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クロアナグマ
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その日、電話口の義妹の口ぶりは要領を得なかった。早口で聞き取りづらい言葉の中から「倒れた」とか「救急車」とか「精密検査」とか「麻痺」といった単語を拾い、つなぎ合わせて、ようやく状況が把握できた。
オフクロ様が病気になった。近所の診療所ではなく、遠方の総合病院に入院しなければならないような病気に。
普段しっかり者の嫁がこんな状況なのだから、オヤジ殿の方は輪を掛けて聴牌っているに違いない。取り乱す老人の様子を想像して、酷く不安になった。
嫁ぎ先兼勤務先に頭を下げ、車をブッ飛ばしてきた娘は、病室中を開いたままの扉の陰からそっと覗き込んで、卒倒しかけた。
いや、正確にはずっこけた。
白とクリーム色しかない病室のほとんど真ん中に、毒々しいまでに真っ赤な色の、腹の丸い喜寿爺鎮座している。
オヤジ殿はたぶん倅の「コレクション」の中から勝手に引っ張り出したのだろう派手派手しいアメコミ柄のTシャツを着込んでいた。臙脂のジャージズボンはたぶん私が実家に置いてきた高校指定の運動着だ。丈も太さも足りないものを無理矢理はいているものだから、尻が半分出かかっている。広くなった額を隠すように猩々緋のバンダナを巻いているが、こっちはオヤジ殿自身の趣味だ。
派手派手しい発色のせいで、手前にいた義妹の姿にすぐには気付かなかった。
「おう、遅いかったな」
オヤジ殿は、まるで自分の寝床のにいるようにくつろいだそぶりで、ひらひらと手を振る。
『この、ごま塩禿達磨め!』
喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込めたのは、脇にオフクロ様がいたからだ。
うす青の検査着を羽織り、車椅子に座っていた。顔色はさほど悪くないが、頬のあたりが酷く浮腫むくんでいる。
元々小柄な人だったが、無節操に膨張色を着込んだオヤジ殿が側にいるモノだから、余計に小さく縮んでみえた。
「たいしたこと、はないのよ」
ようやく口を動かして言う。短い言葉だが、聞き取るのに苦労した。
「これがね、入院するのに、要るの。揃うかしら?」
病人はゆらゆら揺れる手先で、メモを一枚差し出した。赤いボールペンの文字は、胃痙攣を起こした沙蚕ゴカイの群れのようだった。
「慌ててたから、必要なモノが全然わからなくて。わかる分はお父さんに頼んだけども……」
義妹が申し訳なさそうな顔をしている。頼まれた方がふんぞり返って、
「肌着だのタオルだのが何処にあるかなんて、男親が知ってるワケがない」
平然と言った。
「あんたはこの人の『親』じゃなくて『亭主』でしょうに」
病人当人が書いた文字を解読しながら、聞こえないように呟いた。
「売店は何階だっけ?」
「二階、でも、何でも、高いのよ」
答えたのはオフクロ様だった。オヤジ殿は兎も角、しっかり者の筈の嫁もどうやら今に限っては役に立ちそうもない。ただ、おろおろしている。
「すぐ必要なものは、高いの安いの言ってる場合じゃないからね。緊急じゃないのは、あとでホームセンターか何かで仕入れてくる」
オフクロ様はもぐもぐと口を動かし、手を震わせながら、別の何かを差し出した。
「これ」
通帳とキャッシュカードだった。
「一階に、銀行、お金」
確かに、病室を探すときに見た院内の案内板には、玄関ロビーの隅にを示す場所にATMの文字があった。
「治療費は退院するときでいいんだよ」
通帳とカードを押し戻されたオフクロ様は、ちらりとオヤジ殿を見た。
「年金、お父さん、お金、出せないの」
伝えたいことが言葉にならないのがもどかしいらしい。
「暗証番号を知らないの?」
気を回して聞いた。ところが、
「キャッシュ何とかとか、ワカラねぇよ。銀行なんか行ったことねぇ」
オヤジ殿は当たり前のように言い切った。
オフクロ様が息を吐いた。まったく、病人に呆れられてどうする。
オフクロ様が病気になった。近所の診療所ではなく、遠方の総合病院に入院しなければならないような病気に。
普段しっかり者の嫁がこんな状況なのだから、オヤジ殿の方は輪を掛けて聴牌っているに違いない。取り乱す老人の様子を想像して、酷く不安になった。
嫁ぎ先兼勤務先に頭を下げ、車をブッ飛ばしてきた娘は、病室中を開いたままの扉の陰からそっと覗き込んで、卒倒しかけた。
いや、正確にはずっこけた。
白とクリーム色しかない病室のほとんど真ん中に、毒々しいまでに真っ赤な色の、腹の丸い喜寿爺鎮座している。
オヤジ殿はたぶん倅の「コレクション」の中から勝手に引っ張り出したのだろう派手派手しいアメコミ柄のTシャツを着込んでいた。臙脂のジャージズボンはたぶん私が実家に置いてきた高校指定の運動着だ。丈も太さも足りないものを無理矢理はいているものだから、尻が半分出かかっている。広くなった額を隠すように猩々緋のバンダナを巻いているが、こっちはオヤジ殿自身の趣味だ。
派手派手しい発色のせいで、手前にいた義妹の姿にすぐには気付かなかった。
「おう、遅いかったな」
オヤジ殿は、まるで自分の寝床のにいるようにくつろいだそぶりで、ひらひらと手を振る。
『この、ごま塩禿達磨め!』
喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込めたのは、脇にオフクロ様がいたからだ。
うす青の検査着を羽織り、車椅子に座っていた。顔色はさほど悪くないが、頬のあたりが酷く浮腫むくんでいる。
元々小柄な人だったが、無節操に膨張色を着込んだオヤジ殿が側にいるモノだから、余計に小さく縮んでみえた。
「たいしたこと、はないのよ」
ようやく口を動かして言う。短い言葉だが、聞き取るのに苦労した。
「これがね、入院するのに、要るの。揃うかしら?」
病人はゆらゆら揺れる手先で、メモを一枚差し出した。赤いボールペンの文字は、胃痙攣を起こした沙蚕ゴカイの群れのようだった。
「慌ててたから、必要なモノが全然わからなくて。わかる分はお父さんに頼んだけども……」
義妹が申し訳なさそうな顔をしている。頼まれた方がふんぞり返って、
「肌着だのタオルだのが何処にあるかなんて、男親が知ってるワケがない」
平然と言った。
「あんたはこの人の『親』じゃなくて『亭主』でしょうに」
病人当人が書いた文字を解読しながら、聞こえないように呟いた。
「売店は何階だっけ?」
「二階、でも、何でも、高いのよ」
答えたのはオフクロ様だった。オヤジ殿は兎も角、しっかり者の筈の嫁もどうやら今に限っては役に立ちそうもない。ただ、おろおろしている。
「すぐ必要なものは、高いの安いの言ってる場合じゃないからね。緊急じゃないのは、あとでホームセンターか何かで仕入れてくる」
オフクロ様はもぐもぐと口を動かし、手を震わせながら、別の何かを差し出した。
「これ」
通帳とキャッシュカードだった。
「一階に、銀行、お金」
確かに、病室を探すときに見た院内の案内板には、玄関ロビーの隅にを示す場所にATMの文字があった。
「治療費は退院するときでいいんだよ」
通帳とカードを押し戻されたオフクロ様は、ちらりとオヤジ殿を見た。
「年金、お父さん、お金、出せないの」
伝えたいことが言葉にならないのがもどかしいらしい。
「暗証番号を知らないの?」
気を回して聞いた。ところが、
「キャッシュ何とかとか、ワカラねぇよ。銀行なんか行ったことねぇ」
オヤジ殿は当たり前のように言い切った。
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