子檀嶺城始末―こまゆみじょうしまつ―

神光寺かをり

文字の大きさ
上 下
17 / 40

そこは染谷台

しおりを挟む
何故なにゆえ我らが敗走しなければならないのだ!」

 元忠は怒り、震えた。
 片田舎の国衆などに追い立てられ、自分たちが敗走していることは、元忠には認めがたいことだった。
 しかし、いくら認めがたいと言ったところで、確かに彼らは負けているのだし、尻をまくって逃げているのだ。
 敗走者には古い街道と思われる細い道をこそこそと進むより他にはすべがない。

 どれほど歩いただろう。一刻二時間は経過しているかも知れないが、元忠達には時間を数える余裕はない。
 時間にも体力にも心にも一分の余裕さえない中で、鳥井元忠隊は気付いた。
 自分たちが道と思って歩いていた場所が、上州街道ではないらしい事に、だ。

 どこで道を違えたものか――。
 立ち止まり、あたりを見回した元忠は、このとき初めて自分が高台にいる事に気付いた。
 周囲に視界をさえぎるものはなにもない。素晴らしく見晴らしが良い。
 眼下を見下ろせば、上田城も北国街道の道筋も、信濃国分寺に置かれた本陣も、千曲川の対岸までもが手に取るように見えた。
 自分の同僚達が、城下で討たれ、混乱し、隊列を乱して、バラバラに敗走している様子が、すぐそこに見える。

 鳥居元忠は血の気の引く音を聞いた。

 眼下では、上田城から出撃した統率の取れた兵団が逃げ惑う徳川勢を追い立てている。
 元忠の友軍はかんがわの岸へ追い込まれた。攻め行く時はさして苦もなく渡河した細い川の流れの幅が広がっているような気がする。

「こんな馬鹿な……こんな馬鹿なことがあってたまるものか!」

 一瞬、元忠は「自分も敗走しているのだ」ということを忘れた。本当に一瞬のことだ。すぐにそのことを思い出させられた。

「敵襲!」

 その叫び声は報告ではない。紛れもない悲鳴であった。
 元忠が振り返ると、赤い旗を掲げる一軍がこちらの最後尾を叩いているのが見えた。
 赤い指物が無数にいる気がするが、敵軍の正確な人数はさっぱりつかめない。いや、そんなものを数えている暇などありはしない。
 彼らを率いているのは巨馬に打ちまたがった大柄な将だった。鎧も馬具も輝いて見える。
 その大柄な将が、元忠を見据えて言う。

「さても、そちら様はさぞ名のある将なりとお見受けいたします。願わくば、この若輩者じゃくはいもの一槍ひとやり手解てほどきを頂きたし!」

 自ら若輩というだけのことはある若々しい声だった。満々たる自信を表すかのように、槍先がぶれることなくこちらをピタリと指している。元忠という標的に定められた穂先が、ギラリと日をはじいた。

 元忠は逃げた。

 訳のわからぬ言葉を叫びながら逃げた。馬の腹を蹴り、尻に鞭を入れ、到底歩兵がついて来られない速度スピードで駆けて逃げた。
 逃げて、逃げて、逃げて……どこをどう逃げたのか思い出せないが、ともかく、元忠は友軍と合流することができた。

 鳥居元忠は逃げ切った。逃げ延びることができた。

 命を拾った、と気付いた時、元忠は安堵の息を吐いて、何気なく後を振り返った。
 川が流れている。
 神川が茶色い飛沫しぶきを上げて流れ下っている。
 濁った水が、大きな岩、倒木、馬、人間を含んで、轟々と流れている。

 この時になって、元忠は己が馬に乗っていないことに気付いた。
 途端、泥水に濡れた甲冑の重さに腰が抜け、膝が折れて、彼は倒れた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

龍蝨―りゅうのしらみ―

神光寺かをり
歴史・時代
年の暮れも押し迫ってきたその日、 甲州・躑躅ヶ崎館内の真田源五郎の元に、 二つの知らせが届けられた。 一つは「親しい友」との別れ。 もう一つは、新しい命の誕生。 『せめて来年の間は、何事も起きなければ良いな』 微笑む源五郎は、年が明ければは十八歳となる。 これは、ツンデレな兵部と、わがままな源太郎とに振り回される、源五郎の話――。 ※この作品は「作者個人サイト【お姫様倶楽部Petit】」「pixiv」「カクヨム」「小説家になろう」でも公開しています。

吼えよ! 権六

林 本丸
歴史・時代
時の関白豊臣秀吉を嫌う茶々姫はあるとき秀吉のいやがらせのため自身の養父・故柴田勝家の過去を探ることを思い立つ。主人公の木下半介は、茶々の命を受け、嫌々ながら柴田勝家の過去を探るのだが、その時々で秀吉からの妨害に見舞われる。はたして半介は茶々の命を完遂できるのか? やがて柴田勝家の過去を探る旅の過程でこれに関わる人々の気持ちも変化して……。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

鉄と草の血脈――天神編

藍染 迅
歴史・時代
日本史上最大の怨霊と恐れられた菅原道真。 何故それほどに恐れられ、天神として祀られたのか? その活躍の陰には、「鉄と草」をアイデンティティとする一族の暗躍があった。 二人の酔っぱらいが安酒を呷りながら、歴史と伝説に隠された謎に迫る。 吞むほどに謎は深まる——。

三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

処理中です...