2 / 78
夏休みのすこし前
2.布団の中で。
しおりを挟む
ひとみ‐ごくう【人身御供】
人のからだを神へのそなえものにすること。また、そのそなえものになる人。いけにえ。
目的のために特定の人間を犠牲者にする。またその犠牲となる人。
夜中。
龍はあわてて辞書を閉じた。
インクの匂いがする小さな風が机の上に吹いて、自動鉛筆が少し転げた。
龍はいけにえとか犠牲とかいう言葉に、
「命をなくす」
と言う意味があることを知っていた。
学校の授業では、まだそんな「画数の多い漢字の言葉」は習わない。
龍は、すこし前に読んだ漫画に、そんなことが描いてあったのを覚えていたのだ。
漫画に描いてあることは、全部想像上の事だ、と、大人達は言う。
だから龍は、漫画みたいな事は自分にはあんまり関係の無いオハナシだと思っていた。
その関係の無い言葉が、自分のすぐ近くにあった。
唾を飲み込んだ瞬間、
『ヒトミゴクウのミガワリだよ』
頭の奥で「トラ」の柔らかい声がした。
龍はいきなり氷を背に投げ込まれたみたいにイスから跳ね上がった。そして、イスのうえではなく、床にお尻から落ちた。
尾骶骨から頭の天辺まで、びりびりっと痛みが突き抜けた。
痛くて、びっくりして、怖くて、しばらく口もきけずに座り込んでいた所に、不意に「ガサガサ」という音を聞いた……ような気がした。
龍はまたビクンと跳ね飛んで、四つン這いで、子供部屋のドアの横にひょろりと立つカバンかけの足下までばたばたとはいずって行った。
そうして細いポールにすがりついて、飛び出たフックを手がかりにして、なんとか立ち上がった。
立ち上がって、龍は一番上に掛かっていた図書袋をひっ掴んだ。
その中に、人の形の紙が――自分の名前の文字が書かれた紙が、詰め込んである。
そのことが、急に、怖くなった。
図書袋の肩掛けひもが、静電気でふわふわ舞うビニルの紐みたいに、指に絡み付いた気がして、龍は小さく叫びながらそれを投げた。できるだけ遠くに投げ飛ばしたかったのだけれども、ここは四畳半の子供部屋で、どんなに遠くに投げよう思っても――窓やドアが開いていない限りは――壁に当たる。
あの白い人の形の紙以外はなにも入っていない肩掛け袋は、ざわざわ音を立てて壁にぶつかり、部屋の隅っこの、薄暗いところへ落ちた。
龍はカバンかけの柱にしがみついた。自分が投げた図書袋から目が離せない。
袋が動いている様に見えた。袋の中で何かが動いているように思えた。
息ができなかった。
動いている何かが、もぞもぞと袋から這い出てくる……ような気がする。
龍はその方向をにらみ付けながら、カバンかけから手を話した。
もう一度四つン這いになって、部屋の中で袋から一番遠いと思うところへ、ジリジリと移動した。
ラッキーというか、ただの偶然というか、その一番遠いところは、ベッドの上だった。彼は足先で掛け布団をめくって、尻の方から蒲団の中に潜り込んだ。
頭まで潜り込むと、目の前にカレーパンみたいな形の隙間ができた。
アンラッキーというか、ただの偶然というか、その隙間から、部屋の隅の袋が見える。
袋は、床に落ちたときそのままの形で、床の上にだらしない格好でそこにある。
今のところ動いたりしていないし、音を立てたり、唸ったりする様子はなかった。
それなのに、龍の耳の回りでは、ジーという音が鳴っている。そこに自分の心臓の音と、呼吸の音が重なる。
自分の身体から出ている音なのに、すごく耳障りで、不気味だった。
龍は頭を抱え込んで両耳を押さえた。
そうすると今度は、耳の下の、あごの関節の内側のあたりが、キィキィと引きつれる感じがしはじめた。
無理矢理、生唾を飲み込んでみた。水気が無くなってぱさぱさなった口の中は、余計に引きつれた。
指先で耳を強く押さえ、足の指をぎゅっと縮める。手足の指先が血の気を失って、冷たくなる。
それでも龍は、布団の隙間を閉じなかった。
目をつむろうともしない。
怖かった。
布団のスキマから光が入ってこなくなることが怖かった。
見えないところで何かが起きることが怖かった。
たとえ一瞬でも目を離したその時に、図書袋が動き出しそうな気がする。瞬きするのも恐ろしい。
閉じられない目玉から、水分が抜けてゆく。
目頭がじんじんと痛んだ。
五分か十分か、もしかしたらもっとずっと短い時間、龍は布団を被った石ころのように固まって、目を見開き続けた。
見ている内に、龍の体の中の怖さが、だんだんと落胆に変わっていった。
龍は心のどこかで「何かが起きることを期待」していた。
図書袋の中に入っている「見たこともない怖い物」が、もぞもぞと動き出して、ガバッと袋から飛び出してくることを、望んでいる。
朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行って、勉強をして、給食を食べて、勉強をして、掃除をして、校庭で遊んで、帰り道にあちらこちら寄り道して、夕ご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って、寝る。
龍はそんなフツウな日々の連続が止まることを願っている。
夏休みが始まる前の、遠足の前日の、大晦日の夜の、フツウの日々が終わる直前のワクワクした気分を、今の龍は体中で感じている。
自分の名前の入った呪文(らしき物)の書かれた紙が、自分の図書袋の中で、ごそごそと合体し、もぞもぞと大きくなり、ざわざわ動き出す様を、彼は待っている。
でも、どんなに待ち続けても、図書袋から「なんだかわからない怪物」が出てくることはなかったし、図書袋そのものが「なんだかわからない怪物」になることもなかった。
元来が「どちらかというと行動的」で「積極的」で「じっとするのが苦手」な性質の龍は、そのうちに、目を開けっぱなしにしていることや、黙っていること、それからじっと動かないことや、期待しながら待つことにも、それから落胆することにも、我慢しきれなくなった。
ほんの数分間で溜まりきった「我慢」は、
「うわっ!」
という大きな呼気の固まりをになって、龍の口から吐き出された。
彼は布団をはね除けて、その勢いのまんまベッドの上で立ち上がった。
人のからだを神へのそなえものにすること。また、そのそなえものになる人。いけにえ。
目的のために特定の人間を犠牲者にする。またその犠牲となる人。
夜中。
龍はあわてて辞書を閉じた。
インクの匂いがする小さな風が机の上に吹いて、自動鉛筆が少し転げた。
龍はいけにえとか犠牲とかいう言葉に、
「命をなくす」
と言う意味があることを知っていた。
学校の授業では、まだそんな「画数の多い漢字の言葉」は習わない。
龍は、すこし前に読んだ漫画に、そんなことが描いてあったのを覚えていたのだ。
漫画に描いてあることは、全部想像上の事だ、と、大人達は言う。
だから龍は、漫画みたいな事は自分にはあんまり関係の無いオハナシだと思っていた。
その関係の無い言葉が、自分のすぐ近くにあった。
唾を飲み込んだ瞬間、
『ヒトミゴクウのミガワリだよ』
頭の奥で「トラ」の柔らかい声がした。
龍はいきなり氷を背に投げ込まれたみたいにイスから跳ね上がった。そして、イスのうえではなく、床にお尻から落ちた。
尾骶骨から頭の天辺まで、びりびりっと痛みが突き抜けた。
痛くて、びっくりして、怖くて、しばらく口もきけずに座り込んでいた所に、不意に「ガサガサ」という音を聞いた……ような気がした。
龍はまたビクンと跳ね飛んで、四つン這いで、子供部屋のドアの横にひょろりと立つカバンかけの足下までばたばたとはいずって行った。
そうして細いポールにすがりついて、飛び出たフックを手がかりにして、なんとか立ち上がった。
立ち上がって、龍は一番上に掛かっていた図書袋をひっ掴んだ。
その中に、人の形の紙が――自分の名前の文字が書かれた紙が、詰め込んである。
そのことが、急に、怖くなった。
図書袋の肩掛けひもが、静電気でふわふわ舞うビニルの紐みたいに、指に絡み付いた気がして、龍は小さく叫びながらそれを投げた。できるだけ遠くに投げ飛ばしたかったのだけれども、ここは四畳半の子供部屋で、どんなに遠くに投げよう思っても――窓やドアが開いていない限りは――壁に当たる。
あの白い人の形の紙以外はなにも入っていない肩掛け袋は、ざわざわ音を立てて壁にぶつかり、部屋の隅っこの、薄暗いところへ落ちた。
龍はカバンかけの柱にしがみついた。自分が投げた図書袋から目が離せない。
袋が動いている様に見えた。袋の中で何かが動いているように思えた。
息ができなかった。
動いている何かが、もぞもぞと袋から這い出てくる……ような気がする。
龍はその方向をにらみ付けながら、カバンかけから手を話した。
もう一度四つン這いになって、部屋の中で袋から一番遠いと思うところへ、ジリジリと移動した。
ラッキーというか、ただの偶然というか、その一番遠いところは、ベッドの上だった。彼は足先で掛け布団をめくって、尻の方から蒲団の中に潜り込んだ。
頭まで潜り込むと、目の前にカレーパンみたいな形の隙間ができた。
アンラッキーというか、ただの偶然というか、その隙間から、部屋の隅の袋が見える。
袋は、床に落ちたときそのままの形で、床の上にだらしない格好でそこにある。
今のところ動いたりしていないし、音を立てたり、唸ったりする様子はなかった。
それなのに、龍の耳の回りでは、ジーという音が鳴っている。そこに自分の心臓の音と、呼吸の音が重なる。
自分の身体から出ている音なのに、すごく耳障りで、不気味だった。
龍は頭を抱え込んで両耳を押さえた。
そうすると今度は、耳の下の、あごの関節の内側のあたりが、キィキィと引きつれる感じがしはじめた。
無理矢理、生唾を飲み込んでみた。水気が無くなってぱさぱさなった口の中は、余計に引きつれた。
指先で耳を強く押さえ、足の指をぎゅっと縮める。手足の指先が血の気を失って、冷たくなる。
それでも龍は、布団の隙間を閉じなかった。
目をつむろうともしない。
怖かった。
布団のスキマから光が入ってこなくなることが怖かった。
見えないところで何かが起きることが怖かった。
たとえ一瞬でも目を離したその時に、図書袋が動き出しそうな気がする。瞬きするのも恐ろしい。
閉じられない目玉から、水分が抜けてゆく。
目頭がじんじんと痛んだ。
五分か十分か、もしかしたらもっとずっと短い時間、龍は布団を被った石ころのように固まって、目を見開き続けた。
見ている内に、龍の体の中の怖さが、だんだんと落胆に変わっていった。
龍は心のどこかで「何かが起きることを期待」していた。
図書袋の中に入っている「見たこともない怖い物」が、もぞもぞと動き出して、ガバッと袋から飛び出してくることを、望んでいる。
朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行って、勉強をして、給食を食べて、勉強をして、掃除をして、校庭で遊んで、帰り道にあちらこちら寄り道して、夕ご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って、寝る。
龍はそんなフツウな日々の連続が止まることを願っている。
夏休みが始まる前の、遠足の前日の、大晦日の夜の、フツウの日々が終わる直前のワクワクした気分を、今の龍は体中で感じている。
自分の名前の入った呪文(らしき物)の書かれた紙が、自分の図書袋の中で、ごそごそと合体し、もぞもぞと大きくなり、ざわざわ動き出す様を、彼は待っている。
でも、どんなに待ち続けても、図書袋から「なんだかわからない怪物」が出てくることはなかったし、図書袋そのものが「なんだかわからない怪物」になることもなかった。
元来が「どちらかというと行動的」で「積極的」で「じっとするのが苦手」な性質の龍は、そのうちに、目を開けっぱなしにしていることや、黙っていること、それからじっと動かないことや、期待しながら待つことにも、それから落胆することにも、我慢しきれなくなった。
ほんの数分間で溜まりきった「我慢」は、
「うわっ!」
という大きな呼気の固まりをになって、龍の口から吐き出された。
彼は布団をはね除けて、その勢いのまんまベッドの上で立ち上がった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
おにぎりが結ぶもの ~ポジティブ店主とネガティブ娘~
花梨
ライト文芸
ある日突然、夫と離婚してでもおにぎり屋を開業すると言い出した母の朋子。娘の由加も付き合わされて、しぶしぶおにぎり屋「結」をオープンすることに。思いのほか繁盛したおにぎり屋さんには、ワケありのお客さんが来店したり、人生を考えるきっかけになったり……。おいしいおにぎりと底抜けに明るい店主が、お客さんと人生に悩むネガティブ娘を素敵な未来へ導きます。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる