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【一】そのとき不思議なことが起こった
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その日、真田昌幸は上田城本丸書院にあった。
幸か不幸か、長子で上州沼田城主である源三郎信幸も上田にいた。
上田城総構えの内に作られた海野の市が焼失したのは、先の徳川との戦、世に言う第一次上田合戦において、のことである。
焼失の原因は、『徳川勢を城下におびき寄せて退路を断ち、火を放って殲滅する』という火計にあった。これを考え、命じたのは昌幸であり、実際に火を放ったのは実働部隊長だった信幸だ。
「つまり、お前が実行犯だからな」
昌幸は仏頂面を倅に向けて、その膝先に幾通もの書状を投げた。
町衆に代替えの土地を与えて町を再建するにあたって、町衆から寄せられた訴状と、町割りの計画書と、それを通達する指示書の下書きである。
「はぁ!?」
倅が疑念の声を叫ぶのは当然のことだ。彼は主君の命令通りに行動したに過ぎない。
「なに、大体は片が付いている。お前を訴人の前に立たせて、まくし立てる立てる彼の者の唾を存分に浴びろ、という無体を言うのではないから、まぁ安心しろ」
そうはいいながら、昌幸はあまり機嫌のいい顔をしていない。
『また面倒なことを私に押しつけようとなさっているな』
ともかくこの真田昌幸という男は、ある意味で酷く「無精」なのである。自分が面白いと感じたこと以外は、敢えてやりたがらない。
その性格は「領国経営をする殿様」という職業には向いていないといってよかろう。それでいて「領国経営をする殿様」の能力は十二分にある。実に困ったものである。
膝先の書類を一枚一枚拾い上げ、重ね整えながら、信幸は、胃の腑に刺すような痛みを覚えている。
確かに下書きの書類を見る限り、ややこしい訴え事も判決は下されており、訴人も納得をしていることになっている。
「その辺のヤツは、今、右筆が清書している。書き上がり次第、対馬が持ってくるだろう」
うつむいて文書を整頓する信幸の脳裏に、一つの柔和そうな狸顔が浮かんだ。
重臣・出浦対馬守は、つい先頃、主君から昌の一字の偏諱を受けて、名乗りを「盛清」から「昌相」に変えたばかりだ。
ところで偏諱とは何かということを説明し出すと、漢字の多い文章がだらだら続くことになって、ただでさえ少ない読者様の離脱率が高くなるゆえ、ここには書かぬ。知りたい方はググって頂きたし。
「そこにな、印を突いて、押を据えないといかぬ訳だ」
領主の印判や花押がなければ、それは正式書類にはならず、命令は効力を発しない。それがお役所仕事というものである。
「と、いうことで、後は頼んだ」
昌幸の声は、視線を落としていた信幸のすぐ前からではなく、かなり遠くから聞こえた。
信幸が慌てて顔を上げる。
見えたのは、板の間に空の敷物と脇息。
その向こうの、床の間の板壁にかかった「白山大権現」の軸が揺れている。
「逃げた!」
立ち上がった信幸の背後で、大量の書類を抱えてやってきた狸面の家老が、苦笑いをしていた。
どんでん返しの隠し扉の向こうで響く優秀な嫡男の泣声を聞きながら、昌幸は狭い通路を進み抜け、本丸館から脱出した。
行き先は、上田城本丸唯一の井戸である。
上田城は川辺の崖の上にあり、用水は崖下の尼が淵に流れ込む川の水――その川を城の大外濠にするために、昌幸は相当な苦心苦労をして川の流れを付け替える大治水工事をやった訳だが――を引き込んでまかなっている。
しかしその井戸からは、そういった川の水とはやや違った清水が湧き出てきていた。
川の水の、その源流にある水源の清水は強清水だった。現代風に言うなら、硬度の高いミネラルウォーターである。
しかし数多水を集めて流れる内に、その硬さは薄まる。
だがこの井戸の水は硬い。そのまま呑むには硬きに過ぎ、飲食に用いる場合は一度湧かす必要があった。
理由はわからぬ。強清水の水脈がここまで(付け替えた川の流れを潜り超えて)続いているのかも知れない。
不思議なことだが、昌幸に言わせれば、これは、
「山々の神である白山権現の霊水そのもの」
だそうな。
掘り下げた井戸の壁面は、城の北方にそびえる太郎山から切り出した石を組んで固めてある。
太郎山は修験道の行者達が修行地としている場所だ。
その南面に「指さしゴーロ」と呼ぶ草木の生えない岩場があった。巨人・デイダラボッチがよろめいて転びかけ、この山の山腹に手指を突いて堪えた、その手の跡だという言い伝えがある。
その岩場は、奇妙な石を産する。
人の手は何ら加えぬのに、太さ一尺程の六角の柱の形をしている。
土地の者はそれを天狗岩と呼ぶ。
この自然な石柱は、掘り出された形のまま、神社仏閣の門柱や鳥居、常夜灯の石灯籠の脚といったものの材として用いられる。
井戸の石組みも、その天狗岩で作られている。
井戸端に着くと、昌幸は辺りを見回した。近くの馬小屋や米蔵の内に人気はあるが、井戸の周りの空間に人の目はない。
昌幸の口元に笑みが浮かんだ。石組みの井筒に手をかけ、中をのぞき込む。
そのとき、不思議なことが起こった。
修験者が集う場所の、巨神にまつわる伝説の地から産する、天狗の名を冠した不可思議な石に囲まれた、白山権現の霊水に、不可思議な力がないはずがない。
不思議な力がないはずのない場所で、不思議なことが起こらないはずがない。
深く考えてはいけない。そのとき、不思議なことが起こったのだ。
深い井戸の底が輝いた。六角形の天狗岩を薄く切って揃え、敷石として敷き詰めたその床が、まばゆい光を発している。
昌幸はその光に向かって、
「海野町、高市の社」
と言葉をかけた。
そして、井戸に飛び込んだのである。
幸か不幸か、長子で上州沼田城主である源三郎信幸も上田にいた。
上田城総構えの内に作られた海野の市が焼失したのは、先の徳川との戦、世に言う第一次上田合戦において、のことである。
焼失の原因は、『徳川勢を城下におびき寄せて退路を断ち、火を放って殲滅する』という火計にあった。これを考え、命じたのは昌幸であり、実際に火を放ったのは実働部隊長だった信幸だ。
「つまり、お前が実行犯だからな」
昌幸は仏頂面を倅に向けて、その膝先に幾通もの書状を投げた。
町衆に代替えの土地を与えて町を再建するにあたって、町衆から寄せられた訴状と、町割りの計画書と、それを通達する指示書の下書きである。
「はぁ!?」
倅が疑念の声を叫ぶのは当然のことだ。彼は主君の命令通りに行動したに過ぎない。
「なに、大体は片が付いている。お前を訴人の前に立たせて、まくし立てる立てる彼の者の唾を存分に浴びろ、という無体を言うのではないから、まぁ安心しろ」
そうはいいながら、昌幸はあまり機嫌のいい顔をしていない。
『また面倒なことを私に押しつけようとなさっているな』
ともかくこの真田昌幸という男は、ある意味で酷く「無精」なのである。自分が面白いと感じたこと以外は、敢えてやりたがらない。
その性格は「領国経営をする殿様」という職業には向いていないといってよかろう。それでいて「領国経営をする殿様」の能力は十二分にある。実に困ったものである。
膝先の書類を一枚一枚拾い上げ、重ね整えながら、信幸は、胃の腑に刺すような痛みを覚えている。
確かに下書きの書類を見る限り、ややこしい訴え事も判決は下されており、訴人も納得をしていることになっている。
「その辺のヤツは、今、右筆が清書している。書き上がり次第、対馬が持ってくるだろう」
うつむいて文書を整頓する信幸の脳裏に、一つの柔和そうな狸顔が浮かんだ。
重臣・出浦対馬守は、つい先頃、主君から昌の一字の偏諱を受けて、名乗りを「盛清」から「昌相」に変えたばかりだ。
ところで偏諱とは何かということを説明し出すと、漢字の多い文章がだらだら続くことになって、ただでさえ少ない読者様の離脱率が高くなるゆえ、ここには書かぬ。知りたい方はググって頂きたし。
「そこにな、印を突いて、押を据えないといかぬ訳だ」
領主の印判や花押がなければ、それは正式書類にはならず、命令は効力を発しない。それがお役所仕事というものである。
「と、いうことで、後は頼んだ」
昌幸の声は、視線を落としていた信幸のすぐ前からではなく、かなり遠くから聞こえた。
信幸が慌てて顔を上げる。
見えたのは、板の間に空の敷物と脇息。
その向こうの、床の間の板壁にかかった「白山大権現」の軸が揺れている。
「逃げた!」
立ち上がった信幸の背後で、大量の書類を抱えてやってきた狸面の家老が、苦笑いをしていた。
どんでん返しの隠し扉の向こうで響く優秀な嫡男の泣声を聞きながら、昌幸は狭い通路を進み抜け、本丸館から脱出した。
行き先は、上田城本丸唯一の井戸である。
上田城は川辺の崖の上にあり、用水は崖下の尼が淵に流れ込む川の水――その川を城の大外濠にするために、昌幸は相当な苦心苦労をして川の流れを付け替える大治水工事をやった訳だが――を引き込んでまかなっている。
しかしその井戸からは、そういった川の水とはやや違った清水が湧き出てきていた。
川の水の、その源流にある水源の清水は強清水だった。現代風に言うなら、硬度の高いミネラルウォーターである。
しかし数多水を集めて流れる内に、その硬さは薄まる。
だがこの井戸の水は硬い。そのまま呑むには硬きに過ぎ、飲食に用いる場合は一度湧かす必要があった。
理由はわからぬ。強清水の水脈がここまで(付け替えた川の流れを潜り超えて)続いているのかも知れない。
不思議なことだが、昌幸に言わせれば、これは、
「山々の神である白山権現の霊水そのもの」
だそうな。
掘り下げた井戸の壁面は、城の北方にそびえる太郎山から切り出した石を組んで固めてある。
太郎山は修験道の行者達が修行地としている場所だ。
その南面に「指さしゴーロ」と呼ぶ草木の生えない岩場があった。巨人・デイダラボッチがよろめいて転びかけ、この山の山腹に手指を突いて堪えた、その手の跡だという言い伝えがある。
その岩場は、奇妙な石を産する。
人の手は何ら加えぬのに、太さ一尺程の六角の柱の形をしている。
土地の者はそれを天狗岩と呼ぶ。
この自然な石柱は、掘り出された形のまま、神社仏閣の門柱や鳥居、常夜灯の石灯籠の脚といったものの材として用いられる。
井戸の石組みも、その天狗岩で作られている。
井戸端に着くと、昌幸は辺りを見回した。近くの馬小屋や米蔵の内に人気はあるが、井戸の周りの空間に人の目はない。
昌幸の口元に笑みが浮かんだ。石組みの井筒に手をかけ、中をのぞき込む。
そのとき、不思議なことが起こった。
修験者が集う場所の、巨神にまつわる伝説の地から産する、天狗の名を冠した不可思議な石に囲まれた、白山権現の霊水に、不可思議な力がないはずがない。
不思議な力がないはずのない場所で、不思議なことが起こらないはずがない。
深く考えてはいけない。そのとき、不思議なことが起こったのだ。
深い井戸の底が輝いた。六角形の天狗岩を薄く切って揃え、敷石として敷き詰めたその床が、まばゆい光を発している。
昌幸はその光に向かって、
「海野町、高市の社」
と言葉をかけた。
そして、井戸に飛び込んだのである。
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