96 / 158
楽屋の戦い
胃の内容物
しおりを挟む
イーヴァンの肩が大きく揺れた。
大柄な若者の背は、吹き出した汗でぐっしょりと濡れている。
彼は口を利けなくなっていた。
目が霞んでいる。意識が揺れている。
原因は腿の傷ではない。背に突きつけられた尖った物体――鞘の残骸――への恐怖でもない。
胃の腑が熱い。
クレールが発した「赤い石」という言葉を聞いた途端、イーヴァンの胃の中で何かが燃え上がった。
形のないどろりとした存在が、胃壁を焼いて渦巻いているように思えた。
やがてその何かは胃袋の中で一点に固まり、形を成し、重さを帯びた。
異物が腹の中で暴れている。
猛烈な吐き気に襲われたイーヴァンは、前のめりに倒れ込んだ。
床に両手を突いて這いつくばり、喉の奥で気味の悪い音を立てる。
饐えた液体が床を汚して広がった。
嘔吐物の中に、形のある物はない。
イーヴァンはなおも腹の中の物を戻し出そうと喉を絞った。
出てきたのは、血の混じった粘液だけだ。
力の失せた両腕は彼の上体を支えきれず、彼は己の吐瀉物の水たまりに顔面から崩れ落ちた。
腹の中で暴れていた「痛み」が、背中側へ動いた。
それは刃物で斬られる鋭い痛みとは違う。鈍器で殴られる激しい痛みとも違う。
重い固まりで押し潰され、無理矢理に引き裂かれる、そんな鈍く苦しい痛みだ。
何かが骨を突き通って、肉を突き破って、背中に突き抜けてゆく気がする。
「たす、けて」
イーヴァンは喘ぎの中に消え入りそうな悲鳴を上げた。
彼の身体は小刻みに、不自然に震えていた。
恐怖ゆえの顫動と、痛みと苦しみが起こす痙攣、そしてそれらとは別の不可解な振動が、彼の身体を揺さぶっている。
クレールは身構えた。
『この若者の腹の中に「何か」がいる』
魂のない、心のない、歪んだ遺志のみで蠢く「物」がいる。
イーヴァンとその中にいる「物」に神経を注ぎつつ、彼女は視線をブライト・ソードマンに向けた。
彼も身構えていた。イーヴァンに対する備えではない。
舞台に向かう出入り口の近くに立ち、瞑目し、耳を壁に付け、伝わってくるかすかな音を聞いている。
機材が置かれた細い通路の先、踊り子達と生意気な戯作者がいるはずの空間からは、今のところ「異常な音」は伝わってこない。
だが、何かが起こる気配がする。その予感が、ブライトをその場に縛り付けていた。
『こちらへの助太刀は、期待できない』
覚ったクレールは視線を床に落とした。
小柄なダンサーが床にぺたりと座り込んでいる。紅を引いた唇が小刻みに震え、奥歯が小さく鳴っていた。
恐怖の涙に潤むシルヴィーの瞳が、クレールのそれに縋りついた。
クレールはシルヴィーの瞳を見つめ返して、
「ここから離れなさい。できるだけ遠くへ」
静かに、しかし厳しい口調で言う。
しかしシルヴィーは動こうとしなかった。
いや、動けなかった。
大柄な若者の背は、吹き出した汗でぐっしょりと濡れている。
彼は口を利けなくなっていた。
目が霞んでいる。意識が揺れている。
原因は腿の傷ではない。背に突きつけられた尖った物体――鞘の残骸――への恐怖でもない。
胃の腑が熱い。
クレールが発した「赤い石」という言葉を聞いた途端、イーヴァンの胃の中で何かが燃え上がった。
形のないどろりとした存在が、胃壁を焼いて渦巻いているように思えた。
やがてその何かは胃袋の中で一点に固まり、形を成し、重さを帯びた。
異物が腹の中で暴れている。
猛烈な吐き気に襲われたイーヴァンは、前のめりに倒れ込んだ。
床に両手を突いて這いつくばり、喉の奥で気味の悪い音を立てる。
饐えた液体が床を汚して広がった。
嘔吐物の中に、形のある物はない。
イーヴァンはなおも腹の中の物を戻し出そうと喉を絞った。
出てきたのは、血の混じった粘液だけだ。
力の失せた両腕は彼の上体を支えきれず、彼は己の吐瀉物の水たまりに顔面から崩れ落ちた。
腹の中で暴れていた「痛み」が、背中側へ動いた。
それは刃物で斬られる鋭い痛みとは違う。鈍器で殴られる激しい痛みとも違う。
重い固まりで押し潰され、無理矢理に引き裂かれる、そんな鈍く苦しい痛みだ。
何かが骨を突き通って、肉を突き破って、背中に突き抜けてゆく気がする。
「たす、けて」
イーヴァンは喘ぎの中に消え入りそうな悲鳴を上げた。
彼の身体は小刻みに、不自然に震えていた。
恐怖ゆえの顫動と、痛みと苦しみが起こす痙攣、そしてそれらとは別の不可解な振動が、彼の身体を揺さぶっている。
クレールは身構えた。
『この若者の腹の中に「何か」がいる』
魂のない、心のない、歪んだ遺志のみで蠢く「物」がいる。
イーヴァンとその中にいる「物」に神経を注ぎつつ、彼女は視線をブライト・ソードマンに向けた。
彼も身構えていた。イーヴァンに対する備えではない。
舞台に向かう出入り口の近くに立ち、瞑目し、耳を壁に付け、伝わってくるかすかな音を聞いている。
機材が置かれた細い通路の先、踊り子達と生意気な戯作者がいるはずの空間からは、今のところ「異常な音」は伝わってこない。
だが、何かが起こる気配がする。その予感が、ブライトをその場に縛り付けていた。
『こちらへの助太刀は、期待できない』
覚ったクレールは視線を床に落とした。
小柄なダンサーが床にぺたりと座り込んでいる。紅を引いた唇が小刻みに震え、奥歯が小さく鳴っていた。
恐怖の涙に潤むシルヴィーの瞳が、クレールのそれに縋りついた。
クレールはシルヴィーの瞳を見つめ返して、
「ここから離れなさい。できるだけ遠くへ」
静かに、しかし厳しい口調で言う。
しかしシルヴィーは動こうとしなかった。
いや、動けなかった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
性奴隷を飼ったのに
お小遣い月3万
ファンタジー
10年前に俺は日本から異世界に転移して来た。
異世界に転移して来たばかりの頃、辿り着いた冒険者ギルドで勇者認定されて、魔王を討伐したら家族の元に帰れるのかな、っと思って必死になって魔王を討伐したけど、日本には帰れなかった。
異世界に来てから10年の月日が流れてしまった。俺は魔王討伐の報酬として特別公爵になっていた。ちなみに領地も貰っている。
自分の領地では奴隷は禁止していた。
奴隷を売買している商人がいるというタレコミがあって、俺は出向いた。
そして1人の奴隷少女と出会った。
彼女は、お風呂にも入れられていなくて、道路に落ちている軍手のように汚かった。
彼女は幼いエルフだった。
それに魔力が使えないように処理されていた。
そんな彼女を故郷に帰すためにエルフの村へ連れて行った。
でもエルフの村は魔力が使えない少女を引き取ってくれなかった。それどころか魔力が無いエルフは処分する掟になっているらしい。
俺の所有物であるなら彼女は処分しない、と村長が言うから俺はエルフの女の子を飼うことになった。
孤児になった魔力も無いエルフの女の子。年齢は14歳。
エルフの女の子を見捨てるなんて出来なかった。だから、この世界で彼女が生きていけるように育成することに決めた。
※エルフの少女以外にもヒロインは登場する予定でございます。
※帰る場所を無くした女の子が、美しくて強い女性に成長する物語です。
婚約破棄に向けて悪役令嬢始めました
樹里
ファンタジー
王太子殿下との婚約破棄を切っ掛けに、何度も人生を戻され、その度に絶望に落とされる公爵家の娘、ヴィヴィアンナ・ローレンス。
嘆いても、泣いても、この呪われた運命から逃れられないのであれば、せめて自分の意志で、自分の手で人生を華麗に散らしてみせましょう。
私は――立派な悪役令嬢になります!
婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです
青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています
チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。
しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。
婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。
さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。
失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。
目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。
二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。
一方、義妹は仕事でミスばかり。
闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。
挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。
※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます!
※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。
もういらないと言われたので隣国で聖女やります。
ゆーぞー
ファンタジー
孤児院出身のアリスは5歳の時に天女様の加護があることがわかり、王都で聖女をしていた。
しかし国王が崩御したため、国外追放されてしまう。
しかし隣国で聖女をやることになり、アリスは幸せを掴んでいく。
ズボラ通販生活
ice
ファンタジー
西野桃(にしのもも)35歳の独身、オタクが神様のミスで異世界へ!貪欲に通販スキル、時間停止アイテムボックス容量無限、結界魔法…さらには、お金まで貰う。商人無双や!とか言いつつ、楽に、ゆるーく、商売をしていく。淋しい独身者、旦那という名の奴隷まで?!ズボラなオバサンが異世界に転移して好き勝手生活する!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる