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正体

新しい腕

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 何が「まずい」のか、どう「まずい」のか、自分自身に明確な説明を与えることはできない。ただ、マイヨールの脳は本能に従って、

『この場から離れよ』

 とだけ四肢に命じている。

 脳の命令を、しかし身体は遂行すいこうしなかった。膝が笑って言うことを聞かない。

 身動きができないマイヨールにできることといえば、黒い人間もどきの像を眺めることだけだ。

 羽根飾り付きの帽子の下、人でいうなら後頭部のあたりで、何かが動いている。
 一見すると、地に届くほどに長い髪の毛の束であった。
 太い一本の三つに編み込んで、光沢の有る生地で包み込み、先端を猛禽もうきんくちばしに似た大きな飾りで覆った髪を、背後に立つ人間の肩に掛け渡しているように見えた。

 そう見えて当然だ。当たり前な思考を持っている者なら、頭の後ろから生えているモノを、一目でさそりの尾やしょくの類と見て取ることができようはずがない。
 その奇っ怪な造形物が自ずから動き、背後の人間の肩口に巻き付き、締め付けている光景を、瞬時に、見たそのままに納得するなど、理性のある人間には不可能だ。

 蝕肢にとらわれていたのは、ギュネイ皇帝の紋を刺繍ししゅうした「にしき御旗みはた」の旗竿はたざおを掲げていたグラーヴ卿の従者だった。
 長い触肢が彼の指物を持つ右腕の肩に巻き付き、鋭い先端が左の肩口に食い込んでいる。

 硬い物が圧力を加えられて潰される薄気味の悪い音が、旗持ち従者の体の中から聞こえた。

 旗指物の竿を握った腕を中空に残し、従者は両膝を折って床にうずくまった。
 悲鳴は無い。最初の絶叫の直後には、すでに彼は意識を……あるいは命を……失っていたのだろう。
 触肢の巻き付いた二本の細長い肉のかたまりは、鉄の臭いがする赤い液体を滴らせながら、ゆっくりと空中を移動した。
 行き着く先に有るのは、腕のない女人像だ。黒い石像の右の肩口に右の腕の断面が、左の肩口に左の腕の断面が、それぞれ重ねられた。

 触肢が巻き解けた。腕はその場に止まった。

 黒い石像にすげられた肉色の腕は、指先を僅かにけいれんさせた後、ゆっくりと動いた。
 腕の色が黒ずんで行く。指の先まで変色した男の腕は、元から石像のそれであったかのように、スムーズに前へ伸ばされた。
 像は前傾姿勢をとった。頭が前に傾く。帽子が落ちた。
 頬の丸い少年の形をした真っ黒な顔面が、新しく生やした腕を眺め、うっとりと微笑した。
 唇が動いた。

「これだからぜいじゃくな男の体は嫌よ。美しさというものがじんもないもの……」

 みみざわりりのする……声の響く広いホールの人混みで聞いたような、雑音の混じった声だった。
 それは、マイヨールの耳に、

「聞き覚えがある」

 声だった。

「クレールの若様だ」

 自分の口から出た言葉を、マイヨールの感情は否定しようとした。だが理性は否定をこばんだ。
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