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七
兄弟
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「若様はお耳が聡うございますねぇ」
氷垂の声には言葉通りの感心と、自分が気付かなかった事への悔しさと、その音に気付いた夫への妬ましさと、そんな夫を持つ己の誇らしさが入り交じっている。
そういった心の動きを、彼女は源三郎の前では隠すことをしない。だから源三郎も、氷垂の前ではなんの隠しごともしない。
「私に聞こえないものをお前が聞いてくれたではないか。だから私はお前に聞こえなかったものを聞くだけだ。……いや、これは伝令の者ではないな」
坂道を駆け上ってきた一騎の武者が、馬足を弱め、山門をくぐってくる。
それへ向けて、源三郎は手を挙げ振った。
馬上の人物も手を振り返した。
この騎馬武者、すなわち真田源二郎信繁は、源三郎信幸の二つ下の弟だ。
「越後に向かうのではなかったか?」
馬を寄せて飛び降りる弟に、源三郎が訊ねた。
「何やら、兄上が面白げな事をなさると聞きましたので……それを知っては越後に帰るなどもったいなくて、もったいなくて」
背の高い兄と比べれば少々小柄で顔つきが幼いこの弟は、屈託なく笑って見せた。
「それよりも、先ほどの法螺の音は……」
何事か、と言いかけたが、その先を言う前に、源二郎は義姉が手にしている法螺貝に気付いた。
「なるほど、お見事なお手前でございました」
源二郎は背筋を伸ばして、氷垂に正対し、
「私はてっきり、こちらの寺の本職の僧侶が急を告げたのではないかと思いましたので」
軽く頭を下げた。
「それで駆けてきたのか」
源三郎は弟に向けて言いながら、目は山門の方へ向けていた。
源二郎も兄の視線を追って振り返った。
十人程度の足軽達が、背負い、あるいは車に乗せた荷物に気を遣いながら、こちらへ駈けてくるのが見える。
求めたもの全てが揃った。
源三郎はその満足を顔に出して微笑した。
「では飯にしよう。皆、腹を減らした顔をしている……お主もだぞ、源二郎」
「有難いことです。気が急いて気が急いて、上田からこちらまで来るのに本当に忙しく駆けて参ったものですから、もう腹が減ってなりません」
兄弟は笑い合って宿坊へ向かった。
後続部隊の中から一人飛び出したのは、源二郎の馬丁だった。彼は自分が世話をしている馬の手綱を取って馬房へ引いて行こうとする。
その背中へ、源三郎が声をかけた。
「その方」
若い馬丁は振り返り、己を呼んだのが主君の嫡男であると気付いて、慌てて膝を突いて頭を深々と下げる。
「名は?」
馬丁は地べたに両手を突いて、一層深く頭を下げた。
「あ、へぇ。あの……こっ小市と申しますです」
口籠もりながら、彼は答えた。
源三郎の口元に微笑が浮かんだことに、頭を下げたままの小市は気付かなかったが、
「そうか。小市よ、その方も馬に飼い葉をやり終わったなら、直ぐに来ると良い。
まだ日は高いが、明るいうちに皆で一緒に飯を済ませておこう。明日の出立は早いからな」
これを聞いて、小市は呆気にとられた。
『若様達が俺達と一緒に飯を喰うだって!? 』
その言葉を飲み込んだまま、彼はしばらく地面に這い蹲っていた。立ち上がったのは、馬がいななき、足を踏み換えたからだ。
落ち着かせようと首をなでている所へ、源三郎の馬丁の大蔵が寄ってきた。
太蔵は去って行く主人の背中にチラリと目をやって、
「驚いたかえ?」
「ああ、驚いた。本当に俺達なんぞが若殿様と一緒に飯を食っていいのかね?」
不安げにいう小市に、太蔵は笑って、
「俺も最初は驚いたが、ウチの若殿様はへぇ、少しばかりおもしれぇお方だ。
なぁに、遠慮は要らねぇ。馬を繋いだら面ぁ洗って、遠慮なくご馳走になりに行こう」
「へぇ、そうかね……」
小市は不思議そうに首を傾げ、馬房へ馬を引いて行った。
氷垂の声には言葉通りの感心と、自分が気付かなかった事への悔しさと、その音に気付いた夫への妬ましさと、そんな夫を持つ己の誇らしさが入り交じっている。
そういった心の動きを、彼女は源三郎の前では隠すことをしない。だから源三郎も、氷垂の前ではなんの隠しごともしない。
「私に聞こえないものをお前が聞いてくれたではないか。だから私はお前に聞こえなかったものを聞くだけだ。……いや、これは伝令の者ではないな」
坂道を駆け上ってきた一騎の武者が、馬足を弱め、山門をくぐってくる。
それへ向けて、源三郎は手を挙げ振った。
馬上の人物も手を振り返した。
この騎馬武者、すなわち真田源二郎信繁は、源三郎信幸の二つ下の弟だ。
「越後に向かうのではなかったか?」
馬を寄せて飛び降りる弟に、源三郎が訊ねた。
「何やら、兄上が面白げな事をなさると聞きましたので……それを知っては越後に帰るなどもったいなくて、もったいなくて」
背の高い兄と比べれば少々小柄で顔つきが幼いこの弟は、屈託なく笑って見せた。
「それよりも、先ほどの法螺の音は……」
何事か、と言いかけたが、その先を言う前に、源二郎は義姉が手にしている法螺貝に気付いた。
「なるほど、お見事なお手前でございました」
源二郎は背筋を伸ばして、氷垂に正対し、
「私はてっきり、こちらの寺の本職の僧侶が急を告げたのではないかと思いましたので」
軽く頭を下げた。
「それで駆けてきたのか」
源三郎は弟に向けて言いながら、目は山門の方へ向けていた。
源二郎も兄の視線を追って振り返った。
十人程度の足軽達が、背負い、あるいは車に乗せた荷物に気を遣いながら、こちらへ駈けてくるのが見える。
求めたもの全てが揃った。
源三郎はその満足を顔に出して微笑した。
「では飯にしよう。皆、腹を減らした顔をしている……お主もだぞ、源二郎」
「有難いことです。気が急いて気が急いて、上田からこちらまで来るのに本当に忙しく駆けて参ったものですから、もう腹が減ってなりません」
兄弟は笑い合って宿坊へ向かった。
後続部隊の中から一人飛び出したのは、源二郎の馬丁だった。彼は自分が世話をしている馬の手綱を取って馬房へ引いて行こうとする。
その背中へ、源三郎が声をかけた。
「その方」
若い馬丁は振り返り、己を呼んだのが主君の嫡男であると気付いて、慌てて膝を突いて頭を深々と下げる。
「名は?」
馬丁は地べたに両手を突いて、一層深く頭を下げた。
「あ、へぇ。あの……こっ小市と申しますです」
口籠もりながら、彼は答えた。
源三郎の口元に微笑が浮かんだことに、頭を下げたままの小市は気付かなかったが、
「そうか。小市よ、その方も馬に飼い葉をやり終わったなら、直ぐに来ると良い。
まだ日は高いが、明るいうちに皆で一緒に飯を済ませておこう。明日の出立は早いからな」
これを聞いて、小市は呆気にとられた。
『若様達が俺達と一緒に飯を喰うだって!? 』
その言葉を飲み込んだまま、彼はしばらく地面に這い蹲っていた。立ち上がったのは、馬がいななき、足を踏み換えたからだ。
落ち着かせようと首をなでている所へ、源三郎の馬丁の大蔵が寄ってきた。
太蔵は去って行く主人の背中にチラリと目をやって、
「驚いたかえ?」
「ああ、驚いた。本当に俺達なんぞが若殿様と一緒に飯を食っていいのかね?」
不安げにいう小市に、太蔵は笑って、
「俺も最初は驚いたが、ウチの若殿様はへぇ、少しばかりおもしれぇお方だ。
なぁに、遠慮は要らねぇ。馬を繋いだら面ぁ洗って、遠慮なくご馳走になりに行こう」
「へぇ、そうかね……」
小市は不思議そうに首を傾げ、馬房へ馬を引いて行った。
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