龍蝨―りゅうのしらみ―

神光寺かをり

文字の大きさ
上 下
10 / 13

第10話 妙案

しおりを挟む

 ちょうどそのとき、丸めた肩越しに源太郎が振り返った。
 まなざしが源五郎のそれと真っ当にかち合う。
 源五郎は息を呑み込んだ。徳次郎と源次郎がかたを呑み込む音が聞こえる。
 源五郎、声もなく長兄の言葉を待つより他に無し。

「困ったぞ。なんたる失態だ。どうすれば良い?」

 主語が無い。述語が無い。何のことか判らない。
 次の言葉を聞かねば、何を答えて良いのか判断が付かない。
 待ちかねている次弟の顔を茫漠と眺める源太郎がいた言葉は、

「儂は我が子を……我が娘を、娘と知らずに、男の名で呼び続けていた……」

 三兄弟が目を見開いた。
 平伏していた権助が、頭を持ち上げる。
 その場の全員が、同じ事を考えていた。さりとて、口には出せぬ。

そこ・・かー!?』

 各々、胸の内で叫ぶのが精一杯だ。
 口には出せない。出せるはずがなかった。
 詰まるところ、皆、源太郎のしんちゅうを全く解っていなかったのだ。主君の心中を察し切れぬでは、家臣として不足ではないか。そのことに一様に驚き、嘆き、反省し、そして最終的に安堵した。
 源太郎は生まれてきた赤子に対して、何の不服不足も持っていないのだ、と。
 元気に泣く姫は、父親から祝福され、愛されているのだ。
 徳次郎の脂汗が引いた。源次郎の震えが止まった。源五郎の顔にしきが戻った。
 ことに源五郎は、凝り固まった緊張のあくがすっと引くのを覚えていた。血と気の巡りが蘇り、何も思い浮かばなかったのう漿しょうに活力が戻った。考えはにわかに活発になった。
 源太郎が、

「ああ、思えば儂が小太郎と呼びかける度に、あれがの腹を内から蹴っておったのは、『その名で呼ぶな、我は女ぞ』と、怒ってのことだったのか……。いや、そうに違いない」

 うろたえ言うのを、源五郎は、却ってすっかり落ち着いた心持ちで聞いていた。

「儂はどうしたらよかろうか? いや、娘に謝らねばならぬ。それは判っておる。判っておるが、一体なんと言って詫びたものか?」

 謝るも何も、まだ生まれたばかりの赤子である。何を言い立てたところでいいわけにもならぬし、またなったところで赤子がそれを理解するであろうか。大の大人にそのことわりが判らぬ筈がない。
 だが源太郎は決して混乱しているのでも錯乱しているのでもない。
 彼は妻の腹の中にいた胎児を一個の人間として見ていた。
 生まれ落ちた赤子は、男であれ女であれ、変わりなく大切な我が子であり、また一人の人間である。
 一人の人間に対して過ちを犯したのなら、一人の人間に対する謝罪をせねばならない。
 その謝罪の術を、彼は懸命に探っていた。

 三つ重ねの菱餅の真ん中が、すっと体を立てた。一番上が慌てて避け、一番下もその逆方向に身を動かした。
 源五郎は素早く広縁へ出、源太郎の前へしっこうし、軽く両手を付いて頭を下げた。

「恐れながら」

 源太郎が不可解げな眼をうろうろと動かした。どうにか源五郎のつむじに焦点が当てられる。

「堅苦しいことを言うな。源五よ、良い知恵があるのか? あるなら申せ。いや、云ってくれ」

「ございます」

 強く断定的にいい、源五郎は頭を上げた。笑っている。不敵と言って良い笑顔だった。
 源太郎はその顔に力づけられた様子だった。

「教えてくれ、頼む!」

 弟の両の肩に手を置き、掴む。

しかれば……」

もったいを付けるでないぞ! さあ!」

 源太郎の声には元の力が戻っている。しなびきっていた体にも張り出てきた。
 眼前の弟の顔は自信に満ち満ちている。その知恵に期待が持てた。
 源五郎は爽やかに、にこやかに笑って見せ、

「姫君に、特にお謝りになる必要はございますまい。兄上は姫君のことを、今まで通りに『こたろう・・・・』とお呼びなさるがよろしいかと存じます」

 きっぱりと言った。

「なんだと!?」

 驚きと困惑と、僅かな安堵、あるいは微かな喜びが混じった奇妙な声が、源太郎の頭の天辺から出た。

「小太郎は宗家の名ゆえ、宗家で無い我が家の跡取りに付けてはならぬ、と申したのは、その方であろう!?」

 裏返った兄の声を浴びても、源五郎は笑顔を崩さない。

「宗家の嫡男の名ですから、分家の嫡男に付けることはよろしくないと申し上げました」

「それを、何故?」

たび兄上が授かられたのは姫にござる。ちゃくじょにござる。むすめにござる。おんなにござる。嫡男ではなく、おのこでもござらぬ。されば、本家にすり寄る者どもであっても、『分家のせがれが』というような難癖・・を付けようがございませぬ。よって、こたろう・・・・とお呼びになったところでよろしくなくはないかと存じます」

 妙にねくった、糸を絡ませた、回りくどい、わかりにくい言いようでであった。
 源太郎は速い瞬きを繰り返した。
 我が子に小太郎と名付けることを反対していた弟が、突如として意を翻し、賛成に回った、それも自分がその名を諦めようと決意した途端に、逆にそれを勧める側に付いた……ということに気付くのに、僅かな時を要した。
 気付いた。そのことは理解した。そして弟の言うことは、ある意味で理屈が通っている。だがその通り方は斜めに過ぎる。ねじ曲がっている。
 つまり、

「すりゃ、くつじゃ」

「左様、屁理屈にございます。なれど、屁もしたたかにひり・・ませば、一尺先の灯明の火を吹き消すこともできましょう」

 源五郎は笑っている。笑っているが、その笑顔にはふざけたところが一切無い。真面目に献策しているのだ。
 源太郎の瞬きは止まらない。むしろ速度が上がった。口をもごもご動かして言葉を探している。探し当てた言葉が、

「儂が困っておるのは、生まれたのが娘ゆえ、女の名を付けねばならぬが、あの子供にはそれ以外の名を思い付かぬと言うことでな」

 争点はすでにそちらに移ったはずだ。

「『こたろう・・・・』が男の名に思えるのなら、そう思える部分を省かれればよろしい。つまり『郎』を取ってしまえば良いのです」

 源五郎は空中に指で『郎』の一文字を書いた。

「『郎』のは好男子なれば、なるほど姫君の名にはふさわしくない。さればこれを別の字に代えれば良いのです。例を挙げれば、『』」

 源五郎の指先が先の『郎』文字を消すように左右に揺れ、新たに『良』を描いた。だが、直後、指先は再び左右に揺り動く。

「……いや、これはの略字に用いられることもある。もっと別の『ろう・・』と読める文字を……例えば……『』」

 中空に書かれる見えない『小太』の文字を、それを書く源五郎の指先を、源太郎はいぶかしげに見ている。
 源五郎は言葉を続ける。

「さて『』は大きいの意ですから、意味だけを考えれば、女児に使つこうても難はござらぬでしょう。しかしこれはどうしても『太郎』の略に思えてならぬ。さすれば、これにも別の文字をあてがえばよろしい。差し詰めのところ、『』」

 中空に『小多籠・・』の文字が浮かび上がる。

「さて……『ちい』さいに『おお』いを連ねては、相反するものを抱え込んでしまうことになりますれば……。ならば『』も別の文字にいたしましょうぞ。そう……」

 源五郎の指筆・・が、一瞬、天を指して止まった。源太郎は不安げな目をその人差し指の頂点に注いだ。

 ピタリと天を指し示していた指先が、円を描き始めた。
 はじめは小さく。徐々に膨らみ、らせんを描いて大きく。
 幾重も描かれた真円は、大きく膨れきったところで、次第に扁平に潰れた形になっていった。
 潰れた楕円は半円周の弧となった。
 指先は同じ弧の軌道の上で反復を繰り返す。
 揺り動くうちに弧の長さが縮んで行く。
 そして、弧は丸みを失って、短い直線になる。

「父上の一字を頂戴して、『』」

 短い細かな直線は、中空で『幸多籠・・・』という文字に変じた。

こうおおく納めたるかご……兄上、ロウ姫のご誕生、誠に御目出度うございまする」

 源五郎の指は空中から広縁の床板の上に降りた。彼の頭も低く下げられた。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【眞田井戸で遭いましょう】セルフノベライズ ―眞田井戸移動機篇―

神光寺かをり
歴史・時代
自分で書いた四コマ漫画を自分でノベライズする、そんな無茶な企画の作品です。 多分コメディなので、出来れば、読んで、笑ってやって下さい。 内容は、ざっくり言うと、 ・兄上は今日も胃が痛い ・出浦殿、巻き添えを喰らう ・甘党パッパ ・美魔女マッマ という感じです。 この物語は当然フィクションです。 この作品は個人サイト「お姫様倶楽部Petit」及びpixivでも公開しています。 また、元ネタの漫画は以下で公開中です。 https://www.alphapolis.co.jp/manga/281055331/473033525

焔の牡丹

水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。 織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

黄金の檻の高貴な囚人

せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。 ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。 仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。 ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。 ※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129 ※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html ※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

竜頭

神光寺かをり
歴史・時代
幕末の信州上田藩。 藤井松平家の下級藩士・芦田家に、柔太郎と清次郎の兄弟が居た。 兄・柔太郎は儒学を学ぶため昌平黌《しょうへいこう》へ、弟・清次郎は数学を学ぶため瑪得瑪弟加塾《まてまてかじゅく》へ、それぞれ江戸遊学をした。 嘉永6年(1853年)、兄弟は十日の休暇をとって、浦賀まで「黒船の大きさを測定する」ための旅に向かう。 品川宿で待ち合わせをした兄弟であったが、弟・清次郎は約束の時間までにはやってこなかった。 時は経ち――。 兄・柔太郎は学問を終えて帰郷し、藩校で教鞭を執るようになった。 遅れて一時帰郷した清次郎だったが、藩命による出仕を拒み、遊学の延長を望んでいた。 ---------- 神童、数学者、翻訳家、兵学者、政治思想家、そして『人斬り半次郎』の犠牲者、赤松小三郎。 彼の懐にはある物が残されていた。 幕末期の兵学者・赤松小三郎先生と、その実兄で儒者の芦田柔太郎のお話。 ※この作品は史実を元にしたフィクションです。 ※時系列・人物の性格などは、史実と違う部分があります。 【ゆっくりのんびり更新中】

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

処理中です...