?」
訊いておいて、自分でちょっと可笑しくなった。
その前にいった言葉と、一文字しか違っていない。
なんだか可笑しくて溜まらないのだけれど、名前のことで笑うのは「トラ」な「ヒメコ」ちゃんに悪いと思った。だから唇をぎゅっと引き締めたのだけれども、ほっぺただけはこらえきれずに、ぴくりと持ち上がった。
「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれているらしいその子は、龍をじっと見ていた。
そうして、彼の頬がぴくんと動くと、気恥ずかしそうにニコリと笑って、小さく、
「うん」
とうなずいた。
龍はホッとした。
自分が「トラ」な「ヒメコ」ちゃんの名前のことで笑ってしまったことを、「ヒメコ」ちゃんな「トラ」が怒っていないらしいというのが判ったからなのか。
それとも「トラ」の笑顔を久しぶりに見たからなのか。
どっちなのかわからない。
多分両方の理由が正解だとも思う。
ホッとはしたけれど、それでもまだ龍はちょっと混乱していた。
「どっちで呼んだらいい?」
龍は「トラ」で「ヒメコ」ちゃんな、とても大切な友達の手をぎゅっと握った。
「ヒメコ」ちゃんな「トラ」は龍の手をぎゅっと握り返した。それから気恥ずかしそうで、寂しそうで、嬉しそうで、悲しそうな笑顔で答えた。
「どっちでも良いよ。どっちもボクの名前だから」
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
アマテラスの力を継ぐ者【第一記】
モンキー書房
ファンタジー
小学六年生の五瀬稲穂《いつせいなほ》は運動会の日、不審者がグラウンドへ侵入したことをきっかけに、自分に秘められた力を覚醒してしまった。そして、自分が天照大神《あまてらすおおみかみ》の子孫であることを宣告される。
保食神《うけもちのかみ》の化身(?)である、親友の受持彩《うけもちあや》や、素戔嗚尊《すさのおのみこと》の子孫(?)である御饌津神龍《みけつかみりゅう》とともに、妖怪・怪物たちが巻き起こす事件に関わっていく。
修学旅行当日、突如として現れる座敷童子たちに神隠しされ、宮城県ではとんでもない事件に巻き込まれる……
今後、全国各地を巡っていく予定です。
☆感想、指摘、批評、批判、大歓迎です。(※誹謗、中傷の類いはご勘弁ください)。
☆作中に登場した文章は、間違っていることも多々あるかと思います。古文に限らず現代文も。
マキノのカフェ開業奮闘記 ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
カフェ開業を夢見たマキノが、田舎の古民家を改装して開業する物語。
おいしいご飯がたくさん出てきます。
いろんな人に出会って、気づきがあったり、迷ったり、泣いたり。
助けられたり、恋をしたり。
愛とやさしさののあふれるお話です。
なろうにも投降中
少年少女たちの日々
原口源太郎
恋愛
とある大国が隣国へ武力侵攻した。
世界の人々はその行為を大いに非難したが、争いはその二国間だけで終わると思っていた。
しかし、その数週間後に別の大国が自国の領土を主張する国へと攻め入った。それに対し、列国は武力でその行いを押さえ込もうとした。
世界の二カ所で起こった戦争の火は、やがてあちこちで燻っていた紛争を燃え上がらせ、やがて第三次世界戦争へと突入していった。
戦争は三年目を迎えたが、国連加盟国の半数以上の国で戦闘状態が続いていた。
大海を望み、二つの大国のすぐ近くに位置するとある小国は、激しい戦闘に巻き込まれていた。
その国の六人の少年少女も戦いの中に巻き込まれていく。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤマネ姫の幸福論
ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。
一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。
彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。
しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。
主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます!
どうぞ、よろしくお願いいたします!
古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる