36 / 40
七
兄弟
しおりを挟む
「若様はお耳が聡うございますねぇ」
氷垂の声には言葉通りの感心と、自分が気付かなかった事への悔しさと、その音に気付いた夫への妬ましさと、そんな夫を持つ己の誇らしさが入り交じっている。
そういった心の動きを、彼女は源三郎の前では隠すことをしない。だから源三郎も、氷垂の前ではなんの隠しごともしない。
「私に聞こえないものをお前が聞いてくれたではないか。だから私はお前に聞こえなかったものを聞くだけだ。……いや、これは伝令の者ではないな」
坂道を駆け上ってきた一騎の武者が、馬足を弱め、山門をくぐってくる。
それへ向けて、源三郎は手を挙げ振った。
馬上の人物も手を振り返した。
この騎馬武者、すなわち真田源二郎信繁は、源三郎信幸の二つ下の弟だ。
「越後に向かうのではなかったか?」
馬を寄せて飛び降りる弟に、源三郎が訊ねた。
「何やら、兄上が面白げな事をなさると聞きましたので……それを知っては越後に帰るなどもったいなくて、もったいなくて」
背の高い兄と比べれば少々小柄で顔つきが幼いこの弟は、屈託なく笑って見せた。
「それよりも、先ほどの法螺の音は……」
何事か、と言いかけたが、その先を言う前に、源二郎は義姉が手にしている法螺貝に気付いた。
「なるほど、お見事なお手前でございました」
源二郎は背筋を伸ばして、氷垂に正対し、
「私はてっきり、こちらの寺の本職の僧侶が急を告げたのではないかと思いましたので」
軽く頭を下げた。
「それで駆けてきたのか」
源三郎は弟に向けて言いながら、目は山門の方へ向けていた。
源二郎も兄の視線を追って振り返った。
十人程度の足軽達が、背負い、あるいは車に乗せた荷物に気を遣いながら、こちらへ駈けてくるのが見える。
求めたもの全てが揃った。
源三郎はその満足を顔に出して微笑した。
「では飯にしよう。皆、腹を減らした顔をしている……お主もだぞ、源二郎」
「有難いことです。気が急いて気が急いて、上田からこちらまで来るのに本当に忙しく駆けて参ったものですから、もう腹が減ってなりません」
兄弟は笑い合って宿坊へ向かった。
後続部隊の中から一人飛び出したのは、源二郎の馬丁だった。彼は自分が世話をしている馬の手綱を取って馬房へ引いて行こうとする。
その背中へ、源三郎が声をかけた。
「その方」
若い馬丁は振り返り、己を呼んだのが主君の嫡男であると気付いて、慌てて膝を突いて頭を深々と下げる。
「名は?」
馬丁は地べたに両手を突いて、一層深く頭を下げた。
「あ、へぇ。あの……こっ小市と申しますです」
口籠もりながら、彼は答えた。
源三郎の口元に微笑が浮かんだことに、頭を下げたままの小市は気付かなかったが、
「そうか。小市よ、その方も馬に飼い葉をやり終わったなら、直ぐに来ると良い。
まだ日は高いが、明るいうちに皆で一緒に飯を済ませておこう。明日の出立は早いからな」
これを聞いて、小市は呆気にとられた。
『若様達が俺達と一緒に飯を喰うだって!? 』
その言葉を飲み込んだまま、彼はしばらく地面に這い蹲っていた。立ち上がったのは、馬がいななき、足を踏み換えたからだ。
落ち着かせようと首をなでている所へ、源三郎の馬丁の大蔵が寄ってきた。
太蔵は去って行く主人の背中にチラリと目をやって、
「驚いたかえ?」
「ああ、驚いた。本当に俺達なんぞが若殿様と一緒に飯を食っていいのかね?」
不安げにいう小市に、太蔵は笑って、
「俺も最初は驚いたが、ウチの若殿様はへぇ、少しばかりおもしれぇお方だ。
なぁに、遠慮は要らねぇ。馬を繋いだら面ぁ洗って、遠慮なくご馳走になりに行こう」
「へぇ、そうかね……」
小市は不思議そうに首を傾げ、馬房へ馬を引いて行った。
氷垂の声には言葉通りの感心と、自分が気付かなかった事への悔しさと、その音に気付いた夫への妬ましさと、そんな夫を持つ己の誇らしさが入り交じっている。
そういった心の動きを、彼女は源三郎の前では隠すことをしない。だから源三郎も、氷垂の前ではなんの隠しごともしない。
「私に聞こえないものをお前が聞いてくれたではないか。だから私はお前に聞こえなかったものを聞くだけだ。……いや、これは伝令の者ではないな」
坂道を駆け上ってきた一騎の武者が、馬足を弱め、山門をくぐってくる。
それへ向けて、源三郎は手を挙げ振った。
馬上の人物も手を振り返した。
この騎馬武者、すなわち真田源二郎信繁は、源三郎信幸の二つ下の弟だ。
「越後に向かうのではなかったか?」
馬を寄せて飛び降りる弟に、源三郎が訊ねた。
「何やら、兄上が面白げな事をなさると聞きましたので……それを知っては越後に帰るなどもったいなくて、もったいなくて」
背の高い兄と比べれば少々小柄で顔つきが幼いこの弟は、屈託なく笑って見せた。
「それよりも、先ほどの法螺の音は……」
何事か、と言いかけたが、その先を言う前に、源二郎は義姉が手にしている法螺貝に気付いた。
「なるほど、お見事なお手前でございました」
源二郎は背筋を伸ばして、氷垂に正対し、
「私はてっきり、こちらの寺の本職の僧侶が急を告げたのではないかと思いましたので」
軽く頭を下げた。
「それで駆けてきたのか」
源三郎は弟に向けて言いながら、目は山門の方へ向けていた。
源二郎も兄の視線を追って振り返った。
十人程度の足軽達が、背負い、あるいは車に乗せた荷物に気を遣いながら、こちらへ駈けてくるのが見える。
求めたもの全てが揃った。
源三郎はその満足を顔に出して微笑した。
「では飯にしよう。皆、腹を減らした顔をしている……お主もだぞ、源二郎」
「有難いことです。気が急いて気が急いて、上田からこちらまで来るのに本当に忙しく駆けて参ったものですから、もう腹が減ってなりません」
兄弟は笑い合って宿坊へ向かった。
後続部隊の中から一人飛び出したのは、源二郎の馬丁だった。彼は自分が世話をしている馬の手綱を取って馬房へ引いて行こうとする。
その背中へ、源三郎が声をかけた。
「その方」
若い馬丁は振り返り、己を呼んだのが主君の嫡男であると気付いて、慌てて膝を突いて頭を深々と下げる。
「名は?」
馬丁は地べたに両手を突いて、一層深く頭を下げた。
「あ、へぇ。あの……こっ小市と申しますです」
口籠もりながら、彼は答えた。
源三郎の口元に微笑が浮かんだことに、頭を下げたままの小市は気付かなかったが、
「そうか。小市よ、その方も馬に飼い葉をやり終わったなら、直ぐに来ると良い。
まだ日は高いが、明るいうちに皆で一緒に飯を済ませておこう。明日の出立は早いからな」
これを聞いて、小市は呆気にとられた。
『若様達が俺達と一緒に飯を喰うだって!? 』
その言葉を飲み込んだまま、彼はしばらく地面に這い蹲っていた。立ち上がったのは、馬がいななき、足を踏み換えたからだ。
落ち着かせようと首をなでている所へ、源三郎の馬丁の大蔵が寄ってきた。
太蔵は去って行く主人の背中にチラリと目をやって、
「驚いたかえ?」
「ああ、驚いた。本当に俺達なんぞが若殿様と一緒に飯を食っていいのかね?」
不安げにいう小市に、太蔵は笑って、
「俺も最初は驚いたが、ウチの若殿様はへぇ、少しばかりおもしれぇお方だ。
なぁに、遠慮は要らねぇ。馬を繋いだら面ぁ洗って、遠慮なくご馳走になりに行こう」
「へぇ、そうかね……」
小市は不思議そうに首を傾げ、馬房へ馬を引いて行った。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
龍蝨―りゅうのしらみ―
神光寺かをり
歴史・時代
年の暮れも押し迫ってきたその日、
甲州・躑躅ヶ崎館内の真田源五郎の元に、
二つの知らせが届けられた。
一つは「親しい友」との別れ。
もう一つは、新しい命の誕生。
『せめて来年の間は、何事も起きなければ良いな』
微笑む源五郎は、年が明ければは十八歳となる。
これは、ツンデレな兵部と、わがままな源太郎とに振り回される、源五郎の話――。
※この作品は「作者個人サイト【お姫様倶楽部Petit】」「pixiv」「カクヨム」「小説家になろう」でも公開しています。
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
下級武士の名の残し方 ~江戸時代の自分史 大友興廃記物語~
黒井丸
歴史・時代
~本作は『大友興廃記』という実在の軍記をもとに、書かれた内容をパズルのように史実に組みこんで作者の一生を創作した時代小説です~
武士の親族として伊勢 津藩に仕える杉谷宗重は武士の至上目的である『家名を残す』ために悩んでいた。
大名と違い、身分の不安定な下級武士ではいつ家が消えてもおかしくない。
そのため『平家物語』などの軍記を書く事で家の由緒を残そうとするがうまくいかない。
方と呼ばれる王道を書けば民衆は喜ぶが、虚飾で得た名声は却って名を汚す事になるだろう。
しかし、正しい事を書いても見向きもされない。
そこで、彼の旧主で豊後佐伯の領主だった佐伯權之助は一計を思いつく。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる