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【三】内儀は何でも知っている
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深い井戸の底が輝いた。六角形の天狗岩を薄く切って揃え、敷石として敷き詰めたその床が、まばゆい光を発している。
光の中に真田昌幸はいた。当たり前な顔で何気なく井戸から出る。
腹の中では好物を前にした小童の顔でにやついているが、それをおくびにも出さず、渋っ面で辺りを見るともなく見渡している。
そして何かを見つけた。後ろ手にじまんやきの箱を隠す。
甘い、よい香りを伴って井戸端に現れたのは、一人の女性であった。
本丸館の北方、山側か河側かと言えば山の手に住まうていることから山手殿と呼ばれている、真田昌幸の正室である。
中近世の女性の常として、後世に残された記録から本名を見いだすことが出来ないため、その本名には諸説があるのだが、ここでは仮に、且つ勝手に、於藤の名で呼ぶことにする。
「殿様、どちらへ?」
にこり、と微笑む。
姫一人、彦二人を上げた四捨五入で四十歳とは思えぬ美魔女ぶりであった。
一瞬、昌幸が言葉に詰まった。
「うむ……。城下に、その……兵糧を求めに……な」
努めて平静を保ち、昌幸が言う。
鬼謀の策士、表裏比興の者も、この糟糠の妻に頭が上がらぬ。
於藤は微笑を崩さず、しかし目を細く、眼光を鋭くして、夫を見つめた。昌幸が背中に回している両の手が、僅かに動いたことを見逃さない。
「蛋漿は、妾に賜りませね♡」
その語尾には、間違いなくハートマークが付いていた。
総て見抜かれている。
昌幸の眉尻と両の肩が、力なく落ちた。
「……はい」
そう答え、かのじまんやきの箱を差し出すより他に、何も打つ手はないではないか。
「姑様と、於国と、幸多ちゃんと、稲ちゃんと、采女ちゃんと、妾で、あわせて六つ♡」
指折り数えるのは、昌幸の生母、長女、姪っ子、長男の正室に、次男の室、そして妻、すなわち「真田の女たち」の員数だ。これから於藤の部屋で、じまんやきを茶菓子にした小さな女子会が開かれることは、想像に難くない。
小豆餡のじまんやき六つが、経木に包まれて昌幸の手に戻された。
「そうそう。源三郎と対馬殿が、書院で泣いておりましたよ」
クスリと笑うと、於藤は静かに女子会会場へ向かっていった。
その背中に、
「うん。判っとる」
聞こえぬ程に小さな声で答えた昌幸は、更に小さな声で、
「三人で小豆餡を二つずつ、か」
呟くと、本丸館へ向かった。
このお噺は、これでおしまい。
光の中に真田昌幸はいた。当たり前な顔で何気なく井戸から出る。
腹の中では好物を前にした小童の顔でにやついているが、それをおくびにも出さず、渋っ面で辺りを見るともなく見渡している。
そして何かを見つけた。後ろ手にじまんやきの箱を隠す。
甘い、よい香りを伴って井戸端に現れたのは、一人の女性であった。
本丸館の北方、山側か河側かと言えば山の手に住まうていることから山手殿と呼ばれている、真田昌幸の正室である。
中近世の女性の常として、後世に残された記録から本名を見いだすことが出来ないため、その本名には諸説があるのだが、ここでは仮に、且つ勝手に、於藤の名で呼ぶことにする。
「殿様、どちらへ?」
にこり、と微笑む。
姫一人、彦二人を上げた四捨五入で四十歳とは思えぬ美魔女ぶりであった。
一瞬、昌幸が言葉に詰まった。
「うむ……。城下に、その……兵糧を求めに……な」
努めて平静を保ち、昌幸が言う。
鬼謀の策士、表裏比興の者も、この糟糠の妻に頭が上がらぬ。
於藤は微笑を崩さず、しかし目を細く、眼光を鋭くして、夫を見つめた。昌幸が背中に回している両の手が、僅かに動いたことを見逃さない。
「蛋漿は、妾に賜りませね♡」
その語尾には、間違いなくハートマークが付いていた。
総て見抜かれている。
昌幸の眉尻と両の肩が、力なく落ちた。
「……はい」
そう答え、かのじまんやきの箱を差し出すより他に、何も打つ手はないではないか。
「姑様と、於国と、幸多ちゃんと、稲ちゃんと、采女ちゃんと、妾で、あわせて六つ♡」
指折り数えるのは、昌幸の生母、長女、姪っ子、長男の正室に、次男の室、そして妻、すなわち「真田の女たち」の員数だ。これから於藤の部屋で、じまんやきを茶菓子にした小さな女子会が開かれることは、想像に難くない。
小豆餡のじまんやき六つが、経木に包まれて昌幸の手に戻された。
「そうそう。源三郎と対馬殿が、書院で泣いておりましたよ」
クスリと笑うと、於藤は静かに女子会会場へ向かっていった。
その背中に、
「うん。判っとる」
聞こえぬ程に小さな声で答えた昌幸は、更に小さな声で、
「三人で小豆餡を二つずつ、か」
呟くと、本丸館へ向かった。
このお噺は、これでおしまい。
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